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カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

新型コロナウイルスが日本で流行が始まった2020年は、知見の不足や恐怖心から、入学式は中止を余儀なくされました。それから1年、感染者は増え続け、4/2時点はいわゆる「第4波」の最中ではありましたが、大きな犠牲を伴いつつも知見が増えたことが幸いして、「感染拡大を防ぐ対策を講じれば開催は可能」との判断ができるようになりました。このあたりの判断は卒業式とまったく同じです。

本学においては、消毒の徹底、式の時間短縮、聖歌の割愛、座席間隔の確保など、できる限りの対策をした上で2021年度の入学式を実施しました。以下、その模様を簡単にお伝えします。

●前奏

●聖語

愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり
神もその人の内にとどまってくださいます。(Ⅰヨハネ4:16)

●新入生のための祈り

祈りましょう。
全能の神よ、この世の時はすべてあなたのみ手の内にあります。どうか、いま本学に入学し、この学院で過ごす時の始めに立っている学生たちに、恵みのまなざしを注いでください。この学院での時を通して、あなたの知恵のうちに学び、あなたの愛を知り、そして愛によって互いに支えあうように、わたしたちを導き、育んでください。わたしたちの主、イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

●聖 書

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
(ガラテヤの信徒への手紙5:1;13-14)

●名古屋柳城女子大学 新入生認証
こども学部 こども学科
●名古屋柳城短期大学 新入生認証
保育科
専攻科保育専攻

●式辞 名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学 学長 菊地 伸二
【内容はこちらでご覧ください】

●祝辞  学校法人 柳城学院 理事 日本聖公会中部教区 主教補佐 テモテ 土井 宏純 司祭

●祝電披露

●平和の挨拶
【司式者】主の平和が皆さんとともに
【補式者】また、あなたとともに
【司式者】平和の挨拶を交わしましょう。

●主の祈り

【司式者】主イエス・キリストが教えてくださった祈りを、ともに唱えましょう。
【司式者】主よ、憐れみをお与えください
【補式者】キリストよ、憐れみをお与えください
【司式者】主よ、憐れみをお与えください
【チャプレン団】天におられるわたしたちの父よ
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
【一 同】アーメン

●名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学のための祈り

【司式者】名古屋柳城女子大学ならびに名古屋柳城短期大学のために、ともに祈りましょう。
【司式者】主は皆さんとともに
【補式者】また、あなたとともに
【司式者】祈りましょう。

全能の神よ、わたしたちはただ主の賜物によってまことの知恵を得ることができます。どうか、み名によって建てられた名古屋柳城女子大学ならびに名古屋柳城短期大学に恵みを下し、教える者と学ぶ者を祝福して、共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。

【一 同】アーメン

●祝 祷

【司式者】計り知ることのできない神の平安がキリスト・イエスにあって皆さんの心と思いを守り、ますます深く父とみ子を知り、かつ愛させてくださいますように。父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。
【一 同】アーメン

●後 奏

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希望を胸に、多くの新入生が柳城の仲間入りをしてくれました。感謝です。
保育の道を歩むのに必要な愛の心。それを育むことを柳城は120年以上も大切にしてきました。
その意味を理解することが柳城生として卒業する証となります。
この一点だけでも押さえながら学生生活を送ってもらえたらな嬉しいです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」【マタイ7:7】

【ヨハネによる福音書15章1-10節】
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 

キリストと私たちがぶどうの幹とその枝のようにつながっているというたとえですが、この「つながっている」と訳されている単語は、「留まる」とか「宿る」といったニュアンスを持つ言葉です。そこから考えますと、私たちと神がつながっている、というのは、私たちが神に留まっている、神の中に宿っている、というイメージです。あるいは、神が私たちに留まっている、神が私たちの中に宿っている、ということです。言い換えれば、私たちが神の働きの中に生かされている、あるいは神自身が私たちの間に宿って、働いておられるということです。

