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【新約聖書 マルコによる福音書4章30~32節】
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

✝ ✝ ✝

今日のお話のタイトルは、「神の国ってどんなとこ?」としました。
そもそも神の国って聞いても、皆さんには、ちんぷんかんぷんかも知れませんね?
宗教は、歴史的に、権力者とぐるになると、死んだ後の世界、天国に素晴らし世界が待っているから、今は辛いかも知れないけど、頑張って耐え忍べば、死んだ後には、報われるんだよといって人々を、言いくるめるような働き方をして来たことは歴史を振り返ると分かります。
ですから、天国、神の国について考えを廻らせるときに大切なのは、来世に望を託すのではなく、いまわたしたちの生きているこの世界をどう良くして行くことが出来るのかが、問われていることをまず、頭に置いてお話しに聞いて参りましょう。

「からし種」は、アブラナ科のカラシナ(芥子菜)の種子で、その名からもわかるとおり、辛子、マスタードの原料として有名です。しかしガリラヤ湖周辺に生えていたカラシナは、大して美しい花が咲くわけでも、良い香りがするわけでもない、当時はいわゆる雑草と呼ばれる類のものとして扱われていました。たしかにその種は 0.5mm 程度と小さいのですが、実際のカラシナの木は成長してもそれほど大きくはならず、せいぜい 150 ㎝程度にしかなりません。

文脈を無視してこの「からし種のたとえ」だけを読むと、神の国が確実に成長して大きく広がっていく話のように読めます。事実、教会ではそのように読まれてきた聖書個所です。
しかし当時「からし種」は、「小ささ」を強調するために比喩として用いられたようです。さらに旧約聖書では神さまの聖なる秩序を守るために、違う種類の種を混ぜて植えることが禁じられています。境界線を軽々と越えて、他の作物の畑に侵入してくるやっかかいものの「からし種」は、神さまの聖なる秩序を犯す、「汚れた」植物という否定的なイメージで見られ、ユダヤ教のミシュナーと呼ばれる、口伝えの法律集の中で、植える場所が細かく制限されていました。
また同じ「からし種」を使った譬話がマタイによる福音書の13章にもありますが、こちらのお話しでは「からし種」は、神の国が拡がっていくことを邪魔する、悪魔の働きの象徴として語られているのです。
ですから、初めは小さくても神の国がとても大きく拡がって行くという希望を語ろうとするなら、むしろ「からし種」を比喩にしない方がよいのです。
この話を聞いていた人たちは、神の国が「からし種」のような、本当に小さくて厄介者で、不浄なものだという話を聞いて、とても違和感を憶え、困惑をしたはずです。
32節では「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくな」ると記され、大きくなることが強調されますが、最初に言いましたように、からし種は背が低く、木のように幹がある訳ではありません。大きくなったとしても、せいぜい藪を造るぐらいです。

では、どうしてイエスさまは、神の国をイメージの良くない「からし種」に譬えられたのでしょう。もういちど、「からし種」について確認しましょう。畑の端っこに育つ「からし種」は、大きくなってもそのへんの藪にしか過ぎないのです。決して大きくな貼らないのです。大きいことは良いことだというイメージが一般的にあるのでしょうか? 聖書には、大きな鳥から小さな鳥までが、宿ることの出来る大きな木として、ヒマラヤスギが登場しています。でも、この大きな木は人間の傲慢さを表す象徴として、聖書では否定的に描かれているのです。ですから、そんな大きくならなくて良いのではという、イエスさまの問いかけが「からし種」に込められているのではないでしょか?

さらに、からし種は小さな種なのに、どんな条件が悪い土地でも、岩地でもたくましく根を張り、境界線を越えて拡がり皆から嫌われます。その根っこはあちこちにはびこり、簡単には取り除くことが出来ないのです。そんな嫌われ者のからし種がつくり出す、大して大きくもない藪ですが、小さな鳥たち、小さな生き物たちの隠れ家、住処としては絶好の場所です。ご馳走と外敵から身を隠すことの出来る素敵な場所です。

イエスさまは、この話を聞くわたしたちにも問い掛けます。「あなたたちは誰といっしょに、どんな風に生きて行こうとしているの? 本当にあなたが求めている歩みは、皆が幸せになれる道なの?」と。わたしたちに刷り込まれている、「強く美しく」がイエスさまからチャレンジを受けているのでしょう。イエスさまのお話に耳を傾けながら、キャンパスでの生活を送り、わたしたちが本当にホッとする幸せな時間や場所がどこなのか、もういちど思い巡らしてみたいと思います。   (チャプレン 後藤香織)

【新約聖書・ヨハネによる福音書第8章3~11節】
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

✝ ✝ ✝

今日の聖書の場面には、「姦通の現場で捕らえられた女」が登場しています。旧約聖書の申命記22章22-24節には、結婚している女性との性交渉をした男女は、ともに死刑にという規定があります。旧約聖書の律法(法律)は、性差別や障がい者差別の内容を含んでいますので、そのまま肯定することは出来ません。しかし、男女ともに死刑に処せられるという規定違犯であるにもかかわらず、ここでの問題は連れて来られたのが女性だけということです(3節)。いったい相手の男性はどこに行ってしまったのでしょうか?

