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カテゴリー:バイブルタイム の記事一覧

「これらの大きな建物を見ているのか。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マルコによる福音書13:2)

神殿の境内を出て行く時、一人の弟子がイエスに向かってこう言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう(13:1)。」するとイエスは表題にある御言葉をお返しなさったのです。

今回学んだ内容は以下の通りです。

・物よりも愛や心を大切にする、イエスの基本姿勢。
・「石が、絶対に崩れ去らない石の(=基礎の石)の上に残されることは決してない。」と訳した方が分かり易い。つまり基礎以外の石は全部破壊されるということ。
・この箇所は、紀元70年、ローマ軍によって攻撃され廃墟と化したエルサレム神殿の姿をイエスが予言されていると論じられることが多い。でも、イエスの純粋な本性に倣い、これは一般論としてお話になっていると考えた方が自然。
・栄華を極めた荘厳な建物は、しょせんは人間が作ったものでしかない。それよりも大切なのは愛や心である。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)」とイエスが語る通りである。
・祈りは立派な建物がなくても出来る。そんな建物を神が要求なさるとは思われない。場所にこだわらないイエスは次のように語る。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:21)」(Y)


学食の花瓶

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)

「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか」と、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちに聞かれ、イエスはこう答えました。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(2:19-20)

ここで出てくる花婿はイエスのことであり、婚礼の客というのはイエスの弟子たちのことを指しています。つまり、イエスと一緒に喜びに浸っている時に断食などできはしないが、イエスが十字架にかけられた時には、弟子たちはしっかりと断食することになる、という解釈になります。

断食を規則的に行なうという古いルールに縛られずに、その時々の状況に応じ、気持ちを込めて断食をしなさいとイエスは教えられたのです。

私はイエスが言った言葉を聞き、イエスはとても頭がよくて、いつか自分が十字架にかけられて死ぬことを予見していた感のいい人物だと思いました。そして、古いものから離れる勇気、つまり、今までと同じやり方から離れる勇気は、保育者を志す私たち柳城生にとって、とても必要だと思いました。

そのような意味でイエスは新しい存在だといえます。福音書を手に取り、イエスの生涯を学んでいくうちに、私はこれからどんな人生を歩むべきなのか、勉強になったことが沢山ありました。福音書はすごく奥が深いと思います!


学食から見えた虹

 

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」(マルコによる福音書12:43)

エルサレム入城を果たされたイエスは、神殿の賽銭箱の近くにお座りになり群衆が献金する様子をご覧になっていました。当時、献金者は、自分の献金の目的と金額とを声高く告げたので、周囲の人は、それを聞くことができたといいます。そういう習慣は「見え」のための献金を助長したに違いありません。

その時、貧しいやもめが最小単位のレプトン銭2枚、今の日本で言うと1円玉2枚を献金しました。それは彼女にとって生活費の全てだった事をご存知だったイエスは、「彼女は誰よりも多く献金した」と語って彼女を称賛されたのです。

確かに、彼女の献金額は金持ちのそれに較べれば取るに足らないものでした。でも、その額は彼女にとって大きな痛みを伴うものでした。それを痛みとは思わない彼女の厚い信仰、つまり神への絶大な信頼心は感動的です。

今回この場面を通して、イエスは献金のススメと同時に「見かけではなく心を大切にしなさい」と教えられていることを知りました。そして、イエスはお金というものは「悪」ではなく、その人が変わるチャンスに繋がる可能性を持つものと捉えられていることに、イエスの現実的な感性を感じました。そして、保育者を目指す私も、目に見える現象に囚われることなく、心の目を常に磨き続ける必要があると思いました。

「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)。人間関係よりも神関係を大切にせよとのこの御言葉を常に心に留めながら。(Y)


花壇の花を摘む親子

「律法学者たちに気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、あ広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコによる福音書12 :38~40)

神関係をいつも第一に考えるイエスのお姿をとおして、今回は、時代を切り開き作る「原動力」について学びました。

記事においてイエスは律法学者の見せかけだけの善行を明るみにし、一刀両断なさいました。彼らの利己的で蛇のような心のうちをイエスは見抜いておられたのです。律法学者たちは自分たちの地位を自分の利益のために利用していたからです。

イエスは弱い立場の側にいつも立たれる方です。ですから、律法学者らの虚栄心を忌み嫌い、強く断罪なさるのです。

今回もイエスは権力者に対して真っ向から挑んでいます。世渡り上手な人は人間関係に恐れるあまり、足並みを揃えて危険を回避しますが、神の子イエスは常に自ら身を危うくすることになろうとも、悪いことは悪いと、真実を語ることを決して恐れません。

そのような勇気ある姿こそ、イエス・キリストそのものです。クリスチャンは時代を切り開く先駆者としてのイエスの原動力に憧れを持つのです。そしてイエスと同じようには出来ないと知りつつも、一生を通して少しでも近づきたいと努力するのです。

次回も、御言葉を丁寧に見つめることでイエスの真摯なお姿を学んでいきます。(Y)


ブルーベリー

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29−31)