では、ここでイメージされている神の働きとは具体的にどのようなものでしょうか。このぶどうの木のたとえを話す直前のイエス自身の行動が、そのことを端的に示しています。それが、イエスが弟子の足を洗う、という出来事です。
その出来事は、イエスが十字架で処刑される直前の「最後の晩餐」の時のことだったのですが、イエスは、これまで一緒に過ごしてきた弟子たちの足を洗い始めます。当時、他人の足を洗うという行為を実際にしていたのは奴隷たちでした。今でも、他人の足を洗うということは、なかなか起こりえないことだと思いますが、当時としては、さらに屈辱的な行為でした。
イエスの時代、舗装などありません。どこに行くにも歩きでしたし、もちろんスニーカーもありません。素足にサンダルですので、当然、足はかなり汚れていました。そんな汚れた足を差し出すのは、弟子たちもかなりのためらいがあったようです。しかし、イエスは、半ば強引に弟子たちの足を洗ったのでした。そして、弟子たちに、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と告げます。
この足を洗うという行為でイエスが示したのは、単に足を洗うことによって謙遜とかへりくだりを示すということではありません。そうではなく、自分の立場やプライド、損得勘定を手放して相手と向き合う、ということです。相手に対して自分の弱いところや欠点、見せたくないところを隠さず、あるがまま差し出すということです。弱い自分を隠すのではなく差し出すこと何かを握るのではなく手を離して委ねることです。それは相手への信頼なしにはできません。そのようにして、お互いを大切にする、愛し合うこと、それこそが神の働きの具体的な中身です

私たちは、自分の立場やプライドを守ったり、他人を支配しようとしたりしてしまうことがあると思います。あるいは逆に卑屈になったり、自分をただただマイナスに捉えたりしてしまうこともあると思います。
そのような自分の嫌な部分、汚い部分も含め、イエスは、私たち自身を丸ごとそのまま、受け止めてくださいます。イエスに自分をよく見せる必要もありません。そしてイエスは、私たちにも他者の足を洗うこと、すなわち、隣人を損得勘定や偏見なく、丸ごと受け止めることを求めておられます。
そのようにして、私たちは、ぶどうの木として、豊かにぶどうの実を実らせることに招かれています。この柳城学院が、豊かなぶどうの木へと成長していけるよう、互いに愛をもって仕えてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


グミ

【マタイによる福音書6:31-34】
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

専攻科2年の松田インマヌエルです。

変わった名前ですが、僕は牧師の息子でして、これを聞かれると「じゃあ、いい人?」と思われそうですが、実はそうではなくて、僕はむしろ悪ガキの一人かもしれません。

さて、僕の大学生活が新型コロナの影響を受けて大変な状況です。学食が利用できない、生きがいであるサークル活動ができない、就活も停滞中…と散々ですが、きっと似たような境遇の人も多いんじゃないでしょうか。では、この今の状況、神から見たら一体どうなるんでしょうか? 聖書には何と「思い悩むな」などと無茶なことが書いてあります。

それでも、神は愛の方です。別の聖書箇所に「神は全ての必要をご存知である」と書いてある通りです。だから、神は解決の道をちゃんと用意してくれる…。でも、本当なんでしょうか? そこで、今日は僕がこの神の愛を献金を通して知った経験をお話します。献金とは神にお金をお返しすることです。決して強制ではありませんが、聖書には「報酬の10分の1は神のものだから神に返しなさい、つまり献金しなさい」と書いてあります。たとえばバイトで8万円稼いだら、何と8千円は献金しなさいということになります‼

ある礼拝の折、僕は献金に迷いました。お金に困っていたのです。僕の財布には千円札3枚と小銭が少々だけ。選択は、小銭全部、千円札1枚、そして3千円の3つでした。僕は神に祈りました。「いくら献金すればいいですか?」 神からの答えは「3千円」でした。僕は結局そのようにしました。

その後日、ある映像祭に向けて撮影と編集の協力をした際のお礼として、何と3万円もの謝礼金がいただけることになったのです。献金した3千円が10倍になって返って来たわけです。「神の名による偶然はない」と言われますが、僕の必要を神はご存じで、それを愛をもって解決してくれたということです。