律法学者やファリサイ派というユダヤの指導者たちは、この女性をイエスさまを十字架に追い遣る口実をつくるために、連れてきたのです。イエスさまが「女性には罪がない」と言えば、律法に違反していますので、それをもってイエスさまを十字架に追い遣ることが出来ます。「女性は罪を犯したのだから、石打の刑に」と言っても、すくなくとも女性を尊重し、民衆の側に立っていたイエスさまの人気を落とすことが出来ます。いずれの対応でも、窮してしまう状況に追い込まれたのでした。しかし、イエスさまはそのような状況にも関わらず、かがんで地面に何かを書いています(6節)。イエスさまは何をしているのでしょうか? 屈み込む姿勢は、人に仕える姿勢です。仕えられるためではなく、人に仕えるために来られた、イエスさまの謙遜さが、この屈み込む姿に表されています。自分を陥れるために、道具とされ、犠牲にされる女性をどうやって助けようかと、イエスさまは考えを廻らせていたのでしょう。

そんなイエスさまが口にされたのが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)という言葉でした。ふしだらな女に石を投げつけて殺してやろうと意気込んで集まってきていた人々は、握りしめていた石を投げつけることが出来なくなりました。イエスさまの言葉を聞きながら、女性に石を投げつければ、神さまの前に罪を犯したことがないという意思表示になってしまいます。それはあまりにも不信仰な態度です。誰もが、握っていた石を棄てて、その場を立ち去って行きました。
去って行った人たちは、自分の行いを反省をした訳ではありませんでした。律法学者やファリサイ派たちユダヤの指導者は、この出来事によってまずますイエスさまへの憎悪を募らせ、イエスさまを十字架につけて死刑にするために、邁進して行くのです。

わたしたちの日本という国は、いまだに死刑制度を存置し、積極的に死刑執行を進める野蛮で残念な国の一つです。死刑制度は、残虐で野蛮な制度ですので、国連の自由権規約委員会は、この死刑制度を廃止するという国際的な潮流に逆行し続ける日本の慇懃無礼な態度に対して、死刑制度の廃止を検討するか、少なくとも死刑の対象となる犯罪を最も重大な犯罪にのみ制限するようにという厳しい勧告を出し続けているのですが、残念ながら日本政府はその勧告を拒否し続けています。その他にも、死刑囚の処遇についても、問題が多くあって、改善するように勧告されていますが、日本政府は聞く耳を持っていません。
国連の194の加盟国のうち170の国で、法律上あるいは事実上、死刑制度が廃止されています。ですから経済先進国中、死刑を廃止していないアメリカと日本は、繰り返し野蛮な行為を止めるように、各国から批判されています。アメリカでは死刑執行に積極的だった、トランプ大統領に代わって、アメリカ連邦政府の死刑制度を廃止して、各州に追随を促すことを選挙公約にしていたバイデン大統領が就任しましたので、死刑廃止への期待がわずかですが見えてきたように思えます。
また歴史的に、日本という国は非常に早い時期、平安時代の818年に嵯峨天皇の決断によって、1156年までの347年間、一度死刑制度を廃止している、文化的に成熟した国でした。残念ながら、武士の時代になって死刑が再開されるのですが、歴史的に、本当に早くから死刑制度を廃止していた名誉はどこへやらです。このままですと、野蛮な国の汚名は返上できずに、世界でもっとも野蛮な国争い参加し続ける状況になってしまうのです。
生きている人間の命を奪うという刑罰は、非人道的であり、一度執行してしまうと、間違いがあとで発覚しても二度と取り返しがつきません。ですから国際的には、犯罪への対応として、死刑に頼らない政策が積極的に採用される傾向が年々強まっています。とりわけ先進国では、死刑廃止の潮流は揺るぎないものとなっているのです。
日弁連は、冤罪での死刑執行により、人の命が奪われてしまうことがあってはならないとして、死刑廃止を呼びかけています。しかし、わたしは今日この福音書のイエスさまの言葉を心して聞きたいと思います。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)

明らかに殺人という罪を犯していて、その制度を残している野蛮な国日本で、死刑判決を受けている人であっても、その人の命が奪われることがあってはならないのです。
なぜならば、何か理由があれば、人の命は奪われても仕方がないという考え方こそが、人の命を蔑ろにする考え方だからです。戦争が起こって人の命が蹂躙されることがあってなはらないのと同様に、死刑という制度によって人の命が奪われることはあってはならないのです。
死刑制度が、犯罪の抑止力にはならないことは、すでに死刑を廃止してる国での犯罪発生率調査統計から明らかになっています。むしろ、昨今の日本での凶悪犯罪をみると、自らが死刑になるために、多くの人の命を奪うというような事件が多発している状況を鑑みるときに、わたしたち日本の国も、人の命を本当に大切にする歩みを始めるようにと、イエスさまが語りかけてくださっているのではないでしょうか。
死刑囚という低みにまで屈み込まれ、わたしたちの生命を尊重してくださいました。誰かに死刑の判決を出すことが出来る人など誰もいません。人間が人間を罪に定めることは出来ないのです(10-11節)。
イエスさまの赦しを、その愛を豊かに受けながら、互いに愛をもって仕える歩みをこの礼拝から始めて参りたいと思います。  (チャプレン 後藤香織)


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【マタイによる福音書11:25~30節】
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

✝ ✝ ✝

軛とは、牛や馬の首にひっかけて、台車などを引かせるための道具です。聖書に登場する軛は、牛や馬が二頭、一緒になって、引っ張って歩くような仕掛けになっているものです。
この文脈で軛が示しているのは、当時の社会で守らなければならないユダヤ教の律法、あるいは、その律法の守り方でありました。当時、ユダヤ教の律法は守らなければならない厳しいものが多く、それが人々の生活、とりわけ貧しい人たちにとっては、生きていく上で大きな妨げ、負担になっていました。そのような重い負担のあるユダヤ教の律法が、軛と表現されています。しかも、律法とは、単なる日常の法律ではありません。神の前で正しい者と認められるために守るべきものでありました。したがって、律法を守れない人は、神から見放されたものと、位置付けられていました。

