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「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

「人間をとる漁師」とは罪人を招く人のことをあらわしています。この当時、律法学者らが決めたこと細かな規則(律法)を守ることが信仰の上で大切とされ、この律法を守れない人は罪人と呼ばれ蔑まれていたのです。

イエスは、それら弱い立場に置かれている民衆を束縛の痛みから解放するため、世に遣わされました。

ペテロ、アンデレ兄弟はすぐに網を捨てて従い、ヤコブ、ヨハネ兄弟も父やその雇い人を残しイエスに従って行きました。

彼らのこの純朴な姿は、現代の私たちに大切なヒントを与えてくれていると思います。彼らはイエスと初めて出会い、イエスを感じ、イエスのみを信じ頼る人生を選んだのです。

クリスチャンはイエス・キリストの愛の実践を目指して生きる人間です。それは常に進歩し続ける人間であることを意味します。人間の人格形成には、その芯となる基礎が重要です。クリスチャンはその基礎をイエスの生き様に置きます。イエスを知れば、自然に人生が死ぬまで前向きになります。

イエスは常に弱者の味方でした。だから今回私は、イエスに魅かれる人は日頃から自分の弱点を知っている「弱い人間」であることを知りました。「宗教などに頼る人は弱い人間だ」と思っている人がいますが、それは確かにその通りです。でも、弱いからこそ、イエスに頼って向上し続けるのです。それに、「宗教に頼らない人」よりは世間に流されずに自分自身を強く感じて生きて行けるような気もします。

宗教を持たない人であっても、イエスの人生を福音書から学ぶことによって、イエスそのものの息づかいを感じ取り、生きていく糧を得ることが出来るのではないでしょうか。

それはその人だけに見える、光り輝く喜ばしい強さ、つまり「真理」であると感じました。(Y)


花壇でランチ

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

イエスは彼らに、わたしと一緒に弱い立場の人を救おうと言われたのです。
イエスは人々を助け、弱い立場の人の味方になり、たった1人で真実に立ち向かわれた方でした。

・人生の目的=イエス・キリストの愛の実践
・わたしについて来なさい=わたし(イエス・キリスト)とともに歩みなさい
・人間をとる漁師にしよう=罪人/弱者を救う人にしよう

イエス・キリストの愛を感じながら、これからもキリスト教のことをもっと学んでいきたいです。(YK)


ハナアブ

【コヘレトの言葉11:9,12:1】
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。
12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。

柳城では毎年、その年の聖句(聖書のことば)を決めて、建学の精神「愛をもって仕えなさい」を一層具体化していく指標にしています。

今年は「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」という旧約聖書「コへレトの言葉」(11:9,12:1).からとりました。

コへレトとは招集する(ヘブル語のカーハール)者、集会で語る者、伝道する者(伝道者)の訳です。コへレトの言葉の著者はイスラエルの初代ダビデ王の息子のソロモン王(紀元前10世紀末)と言われ、コへレトがソロモンとされています。しかし実際にこれが書かれたのは紀元前2世紀末と言われています。

「コへレトの言葉」は人生の虚無と無常を強調する点では、聖書の中でも異色な存在とされています。「コへレトの言葉」の中には「空しい」という言葉がたくさん出てきます。普通「空しい」という言葉から受ける印象は「意味がない、無意味だ、空虚だ」と言ったものですが、「コへレトの言葉」では「若さも青春も空しい」(11:10)いうとき、「若さも青春も過ぎ去りやすい、移ろいやすい、あてにならない」と言った意味合いが深いと思われます。それではどうすればいいのでしょうか。

今朝も通勤してくる途中、たくさんの新中学生、新高校生、新大学生を見ました。

みんな、とても新鮮で、明るく、生き生きとした表情で歩いていて、その姿を見て心が躍るような気持ちになりました。

わたしが中高大学生になった50 年以上前の4月、一体どんな気持ちだったのかなーと振り返ってみました。不安と期待と緊張にドキドキしながら入学したばかりの日々を送っていたように思います。

若さを謳歌し、青春時代を楽しく過ごすこと、こんな素晴らしいことはありません。それには良き友に出会うこと、良き友を見つけることが大切です。一人でいては若さを謳歌し、青春時代を楽しく過ごすことはできません。

皆さんはあまり慣れていないかもしれませんが、じっくり考え、話し合って行動することは良き友を得て、長く付き合っていくために重要なことです。

人々との関わりを通して、人間としての豊かさとは何かを考えていくことに学ぶことの大切な一面があるからです。そのために、信頼できる友だち、話し合える友だちが必要です。「友達は話を聞いてくれる、友達は優しくしてくれる、生き詰まった時、相談に乗ってくれる。友だちは対等だからよい。時には嫌なことも言ってくれる。腐っているときに励ましてくれる。友だちは信頼できるライバルだ。友だちは宝だ。わたしも誰かの友だちになろう。」(山野上素充「ヤマさんのひとこと」)