僕はどちらかというとネガティブな人間ですが、聖書には良いことも悪いことについても感謝しなさいと示されているので、すべてのことに感謝するよう心がけています。なけなしの金を献金できたのも、感謝の気持ちがあったからです。だから、今のコロナ禍でも感謝の気持ちを決して忘れないようにしたいです。
(名古屋柳城短期大学 専攻科2年 松田インマヌエル)


ランタナとアゲハチョウ

【マルコによる福音書7章14-23節】
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
聞く耳のある者は聞きなさい。
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

今読んだ7章の冒頭に、イエスと、当時の宗教指導者であったファリサイ派との激論が出てきます。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の教えを人々が日常生活の中で極めて厳格に守ることを求めていた宗教指導者たちのことです。
そのファリサイ派が、イエスに対して、あなたたちのやっていることは問題だ、と指摘します。何が問題かというと、イエスの弟子たちが手も洗わずに食事をしているということでした。これは単に食べる前には手を洗いましょう、という衛生上の事柄ではありません。そんなことだったら激論にはなりません。これの何が問題かというと、ユダヤ教において食事の前に手を洗うことは、宗教的な意味での汚れを防ぐためでありました。
例えば神社に行くと参拝の前に水で手を清める習慣があります。水で手を清めることが宗教的な意味を帯びている、という点では似ていますが、これをしなかったからといって神主さんの逆鱗に触れるようなことはないと思います。しかし、ファリサイ派にとって、食事の前に手を水で清めるというものは、大変に重要な宗教的な意味を帯びていました。
ところが、イエスの弟子たちの中には、それをせずに食べていた人たちがいました。そこで、ファリサイ派の指導者たちは、そのことを批判したのでした。

しかしイエスは、そのように指摘するファリサイ派を偽善者だと批判します。ファリサイ派の人々は、さまざまな規則をきちんと守ることによって、汚れから身を守ることができると考えていました。そして、汚れから身を守る人間と身を守ることができない人間、言い換えれば、清い者と清くない者、正しい人と、正しくない罪人、というふうに、人間を線引きしていました。ファリサイ派は、そのように人間を分離することによって、自分たちが清い存在、特別な存在、いわば神に近い存在になろうとしていました。
こうした考え方から、ファリサイ派は、自分たちがいつも清さを保つために努力している一方、イエスの弟子たちは汚らわしい人たちだと捉えます。そして、そのような汚れた人たちが、民衆から人気を得ていることを問題視し、自分たちの優越性を守りたい思いから、弟子たちを見下した発言をしたのでありました。

イエスは、そのように人間を区別し、優越感を保ち、差別するようなファリサイ派の振る舞いを批判したのでありました。というのも、イエスの神理解、宗教理解はファリサイ派とはかけ離れているものでした。すなわち、神は、そのように人間の振る舞いに基づいて、人間の種類を清い者と汚れた者に分類したりすることは決してない、ということです。全ての人々は神の子であり、神は全ての人を愛されている、ということです。

「人の中から出てくるものが、人を汚すのである」という言葉は、「群衆に対して語った」と書かれています。この言葉はファリサイ派に対して語ったものではなく、ファリサイ派とイエスの激論を周りで見ていたガリラヤ湖畔の人たちへのメッセージとして語られたものです。
ガリラヤ湖畔でイエスの周りに集まっていた人々は、貧しさや不治の病に苦しんでいた民衆たちでした。ファリサイ派から見れば、宗教的な清さから遠い人々、弟子たちと同様、「汚れた人々」とされた人々でした。その人々は、ファリサイ派が主張していた宗教的な清さを保つための様々な戒めを守ることもできず、自分たちは汚れている、自分たちは神から見放された者だと思っていました。