今回は申命記とレビ記を引用しながら諭されたイエスの御言葉から、私達が聖書を読み学ぶ際の最も大切な要点について学ぶことが出来ました。

エルサレム入城を果たされたイエスのもとに一人の律法学者が進み出ました。そして「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねたのです。

すると、イエスはその問いかけに対し、「神を愛する唯一の証明は律法を守ることだと、あなた達はかたくなに信じている。しかし、聖書には神、そして隣人への愛を一番大事にせよと、ただこれだけが書いてあるではないか。」と仰ったのでした。

イエスの応答は常に理性的でシンプルです。そうすることで律法学者たちに強烈なメッセージを示されたのです。

この記事から私は、現代の私たちも聖書の御言葉を深読みしすぎて「頭でっかち」になっているのではないかなと感じました。私は改めて今回の学びから、聖書は神学のための教科書ではなくて、愛を実践するためのガイドブックであり、その中に記された「愛」はイエス・キリストそのもののお姿であると知りました。

イエスの愛は言葉や掟に頼ることのない、理性に満ちた愛です。「愛」と「甘やかし」の区別が苦手な日本人にとっては、そのシンプルさは冷たく、厳しく感じることもあるかもしれません。しかし私はその根っこに、相手の成長を見据えるような真実の愛を感じるのです。その真実とは、時には耳に痛く刺さるものですが、振り返ってみた時、その愛によって強くなった自分を感じられます。

私は福音書を生活の中に取り入れながら、イエス・キリストの愛を知って、少しずつでも成長していきたいと思います。(Y)


ノースポールの根っこ

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)

今回は人間たちの愚かな企てを見抜かれたイエスのお姿から、人間の思いを遥かに超えたイエスの知性・人格について触れることが出来ました。

宮清めの後、群衆の人気をさらに集めたイエスの言葉尻をとらえて陥れようと、ファリサイ派、ヘロデ派の人間がイエスのもとに再びやって来ました。統治国であるローマ皇帝に税金を納めるのは律法に適っているのかと問答をふっかけるためです。

その直前、彼らはイエスを褒めちぎっています。それ程に、この質問はイエスにとって、「Yes」「No」のどちらに答えても不利なものだったのです。取り巻いていた民衆たちは固唾(かたず)を飲んでその様子を見ていたことでしょう。

狡猾な彼らの下心を見抜いたイエスは「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」(12:15)とおっしゃった後、銀貨を見て誰の肖像で銘か?と、今度はイエスの方から問われました。

そこで「皇帝のものです」と答えたファリサイ派、ヘロデ派の人間に対し、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、驚くべき返答をなさったのでした。

記事にも、その場にいた人間はそのイエスの答えに驚き入ったと記されています。イエスの言葉を聞いた人々はイエスの答えの真意を考えますが、どうやっても分からずじまい…。きっと頭の中で「?」がさまよっていたことでしょう。

イエスは初めから質問に答えるつもりはなかったのです。「イエスを巧みにやりこめる」と思った人たちの浅はかな企てを、すべて見抜かれていたからです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という御言葉の真意は、たとえば「政治と信仰とを別々に考えなさい」とかいうものではなくて、ただイエスは「Yes」でも「No」でもない真意の分からない返答をなさったのでした。私たちは、そこにイエスの遥かに超えた知性を確信出来ます。

また、単なる返答ですまさない所にイエスのもう一つの知性である「メッセージ」があると思いました。それは彼らのやり方、下心を「分かっている」というメッセージです。自分たちが思っていた以上に、イエスが遥かに優れた知性をもつ存在だと、この問答の結果ファリサイ派らは理解せざるを得なくなりました。

まさに脅威。「自分たちでは手に負えない男だ。しかしこれ以上生かしておいては、自分たちの立場には有害だ…」こんな風に感じたのではないでしょうか。それこそが彼らの傲(おご)る姿をあらわしています。

今回与えられた解説から私はイエスの神性の尊さを知り、よりいっそうの深い畏敬の念を抱きました。

そしてイエスをもっともっと知りたい!と願います。
次回も主に感謝し、仲間とともに御言葉を学んでいきたいと思います。(Y)


シロツメクサの冠

「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)

今回の福音書では「枯れたいちじくの木の教訓」が扱われました。

かの哲学者バートランド・ラッセルはこの場面で、「賢明さの点でも、徳の点でも、歴史に知られている他の人々ほどキリストが高くあったと思う気はわたしにはしないのであります」とイエスを酷評しています。いちじくが実をつけていなかった腹いせに、イエスはいちじくの木を呪って枯らせたと彼は思ったからです。

でも、葉ばかり立派な「いちじく」を見て、イエスは弟子たちを教え諭すチャンスにしたのではないでしょうか。つまり、彼は、見てくれは立派でも、愛を実践しない当時の宗教指導者らを「枯れるいちじく」にたとえようとなさったのです。

その思いは弟子には伝わらなかったようで、ペトロは木が枯れている事実だけに驚きます。それでイエスはペトロに合わせて話題を変え、「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(22-23)と語ります。