そして、疲れた者、重荷を負う者とは、具体的には、律法の教えに押しつぶされた人々のことでありました。律法の規定を守ることを優先するあまり、そこからこぼれ落ちる人、たとえば、重い病気の人など、律法を守りたくても守ることができない人々のことでありました。そして、社会から、さらには神からも、見放された、とされた人たちでありました。

これに対して、イエスは、そのような重くのしかかる軛とは違って、自分の軛は、負いやすくて、軽いと述べます。この「軽い」という言葉は、柔らかいという意味があります。柔らかい軛、すなわち自分たちが首にかけても痛くない、フィットしている、馴染んでいる、私たち人間のためにカスタマイズされている、というようなことです。イエスの軛は、律法のための律法、指導者のための律法ではなく、人間のため律法なのだ、ということです。
さらに、イエスは、自分は柔和で謙遜な者だ、と述べます。柔和というのは、他者の痛みを知っている、というような意味、謙遜とは、低い立場に置かれている、というようなニュアンスの言葉です。

そう考えていきますと、今日の箇所は、次のような意味にとることができます。

この社会で負いきれない重荷を負わされ、本来しなくていいはずの苦労を強いられている人たちは、私のもとに来なさい。あなたはもう、そのような無理な重荷、不条理な苦労を背負う必要はない。もう、ここでおろしていいのだ。わたしも貧しく、身分が低い者だ。私は、あなたがたの痛みを知っている。律法とは、本来、人間のためのものであるはずだ。だから、一緒にそれを担っていこうではないか。イエスは、このように呼びかけられたのでした。

このイエスの言葉は、今日、ここに集まっている私たちに対する言葉でもあります。私たちそれぞれも、この社会にあって、様々な不安や痛み、重荷を、かかえながら生活しています。そうした私たち一人ひとりに、イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけてくださっています。その重荷は、その苦労は、本当は、あなた一人で、負わなくていいはずだと。
そして、イエスは、この社会から押し付けらえた重い軛ではなく、「わたしの軛を負いなさい」と言います。イエスの軛とは一人ひとりの命と尊厳を大切にする、一人ひとりを愛するものです。そして、先ほど申しましたように、当時の軛とは、牛や馬が一頭ではなく、複数が一緒になって、車を引っ張って歩くものでした。
つまり、イエスが、軛を負いなさい、というとき、それを一人で負いなさい、担いなさい、ということではない、ということです。わたしたちと一緒に担う人がいる、ということです。それは、他でもなく、イエスご自身でありましょう。私たちの負う軛は、私たちが自分一人で担っているかのように見えて、実は、他でもないイエスが、横にいて、すでに担っておられるということです。
私たちの柳城の建学の精神は、「愛をもって仕えよ」です。イエスは、私たちに向かって、自分一人で、隣人を愛せ、愛をもって仕えよと、命令しているのではありません。他ならぬイエスご自身が、私たちの横にいて、すでにそれを実践しておられるということです。イエスは、私たち一人ひとりを大切に愛され、一緒に歩んでいてくださる、ということです。だからこそ、私たちは、イエスによって、安らぎが与えられ、そこに身を委ね、そして、そうすることを通じて、今度は、隣びとに愛をもって仕える者として歩んでいくことができるのだと思います。    (チャプレン相原太郎)


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【旧約聖書 創世記9章12~17節】
9:12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
9:13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
9:14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
9:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
9:16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
9:17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

✝ ✝ ✝

 梅雨には、雨が沢山降りますね。雨が降り、雨が上がってわたしたちが目にするのは、虹です。最近はときどき目にされるようになってきているのかなと思いますが、この虹の旗についてご存じでしょうか? レインボー・フラッグもしくは、プライド・フラッグ(pride flag)と呼ばれます。LGBTQ+を表現するための旗で、ここで言うプライドとは、ゲイ・プライドを意味します。レインボー・フラッグは最も広く使われているLGBTQ+の旗であり、LGBTQ+のシンボルとなっています。
そして今月6月は「プライド月間(Pride Month)」と呼ばれ、世界各地でLGBTQ+の権利を啓発する活動・イベントが多く実施される月です。皆さんが生まれる前、1969年6月28日にニューヨーク・マンハッタンにあったゲイバー「ストーンウォール・イン」で、始まった「ストーンウォールの反乱」という出来事があります。アメリカでは1933年には「禁酒法」が廃止され、レストランやバーで酒を出すことが合法となったのですが、この時、同性愛者への差別から、同性愛者に酒を提供することが多くの州で違法となっていました。1969年6月28日、警察が「ストーンウォール・イン」に酒類販売管理法違反の取り締まりにやってきていたのですが、この日はレズビアンやトランスジェンダーが日頃の警察への嫌がらせに絶えかねて反抗したのです。この反抗がその後の抵抗運動のきっかけとなり、LGBTQ+の権利擁護運動が始まるのですが、ストーンウォールの反乱以来、6月はLGBTQの人々にとって記念すべき月となっているのです。