イエスはそんな民衆たちに、断じてそれは違う、と宣言します。それが、「外から人の中に入るもので、人を汚すことができるものは何もない」ということです。

あなたたちは様々な要因で汚れてしまったと思っているかもしれない。自分はダメな人間だと思っているかもしれない。例えば、貧しさによって、病によって。しかし、そうしたことでみなさんが汚れることはないのだ、すなわち、神から見放されることはないのだ、ということです。あなたは汚れていない、あなたは神から愛されている。このように民衆たちを祝福されるのでした。このガリラヤ湖畔の民衆たちへのメッセージは、私たちに対するメッセージでもあります。
日々の生活の中で、あるいはこの複雑な社会の中で、自分は生きている価値がないと感じたり、自分は役に立たない、ダメな人間だ、と思ってしまったりすることもあるかもしれません。人間関係に疲れ、どうせ自分なんてロクなものではない、と思ってしまうことがあるかもしれません。
そんな私たちに、イエスは言われます。「外から人の中に入るもので、人を汚すことができるものは何もない」。あなたは汚れてなんかいない、なんびとも、あなたを汚すことなどできない。誰が何と言おうと、あなたはそのままで神から愛されている。

私たちは、このようにしてイエスによって祝福されていることを覚えたいと思います。そして、私たちも、隣人を社会の価値基準や世間の目に基づいて判断したりせず、その人をそのまま丸ごと受け入れ、豊かな交わりを求めていきたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


押し花の保存

【マタイによる福音書 第13章30~33節】
刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」 

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【ヨハネによる福音書 10章11-16節】
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

新約聖書の時代、羊飼いの仕事は、毎朝羊の群れを囲いから出して牧草地に導き、夕方になるとまた囲いの中に連れ帰るというものでした。遠くの場所に連れて行く時には野宿しながら夜通し羊の番をしていました。大変な重労働だったそうで、現代風に言えば、いわゆる3K、きつい、きたない、危険な働きでありました。当時としては必ずしもイメージの良くない羊飼いであったわけですが、イエスはあえてその3K的なイメージを重ね合わせ、自分はそのような働きを担う羊飼いだと語ります。
ここで良い羊飼いと雇い人が対比されています。良い羊飼いは自分の羊のために命を捨てます。しかし、雇い人はいざとなったら自分の都合を優先し、羊を置き去りにして逃げるというものです。

イエスは、ユダヤ教の権威である教師たちに向かってこの羊飼いの話を語りました。なぜイエスが教師たちに向かってこの話をしたかというと、次のような出来事をめぐって教師たちがイエスを非難したからでした。それは、生まれつきの目の見えない人が、イエスの言う通りにシロアムの池に行くと、目が見えるようになって帰ってきた、という出来事です。イエスは目の見えない人に出会い、彼にシロアムの池に行くように指示して癒すのですが、それを行ったのがユダヤ教の安息日、すなわち働いてはならない日でした。
この出来事の後、ユダヤ教の教師たちが登場します。そして彼に対して、誰がこのようなことをしたのかと問いただします。イエスだと答えると、教師たちはイエスがユダヤ教の規定を破って安息日に働いたことに憤慨し、イエスによって癒やされた彼を街から追放してしまいます。誰にも見向きもされていなかった彼は、イエスによって立ち直り、ユダヤ社会の一員として、失われた人生を生きなおそうとしていました。それなのに、ユダヤ社会から追放されてしまったのでした。

彼が追放されたことを知ったイエスが、ユダヤ教の指導者たちのところに出向いていって語ったのが羊飼いの話です。「羊のことを心にかけていない」、「羊を置き去りにして逃げる」というのは、当時のユダヤ教の指導者たちのことであると言えます。彼らは、真面目に律法を守ろうとしていた人たちではあります。しかしながら、彼らが律法を厳格に守ろうとするあまり、杓子定規に人を排除し、追放してしまうことをイエスは批判したのでした。
羊飼いが何千もの羊を全て見分け、一匹一匹の名前を呼んで養っていたように、イエスは、当時の宗教指導者が排除してしまう人々をこそ心にかけ、その痛みや苦しみを理解し、その人たちのために命を尽くすべきであると考え、実際そのように行動したのでした。

