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カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【コリントの信徒への手紙二 12:9-10】
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

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私たちは、小学校の頃から数え切れないテストを受け、そのたびごとに点数がつけられ、それによって他の人と比べられ、評価される、ということを無数に繰り返してきました。そのようにして常によい点を取らなければならない、という構えが私たちには自然と身についているはずです。したがって、これができない、わからないと、自分の至らなさや弱さは、あまり口に出さないほうがいいと、思うようになっているところがあります。

先程お読みしましたパウロの手紙に「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と書かれています。一般的に考えれば、弱さは、誇るものではなく、隠しておきたい、出したくないことかもしれません。しかし、キリスト教を世界に広めたパウロは、彼自身、弱さを隠すことなく、大切にしました。というのも、キリスト教においては、強さよりも弱さの中にこそ神が働かれていると考えるからです。神様というと、たとえば金の冠をかぶった力強い王様のようなイメージあるかもしれません。しかし、キリスト教においては、そうではなく、荊の冠をかぶせられ、額から血を流し、手と足を釘で十字架に打ち付けられ、傷つけられたキリストこそ神の姿なのだ、と信じています。

私たちは、自分の弱さを出さず、人に頼ることもせず、自分の力で頑張らなければ、とついつい思いがちです。しかし、この柳城では、自分の弱さを隠さず、何か困ったことがあれば、周りの人たちに「助けて」と口に出してみてほしいと思います。そのようにしても、しっかりと受け止めてもらえる環境が、この柳城にはあると思います。

多くの皆さんは、いずれ保育や福祉の現場に行かれると思います。就職したら、職場では、そのように弱さを口に出すことは、軽々しくできなくなってしまうことも考えられます。しかし、弱さを出すことは、とても大事なことです。

たとえば、もし、幼稚園に通う子どもが、「苦しい」、「困った」、「助けて」と言えなかったらどうでしょう。子どもたちが、「苦しい」とその弱さや困難を正直に打ち明けてくれるからこそ、保育の環境は、子どもにとって居心地の良い、あるいは安全な場所へと変えることができます。もし、子どもたちが、そうした弱さを出すのは良くないことだと思ってしまったら、危険なことにもつながってしまいます。

ですので、そこで働く人たちは、弱さを出すお手本になってよいと思います。もちろん、単純に子どもたちにそれを言えばよい、ということではありませんが、自分自身が安心して周りの人に助けを求めることができる、という姿勢、態度でいられることはとても大切で、その雰囲気はきっと子どもたちにも伝わっていくと思います。

そこで、柳城においては、「困った」、「助けて」と言う練習をされることをおすすめしたいと思います。何か困ったことが起きたら、周りの人に、ちょっとだけ勇気を持って、「助けてほしい」と話していただきたいと思うのです。すると、もしかしたら、これまで皆さんが経験したことのないような優しさが、実は皆さんの周りに大きく広がっていることに、気がつくこともあるかもしれません。

パウロは、次のように書いています。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」自らの弱さを、ないかのように、隠すようにして過ごすのではなく、大切にしながら、この柳城での学び、働きを、続けてまいりたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


学食花壇

【マタイによる福音書 6:25-26】
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

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テレビCMを見ると、その性質上、概ね一つの似たようなことを思うようになっています。それは、この商品を買うことによって、あるいは、このサービスを選ぶことによって、あなたの生活は、このようにもっとよくなりますよ、ということです。裏を返せば、それがない今のあなたの暮らしは不便ですよ、あなたの人生は不十分ですよ、ということです。したがって、私たちは大量のコマーシャルを通じて、今の自分の暮らしは不十分だ、まだまだダメだと思い、至らない自分を埋めるために、その商品を買うことで、あるいはそのサービスを手にすることで、もっといい生活、もっといい人生が待っていると思うようになりがちです。そのようにして、私たちは多かれ少なかれ、今の自分の生活が、そして今の自分自身が、不十分だと考えてしまっていることがあると思います。

今日の聖書で、イエスは次のように言っています。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切」だと。