さて、先ほど聞きました旧約聖書は、人間が愛し合うことが出来ずに、お互いに憎み合い、争い、生命を奪い合うような生き方ばかりをしていることに神さまが心を痛め、人を創造したことを後悔し。神さまは、地上に雨を降らせ、洪水を起こして、せっかく素晴らしいものとして造られた世界をリセットすることにしたのです。そのために、無垢な人ノアに箱舟を造らせ、ノアの家族と動物をつがいにして箱舟に乗せて、雨を降り続けさせて洪水を起こされます。雨は40日40夜降り続いて、ノアの箱舟に乗った生き物以外のすべてが、洪水によって大地からぬぐい去られます。水が地上からひいた後、神さまはノアと契約を結び、これからはどんなに人間が悪い思いを抱く存在であったとしても、二度と滅ぼすことはないと決心をされます。その平和のしるしとして神さまが雲の中に置かれたのが虹なのです。虹はヘブライ語で、ケシェトですが、弓という意味もあります。神さまは、人間を滅ぼすために、雨のしずくを射った弓を、もう二度と使わないと、雲の中に置かれたのです。空を染める美しい虹に、この神さまの決意が表されているのです。

神さまは言われます。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(16節)。神さまは虹を見るたびに「地上の生き物との間に契約」を思い起こされているのです。ですから、わたしたちも虹を仰ぎ見ながら、いくら人間が邪なことを考えていても、諦めずに導いてくださる神さまの恵みに思いを馳せましょう。この世界はわたしたち人間の罪にもかかわらず、豊かに祝福されていることを虹はわたしたちに伝えています。

このように聖書で虹は、平和を指し示す約束のしるしですが、最初にレインボー・フラッグを紹介しましたように、わたしたちはこの虹を「多様性のシンボル」として、掲げて行きたいと思います。

すべての人が、様々に違った賜物を与えられています。神さまの眼差しの中で、わたしたちが、それぞれの違いを尊重しながら、互いにかけがえのない存在であることを、虹を仰ぎ見ながらしっかりと憶えて行きたいと思います。まだまだ、差別や偏見に覆われているわたしたちの世界ですが、神さまが豊かに祝福してくださっていることを、神さまの約束の虹を見ながらしっかりと憶え、互いに愛をもって仕える歩みを続けて行きたいと思います。   (チャプレン 後藤香織)


グミ

【ルカによる福音書18章9~14節】
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

✝ ✝ ✝

 当時の社会では正しい人物の代表格であったファリサイ派の人は、こう祈ります。自分は、こんなことをします、あんなことをしています、だから、神様に感謝します、というような祈りをします。一方、嫌われ者の代表格であった徴税人の方は、ただ、神様、私を助けてください、憐れんでください、と祈ります。
さて、私たちは、どちらのお祈りをお手本にすべきでしょうか。おそらく、この二人の対照的なお祈りの仕方を見れば、自分の行動を自慢するように祈るファリサイ派ではなく、謙虚な徴税人の祈り方を、お手本にすべき、と思うのではないかと思います。
しかし、このたとえをイエスが語った当時、聞いていた人たちは、徴税人を手本にすべきとは思っていませんでした。むしろ、ファリサイ派こそが正しいと思っていました。

ファリサイ派とは、ユダヤ教のグループで、大変熱心にユダヤ教の教えを守り、自ら清く貧しく生活していました。そんな姿から、当時の一般の市民の間では、大変に尊敬されていました。ここでのファリサイ派の祈りは、誇張したり自慢したりしているように見えるかもしれませんが、実際のところ、自分たちがしていることをありのままに語ったとも言えます。

一方、ローマという外国の支配者の手先となって税金を取り立てるのが徴税人でした。しかも、徴税人たちは、決められた金額以上に税金を取り立てて、私服を肥やすのが当たり前でした。外国の支配者のために働き、しかも、その立場を利用して不正に利益を得ていたということで、誰もが、悪人だと感じていました。

神から正しいとされるのはファリサイ派である、と考えるのが、当時としては素直な感情でありました。ところが、イエスの答えはまったく反対でした。正しいのは、ファリサイ派ではなく、徴税人でした。
不正を行っている徴税人のほうが正しいとする、そのポイントの一つは、ファリサイ派が「正しい人間だとうぬぼれている人」という文言です。
「うぬぼれている」という言葉は、原文では「自分自身に頼る」というような意味をもった言葉です。ファリサイ派は、週に二度断食をしたり、全収入の十分の1を献げたりなど、当時の宗教者としては、極めて真面目に規律を重んじて生きていました。問題は、ファリサイ派が、自分が努力していることに頼っている、ということでした。それは、裏を返せば、神に頼ることをせず、自分だけを見て、自分自身の力だけを頼りにした生き方であった、ということです。
ファリサイ派は次のようにも祈っています。自分が「この徴税人のような者でないことに感謝します。」結局のところ、ファリサイ派は、神に向かって祈っているはずなのに、実際には、徴税人のほうを見て、そして人と自分を比べ、自分の方ばかりを見て祈っていたわけです。

一方徴税人はどうでしょう。彼はただ、「私を憐れんでください」、神様助けてください、と祈ります。そこには他者との比較はありません。自分を頼りにすることもありません。
この徴税人は、自分の力で自分自身を救うことなどできない、という自覚がありました。そして、ただ、神に寄り頼んでいます。だからこそ、この徴税人こそ、神と正しい関係にあるのだ、とされるのでありました。