しかし、このイエスの言葉はいちじくの木が枯れたことだけを基にした説教なのでしょうか。イエスにしては内容が少々陳腐な感じがします。

実は、このいちじくの木の話の間に、あの「神殿から商人を追い出す」いわゆる「宮清め」の話が挿入されているのです。今回はここに注目しました。

商人を神殿から追い出すというのは死を覚悟するくらいの「荒業」でした。事実、イエスの十字架刑はこれによって決定的になったとさえ言えるのです。それを決行する前にイエスは、おそらく、神に相当祈ったに違いありません。「父よ、果たして、そんな大それたことが私にできるのですか?」。でも、イエスの祈りは、いつしか自信へと導かれます。「きっとやれる!」。

24節の「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」というイエスの言葉は、実は、人が自分自身で行動しようとする場面に向けての励ましの言葉だったのです。

今回与えられた新しい解釈から、私は祈りには、自分自身の行動を実現に導く力があることを知りました。

私はこれからも福音書を学び、神に祈り続けます。そして自身の不完全さを完全へと少しでも近づけられる人間になりたいと願います。(Y)

 

「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

今回はイエスが徴税人レビを招かれた記事を通して、イエスが私たちに問われる人生の「立ち位置」について考え学びました。

当時のイスラエルでは、「徴税人」と呼ばれるイスラエル人がローマの請負人として自国の民から税金を取り立てていました。彼らは民の嫌われ者だったにもかかわらず、レビたちは仕事を続けていました。それだけ、今で言うところの「おいしい職業」だったのでしょうか。

一方、ファリサイ派の律法学者らは、自分たちの作った律法が守れない庶民を罪人呼ばわりしていました。彼らの律法は、こと細かな規則で出来上がっており、庶民にとって生活上どうしても守ることが出来ない無理難題ばかりでした。

そんな庶民をバカにしていたファリサイ派の人々は、愚かにも自分たちは「正しい」と思い込んでいる人間たちだったのです。

イエスはいつどんな時にも、弱い立場の人間の味方です。レビは嫌われ罪人扱いを受けていた、いわば光が当たらない側の人間です。そんな孤独なレビにも手を差し伸べられるイエスは、彼ら罪人にも光をお与えになられたのです。イエスが私たちに示された「人生の立ち位置」とはこういうことです。

私は、このイエスの「光」に憧れを持ちます。嫌われ者に「わたしに従いなさい」と仰ったのです。レビはどんなにか嬉しかったことでしょう。

イエスが行った愛の実践が、果たして自分にできるのか、私には全く自信はありません。しかし、だからこそ、イエスのなされた愛を常に理解し少しでも近づきたいと、福音書を読んで学び続けたいと願います。その努力の過程にクリスチャンとしての自覚を感じたいのです。

終わりに、今回教えていただいた、あるクリスチャンの言葉をお伝えします。

「ある人々は教会やチャペルの鐘の音が聞こえる範囲内に住みたいと願う、わたしは地獄の庭のなかで救済所を開きたい。」

主に感謝。(Y)

「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

「正しい人」というのは、自分が一番正しいと思ってる当時の律法学者や司祭職などの権力者たちのことを言い、本当に正しい人は、イエス・キリストただお1人のみだったのです。

世間の嫌われ者を弟子に迎えたりするなど、光が当たらない側に立って光を与えるのが人生の立ち位置だったイエス。これこそが愛の実践です。

私も、周りを見渡して人を助けたりすることができる、そんな人になりたいと思いました。(YK)

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

「人間をとる漁師」とは罪人を招く人のことをあらわしています。この当時、律法学者らが決めたこと細かな規則(律法)を守ることが信仰の上で大切とされ、この律法を守れない人は罪人と呼ばれ蔑まれていたのです。

イエスは、それら弱い立場に置かれている民衆を束縛の痛みから解放するため、世に遣わされました。

ペテロ、アンデレ兄弟はすぐに網を捨てて従い、ヤコブ、ヨハネ兄弟も父やその雇い人を残しイエスに従って行きました。

彼らのこの純朴な姿は、現代の私たちに大切なヒントを与えてくれていると思います。彼らはイエスと初めて出会い、イエスを感じ、イエスのみを信じ頼る人生を選んだのです。

クリスチャンはイエス・キリストの愛の実践を目指して生きる人間です。それは常に進歩し続ける人間であることを意味します。人間の人格形成には、その芯となる基礎が重要です。クリスチャンはその基礎をイエスの生き様に置きます。イエスを知れば、自然に人生が死ぬまで前向きになります。

イエスは常に弱者の味方でした。だから今回私は、イエスに魅かれる人は日頃から自分の弱点を知っている「弱い人間」であることを知りました。「宗教などに頼る人は弱い人間だ」と思っている人がいますが、それは確かにその通りです。でも、弱いからこそ、イエスに頼って向上し続けるのです。それに、「宗教に頼らない人」よりは世間に流されずに自分自身を強く感じて生きて行けるような気もします。

宗教を持たない人であっても、イエスの人生を福音書から学ぶことによって、イエスそのものの息づかいを感じ取り、生きていく糧を得ることが出来るのではないでしょうか。

それはその人だけに見える、光り輝く喜ばしい強さ、つまり「真理」であると感じました。(Y)


花壇でランチ

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