食べ物や着るものは、確かに生きるために必要ではあります。しかしながら私たちは、生きる上で必要なもの以上に、もっとよいもの、もっと快適なもの、もっと便利なものと、思うようになっているような気がします。そして、それを手にしている未来の自分が頭から離れず、今日ではなく明日のことばかりを考えて生きようとしてしいる傾向があります。

私たちは、何かを手に入れた将来の自分よりも、まずは今の自分をもっと大切にしたいと思うのです。これではだめだ、不十分だ、こんな自分ではだめだと否定してしまいたくなることがあるかもしれません。確かに、そう思うことが必要な場合もあるかもしれません。しかし、ここに生かされている自分自身を肯定することは、今の私たちに、とても重要なことのように思います。

イエスは言います。「空の鳥をよく見なさい」と。鳥は種も蒔かず、刈り入れもしません。しかし、神は必要なものを与え、鳥を養っておられると。本当に必要なものは備えられており、そして、他でもない自分という存在そのものが、神によってすでに与えられています。

「命は食べ物よりも大切」だとイエスは言います。何かで着飾っているあなた、何かを所有しているあなた、ではなく、あなた自身が大切なのだと、イエスは語りかけておられます。(チャプレン 相原 太郎)


ランタナ

【ローマの信徒への手紙 8:26】

8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

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【マタイによる福音書7:9-12】

7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

これまでの生活の中で、「自分がされたくないことは、他の人にもしてはだめ」、「自分が嫌だ、迷惑だ、と思うことは、他の人にもしないように」と、何度も言われてきたと思います。そのように言われてきた私たちは、普段の生活の中で、できるだけ人に迷惑がられないよう距離をとったり、余計なことを言わないようにしたりしがちです。ですので、私たちは、お互いの距離がとられていたり、余計な会話をしないで済ませられる場所に行ったりすると、便利だ、快適だ、と思うことがあると思います。

たとえば、コンビニです。コンビニで会話をすることはほとんどありません。コンビニの店員さんから名前で呼びかけられ、「最近どうしていますか?」「今日は何を買いに来たのですか?」などとパーソナルなことを聞かれたら、面倒だと思うようになっています。

コンビニ、ショッピングモール、ネット通販。現代の生活では、人間的な関係性を断ち切り、商品と直接つながることが、便利で快適だと感じるようになっているところがあります。そこでは、確かに、お互いに迷惑をかけることは回避できるかもしれません。

今日の聖書の中に、「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、人にしなさい」というイエスの言葉がありました。「人にしてもらいたくないこと、嫌だと思うことは、他の人にもしないように」ではなく、「人にしてもらいたいことを、人にしなさい」です。

「他の人にもしないように」は、今、説明しましたように、人と人とが離れる方向へと向かいがちです。一方、「人にしてもらいたいことを、人にしなさい」というイエスのメッセージは、人と人が積極的にかかわる方向を示しています。

これは、簡単なようで簡単ではありません。というのも、自分がしてほしいと思うことが、必ずしもその相手にとっては、してほしいと思うとは限らないからです。たとえば、電車の中でせっかく席を譲ろうとしたのに断られた、ということはよくあることです。

人にしてほしいことをしようとすると、かえって迷惑になってしまう、ということ。お互い人間ですので、そうしたことを完全に避けることはできません。人にしてほしいことをして、かえって、傷つくこともあるかもしれません。

しかし、心の底から自分自身が本当に求めていることが何なのかを徹底して追求し、そのようにして、隣人を大事にし、愛しぬかれたのが、他ならぬイエスでした。

そしてイエスは、今ここにいる私達に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と呼びかけておられます。

そこでです。まずは、柳城にいる間、本当に自分自身がしてほしいことは何かを見極めながら、同時に、これはひょっとしたら迷惑なのではないかと思うレベルを少し緩め、人にしてほしいことを他の人にも、ぜひ、してみていいただきたいと思います。逆に、何か人にしてもらった時には、そんな余計なことをしないで、と思ってしまう場合でもまず、自分がしてほしいことをしてくれた、大切に考えてくれた、と考えてみていただきたいと思います。そのようにして、お互いの違いを認め合いながら、思う存分、安心して、人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にする、という練習を、この柳城でしてみていただけたらと思います。

