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カテゴリー:活動記録 の記事一覧

「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)

マルコによる福音書5章35節〜43節に記されている「ヤイロの娘の復活」を皆さんは信じることができるでしょうか。

私は最初読んだ時、とてもじゃないけど信じられない、そんなことが起こるわけがないと思っていました。ですが、クリスチャンは、聖書に書かれていることだから、きっとそんなことがあったんだと考えているみたいです。そしてクリスチャンの凄いところは、クリスチャンではない人が聖書に書かれていることに対して「信じない」と言ったとしても、その人を責めたり非難したりしないそうです。クリスチャンの人はイエス・キリストと共に生きている人たちだから、私はたいへん尊敬しています。

あるクリスチャンの話ですが、もうすぐ死のうとする人にこう言ったそうです。「あなたは、もう15分で神さまに会えるのだ、喜べ」。このように言える人は本当に神を信じ、神に近い人なのだそうです。

私はクリスチャンでもないし、イエスや神を信仰している人間でもないですが、いつも弱い者の味方で、助けを求めてくる者を無視しない、そんなイエス・キリストは本当に凄い人物だったということを知ったし、もっとイエス・キリストを知りたいなと思います。(YM)


飛べないセミ

「これはわたしの体である。」「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコによる福音書14:22,24)

イエスは十字架刑にかかる直前、「別れの宴」とも言える晩餐の時を弟子と共に持ちました。

そこでイエスは、パンとブドウ酒を使って弟子への深い愛を示されたのです。「パンを食べるたびに私を思い出しなさい。ブドウ酒を飲むたびに私があなた方にした約束を思い出しなさい。そうすれば、永遠の命が得られる」と。

その深い愛は私たちへも向けられています。生きていくに必要な食べ物を使って、誰もがいつでも簡単にイエスに「帰る」ことが出来る仕組み。今回私は改めてイエスが私たちにあらわされた愛と恵みの大きさに感謝しました。実にシンプルで合理的です。

クリスチャンである私は、週に一度の聖餐に預かるたびにイエスの愛に感謝を捧げてきましたが、これからは、イエスのシンプルな教えにのっとり、ありふれた日々三度の食事においても、形式にとらわれずに心のままにイエスを感じたいと思います。(Y)


ミニヒマワリ

「目を覚ましていなさい」(マルコによる福音書13:37)

今回は、愛ゆえの厳しさによってイエス・キリストが私たち人類にお求めになられる真実の信仰の姿について学ぶことが出来ました。

前回に続いて十字架に向かわれる直前の貴重な時を用いられ、イエスは弟子たちに終末について述べられました。その中でイエスは「目を覚ましていなさい」と4回も繰り返し諭されました。私たちが油断し真の信仰から離れてしまうことのないように念を押されたのです。

イエスが諭された「目を覚ましている」こととは、日々の生活の中で福音書に触れてイエスを仰ぎながら暮らすことだと、私は今回学びました。それは毎日の努力の積み重ねを要し「行動」であらわされるものです。

私は本学保育科の二年次、洗礼堅信にあずかりました。学びの中、イエスのお姿を辿るうち、行動を伴わない信仰は真の信仰とは言えないというキリスト教の厳しさがあることを知りました。しかし一方で、イエスの計り知れない愛のお姿も学んでいます。

今回の聖書記事において、終末がやってきた時にすべての人が神に選ばれ救われて欲しいとイエスが願われていることが分かります。イエスはそのためにこの世に遣わされたのです。私はその愛に心が熱くなります。でも、イエスを受け入れて救われるかどうかは私たちが判断することです。ここに現実の厳しさが感じられます。

イエスに出会う人生。それはたとえキリスト教徒でなくても、人生をまっすぐに生きる指針となり、喜びであると私は思います。

次回もイエスに真中に感じ、仲間とともに、学び、そして祈ります。(Y)


ミニヒマワリ

「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコによる福音書13:13)

今回はイエスのお姿を通して、どんな状況にあっても相手に真実を伝える正直な愛のお姿を学びました。

イエスは十字架刑に処される目前のある日、弟子たちに終末について述べられました。

その中でイエスは、弟子たちがこれから迎えるであろう災難について警告をなさり、弟子であることの厳しさを超然と当たり前のこととしてお伝えになられました。

一方で、イエスはこの災難こそが、福音書が伝えられる最大のチャンスであると語ります。そして災難を成就した果てには神の国に入る道が与えられるとお約束なさったのです。

イエスは常にどのような時も本音を丁寧に語られます。それがいかに厳しい道に至るものだとしても。そして自ら、十字架上の処刑という災難を通して全世界に福音が述べ伝えるきっかけを作られたのです。