私も誰かの友だちになることは、想像以上に大きな学びを与えてもらえる機会となります。

わたしは高校大学時代から付き合っている親友がいます。彼は現在、パーキンソン病のため、言動の面で不自由な生活を余儀なくされていますが、お連れ合いの献身的な介護によって、何とか自宅でベッド生活を送っています。長野市に住んでいますが年に1~2回お見舞いに行っています。その彼が「ホジキンリンパ腫」を発症し、とても苦しんでいた大学2年の時、彼の下宿で幾晩も一緒に過ごし、彼の心の痛みを共有した経験は彼との関係を深いものにしました。1月にお見舞いした時、「俺が死んだ時は、大西に弔辞を読んでもらう」と言って、微笑んでいました。

「人間は考える葦である」(パスカル)、「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)など、有名な哲学者の言葉がありますが、人間は他者との関わりの中で、考える存在として、他の動物とは一線を画したものとして造られているということです。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」とは、少し難しく言えば、「あなたは何者なのか」「あなたはなぜ生きているのか」「あなたが今、生きている意味は何か」このようなことを考えるのが、青春の日々にはとても大切だと言われているのです。

中高生時代は知的能力(知識)が第1とされ、教えられたことを記憶することが中心だったかもしれません。それも大切ですが、学問は問うことを学び、問うことによって学ぶことです。「なぜ?どうして?」と問う姿勢が大切であり、今後そのような姿勢を授業などを通して養い育てていってほしいと思います。

言葉を大切さにすること。言葉は人を生かしもするし、殺しもします。「人間の口から出る言葉というものは、心から出るものです。この心から出ることを忘れて言葉を語るのは、ナンセンスです。貧しい心からは貧しい言葉しか出てきません。豊かな言葉は豊かな心から出てきます。実に簡単明快なこの一事をわたしたちは忘れていたような気がします。」(三浦綾子「藍色の便箋」)

「おそらく、これから死ぬまでの間に、私はまだまだ多くの人の言葉に励まされ、教えられて生きていくに違いない。私を強めてくれるこれらの言葉は、私にとって何ものにも代えがたい宝なのだ。」(同上 「忘れえぬ言葉」)

真心をもって人と向き合い、話す相手があなたの言葉によってやる気を起こし、あなた自身もよかったなーと感じられる、そんな言葉を使うようにしたいものです。(チャプレン 大西 修)


学生ラウンジにて

 

【マルコ11:17】
「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」

今回のテーマは「イエスの宮清め」と言われている有名な記事です。私はお話を聞くうち、その当時の人々の心や姿がイメージできて強い臨場感を持ちました。そしてイエスの真の愛について学ぶことができました。

神聖であるはずの当時のエルサレム神殿は、商人と祭司長、律法学者のための商業システムが成り立つ偽りの神殿でした。

いけにえの動物は無傷かどうかが事前に調べられ、「不合格」ならば商人が用意した動物を購入する必要があるとか、献金専用の貨幣への両替を強制され、その手数料も取られるなどといった見事な金儲けのシステム・・・。もちろん、商人が儲かれば、その「元締め」である祭司長らの懐も潤うということです。

参拝者は不満を抱えていたでしょうが、エルサレム神殿の絶対権力には手も足も出せません。

そんな状況でイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」と宣言して商人たちを蹴散らしたのです。表向きは「宮清め」ですが、実際は「宗教権力者への警告」と呼んでもいいほどの衝撃的な出来事で、イエスの十字架への道がこれによって確定したと言ってもいいでしょう。

一方、商人らが混乱する様を見ていた群衆はきっと大喜びだったでしょう。イエスの「祈りの家」宣言に心打たれた群衆はイエスをますます慕うようになります。それがかえって宗教権力者らの嫉妬心をさらに強めることになりました。

イエス・キリストは「愛の人」であるとよく言われます。私もクリスチャンになる前には、そのように大きな優しさに溢れるイエス像を感じていたものです。

しかし福音書を学ぶごとに真のイエスが見えてきました。

もちろん、最高の愛の人であることに変わりはありませんが、その愛の内容がもっと深いのです。

今回、私は「警告」が愛の一つの表現であると学びました。愛があるから、イエスは祭司長や律法学者の偽りの行いに対して無視することができなかった…。彼らに悔い改めのチャンスさえ、お与えになったのです。マザー・テレサが言うように「愛の反対は無関心」だからです。優しさばかりを強調して、それがかえって人の成長を妨げる場合があります。「甘やかし」がその典型ですが、人の成長に無関心という意味では愛とは言えないと思います。

人が普通は避けたがる「怒り」ですが、その中には真の愛が含まれることがあります。それは悪を戒め浄める力です。私はそのイエスの御心を心から尊敬し仰ぎます。

次回も福音書を通して、イメージを膨らませながらイエスの道を学んでいきます。(Y)


