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「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

「人間をとる漁師」とは罪人を招く人のことをあらわしています。この当時、律法学者らが決めたこと細かな規則(律法)を守ることが信仰の上で大切とされ、この律法を守れない人は罪人と呼ばれ蔑まれていたのです。

イエスは、それら弱い立場に置かれている民衆を束縛の痛みから解放するため、世に遣わされました。

ペテロ、アンデレ兄弟はすぐに網を捨てて従い、ヤコブ、ヨハネ兄弟も父やその雇い人を残しイエスに従って行きました。

彼らのこの純朴な姿は、現代の私たちに大切なヒントを与えてくれていると思います。彼らはイエスと初めて出会い、イエスを感じ、イエスのみを信じ頼る人生を選んだのです。

クリスチャンはイエス・キリストの愛の実践を目指して生きる人間です。それは常に進歩し続ける人間であることを意味します。人間の人格形成には、その芯となる基礎が重要です。クリスチャンはその基礎をイエスの生き様に置きます。イエスを知れば、自然に人生が死ぬまで前向きになります。

イエスは常に弱者の味方でした。だから今回私は、イエスに魅かれる人は日頃から自分の弱点を知っている「弱い人間」であることを知りました。「宗教などに頼る人は弱い人間だ」と思っている人がいますが、それは確かにその通りです。でも、弱いからこそ、イエスに頼って向上し続けるのです。それに、「宗教に頼らない人」よりは世間に流されずに自分自身を強く感じて生きて行けるような気もします。

宗教を持たない人であっても、イエスの人生を福音書から学ぶことによって、イエスそのものの息づかいを感じ取り、生きていく糧を得ることが出来るのではないでしょうか。

それはその人だけに見える、光り輝く喜ばしい強さ、つまり「真理」であると感じました。(Y)


花壇でランチ

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

イエスは彼らに、わたしと一緒に弱い立場の人を救おうと言われたのです。
イエスは人々を助け、弱い立場の人の味方になり、たった1人で真実に立ち向かわれた方でした。

・人生の目的=イエス・キリストの愛の実践
・わたしについて来なさい=わたし(イエス・キリスト)とともに歩みなさい
・人間をとる漁師にしよう=罪人/弱者を救う人にしよう

イエス・キリストの愛を感じながら、これからもキリスト教のことをもっと学んでいきたいです。(YK)


ハナアブ

【マルコ11:17】
「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」

今回のテーマは「イエスの宮清め」と言われている有名な記事です。私はお話を聞くうち、その当時の人々の心や姿がイメージできて強い臨場感を持ちました。そしてイエスの真の愛について学ぶことができました。

神聖であるはずの当時のエルサレム神殿は、商人と祭司長、律法学者のための商業システムが成り立つ偽りの神殿でした。

いけにえの動物は無傷かどうかが事前に調べられ、「不合格」ならば商人が用意した動物を購入する必要があるとか、献金専用の貨幣への両替を強制され、その手数料も取られるなどといった見事な金儲けのシステム・・・。もちろん、商人が儲かれば、その「元締め」である祭司長らの懐も潤うということです。

参拝者は不満を抱えていたでしょうが、エルサレム神殿の絶対権力には手も足も出せません。

そんな状況でイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」と宣言して商人たちを蹴散らしたのです。表向きは「宮清め」ですが、実際は「宗教権力者への警告」と呼んでもいいほどの衝撃的な出来事で、イエスの十字架への道がこれによって確定したと言ってもいいでしょう。

一方、商人らが混乱する様を見ていた群衆はきっと大喜びだったでしょう。イエスの「祈りの家」宣言に心打たれた群衆はイエスをますます慕うようになります。それがかえって宗教権力者らの嫉妬心をさらに強めることになりました。

イエス・キリストは「愛の人」であるとよく言われます。私もクリスチャンになる前には、そのように大きな優しさに溢れるイエス像を感じていたものです。

しかし福音書を学ぶごとに真のイエスが見えてきました。

もちろん、最高の愛の人であることに変わりはありませんが、その愛の内容がもっと深いのです。

今回、私は「警告」が愛の一つの表現であると学びました。愛があるから、イエスは祭司長や律法学者の偽りの行いに対して無視することができなかった…。彼らに悔い改めのチャンスさえ、お与えになったのです。マザー・テレサが言うように「愛の反対は無関心」だからです。優しさばかりを強調して、それがかえって人の成長を妨げる場合があります。「甘やかし」がその典型ですが、人の成長に無関心という意味では愛とは言えないと思います。

