*
カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【ルカによる福音書19章1-10節】
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 

ガリラヤから首都に向けて旅をしていたイエスの一行は、いよいよエルサレムに近づき、エリコという町に入ります。エルサレムに到着すると、宗教指導者たちとの激しい対立が予想されるという緊張した状況の中でのエリコ滞在です。このエリコは交通の要所で、経済的にみてもトップクラスの都市でした。そんな町で税金を集めるトップにいたのがザアカイでした。
当時イスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。その手先となって税金を取り立てるのが徴税人でした。税金の使い道の多くは福祉や医療などではなく、軍事費など帝国の維持のために使われており、人々の不満は大いにたまっていました。しかも徴税人は規定以上に取り立てて私服を肥やすのが常態化していました。外国の支配者のために働き、その立場を利用して不正な利益を得ていたということで、徴税人は嫌われ者でした。しかも、ザアカイはそのような徴税人の元締めでした。あのザアカイだけは許せないと人々に思われていたことでありましょう。
エリコの町にイエス一行がやってきました。イエスを取り囲むように人だかりができました。そこにやってきたのがザアカイでした。もちろん、人々はザアカイのことを知っていましたが、彼とは誰も目を合わせません。ザアカイも自分の立場がわかっていますので、誰とも目を合わせることがありません。彼には、顔と顔を合わせて話せる人、自分を見て受け入れてくれる人はいませんでした。そんなザアカイは、イエスが自分のような徴税人とも何の垣根もなく交わっていたと噂で聞き、そのイエスがどんな人かを見たいと思っていました。
ザアカイは、群衆に囲まれたイエスを見るため、大きな木に向かって走り出し、木によじ登ります。今でもそうだと思いますが、当時の社会において、大人が走り出して、木によじ登るというのは、まったく考えられない非常識な行為でした。それほどまでに、ザアカイは、自分がどう見られようとお構いなしに、イエスに会ってみたい、顔と顔を合わせて話をしてくれる人、自分を受け入れてくれる人に会いたいと思っていたわけです。
そんなザアカイを見たイエスは、木の下まで来ると、ザアカイにこう言います。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは影で悪口は叩かれることはあっても、自分を見て、面と向かって自分の名前を親しく呼んでくれる人などいませんでした。イエスが自分の名前を呼んでくれただけでも驚きだったと思います。しかも、あなたの家に泊りたい、泊まることになっている、と言ったのでした。
明日は、いよいよ、エルサレムに登るとても重要な日です。そんな大事な時にもかかわらず、よりによって徴税人の頭であるザアカイの家に泊まる、というイエスの発言に、エリコの人々はショックを受けたことでありましょう。裏切られたと思ったかもしれません。それでもイエスはあえてザアカイの家を選んだのでした。
ザアカイは、顔も見たくないと思われている自分を、「ザアカイ」という名前を持つ一人の人間として呼びかけ、その存在を認めてくださるイエス、エルサレムに向かう大切な前夜に親しい交わりをしてくださるイエスに驚き、そこに神の愛の働きを垣間見たのでした。その時、ザアカイの中に大きな変化が起きました。ザアカイは木から降りて、これまでの自分の拠り所であった財産を投げ出すのでした。

重要なポイントは、この物語の順番です。イエスは、ザアカイが財産を施すことにしたから、あるいは施すことが期待できたから、ザアカイの家に泊まることにしたのではありません。イエスは、初めからザアカイの家に泊まることになっていたのでした。ザアカイが何かするよりも前から、嫌われ者であったザアカイに親しく関わろうとしたというこの順番こそ、神の愛の働きが如何なるものかを明確に表しています。
神は、私達がなにかよいことをしたから、何か条件を達成したから、それを認めて恵みを注ぐ、というようなことはありません。そうではなく、神は私達が何をしようが何をしまいが、そもそも私達を認めている、神は初めから私たちのところに泊まることになっているわけです。

今、自分が誰からも受け入れてもらえないと感じている人、あるいは、この社会から差別され追いやられている人、また、あの日のザアカイのように、なんとかイエスを一目見たいと思っている私たちに、イエスは語りかけます。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
イエスが、そのように呼びかけてくださっていることを覚えたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