今日の聖書にこう書かれています。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるちがいない。」本当にその人が必要なものは、最終的には、神が間違いなく与えてくださいます。安心して、人にしてほしいことをしてみていただきたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


シロタエギク

【創世記12:1-2】

12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

今日は1年生が多く参加されていますが、短大生、大学生となって、どのように過ごされていますでしょうか。小学生、中学生、高校生までとは、随分と勝手が違うこともあるかと思います。最も大きく違うことの一つは、この先の将来が大きく開かれている、という点にあるのではないかと思います。

小学生であれば中学に行くこと、中学生だったら次は高校生になる、ということがあったと思います。大学では、もちろん就職ということがあるわけですが、しかし、それまでの学校選びとは比較にならないほど、広い選択肢があります。学校生活やバイトなどでも、高校のときはかなり違う広がりがあるのではないかと思います。

先ほど、読みました聖書で、神はアブラハムという人物に対して、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言います。そしてアブラハムは、神の言葉に従って、故郷を離れ、まだ見ぬ世界を目指して旅立ちます。

これだけ聞くと、アブラハムは神の命令に縛られて窮屈そうと思うかもしれません。しかしこの物語は、何かに束縛されることとは逆の方向を示しています。先ほどの箇所は次のように言い換えるができます。「あなたの地、あなたの親族、あなたの父の家から離れ、旅立て」。

神は、それまでの血縁や地縁から離れて旅立て、と語るわけです。アブラハムはこれに従って、住み慣れた土地から旅立ち、その後、信仰の父と言われるようになります。

私たちは、家族や親戚からの視線、地域の目、世間の当たり前、社会の常識に縛られながら生きています。今日の聖書の箇所は、そのような私たちを縛っている当たり前、秩序、常識から離れ、旅立つことを促しています。

そして大学での学びは、実は、この神の呼びかけに応えることに他ならないと思います。これまで当たり前だと思っていたことから離れてみる、社会の常識を疑ってみる、ということが大学では求められていますし、そういうことができる環境が用意されています。

高校までの生活の中で、皆さまは、多かれ少なかれ、この世界・社会に生きづらさ、矛盾を感じてこられたのではないかと思います。そんな私たちに、神は、今、よびかけています。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。皆さまの前は、あのアブラハムの旅立ちの時のように、目的地が何も見えない砂漠があるだけに見えるかもしれません。しかし、その先には、私たちが、今まで、思いもしなかった場所が広がっています。

神が示す地に向けて、これまでの当たり前、常識から離れて、ご一緒に旅をすることができればと願っています。(チャプレン 相原 太郎)


フレーベル流の模様折り紙

【コリントの信徒への手紙Ⅱ 12:14】

12:14 わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【マタイによる福音書22:37-40】

22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

「隣人を自分のように愛しなさい。」

いわゆる隣人愛です。隣人愛というと、自分を犠牲にして他の人のために働く、というように聞こえる人もいるかもしれません。自分のことは放っておいても、他の人のため、子どもたちのため、あるいは学生のために頑張る。素晴らしいことのように思えますが、少し注意が必要です。

「隣人を自分のように愛しなさい。」

「自分のように愛しなさい」です。隣人を自分よりも愛しなさい、ではありません。自分を愛するのと同じように、隣人を愛しなさい、と語られています。隣人を愛する、その前提に、自分を愛する、ということがあるわけです。

愛する、という言葉は、大切にするという言葉に置き換えることもできます。自分を大切にするように隣人を大切にする、ということです。

たとえば、幼稚園の先生たちが、子どもたちのことを大切だと思って、連日連夜、自分の身を削って、健康を損ないながら、次の日の準備をしているとしたら、どうでしょう。自分の身を削る、ということは、一見美しいことのようにも思えます。私自身もそういうところがありますが、そうしたことが自分自身の喜びであると感じることもあるかもしれません。しかし一方で、実は、自分を大切にしていない、ということにもなりかねません。自分を大切にする、というのは、考えてみますと、案外簡単なことではないかもしれません。

イエスは、隣人だけでなく、もちろん自分だけでもなく、隣人も、そして自分も大切にしなさい、と言っておられます。そしてそこには、神が、すべての人を愛しておられる、という大前提があります。神は、すべての人を大切にしておられる。それはもちろん、ここにいるお一人お一人もそこに含まれます。したがって、皆さまが、自分を大切にしない、どうでもよい、と思うことを、神は決してよしとされないわけです。