人が普通は避けたがる「怒り」ですが、その中には真の愛が含まれることがあります。それは悪を戒め浄める力です。私はそのイエスの御心を心から尊敬し仰ぎます。

次回も福音書を通して、イメージを膨らませながらイエスの道を学んでいきます。(Y)


カラスの営巣

【感想】

イエスは人々に優しく、人々のために生きていた人物ですが、ただ優しいだけではなく優しさの中に厳しさがあったのだと思います。

神殿から商人を追い出す場面では、イエスの怒りは感じられますが、怒りの中に商人に対する「愛」があったのです。

イエスの優しさというのは、時には厳しく人々に接するということ。

それは柳城の先生や、実習園の先生にも言えることだと思います。私に厳しく言われる時もあるけど、それはきっと私に対して愛を持って言われているのだと、この聖書の学びで感じることができました。(YK)


柳城短大の桜

今回の聖書箇所は…
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10:13-16)

実習園で子どもたちと接したり関わって思うことは、子どもは素直でまっすぐだなということです。

大人になるにつれて、面と向かって相手にはっきりと言えたことが人と合わせるようになったり、反抗的な態度になったりしてしまいます。

2000年前のユダヤの子どもというのは、今とは違って価値のないものとして扱われていました。

弟子たちはイエスを変に気づかって、子どもが近づくのを嫌い、親を叱りつけました。

そんな弟子たちにイエスは、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と伝え、子どもたちを抱き上げて祝福されました。

「子供のように神の国を受け入れる」というのは、一つには「子どものように素直に神の国を受け入れる」という意味で、だから子どもたちは誰よりも神の国に近いのだとイエスは語りました。(子どものような価値のない弱者を受け入れるような気持ちをもって神の国を受け入れる、という解釈もできるそうですが)

そんな子どもたちが大好きだったイエス。そしてイエスがいたからこそ今の私がいて、そんな私も子どもと携わる仕事を目指して毎日頑張っています。

子どものような素直さを忘れずに、イエス・キリストの愛を感じながら過ごしていきたいと思います。


押し花作り

【マルコ9:35】「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

シェア18ではマルコ9:33~37の記事を通しイエスが導く「サーバント(召使い的)リーダー」のあるべき姿を学ぶことができました。

イエスと弟子たち一行はカファルナウムにお着きになりました。そこでイエスは弟子たちに「道すがら何を議論していたのか」と突然お尋ねになりました。

その質問に弟子たちは何も言えませんでした。それは、「だれがいちばん偉いか」と議論しあっていたからです。「これはヤバイ」とで思ったのでしょうか。案の定、イエスは弟子たちを呼び寄せ、このように諭されました。

「いちばん先になりたい者(偉くなりたい者)は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と。

そして、その場にいた一人の子どもを大人たちの真ん中に立たせ、抱きあげられ「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と重ねて諭されたのです。

当時のイスラエルでは、名前はその人のいわば本質を表すほど重要なものでした。また、子どもの価値は現代とは大きく異なり大変低いものでした。だから「わたしの名のために」このような子どもを受け入れるということは、師であるイエス・キリストの名を汚さないつもりで、「価値のないもの」とされている弱い立場の子どもを受け入れるということです。

今回、私はイエスの姿から、サーバントリーダーのあるべき姿、必要な本質を感じ取ることができました。イエスは常に弱い側にたつ人間の視点に徹しています。実際にイエスは罪人呼ばわりされている人やのけ者にされている人の味方で、その人たちと共に食事をなされ、時には癒しを与えられています。そしてご自身、「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方(神)を受け入れるのである。」とあくまでも謙虚に、「わたしを見よ」ではなく「神を見よ」と言って、成し遂げられた栄光を神に返されています。

私はその謙遜な姿こそ、サーバントリーダーに必要な真の姿であると感じます。

弱者の視点に徹するイエスの姿を学ぶことは、私自身のつたなさを感じると同時に、日常ではほとんど味わえない「喜び」でもあります。次回も与えていだだける学びに感謝し、イエスの愛に学んでいきます。


バージニアストック

今回心に響いた御言葉は…
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコによる福音書16:6〜7)