アオスジアゲハ

【フィリピの信徒への手紙 第3章8-9節】そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【ルカによる福音書 12章49‐52節】
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

イエスは、ガリラヤという辺境の地で宣教活動をしていました。ところが、その活動を通じて、首都であるエルサレムの宗教や政治の指導者と決定的に対立することになります。しかしながら、イエスは対立を避けようとはしませんでした。遠からず十字架によって自分が処刑されてしまうことを知りながらも、イエスは首都エルサレムに向かうことになります。今日の箇所は、その厳しい対立状況の中でのイエスの発言です。

イエスが生涯求め続けたのは平和でした。しかし、イエスが平和を願えば願うほど、当時のエルサレムの支配体制はイエスの活動を問題視します。なぜならば、イエスが宣べ伝える平和とは、誰にでも当たり障りのない平和ではなく、エルサレムの支配体制の矛盾を明らかにすることが含まれていたからです。支配者にとって、これは大変都合の悪いことでした。イエスが平和を宣べ伝えることで、社会にあった矛盾、対立、分裂が表面化していったわけです。その対立は、イエスが首都エルサレムに近づくほど鮮明になっていきました。そのことがイエスの「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためだ」という発言の意味と考えることができます。

今日の箇所でイエスは、家族の中の対立が避けられないとも発言しています。日本では、一般に神社仏閣などで家内安全を願います。このイエスの発言は、そうした願いを否定するかのように感じるかもしれません。もちろん家庭の平和を願うこと、それ自体は悪いことではありません。問題は、そのように家内安全を祈る時、その家庭の中にある矛盾や対立が隠されてしまわないか、ということです。
たとえば、家内安全という時、家庭内において男性による女性への支配を固定化してしまうことがあるかもしれません。子どもに対する暴力的な対応があるかもしれません。あるいは、家族以外の他の人たちの排除につながってしまうことがあるかもしません。イエスは、私達が何となしに平和や家内安全を願うことで社会の矛盾や支配の構造が覆い隠されてしまうことを、厳しく問うているように思います。

今日のイエスのメッセージは大変に厳しいものです。しかし、イエスは対立を暴露して終わり、ということではもちろんありません。ただ古い人間関係を壊すことが目的ではありません。イエスは、人の間に見え隠れしている対立を明らかにすることを通して、平穏無事に過ごそうとしてしまう私たちに気づきを与えます。そのようにして、分裂した関係を乗り越えた豊かな関係性、愛によって仕え合う関係性を私たちの間に回復しようとされるのでした。
私たちは、自分を中心にした生き方、この世の価値観に押し流された生き方をどうしてもしてしまいます。しかし、イエス・キリストに自分の生き方の軸を置き直すこと、イエスが示された神の国に信頼することによって、私たちは自由になり、本当の平和、豊かな人間関係を生きることができるはずです。私たちの社会に横たわる対立や矛盾が解消され、愛によって仕え合う関係へと変えられていくよう、祈り求めていきたいと思います。      (チャプレン 相原太郎)


ガザニア

 

【マルコによる福音書 12章41‐44節】
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿を訪れると、ある一人の貧しいやもめがやってきます。当時、夫と死別すると、妻は収入源を失い、様々な社会的な権利も無くなってしまいました。今以上に男性中心の社会の中で、大変に貧しく苦しい生活を強いられていました。
そんな貧しい一人の女性が、神殿を訪れます。そして、生活費の全てを、賽銭箱に入れたのでした。生活費をすべて投げ出したと聞くと、この女性はなんと無謀なことをしたのかと思われるかもしれません。しかし、この物語はこの貧しい女性と当時の宗教指導者たちとのコントラストで、考える必要があります。
イエスは、当時の宗教指導者、神殿で働く人たちを批判してこんなことを言っています。彼らは長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されることを喜んでいる。会堂や宴会の席ではなるべく一番の上座に座りたがろうとする。そして、見せかけの長い祈りをしている。
イエスはこのように述べて、当時の指導者たちが、さまざまな行為を人に見せびらかすためにやっているに過ぎず、それはすなわち、自分が少しでも今以上に優位な立場に立つためなのだ、と批判しています。祈りすらも、それを見せることで自分が高く評価され、安定した地位に居座るための手段になってしまっている、というわけです。
それに対して、賽銭箱に生活費全部を入れた女性の行動は全く正反対でした。生活費全部とは、人生の全て、あるいは生活丸ごと、という意味です。人生を全て差し出してしまったら、そして文字通り全財産を差し出してしまったら、女性に残るものはありません。それはすなわち、この女性が宗教指導者たちとは異なり、こうした行為を人に見せびらかすためでもなく、自分の安定のためでもなく、もっと大切なもの、つまり、神のため、そして他者のために行っているということです。
ところが、この女性の純粋な人々の気持ちを踏みにじるように、当時の宗教指導者たちは、こうした女性たち、貧しい人たちを、神から見放された者であるかのように扱い、さらには、例えば献金の一部を自分の懐に入れたりするなどしていました。
このような有様を見て、イエスは神殿に失望してそこを去り、神殿は遠からず崩壊すると話すことになります。