ですので、隣人を大切にする、その基礎として、ぜひ自分自身を、神から与えられた、かけがえのないものとして慈しんでいただきたい、と思うのです。

「隣人を自分のように愛しなさい。」

隣人も自分も大切にする、そのことを思いながら、今日も柳城での学び、働きの時を過ごしていただければと思います。(チャプレン 相原 太郎)


イトバハルシャギク

【出エジプト記 3:11-12】
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

この春、この異常事態の中で、大きな不安の中で過ごされてきたことと思います。いつになったら、学校が始まるのだろう、学校が始まっても実習は大丈夫だろうか、資格はちゃんと取れるのか、ちゃんと就職できるか。様々な不安を抱えながら、今日に至っていると思います。

そして、聖書の中にも、そのような、大きな不安を抱えながら前に進んだ人物が登場します。モーセ、という人です。聖書に出てくる超有名人物で、何度も映画化されていますので、ご存知の方もいるかもしれません。

モーセは、エジプトの王子でした。しかし、彼は、実は、もともとは奴隷の子でした。事情があって親に捨てられ、王家に拾われ、エジプトの王子として成長しました。その頃、エジプトでは、奴隷たちが、ピラミッドの建設現場などで働かされていました。

モーセは、ある時、自分が、あの奴隷たちと同じ民族の出身だ、ということを知ります。彼らがひどい扱いを受けていることに耐えられなくなって、王様の宮殿から逃げてしまいます。しばらく逃亡生活を送っていたのですが、そんなモーセに、神の声が聞こえてきました。

神は言います。「私は、エジプトの奴隷たちの苦しみ、痛みを知った。彼らをエジプトから救い出す。」そしてモーセに、「民をエジプトから導き出せ」と命じます。しかし、モーセは、いやいや、それは無理だろうと、自分にそんなことできるのかと、不安を神に訴えます。

すると神は、そのように、おじけづいているモーセに対して、こう語りかけます。

「わたしは、必ず、あなたとともにいる。」

これは、聖書全体のメッセージを一言で表現するような、力に満ちた言葉、いわばパワーワードです。神はいついかなる時でも、私達と共にいてくださる。不安の中にあったモーセは、この言葉を胸に、ついにエジプトの王に立ち向かい、奴隷であった民と共に、エジプトを脱出します。

さて、4月から、私はこの柳城のチャプレンを命じられたのですが、大学のチャプレンとして働くこと自体初めてですし、また、新型コロナの影響もあり、自分に、チャプレンという大切な働きが務まるだろうか、学生の皆さんときちんと関われるのだろうかと、様々な不安があります。そして、私以上に、皆さまは大きな不安の中で、この新学期をスタートさせているはずです。

そこで、今日、ぜひ覚えていただきたいのは、そうした不安の中にいる皆さまに、神は、あのパワーワード、3000年前、不安の中にあったモーセに、伝えた言葉と、同じ言葉、「わたしは必ずあなたとともにいる」と今日も呼びかけておられる、ということです。「わたしは必ずあなたとともにいる。」私が一緒だ、だから大丈夫と、神は、言ってくださっています。

これからの新学期、ときには落ち込んだり、挫折しかけたりすることがあるかもしれません。しかしながら、神は、そうした不安や悩みを、自分の事のよう思い、「わたしは必ずあなたとともにいる」と、言っておられることを、ぜひ覚えていただきたいと思います。

皆さまのこの1年の学生生活の中に、神がいつも、ともにおられることを、お祈りいたします。(チャプレン 相原太郎)

【マタイによる福音書2:16】
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

あけましておめでとうございます。皆さんはどんな思いで新年を迎えましたか。「1年の計は元旦にあり」ということわざもありますが、「きっと今年こそは」と実行計画を心に決めた人もいることでしょう。不言実行でスタートするのもいいかもしれません。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。(マタイ2:13)           