十字架の上で息を引き取られたイエスの遺体は、アリマタヤ出身のヨセフの手により埋葬されました。

ヨセフは総督ピラトにイエスのご遺体を早急に引き取らせてくれるよう懇願しました。それはその日が安息日の前日であったため律法の定め(申命記21:22)のとおり、「その日のうちに埋葬しなければならない」と考えていたためです。

許されたヨセフは、岩をくりぬいて作った墓にイエスを急いで埋葬しました。墓の入り口は、頑丈な石で塞がれおり、誰も中に入ることは出来ませんでした。

安息日が終わった週の初めの日、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、買っておいた香料を持って墓に行きました。ところが近づいてみると、墓の入り口にあった大きな石は脇に転がされています。

驚いた彼女らが墓の中に入ってみると白い長い衣を着た若者が見えました。そしてその若者からイエスの「復活」が伝えられたのでした。

今回私は「神のご計画のもと、必要であった人間が、その時必要な行いをした」ということを実感しました。それは以下の点からです。

・アリマタヤのヨセフは身分の高い議員でしたので、保身のためか、自分がイエスの弟子であることを隠していました(ヨハネ19:38)。しかし十字架上の師イエスのお姿を見て黙っていられなくなり、勇気を出してピラトにイエスのご遺体を引き渡してくれるよう願い出たのでした。

・ピラトはヨセフにイエスのご遺体の引き渡しを許可しました。それは全く特別の待遇でした。本来十字架刑の人間はそのまま置き捨てられていたのです。

・女性たちは、最後まで十字架上のイエスの姿を見つめていました。また、埋葬される姿も彼女たちは見届けていました。その女性たちがイエスの復活をはじめて知る証人となったのです。

このように神から役割を与えられた人間は、一人ずつ神のご計画のとおり行動したのでした。

今回、41回にも渡ったマルコ通読の最終回となりました。

その中で私は福音書を通してイエスの御姿を学び、行動し、仰ぎ、ともに歩むことを学びました。その大切な行いをアリマタヤのヨセフが最後に見せ、私に教えてくれたと思っています。

イエスは、事前のお言葉どおり十字架に架かり、そして復活なされました。私たちクリスチャンは、イエスが自分の体の中に復活なさり生きておられることを感じ、喜びとしています。

私自身、クリスチャンになったばかりで、学びも浅い人間です。そんな私ですが、約2,000年前のアリマタヤのヨセフの「勇気」が、現代の私たちにイエスの復活を告げ知らしめるキッカケになったことに大きな喜びを感じています。

バイブルタイムでは、これからも福音書を通しイエスのお姿を学んでいきます。

「愛をもって仕えよ」
その建学の理念を礎に。
ヤング先生が愛した、子どもたちの未来のために。


折り紙チューリップ

今回心に響いた御言葉は…
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。(マルコによる福音書15:37〜41)

イエスはゴルゴダの丘で十字架刑に処されました。昼の十二時には、全地が暗くなり、それが三時まで続いたと記されています。

その三時にイエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と大声で叫ばれました。

そばに居合わせた人々は、これを聞いて、イエスがエリヤを呼んでいると思い「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」とあざけり、イエスに気つけのための酸いぶどう酒を飲ませようとしました。

しかし、イエスはその時に大声を出して、息を引き取られたのでした。

私は今回の通読でも多くのことを学びました。

・マルコが伝えるイエスの最後の言葉は詩篇22篇1節です。この22篇は全篇が神への賛美の喜びに溢れており、イエスはその最初の1節を語ることで、神への栄光を示されたのです。
・イエスが息を引き取られたと同時に、神殿の一番聖なる場所(至聖所)を隠していた垂れ幕が裂けました。それは神殿の権威の喪失と、神が宗教指導者を離れて人民の側につかれたことを象徴するものでした。
・イエスの十字架刑を終始見守ったローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いました。それは紛れもなく信仰の告白だったのです。
・十字架のイエスのお姿を遠くから女性たちが見つめていました。イエスを師と仰ぎ、彼の生活を支えていた女性たちです。しかし常にイエスと共にあった弟子たちの姿はそこにはありませんでした。

イエス・キリストは十字架の処刑を
自ら進んで受けられ  
迫害する者には悔い改めを  
暴力をふるう者には赦しを  
逃げて行く弟子には恵みを  
泣き叫ぶ女性には慰めを
祈られたのです。
【柳城短大  朝の祈り『人を愛する私たち』より】