今回私は、師とは言葉だけでなく行動によって真実を証しすべきものと知りました。私はそのお姿に心からの信頼を感じます。

相手に真実を伝えることは一見とても冷酷に感じます。しかし今回私はお話を聞いているうちに、イエスの深い真意が感じられました。そこには、イエスの私たちに与えてくださる愛と真実が見えます。

次回も福音書を通しイメージを膨らませ、よりいっそう人間イエス・キリストのお姿を感じられるよう学んでいきます。(Y)


モンシロチョウ

「これらの大きな建物を見ているのか。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マルコによる福音書13:2)

神殿の境内を出て行く時、一人の弟子がイエスに向かってこう言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう(13:1)。」するとイエスは表題にある御言葉をお返しなさったのです。

今回学んだ内容は以下の通りです。

・物よりも愛や心を大切にする、イエスの基本姿勢。
・「石が、絶対に崩れ去らない石の(=基礎の石)の上に残されることは決してない。」と訳した方が分かり易い。つまり基礎以外の石は全部破壊されるということ。
・この箇所は、紀元70年、ローマ軍によって攻撃され廃墟と化したエルサレム神殿の姿をイエスが予言されていると論じられることが多い。でも、イエスの純粋な本性に倣い、これは一般論としてお話になっていると考えた方が自然。
・栄華を極めた荘厳な建物は、しょせんは人間が作ったものでしかない。それよりも大切なのは愛や心である。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)」とイエスが語る通りである。
・祈りは立派な建物がなくても出来る。そんな建物を神が要求なさるとは思われない。場所にこだわらないイエスは次のように語る。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:21)」(Y)


学食の花瓶

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)

「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか」と、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちに聞かれ、イエスはこう答えました。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(2:19-20)

ここで出てくる花婿はイエスのことであり、婚礼の客というのはイエスの弟子たちのことを指しています。つまり、イエスと一緒に喜びに浸っている時に断食などできはしないが、イエスが十字架にかけられた時には、弟子たちはしっかりと断食することになる、という解釈になります。

断食を規則的に行なうという古いルールに縛られずに、その時々の状況に応じ、気持ちを込めて断食をしなさいとイエスは教えられたのです。

私はイエスが言った言葉を聞き、イエスはとても頭がよくて、いつか自分が十字架にかけられて死ぬことを予見していた感のいい人物だと思いました。そして、古いものから離れる勇気、つまり、今までと同じやり方から離れる勇気は、保育者を志す私たち柳城生にとって、とても必要だと思いました。

そのような意味でイエスは新しい存在だといえます。福音書を手に取り、イエスの生涯を学んでいくうちに、私はこれからどんな人生を歩むべきなのか、勉強になったことが沢山ありました。福音書はすごく奥が深いと思います!


学食から見えた虹

 

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」(マルコによる福音書12:43)

エルサレム入城を果たされたイエスは、神殿の賽銭箱の近くにお座りになり群衆が献金する様子をご覧になっていました。当時、献金者は、自分の献金の目的と金額とを声高く告げたので、周囲の人は、それを聞くことができたといいます。そういう習慣は「見え」のための献金を助長したに違いありません。

その時、貧しいやもめが最小単位のレプトン銭2枚、今の日本で言うと1円玉2枚を献金しました。それは彼女にとって生活費の全てだった事をご存知だったイエスは、「彼女は誰よりも多く献金した」と語って彼女を称賛されたのです。

確かに、彼女の献金額は金持ちのそれに較べれば取るに足らないものでした。でも、その額は彼女にとって大きな痛みを伴うものでした。それを痛みとは思わない彼女の厚い信仰、つまり神への絶大な信頼心は感動的です。

今回この場面を通して、イエスは献金のススメと同時に「見かけではなく心を大切にしなさい」と教えられていることを知りました。そして、イエスはお金というものは「悪」ではなく、その人が変わるチャンスに繋がる可能性を持つものと捉えられていることに、イエスの現実的な感性を感じました。そして、保育者を目指す私も、目に見える現象に囚われることなく、心の目を常に磨き続ける必要があると思いました。

「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)。人間関係よりも神関係を大切にせよとのこの御言葉を常に心に留めながら。(Y)


花壇の花を摘む親子

「律法学者たちに気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、あ広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコによる福音書12 :38~40)

神関係をいつも第一に考えるイエスのお姿をとおして、今回は、時代を切り開き作る「原動力」について学びました。

記事においてイエスは律法学者の見せかけだけの善行を明るみにし、一刀両断なさいました。彼らの利己的で蛇のような心のうちをイエスは見抜いておられたのです。律法学者たちは自分たちの地位を自分の利益のために利用していたからです。

イエスは弱い立場の側にいつも立たれる方です。ですから、律法学者らの虚栄心を忌み嫌い、強く断罪なさるのです。

今回もイエスは権力者に対して真っ向から挑んでいます。世渡り上手な人は人間関係に恐れるあまり、足並みを揃えて危険を回避しますが、神の子イエスは常に自ら身を危うくすることになろうとも、悪いことは悪いと、真実を語ることを決して恐れません。