この物語をどのように受けとめますでしょうか。
こんなふうに思うかもしれません。すべてを投げ出すのは、確かに美しいことかもしれない。神のため、そして人のために、持っているものを全て差し出すことができれば、確かに、それは素晴らしことだろう。でも、そんなこと、私にはとてもできない。生活をしていかなければならないしと。
確かに、イエスの要求は、私たちにとって厳しく激しいものです。この世の常識に囚われ、日々の生活の安定を求めてしまう私たちには、なかなかそんなことはできません。生活の全てを投げ出すなど、不可能だと考えると思います。
ただ、この話のポイントは、この貧しい女性と宗教指導者たちとのコントラストで考える必要があります。
貧しい女性と宗教指導者の間では、献金に対する考え方が、全く異なっていました。貧しい女性は、献金を文字通り、神に返すため、神に用いてもらうために、自分の欲望を投げ出すようにして差し出しました。そこには私利私欲はありませんでした。
しかし、ここで批判されている宗教指導者たちは、宗教的な行為を人に見せびらかすために行っていました。つまりそれは紛れもなく自分ためでありました。神のため、他者のためか、それとも単に自分のためか、ここに大きな違いがあります。

例えば、災害が起きた時などに、どこかに寄付をしたり、あるいは自ら出向いて時間を割いてボランティアをしたりすることもあると思います。
こうしたことは、見せかけのため、自分が人からどう見られるかと自分の評価を高めるために行っているのではないはずです。本来的には、自分の時間、自分のお金、自分の身を削って奉仕する、ということのはずです。自分の時間が余っているから、自分のお金が余っているから、その余った部分、自分が痛まない部分だけで活動する、ということではないと思います。
人に関わる行為をする時に、自分が痛むか痛まないかということ、これが、自分だけのためなのか、それとも他者のためなのかを見定めるヒントになります。愛によって仕える、ということは、自分が痛まない範囲で、あるいは自分が余っている部分でする、というものではありません。ましてや、人に見せて自分の手柄にするために行うようなものではありません。
もちろん、全てを投げ出すことなど、なかなかできないかもしれません。しかし、人に何かをする、という時に、それが、単に自分のためではなく、自分がある程度痛むことがあっても、その人のためになれば、と行動したという経験はきっとどこかであると思います。
そして、そもそも私たちがそのように自らを投げ出そうとするよりも前に、まずイエス自身が、私たちのために全てを投げ出され、命そのものを私たちに与えられた、ということを覚えたいと思います。彼は持っているものの一部を切り取って、投げ出したのでもありませんし、ましてや自分のために行ったのでもありません。
キリスト教の神とは、イエスが十字架で示されたように、神自身が自ら痛み、私たちのために自らを差し出される愛の神です。
神自身が私たちのために身を投げ出されること、そのような愛が、私たちに降り注いでいるということ。そこにこそ、私たちが自分の利益のみを求めて生きることを超えて、お互いに愛によって生かし合うことができるという希望があります。

あの神殿の女性の行為に現れたように、すべてを投げ出し、痛みを持って私たちを愛されるのが神の姿です。そのような神に導かれて、私たちもまた、自分の利益を超えて他者に仕える者として歩んでまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


タイム・ロンギカウリス

【ローマの信徒への手紙 第14章7節】
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【マルコによる福音書 7章31-34】
それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 