マルコ通読も次回で最終回となります。
40回を越える恵みに感謝して、いっそう真摯に学びを進めて行きます。


プリムラ・マラコイデス

今回心に響いた御言葉は…
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコによる福音書15:29〜32)

総督ピラトがイエスの死刑を決定するまでの間、ピラトは3度にわたり宗教指導者らや民衆たちにイエスの行ったことが罪にあたるのかどうかを問いました。指導者たちの企みが分かっていたピラトは本音としてはイエスを殺したくなかったのでしょう。

しかし民衆が「イエスを十字架につけろ」と騒いだことで、ピラトは自分の保身を選んだのでした。ユダヤの治安を乱すことは、自分の統治能力の低さを示すことになるからです。

判決を受けたイエスは、兵士らから侮辱を受けた後、十字架につけられるため外に引き出されます。そして、ゴルゴダの丘で十字架刑に処されたのです。左右二人の犯罪人とともに…

そこを通りかかった人は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ(29〜30)」と言ってイエスをあざけります。同様に、祭司長、律法学者たちは、かわるがわる「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう(31)」と侮辱の言葉を放ちました。彼らは、イエスの苦しむ姿を見て心を痛めるどころか、さらにその苦しみに追い打ちをかけたのです。そこにはひと欠けらの悔い改めもありませんでした。そして最後まで「目に見えるしるし」にこだわり、イエスの心が結局最後まで理解できなかったのです。

今回の通読では多くのことが学べました。

・民を導くはずの宗教指導者らは、民衆らと同様にイエスをあざけり侮辱しました。その姿は、彼らが民衆と本質的には同じレベルの人間であることを証明したのです。
「他人は救ったのに、自分は救えない。」 イエスへのこの罵倒は、実はキリスト者への最高の誉め言葉だったのです!
・聖書に出てくる情けない人物を、読者はけなしてはいけない。その人物は私たちの姿かもしれないからです。私自身、いつピラトのように保身に傾くか分かりません。
・イエスの次元は私たち人間には計り知れない高みです。どのような状況下にあろうとイエスは「自分自身」を求めてはいなかった。ただ神の御心に委ね、十字架に身を置かれたのでした。

次回も真摯な心をもって、頭ではなく心で学びが感じられるよう努めていきたいと思います。主に感謝。


コスモス

今回心に響いた御言葉は…
しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マルコによる福音書14:61~62)

ゲツセネマで捕らえられたイエスは、祭司長、長老、律法学者らによってエルサレムにある最高法院の裁判にかけられました。そこではイエスを死刑とすることを前提とした権力者たちの愚問極まりない尋問が行われたのです。

イエスへの証言が食い違うのにしびれを切らした大祭司は、イエスに自ら問いただしました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか(14:61)」と。すると、イエスはそれまで黙っておられましたが、その質問に「そうです(I am)」とお答えになられました。イエスは最高法院において御自身が「神の子メシア」であることを明言なさったのです。

イエスはその後連れられたローマ人総督ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか(15:2)」との問いには、「それは、あなたがたが言っていることです。」とお答えになって「ユダヤの王」を否定されました。

今回、私はこの二つの尋問に着目し、尋問した彼らが重要視していたことを考えてみました。

ユダヤの宗教指導者たちはイエスを「神の子メシア」であるわけがないと断罪しました。それは彼らが、ソロモン、ダビデのような強くて立派に見える支配者こそメシアであると考えていたからです。だから、民衆から絶大な人気を誇っていたイエスが妬ましく、抹殺したい対象に思えて仕方がなかったのでした。

一方、ピラトの関心はローマにおいての自身の保身にありました。自分がユダヤの総督である間に社会的トラブルがあってはならない…。だから、イエスが「ユダヤの王」を否定したことをきっと安堵したはずです。

尋問した彼らの視点は、常に自分の保身であり、権威の維持でした。

イエスのお答えは彼らの視点とは全く次元が異なっています。イエスは「I am 」、その偽りの無い御言葉によって、私たちに、当時もそして今も神の子イエスそのものが「愛」であり「救い主」であることを宣言なさっています。それは「I am 」の返答が自身の死刑を決定することをご存知でも、常に「神の御心のまま」に行動された、まさに見返りのない愛だったのです。

イエスの受難は続きます。次回もイエスの御姿を学ぶことで私自身の信仰の礎を重ねていきます。


ヒマワリとスイセン

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