そのような勇気ある姿こそ、イエス・キリストそのものです。クリスチャンは時代を切り開く先駆者としてのイエスの原動力に憧れを持つのです。そしてイエスと同じようには出来ないと知りつつも、一生を通して少しでも近づきたいと努力するのです。

次回も、御言葉を丁寧に見つめることでイエスの真摯なお姿を学んでいきます。(Y)


ブルーベリー

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29−31)

今回は申命記とレビ記を引用しながら諭されたイエスの御言葉から、私達が聖書を読み学ぶ際の最も大切な要点について学ぶことが出来ました。

エルサレム入城を果たされたイエスのもとに一人の律法学者が進み出ました。そして「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねたのです。

すると、イエスはその問いかけに対し、「神を愛する唯一の証明は律法を守ることだと、あなた達はかたくなに信じている。しかし、聖書には神、そして隣人への愛を一番大事にせよと、ただこれだけが書いてあるではないか。」と仰ったのでした。

イエスの応答は常に理性的でシンプルです。そうすることで律法学者たちに強烈なメッセージを示されたのです。

この記事から私は、現代の私たちも聖書の御言葉を深読みしすぎて「頭でっかち」になっているのではないかなと感じました。私は改めて今回の学びから、聖書は神学のための教科書ではなくて、愛を実践するためのガイドブックであり、その中に記された「愛」はイエス・キリストそのもののお姿であると知りました。

イエスの愛は言葉や掟に頼ることのない、理性に満ちた愛です。「愛」と「甘やかし」の区別が苦手な日本人にとっては、そのシンプルさは冷たく、厳しく感じることもあるかもしれません。しかし私はその根っこに、相手の成長を見据えるような真実の愛を感じるのです。その真実とは、時には耳に痛く刺さるものですが、振り返ってみた時、その愛によって強くなった自分を感じられます。

私は福音書を生活の中に取り入れながら、イエス・キリストの愛を知って、少しずつでも成長していきたいと思います。(Y)


ノースポールの根っこ

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)

今回は人間たちの愚かな企てを見抜かれたイエスのお姿から、人間の思いを遥かに超えたイエスの知性・人格について触れることが出来ました。

宮清めの後、群衆の人気をさらに集めたイエスの言葉尻をとらえて陥れようと、ファリサイ派、ヘロデ派の人間がイエスのもとに再びやって来ました。統治国であるローマ皇帝に税金を納めるのは律法に適っているのかと問答をふっかけるためです。

その直前、彼らはイエスを褒めちぎっています。それ程に、この質問はイエスにとって、「Yes」「No」のどちらに答えても不利なものだったのです。取り巻いていた民衆たちは固唾(かたず)を飲んでその様子を見ていたことでしょう。

狡猾な彼らの下心を見抜いたイエスは「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」(12:15)とおっしゃった後、銀貨を見て誰の肖像で銘か?と、今度はイエスの方から問われました。

そこで「皇帝のものです」と答えたファリサイ派、ヘロデ派の人間に対し、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、驚くべき返答をなさったのでした。

記事にも、その場にいた人間はそのイエスの答えに驚き入ったと記されています。イエスの言葉を聞いた人々はイエスの答えの真意を考えますが、どうやっても分からずじまい…。きっと頭の中で「?」がさまよっていたことでしょう。

イエスは初めから質問に答えるつもりはなかったのです。「イエスを巧みにやりこめる」と思った人たちの浅はかな企てを、すべて見抜かれていたからです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という御言葉の真意は、たとえば「政治と信仰とを別々に考えなさい」とかいうものではなくて、ただイエスは「Yes」でも「No」でもない真意の分からない返答をなさったのでした。私たちは、そこにイエスの遥かに超えた知性を確信出来ます。

また、単なる返答ですまさない所にイエスのもう一つの知性である「メッセージ」があると思いました。それは彼らのやり方、下心を「分かっている」というメッセージです。自分たちが思っていた以上に、イエスが遥かに優れた知性をもつ存在だと、この問答の結果ファリサイ派らは理解せざるを得なくなりました。

まさに脅威。「自分たちでは手に負えない男だ。しかしこれ以上生かしておいては、自分たちの立場には有害だ…」こんな風に感じたのではないでしょうか。それこそが彼らの傲(おご)る姿をあらわしています。

今回与えられた解説から私はイエスの神性の尊さを知り、よりいっそうの深い畏敬の念を抱きました。

そしてイエスをもっともっと知りたい!と願います。
次回も主に感謝し、仲間とともに御言葉を学んでいきたいと思います。(Y)


シロツメクサの冠

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