イエスがガリラヤ湖という湖のほとりに来ると、そこに一人の耳の不自由な人が人々に連れられてきました。するとイエスは、その人を群衆の中から招き出されます。
当時、こうした人たちは、他者とのコミュニケーションについて困難があっただけではありませんでした。現代以上に人々から差別され、さらには宗教的な意味でも差別の対象となっていました。それはすなわち神からも見放された者とみなされたということです。彼は、人からも神からも自分は見捨てられた者だと感じさせられていたのでした。
イエスはそのことに強く心を痛めます。その時イエスは、「天を仰いで深く息をついた」のでした。「深く息をつく」とは、「うめく」という意味合いの言葉です。人の痛々しい姿を見たり辛い気持ちを聞いたりすると、自分まで胸が痛くなってくるという経験をしたことがあると思います。イエスも彼の痛みとうめきに深く共感されます。そしてイエス自身もうめくのでありました。
そしてイエスは、当時の社会においては常識を逸脱した行為でしたが、彼の耳と口に触れます。そして、「エッファタ」と言って、その人を癒やされるのでした。
「エッファタ」とは「開け」という意味です。それは、彼の耳と口が開くことですが、それは、単に彼の肉体に変化をもたらすということではありません。イエスは、彼の痛みに深く共感し、さらに社会の慣習を打ち破って彼の身体に直接触れることを通して彼を癒され、閉じられてしまっていた彼と人々との関係性、そして、神との関係性を回復されるのでありました。それこそが「開け」ということの重要な意味でありました。

人々との断絶からの回復という出来事は、彼のみに起きたことではありません。関係性の回復ですので、それは、彼の周りにいる人たち全てに起きた出来事でもあったはずです。彼のことを遠ざけていた人、あるいは、そもそも存在に気づくことすらなかった人にとって、彼との関係性の回復は大きな変化でありました。その意味では、イエスの「開け」という言葉は、彼一人が他者に開かれるというよりも、周りにいた人々こそが彼に対して開かれると考えるべきかもしれません。

そして今、この「開け」というイエスの言葉は、今日ここにいる、私たちへメッセージでもあります。
私たちはさまざまな形で気づかないうちに、社会的にマイナスのレッテルが貼られた人たちとの交わりを断絶し、あるいは一段低く見たりしてしまうことがあると思います。さらには、私たち自身もまた、この現代社会の中でさまざまな形で深く傷つけられ、自分の中に閉じこもるような状況に追いやられていることがあるかもしれません。
イエスは、そうした私たち一人一人の具体的な痛みを知り、そのうめきに耳を傾けられ、共にうめき、そして「開け」と願っておられます。私たちは、そのことを覚えながら、私たち自身もさまざまな場で新しい気づきが与えられ、開かれることを求めてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


チューリップ

【ヨハネによる福音書 17章9-11節】
彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

イエスが逮捕されて十字架で処刑される前、イエスの弟子たちは大きく動揺していました。自分たちの心の支え、リーダーであるイエスの逮捕の時が近づいていたからです。イエスが逮捕されたら、おそらく死刑になってしまうと弟子たちは理解していました。さらにイエスだけでなく自分たちも逮捕され、処刑されてしまうかもしれないと、大変な不安の中にありました。
動揺し、絶望し、うつむく弟子たちのためにイエスは祈ります。
彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。
ここで出てくる「わたしたち」とは、父なる神と御子イエスのことです。神とイエスは、極めて深く結びついています。イエスの願いと祈りは、その神との深い結びつきと同じように、弟子たちもまた神と一つに深く結ばれてほしいというものです。
この、イエスによる弟子たちへの祈りとは、今、この地上に生きる私たちへのイエスによる祈りでもあります。イエスは、私たち一人一人のために、神に祈ってくださっているということです。私たちが神さまと深く結ばれることを、他ならぬイエス自身が強く願っています。