私たちは、この現代の日本で、自分自身だけを頼りにし、自分の努力で、様々な困難を乗り越え、生きていかざるえない社会で暮らしています。そんなことで、私たちは、自分自身に頼ることは慣れていますが、人を頼りにし、助けを求めることには慣れていません。
しかし、私たちは、自分だけを頼りとする必要はありません。むしろ他の人を頼っていい、助けを求めていい、ということを確認しておきたいと思います。助けを求めることによって、自分に欠けている部分を、他者が補ってくれるはずです。
このことは、神との関係においても同様です。神は私たちをよいもので満たしてくださいます。ですから、常に完璧であろうとするよりも、自分には欠けがあるのだと理解することが重要です。自分が、自分が、と、常に自分自身を頼りにし、自分の中を自分自身で充満させていたら、神様が入り込むスペースが、なくなってしまいます。
神様は、そもそも私たちを良いものとして作られました。それは、完璧なもの、一人で完結できる者として、という意味ではないと思います。むしろ、自分がパーフェクトでないことを認め、助けを求めるもの、助け合うもの、言い換えれば、愛をもって仕え合う者として作られた、ということだと思います。
であるからこそ、私たちは、率直に自分に欠けのある者であることを認め、神に信頼して祈り、また、他者に助けを求めて生きる者でありたいと思います。    (チャプレン 相原太郎)


クローバーの冠

【マルコによる福音書10:42-45】
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

✝ ✝ ✝

 弟子たちは「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とイエスにお願いしています。これは、イエスが天下を取ったら、自分たちがナンバー2、ナンバー3になりたい、ということです。弟子たちは、この時、イエスのそばにいることで、将来の身分が保証されるはずだ、というように考えていました。しかしイエスは、人間がいくら頑張っても、いくらイエスのそばにいたからと言っても、将来の身分保証にはならない、と語ります。むしろそれは、結局はただ自分のためにやっていることでしかない、と見抜いておられるわけです。
マルコによる福音書の最後の方を見ると、弟子たちの願望であった「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、もう一人を左に」という言葉が、全く意外な形で達成されたことがわかります。それはイエスが十字架に架けられた時のことです。イエスが、十字架によって処刑されたとき、イエスとは別に、二人の強盗が、「一人は右に、もう一人は左に」十字架につけられて、処刑されました。そして、イエスは横にいた死刑囚の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げて祝福します。
神の子であるイエスは、十字架によって処刑されます。それは、神ご自身が人間と同じように死ぬ、しかも最も残酷な形で処刑されるということです。そのようにして、神の子が私たち人間と同じ死の苦しみを経験し、最も悲惨な痛みと敗北、挫折、絶望を自ら担うことを通して、私たちに心底寄り添われる、ということを示されました。これこそが、イエスにとって栄光であり、それは、弟子たちが思い描いていた栄光とは、まったく次元の違う事柄でありました。

一般にキリストに連なる者とは、イエスに従うことこそ大事なことだと考えていると思います。しかし、今日の箇所から見えてくるのは、そのイエスに従うという時の態度、考え、思いが、どのようなものなのかが重要であるわけです。もし、イエスに従う理由が、この世的に成功したいとか、自分だけがよくなりたい、ということだとしたら、それは結局、イエスに従っていることにはならない、ということです。

そこでイエスが弟子たちに対して述べたのが、「皆に仕える者になりなさい」ということでした。イエスは、「自分に仕えなさい」「イエスに仕えなさい」とは言いませんでした。イエスは、「皆に仕える者になりなさい」と語るわけです。弟子たちは一生懸命イエスの方ばかり向いているように見えました。しかし、イエスを見ているようで、実は自分のことばかり見ていました。イエスは、そんな弟子たちに対して、皆に仕える者になりなさい、と言います。

この「仕える者になりなさい」とは、人に支配されなさい、ということではありません。イエスが言っている「仕える」とは、上下関係や力関係を前提とした一方的な関係ではありません。イエスの言う「仕える者」とは、互いに仕え合うことを通して実現するものです。上下関係、支配・被支配の関係から自由になって、お互いのことを大切にし合う関係になる、ということです。それは、当初の弟子のような上昇志向や権力志向から離れること、言い換えれば、この世的な報いを放棄する、捨てる、ということです。何か、自分にメリットがあるから、この人と関係を持っていようという、そんな関係性から離れよう、ということです。

私たちは、このような仕え合う関係を、身近な場で、そして、この世界のあらゆる場で、求めていきたいと思います。それは、支配する、支配されるという関係、損得勘定やメリットのあるなしで人と向き合うのではなく、愛によって互いに仕え合う関係へと変わっていくということです。仕える者になるとは、そのような世界の変革を求める、大きなヴィジョンでもあります。私たちがそのようなヴィジョンに向かって共に歩んでいければと思います。    (チャプレン 相原太郎)


クローバー畑

【創世記11章1~9節】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

✝ ✝ ✝

 バベルの塔は、高い塔を作ることそのものよりも、その目的が問題でした。その目的とは、彼らの言葉の中にある「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」というものでした。
この「有名になる」とは、単に有名人なる、といったようなことではありません。「有名になる」という言葉は、元々の表現では、自分の名前にこだわる、自分にこだわる、というような意味です。別の言い方をすれば、自分を中心にして生きること、自分の強さを土台にして生きる、というようなことです。自分を中心にして生きるどうなるでしょう。自分が世界の中心ですので、周りの人を見下すことにつながってしまいます。そして、神の存在を忘れてしまい、あたかも、自分が神であるかのようになってしまいます。そのことこそが、問題でありました。

その時、聖書によれば、神が、降っていって、バベルの塔の建設を見た、と書かれています。人々は、天に届くような高い塔を建てた、と思っていました。ところが、実際には、神は天からそれを見ることなどできません。塔を見るためには、降ってこなければなりませんでした。つまり、天に届かせよう、という人間の思い上がりは、全くの見当違いであるわけです。神は天に居座って、天まで届く人間を待っているのではありません。実際はその逆で、神が、私たちの間に降りてこられる、ということです。
そして、バベルの塔を見た神は、一つだった言葉をバラバラにして通じなくさせて、そのような企てが起きないようにしました。