私たちの社会にも様々な形で排除されている人たちがいます。そして私たち自身もまた、弱く、小さなもの、さまざまな欠けがあるものです。羊飼いが羊のために、きつい、きたない、危険な場所に赴くように、イエスは、人々の弱さや欠け、悩み、恐れ、至らなさの中に降りて行かれ、それらを自らのこととして受け止めておられます。

良い羊飼いが、全ての羊を一見分け、一匹一匹の名前を呼んで養っていたように、イエスが私たち一人一人の名前を呼び、そして、この社会から排除されている人々の痛みや苦しみの現場に自ら出向いていかれることを覚えたいと思います。そして、私たちも、そのような者として歩むことができるよう、努めてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ヤマアジサイ

【ヨハネによる福音書 13章31-35節】
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

互いに愛し合いなさい」という新しい掟の新しさとはなんでしょうか。ヨハネ福音書の文脈においてそれは、その補足の部分にあります。「わたしが、あなたがたを愛したように」というこの部分にこそ新しさの鍵があります。そして、それゆえにこの掟は今もなお新しいと言うことができます。
「わたしがあなたがたを愛したように」ということの新しさとは、イエスの愛し方に他なりません。イエスの愛し方とは、十字架で処刑されるほどまでに徹底して出会った相手を大事にする、大切するというものでした。十字架で処刑されるほどまでに人を大事にするとはどういうことでしょう。
ヨハネによる福音書を読み返してみますと、イエスが十字架で処刑される引き金となった事件の記事があります。それはベトザタの池というところでイエスが病人を癒やした出来事です。
ベトザタの池でのイエスによる病人の癒やしは、安息日、すなわち、当時の律法の規定に基づいて、仕事をしてはならない日に行われました。イエスは、この病人とはもともと面識がなく、その日、たまたま歩いていて見かけた病人に過ぎません。しかし、その人が38年もの間、病気で苦しんでいることを知ったイエスは、安息日の掟を守ることをよりも病人を癒すことを優先しました。イエスがこの病人を癒やした直後の様子が、ヨハネ福音書に次にように記録されています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」
イエスがどのように人を大切にしたかというと、この記録が示しているように、自分が社会の中で危うい立場に追い込まれたとしても、社会の常識やルールを打ち破ってでも、出会ってしまった一人ひとりを大事にするというものでありました。そして、このようなイエスの個別具体的で突発的なイエスの愛は、現代に生きる私たちにとっても、新しさをもっています。
キリスト教に連なる学校や福祉施設、あるいは教会は、愛ということをテーマとしつつも、この社会において活動をする上で、さまざまな計画を立てて、社会のルールに従って行動しています。しかしながらイエスは、なにか事前に計画を立てて人を癒していったのではありません。彼はたまたまベトザタの池で病人に出会い、そして彼を癒されました。
たとえば、イエスが一人でも多くの人を癒すことを目的としていたら、もしかしたら、この日には何もしなかったかもしれません。その日は、安息日の規定を守り、あらためて別の日に計画に基づいて行った方が多くの人を癒すこともでき、世間的な活動の評価も上がったかもしれません。しかし、イエスはそうした数値や評価に関心をもった形跡が全くありません。むしろ、ルールを破ってその癒しを行ったことで、十字架という結末をもたらしました。十字架刑とは、いわば当時の社会における最悪の評価です。イエスの愛し方とは、そうしたこの世的な評価や自分のメリットとはまったく関係なく、具体的に出会った人との間で、いわば偶然の出来事として起きてくる行為でした。

もちろん、私たちは、社会生活がありますので、世の中的な数値や評価をまったく無視することは難しいかもしれません。
しかし、イエス自身の愛し方が、当時の掟を超えて、たまたま出会った一人の人物に徹底してかかわっていくという方法であったということ、そのことが、イエスの教えに連なる私たちの活動の基礎にあるということを改めて確認しておきたいと思います。そして、自らの生活の中で、また仕事の中で、この新しい掟にこだわってまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ヤマアジサイ

【エフェソの信徒への手紙 第3章17節】
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

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