今日は「わたしの中のヘロデ」という題でお話したいと思います。

ヘロデは極悪非道のヘロデ大王として知られています。彼はローマ帝国がパレスティナを占領した当初はガリラヤ地方の知事でしたがBC37年ごろユダ、ガリラヤ、サマリヤ、ヨルダン川東側地域の王になりました。イエスさまがお生まれになった時は王でしたが、イエスさまがエジプトに逃避しておられた時に死んでいます。(BC4年)

星に導かれて東方の占星術の学者たちがエルサレムに到着し、まず最初に訪ねたのがヘロデ大王の宮殿でした。ユダヤ人の王としてお生まれた方は当然王宮にいると考えたからです。しかし、現実はそうではありませんでした。

ヘロデはメシアとしてイエスさまがユダヤ人の王が生まれたことを知りませんでしたので、早速、祭司長たちや律法学者たちを呼び寄せて詳しく調べさせ、それがベツレヘムの地であることを知り、学者たちを先に行かせ、生まれた場所がわかったら、自分も拝みに行くから、帰りに寄って状況を詳しく知らせるようにと学者たちに伝言します。しかし、学者たちはメシアである幼子を拝んだのち、夢でヘロデのところに寄るなとのお告げを受けたので、ヘロデのところには寄らず帰国してしまいました。

学者たちに騙されたことを知ったヘロデは、大いに怒って、その地方に生まれた2歳以下の男の子を虐殺するという恐ろしいことを断行したのです。

そのとき、主の天使が夢でヨセフに現れ、マリアとイエスさまを連れて、エジプトへ逃れるよう伝えました。イエスさまはヘロデの毒牙を逃れ、ヨセフとマリアに守られながらエジプトへと逃避行されたのです。

さて、2歳以下の男の子を虐殺するという恐ろしいことを断行したヘロデとは一体どんな人物だったのでしょうか。神経過敏で偏執狂的な人物でした。一人の幼子の誕生が、彼をここまで恐怖に落とし入れたのは、衰えつつあった権力支配の座を、ひょっとしたらこの幼子に奪われるのではないだろうかと危うんだからにほかなりません。自分の地位を何が何でも守ろうとする、みじめな自己保身の姿をさらけ出した行動でした。どうすることもできない自分の運命に対する、暴力による最後の悪あがきでした。彼の怒りは自分の思い通りにいかなかったことに対してでもありました。占星術の学者たちに裏切られたという苦々しい思い、自分は絶対であり、誰もが自分の言うことには当然聞き従うに決まっていると思い込んでいた奢り、思い上がりが、彼の怒りを爆発させ、奇行へと走らせたのです。

皮肉なことですが、ヘロデの絶望による言動は、イエスさまによる希望と自由をもたらす新しい時代を到来させました。イエスさまの到来は闇の力、罪の支配のもとにある悪の力が衰退していくことを指し示すものでした。

今日の社会の中におけるヘロデ、わたしの中のヘロデとは何でしょうか。

日本でも法の下に公然となされる死刑執行、妊娠中絶、安楽死、性的不品行、蔓延している汚職のなどの闇の業は、まさにヘロデの業です。これらの闇の業、ヘロデの業が勝利している、勝っているようにさえ見えることが多い現実の社会です。仕方がない、諦めるしかないとわたしの中のヘロデを肯定して、希望を捨てかけてはいないでしょうか。自分の我を通すために、大切な人を無視したり、軽蔑したりしていないでしょうか。ひょっとしたら、知らず知らずのうちに、人を窮地に陥れてはいないでしょうか。

あの残虐極まりないヘロデが、今、わたしの中で生きて働いていることに気づくことが重要です。そんなヘロデもまだほんの幼子に過ぎなかったイエスさまの光によって、その心が恐怖でいっぱいになったのです。イエスさまはわたしの中のヘロデに気づかせ、新しく立ち上がり、再出発する力をくださいます。

幼子イエスさまはわたしたちの周囲にいます。皆さんが実習に行ったり、職場として働く保育の場、幼稚園、子ども園、保育園などの幼児の中に幼子イエスさまはいらっしゃいます。わたしの中のヘロデに気づきを与えてくれる存在、それが幼児たちです。幼子から学ぶ姿勢を常に忘れずに進んで行ってください。(チャプレン大西 修)

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