このストーリーで興味深いのは、人間が、神になったかのように思い上がり、周りの人を見下して、自己中心的になると、言葉が通じなくなってしまう、ということです。
言葉が通じない、というのは、日本語や英語といった言語のことではないように思います。自分のことばかり考えると、相手の言うことが耳に入らなくなってしまう、ということではないかと思います。あるいは、相手の言葉を、自分に都合のいいように解釈してしまう、ということです。
したがって、ここでのポイントは、相手の語る言葉に率直に耳を傾けられるか、ということだと思います。自分のことしか考えず、他の人のことはどうでもいい、という想いから、解き放たれることです。それによって、相手と通じ合うことが可能になる、ということです。

イエスが示された愛も、自分が高みに立って、隣人に対して、自分の考え、自分の存在を押し付ける、ということではありませんでした。むしろその正反対でした。イエスは、徹底して自分中心の考えから離れ、高みではなく、むしろ自分を低くして、全身全霊で、他者の痛み、悲しみ、苦しみ、そして喜びに寄り添われました。とりわけ、当時の社会から排除され、差別され、抑圧を受けていた人たちと共にあろうとしました。
それは、全ての人が、本来、神に似せて作られた素晴らしい存在であり、神に愛されているのだ、という確信がイエスにあったからに他なりません。イエスの愛の生涯とは、バベルの塔の建設とは、全く反対の事柄であるわけです。

私たちは、「愛をもって仕えよ」という建学の精神の中で学んでいます。それは、ここでの学びが、あたかも自分のための高い塔を建設するかのように、自分のためだけにするものではない、ということです。むしろ、その反対に、神が私たちの間に降りてこられたように、自分を低くし、他者の痛みを知り、その声に耳を傾ける、ということです。
バベルの塔の物語が示しているように、自己中心的な生き方は、結局は、人との関係が消えていき、身の破滅を招きます。私たちは、そのような生き方から離れていくことによって、豊かな生き方がもたらされることを、イエスによって知らされています。私たちは、そのことに感謝しながら、愛をもって隣人に仕えてまいりたいと思います。   (チャプレン相原太郎)


アゲハチョウ

【旧約聖書 創世記3章1~19節】
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

✝ ✝ ✝

今日の創世記3章のお話しでは、女性が蛇の誘惑を受けて園の中央にある善悪の知識の木からとって食べ、女性から実を手渡された男性も食べます。すると2人の目は開けて裸であることが分かります。2人はいちじくの葉で腰を覆い、神さまが園の中を歩いて来る音が聞こえたので隠れます。そして、神さまから「取って食べるなと命じた木から」何故とって食べたのかと問われると、アダムは女性の所為にし、女性は蛇の所為にします。神さまは蛇、女性、アダムに罰を宣告し、手足を奪われ、地を這って生きるようになります。女性は罰として苦しんで出産し、「夫」に支配されて生きるようになります。アダムは「呪われた」土から食べ物を得ようと苦しんで生きるようになります。この宣告の後、神さまは2人に皮の衣を作って着せて、エデンの園から追放しました。これが、失楽園物語というお話しのあらすじです。これはどうしてそうなのかを説明している原因譚のお話です。

この物語を読む上での疑問が二つあります。一つは、創世記の2章で、神さまがそのの中央にある「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われていたのですが、今日の聖書の4節の「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」という蛇の言葉通り、二人は実をとって食べたのですが、死んでいませんね。では、神さまが嘘をついたのでしょうか?

そして、「善悪の知識の木」からとって食べた人間は、善悪の判断をするようになります。善悪の判断をすることは、社会生活をするためには必要なことです。どうして聖書は人間が善悪の判断をすることを肯定していないのでしょうか?

また、6節にあるとおり、「女が初めにだまされて罪を犯した」として、キリスト教会は女性が男性に従属すること、女性差別が神さまによって定められた秩序であると正当化してきた歴史があります。もちろん、聖書はそんなことを言ってはいないのですが、新約聖書のテモテへの手紙Ⅰの2:12-15では、女性が男性に従属することを正当化する根拠として、この失楽園物語が使われていますので、キリスト教会では、いまだに男尊女卑を正当化するために、使われる可能性がある箇所です。これはしっかりと反論しておかなければなりません。

この失楽園物語で~何がいけなかったのか?~を考える前に、まず頭に置きたいのは、古代地中海沿岸世界の民間伝承では、「禁断の木の実」のような禁止の命令は、物語の主人公がそれに背くように登場して、禁じられていることを破ることから物語が展開するという特徴を持っていることです。この視点から考えれば、失楽園物語の主人公は女性です。好奇心旺盛な、知識を探求する意欲に満ちた人物です。自分自身の判断で限界を越えることを試みる存在が失楽園物語ではまさに女性なのです。実はこれは人間の本質です。限界を超えることで人間は成熟し、文化を発展させる存在なのです。ですから、女性は人間もっている特質によって、限界を超えて、自らを成熟させます。さらに文化の継承者となる子孫に、生命を継承して行く生命の母である「エバ」という名前の通り、人間らしい第一歩を、女性が最初に踏み出すという物語です。

本当に、エバの行動は素敵ですよね。「善悪の知識の木」の実を見るといかにもおいしそうだったので、とって食べます。食べたらおいしかったので、一緒にいた男にも渡して分かち合っているのですからね。むしろ、直接神さまから「食べてはいけない」と命令を受けていたアダムの態度の方が、とても問題ですよね。本当にとって食べてはいけないと思っていたら、食べようとしているエバをまず止めるはずです。でも、隣にただ立っているだけで何もしていません。エバの隣で“ボ~”としているだけですよね。そして何も考えずに、手渡された木の実を食べてしまっています。