では、どのようにして私たちは神と一つにされるのでしょう。
イエスは「一つにされる」イメージを、祈りの中でこう表現しています。
私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。
神はイエスを通してその愛の働きを、この地上に示されました。そのようにして示された神の愛というのは、実は、私たちの間で、私たちのそれぞれの日常生活において、私たちの思い、言葉、行いを通して、さまざまな形で実現されています。それは例えば、保育の現場の中で、保育者と子どもたちとの愛の交わりを通してです。そのようなこの地上の愛の働き、愛によって仕えるという働きにおいてこそ、私たちは神と一つにされていくのだということです。
しかも、私たちがそのようにして神と一つになるようにと、私たちよりもずっとずっと先に、イエスが祈ってくださっています。私たちが自ら祈るよりも先に、まず祈られているのだ、ということを覚えたいと思います。
イエスは、私たちのために祈ります。
彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

私たちが神によって守られ、神と深く結ばれるようにとイエスが祈っておられることを覚え、愛によって仕える者として歩んでまいりたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


春の中庭花壇

【コヘレトの言葉3:1-8】
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉


1号館南のサクラ

【コロサイの信徒への手紙 第3章12節‐14節】
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

今年度の年間聖句は、「愛は、すべてを完成させるきずな」です。

絆とは、どんな関係でしょうか。例えば、この人との関係は自分の将来に役立ちそう、だから大事にしておこう、みたいなことを考えることがあるとします。あるいは逆に、この人との関係は自分にメリットがなさそう、自分の立場にマイナスになりそう、だからこの際、自分に都合のいい人に取り替えてしまおうと考えるとします。これだと、その相手との関係は、あくまでも自分の利益、自分自身のためにあります。これでは、その関係は、「絆」とは、言えません。

「絆」とは、こういう考え方とは正反対です。たとえ自分にとって都合の悪いことがあったり、あるいは、自分の中の何かを変えざるをえなくなったとしても、その相手を機械の部品のようにではなく、取り替えることのできない人として、関わりを持つこと、言い換えれば、自分の生活を、自分の立場を、自分自身を賭けて、その人と関わること、それが、「絆」、ということだと思います。

そしてこのように、人間一人一人を、取り替えの効かない人、かけがえのない人として、自らの存在を賭けて関わること。こうした「絆」の関係こそ、キリスト教が大切にしている、愛ということでありましょう。

保育とは、子どもたちの命を守り、養うのが、その仕事の根底にあります。そしてそれは、何よりもまず自分自身をかけて関わるということが、その基礎にあるように思います。こんな話をすると、いやいやそんな、自分を賭けて関わるなんて、とても私にはできませんと思われるかもしれません。あるいはどこか遠くの、特別な話のように聞こえるかもしれません。

しかしそうではありません。自分自身を賭けて関わるとは、何よりもまず、目の前にいる具体的な一人一人の子ども、一人一人異なった名前を持ち、異なったパーソナリティを持つ子どもを、かけがえのないもの、取り替えの効かないものと理解して接する、ということです。

保育の現場では、この子がいるとちょっと面倒だなあと思ってしまうことがあるかもしれません。しかしそこで、その相手を切り捨てることなく関わりを持ち続けること、また、その相手をロボットのように自分の言いなりにさせるのではなく、自分と異なる一人の他者として向き合っていくこと、こうしたことこそ、自分自身を賭けて関わるということであり、それが、「絆」ということになっていくと思います。

親子の関係を考えてみると分かりやすいかもしれません。我が子を取り替えてしまおうと考える親は、まずいないと思います。そして、我が子のために自分の生活を賭ける、その賭けるというのは、瞬間的、一時的なものではなく、いわば生涯にわたるものになるわけですが、自分の生活を、自分の立場を、自分自身を賭けて関わるということは、そんなに遠くの話ではないと思います。

このような「絆」の関係を大切にしたいと思いますが、そこでぜひ覚えたいことがあります。それは、聖書が語っている神の姿です。聖書が語る神の姿は、まず神こそが、その全存在を賭けて私たちに関わっているということ、いわば、究極の「絆」の関係にある、ということです。主イエスは、自分の立場、自分の命がどうなろうとも、この世の誰からも見向きもされない人の味方になり、徹底して一人一人を大切にされました。そのように、神は世界のあらゆる人を、そして、ここにいる一人一人を、機械のパーツのように取り替えることなく、かけがえのない人として大切にされているということです。

そのような神からの愛を受けている私たちであるからこそ、私たちもまた、その存在を賭けて出会う人、一人一人を大切にする、愛する、そのような絆を求めていきたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)


1号館南のサクラ

このページの先頭へ