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大学礼拝「赦すことの難しさ」2018/11/7

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書18:21-35】
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

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赦すことは何と難しいことでしょうか。愛することは赦すことである、愛していなければ赦すことはできない、赦せないのは愛していないからである。そう言われたら、自分が思っている愛って本物なのだろうかと考えてしまいます。わたしがある人を心から愛していれば、もしその人の行動や、話したことが仮に間違っていたとしても、それをすべて赦すことができるはずです。しかし、本当にそんなことができるのでしょうか。

自分に直接関わりのない人は、赦すことができます。他人事ですから自分は痛くもかゆくもなく、見逃すことができるからです。あんなひどいことをする人は、見過ごしにできない、赦すことができない、と言葉で言うだけで、何も起きずに終わるのです。

赦すというと、赦す主体はわたしですから、わたしが誰かを赦すことをまず考えます。

ペテロの「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」との問いに対して、イエスさまは「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」と答えられました。ペテロにしてみれば、予想外の答えでした。なぜなら2~3回赦すことは何とかできます。「仏の顔も3度まで」のことわざもあります。7回までと言えば、そんなにまでよく頑張って赦したねと、きっとほめてもらえると思ったのです。しかし、7の70倍まで(490回まで赦すという回数の問題ではなく)完全に赦しなさい、すべてを赦しなさいというよりも更に、もっと強調されて、ずーっと赦し続けなさいと言われたのです。

そして赦す対象は、兄弟、身内、親しい人たちに限らず、すべての人たちなのです。

振り返ってみると、わたしは自分の子どもたちを何度も何度も赦してきました。「今度過ちを犯したらもう赦さないからね」と何度言ったことでしょう。その時、本当に心から赦していたのかと考えてみると、心の奥底に赦していない自分がいたことに気が付きました。

ですから、また同じ過ちを子どもが犯すと、「前にも同じことをしたでしょう。もう今度という今度は絶対赦さないからね」と怒りを露わにしてしまったこともあったのです。

さて、赦しのことを教えるために、イエスさまは「仲間を赦さない家来」のたとえを話されました。1万タラントン(現在のお金に換算すると1兆円に相当する金額)という考えも及ばないほどの高額の借金を、無条件で主君に赦してもらった家来は、そのすぐ帰り道で自分が100デナリオン(今のお金に換算するとおよそ100万円)貸している仲間に出会い、借金をすぐ返せと迫り、返せなかった仲間を赦さず、ひどい目に合わせた上、牢獄にぶち込んでしまったという話です。主君はそれを聞いて憤慨し、その家来を断罪し、借金を完済するまで牢獄に入れたという結末です。

ここでの主君は神さまのことを言っています。家来とその仲間はともに借金の多い少ないはあっても、それを負っている二人の人間を描いています。主君は、返せるはずもない膨大な借金を、必ず返しますから待ってくださいとしきりに願う家来の姿を、憐れに思い、彼を無条件で赦し、借金を帳消しにしてやったのです。何の見返りも報いも求めない赦しが一体あるでしょうか。しかし、この主君は無償の赦しを家来に与えました。これこそ神による「憐れみによる赦し」ということが言えます。たとえの中心がここにあります。神さまからの人類に対する無償の赦しが描かれています。たとえの中に出てくる借金や負債は、わたしたち人間が気付こうが気付くまいが、背負いこんでいるとてつもなく大きな罪のことです。どんなことをしても払い切れない、ぬぐい切れない罪の重荷をわたしたちは背負っています。それをなくすことは到底できない、不可能です。そのできないことをしてくださる方が神さまです。神さまはわたしたちを愛し、無条件で赦し、受け入れてくださる、死ぬことさえも厭われないお方なのです。神さまは、愛するみ子イエスさまをわたしたちの罪が赦されるために、十字架の死にまでつかせられたのです。

「憐れみによる赦し」を受けた家来は、当然及びもつかない赦し、どう表現してよいのか解らない赦された喜びを、生きていく中で表すことが求められていたのですが、目先の小さな赦しをさえ実現できなかったのです。

わたしたちはこの家来と同じ生き方をしていないでしょうか。自らの罪に目覚め、赦されている喜びをもって、日々出会う人々を赦していけるように祈り求めてまいりましょう。

11月後半から、実習が始まります。それぞれ遣わされた場で良き学びの日々が過ごせますように祈ります。(チャプレン 大西 修)


折り紙を折る幼児

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