この失楽園物語で問題とされているのは、エバが最初に「取って食べるなと命じた木から」とって食べた行動なのではなく、その後の出来事での人間の応答が問われているのです。人間は間違える者です。ですから、「間違ったときに、どうするのか?」をわたしたちは考えるように促されているのです。

神さまからどこに居るのかとたずねられたとき、アダムは神さまに対して、自分の責任を引き受けずに、女性になすりつけて言い逃れをします。残念ながら、女性も同じように責任を蛇になすりつけて言い逃れをしてしまいます。

それまで、すべてをさらけだす、裸の状態であっても「恥ずかしがりはしなかった」、互いに隠すことのない交わりの状態にあった、二人でしたが、「善悪の知識の木」の実を取って食べた結果、互いにすべてをさらけだして交わることが出来なくなってしまっています。この信頼関係が壊れてしまったことが、本来の人間らしい生命が破壊された出来事であり、これこそが「死」に至る「罪」の行為であったのです。神さまが、善悪の知識の木からとって「食べると必ず死んでしまう。」と言われていたのは、生物としての生命ではなく、この交わりが壊れてしまい、信頼関係が死んでしまうことを指していたのです。

では、人間が善悪の判断をすることは、どうして積極的には肯定されないのでしょうか。それは、わたしたち人間のする判断は、どこまでも自分にとって「都合が良いか、悪いか」という判断でしかないからです。すべての人にとって何が良いことなのかという判断ではなく、一人一人のわたしにとって「都合が良いか、悪いか」という判断は、互いに利害関係はかみ合いません。それゆえわたしたちの世界は、愛し合い、分かち合い、支え合う世界ではなく、憎み合い、奪い合い、足を引っ張り合う世界に、いまだ止まっているのです。

この失楽園物語は、神さまによって、互いに愛し合い、分かちあい、仕え合うように、生命を与えられたにもかかわらず、愛し合えず、仕え会うことが出来ないわたしたちに対して、間違えたときには真摯に反省し、壊れた信頼関係を再び紡いで行くように励ましてくれていることをご一緒に憶えたいと思います。

また現在の男性中心の社会で、女性が蔑ろにされている、この世界の現状は、信頼関係が壊されて、自己中心的な生き方を続けている、わたしたちの反省の出来ない生き方の結果です。ですから、男女平等が実現するように、働いて行くことが、わたしたちが神さまからの「どこにいるのか?」という質問に答える歩みになるのだということも、ともに憶えたいと思います。神さまによって、交わりの中に送り出されているわたしたちの生命が、光り輝くようにキャンパス生活を送って参りましょう。 (チャプレン 後藤香織)


主の恵み

【旧約聖書 創世記2章18~25節】
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

✝ ✝ ✝

今日の聖書も、旧約聖書の創世記から選ばせていただきました。

創世記1章は、神さまがこの世界をとても素晴らしい世界として創造され、わたしたち人間を神さまの似姿に造られて、一人ひとりがかけがえのない存在であることを明らかにしてくださっていました。ところが、今日の2章18節は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と記されています。とても素晴らしい世界に造られたのに、良くないと言われています。その理由は、1章の天地創造の話しと、2章の人間を造られたお話しは直接には続いていないからなのですが、ここで聖書は人間が孤独な状態が、神さまの創造の目的に適っていない状態で、良くないことなのだと語るのです。

このお話しは、もともと村の共同体の中で、長老が結婚適齢期の若者を集めて、結婚について教えるために語り継がれて来た物語であったと考えられています。その証拠が、24節の「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」という言葉です。
人間はそもそも一人ぼっちで生きる存在ではないこと、誰かといっしょにに生きるように造られたことを、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と念を押しているのです。そしてさらに19節では、神さまが「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり」人の所に連れて来ますが、動物の中には「自分にあう助ける者は見つけることが出来なかった」と報告しています。現代のペットを擬人化し、家族同様に思う人を生み出しているペットブームの中では、非難されそうな記述ですが、動物の中には「ふさわしい助ける者」は見つけられなかったと、聖書は語るのです。

この2章の創造物語で、7節にあるように人間は土のちりで形造られ、その鼻に神さまから「命の息」を吹き込まれて「生きる者」となっています。「生きる者」であるのは、人間も海の魚や動物、空の鳥など、他の動物などと同じですが、他の生き物とは違って、特別に「命の息」が神さまにより直接吹き込まれて造られたこと、すなわち神さまに似る者として、神さまのかたちに造られたことが語られています。
そのように人間の尊厳について語られている箇所であるにもかかわらず、残念なことに、この2章の創造物語は、しばしば女性差別を肯定するように読まれてきた歴史があります。わたしたち柳城学院が、新たに柳城女子大学という形で、男女間の扱いの違いを無くして行こうと言う時代に、わざわざ女性に特化した教育を選び取っている理由は、まさに女性への不平等を解消して行くことがその理由に挙げられます。だからこそ、この創造物語がしっかりと男女平等を語っているということを、柳城生の皆さんには知っていてもらいたいと思います。
今日はしっかりと触れることは出来ませんが、例えば、2章18節の「彼に合う助ける者」という表現があります。この「助ける」が誤解され、なぜか女性が「男の補助者」として造られたのだと解釈されることが多くありました。しかし、この「助ける」は、ヘブル語では「エーゼル・ケネグドー」ですが、神さま自身が弱い人間を助けるために働いてくださるときに使われる単語です。「助ける者」は、その存在が無ければ欠けを生じてしまうほど、互いに必要な存在を意味しているのです。女性も、男性も互いに助ける者として尊重し合う、存在としてあることを今日の聖書の箇所は教えているのです。

さて、このお話しは結婚の準備のお話しだと申し上げましたが、24節では人間が親離れすることがまず語られます。成人した二人がともに「ふさわしい助ける者」同士、互いを大切にして、助け合い、愛し合って過ごしてゆく、人間の人生の歩みが豊かな出来事として記されています。未熟で、独りでは生きて行けないから、助ける者の存在が必要なのではありません。「自立」した二人が、互いに交わることで、お互いの違いを楽しんでいくことが、人生の醍醐味なのだと教えてくれているのです。
この後、人間が神さまとの約束を破って、「善悪の知識の木」の実をとって食べ、罪が入ってしまった時、二人の人間は、責任の擦りあいを始めてしまいます。それ以来人間の歴史は、お互いに愛し合い、支え合い、分かち合う歩みではなく、足を引っ張り、憎み合って争い、奪い合う歩みに終始することになります。家族の中でも、社会の中でも自己中心的な歩みをしているわたしたちは、せっかく神さまが、交わりの中に、わたしたちの生命を与えてくれたにもかかわらず、その交わりを喜べなくなっています。わたしたちの最大の悩みは人間関係です。良い形で人間関係を結べませんので、わたしたちは今日の聖書の呼びかけとは反対に「ひとりでいるほうが良い」のだと感じてしまうほどです。
にもかかわらず、「一人でいた方が楽だ」、「人と交わらずに、人間関係で悩まないことが幸せだ」と交わりを紡ぐことを諦めているわたしたちにとって、「人がひとりでいるのは良くない」という神さまの言葉は、どこか心惹かれる言葉です。神さまは、わたしたちが散々人との関係で傷つけられ続けていても、独りでないことがわたしたちが生命を与えられた目的なのだと力強く語りかけてくださるのです。人は、みんな違った存在です。でもその違いゆえに、わたしたちはお互いに助け合う機会が与えられるのです。わたしが一人では経験出来ないことが、互いに交わりの中で分かち合えるのです。さまざまにちがうわたしたちが、実際には互いに支え合い、分かちあい、愛し合うことが出来ずに傷つけ合うことが多かったとしても、誰かといっしょに歩むことの方が、一人で何ごともなく、過ごすことよりは「良い」のだと教えられているのです。

ですから、独りでいないで、交わるように生命を与えられていることを、積極的に受けとめて、傷つけ合うのでは無く、愛し合い、支え合い、分かち合う交わりを、この柳城での生活の中で紡いで行きたいと思います。  (チャプレン 後藤 香織)


折り紙チューリップ

【創世記12:1~9】
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
12:6 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
12:7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
12:9 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

✝ ✝ ✝

旧約聖書の創世記の中で、神はアブラハムという人物に対して、あなたは生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へと旅立て、と言います。このアブラハムという人は、後に信仰の父と言われるようになる重要な人物です。そんなアブラハムは、神の言葉に従って、故郷を離れ、まだ見ぬ世界を目指して旅立ちます。
当初、アブラハムは、カルデアのウル、というところに住んでいました。彼はそこから旅立ち、ユダヤ民族の基礎を築くことになります。アブラハムが、神の呼びかけに応えて、生まれ故郷を離れて旅立ったことから、ユダヤ・キリスト教歴史がスタートしたとも言えます。

先ほどの聖書の箇所を読みますと、神は、アブラハムに旅立て、と言っているのですが、しかし、どこに向かってかについては、はっきりと言わず、目的地は曖昧でありました。というのも、ここでは、目的地よりも旅立つこと、そのものが重要であったからです。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』
これが何を意味するかというと、慣れ親しんだ故郷から、あるいは、同じようなバックグラウンドを持って固まって生きる人たちの間から離れて、旅立て、ということでもあります。
この神の呼びかけに応えて歩むアブラハムの姿こそ、ユダヤ教、キリスト教のアイデンティティ、自己理解を示すものでもあると思います。そしてそれは、キリスト教主義の学校である柳城が、どのような学びの共同体なのかを、表すものでもあります。
それはつまり、私たちは、当然と感じて慣れ親しんでいる場所や人のつながり、すなわち、地縁や血縁、住み慣れた場所から離れ、神の示す地に向けて、共に旅をする者たちだ、ということです。
私たちは、家族や親戚からの視線、地域の目、社会の常識に、縛られながら生きています。そんな中で、私たちは、今日、あらゆることに対して、安定を求めがちです。そして、自分の人生を旅として歩むことに臆病になっています。しかし、人生とは、何かマニュアルに沿って、与えられた台本をなぞるようなものではないはずです。人生は、本来、旅でありましょう。今日の聖書の物語は、私たちをしばっている当たり前、秩序、安定、マニュアルから離れ、旅立つことを促しています。

私たちは、今、この柳城という、キリスト教会によって建てられた学校で過ごしています。それは、私たちが、神の呼びかけ、すなわち「わたしが示す地に行きなさい」という呼びかけに応え、共に旅をする者たち者たちとして、招かれている、ということを意味します。真理を求め、そして、愛をもって人々に仕えていくために、共に旅をする仲間として、今、ここに招かれている、ということです。柳城の一員として、本当に大切なことは何かを探し求め、常識に安住せず、共に旅をし続ける者たちでありたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


香るスイートアリッサム

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