カラスの営巣

【感想】

イエスは人々に優しく、人々のために生きていた人物ですが、ただ優しいだけではなく優しさの中に厳しさがあったのだと思います。

神殿から商人を追い出す場面では、イエスの怒りは感じられますが、怒りの中に商人に対する「愛」があったのです。

イエスの優しさというのは、時には厳しく人々に接するということ。

それは柳城の先生や、実習園の先生にも言えることだと思います。私に厳しく言われる時もあるけど、それはきっと私に対して愛を持って言われているのだと、この聖書の学びで感じることができました。(YK)


柳城短大の桜

本年2019年に創立121周年を迎える本学は、「愛をもって仕えよ」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)の聖句を建学の精神として掲げ、事あるごとにこの聖句に立ち返って歩んできました。私たちが一番恐れることは、この聖句を知ってはいても、その精神が時の経過とともに形骸化してきているのではないかという点です。

「愛をもって仕え」るとは、具体的に何をどのようにすることなのでしょうか。

1895(明治28)年、マーガレット・ヤング初代校長が40歳で勇躍、海を越えてカナダから日本に来られた背景には、この聖句があったに違いありません。キリストに愛されている一人の人間として、その愛を人々に伝えたい、とりわけ、日本の女性たち、幼子たちに伝えたいという熱い信仰が、彼女を具体的な行動へと駆り立てたのです。

本来、仕えるとは、神を愛し、神に仕えること、神を大切にし、大事にすることです。神に造られたこの世の人々を愛し、大切にし、大事にすること、人々に仕えるとは神を愛することに他ならないのです。

現在、柳城での日々を過ごすわたしたちが、愛をもって仕えるために何が出来るのでしょうか。誰にでも出来ることがあります。

 第一は笑顔(スマイル)をいつも絶やさないこと。笑顔は人々の心に安らぎを与えます。

以前お話ししましたが、わたしが今は無き付属御器所幼稚園児の時に教えてもらった英語の朝の挨拶の歌“Such Happy Day”は今でも覚えています。

Such a happy day,  lalala  such a happy day,  lalala  I smile you.  You smile me.

such a happy day.  good morning.  good morning.

先生方、実習生が笑顔で一緒に歌っていた姿が今も瞼に焼き付いています。

笑顔で「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」の挨拶を交わすことは、誰にでも出来ます。水曜礼拝の中での「平和のあいさつ」も大切にしていきたいと思います。心から笑顔で挨拶するときに、周囲が変わっていきます。教職員・学生間は勿論のこと、学内に来られる方々に笑顔で挨拶してください。構内をいつもお掃除してくださっている方々に「ご苦労様です」と笑顔で挨拶してください。数年前のNHKの朝ドラ「花子とアン」(ミッションスクールの東洋英和女学校がモデル)で、「ごきげんよう、さようなら」の挨拶がいつも交わされていたことに心和ませるものがありました。

第二は感謝の思いを言葉を態度で表すこと。なかなか素直に「ありがとう」と言えないわたしたちですが、「ありがとうございます」「ありがとう」と言うことです。そのひと言が出会う人を大事にし、大切にすること、愛することになります。ほんのちょっとしたことにも、感謝の意を表すことは相手への細やかな思いやりを感じさせますし、挨拶された人が一番嬉しい思いを持つのではないでしょうか。

 第三は人が避けたい、関わりたくない、嫌だなと思うことを進んですること。出来れば喜んでそのことをすることが、愛をもって仕える本当の生き方ではないかと思います。

神社仏閣がいつもきれいに掃除されていて、ゴミひとつないことには心打たれます。天理市にある天理教本殿は玄関で履物を脱ぎ、素足で神殿に入ります。廊下の床などはピカピカに磨かれており、トイレ(手洗い)も素足のままで使用します。信者によって驚くほどきれいに清掃されており、床を手で触れても全く汚れません。誰もが嫌がり、避けることを率先して行うことは、他の人を大事にし、大切にし、愛することにほかなりません。母親・父親は幼子のおむつを替えることを厭いません。幼子が大事であり、幼子を愛しているからです。校内をきれいにすること、ゴミなどが落ちていたら率先して拾うこと、トイレなどをきれいに使うこと、汚れていたら避けて通るのではなく、次に使う人のことを考えて、きれいにしておくことは、嫌なことかもしれませんが、愛をもって仕える一番簡単で大切なことです。次に使う人の笑顔を思い描きながら・・・・。

121 周年を迎える柳城が、建学の精神「愛をもって仕えよ」を、一丸となって日々の生活の中で実現していけますよう、共に励んでまいりましょう。

2019.4.3(1年生礼拝での教話~オリエンテーションの中で。2017.12  チャペルニュース原稿 巻頭言より転載)

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今回の礼拝オリエンテーションでは、「解説しながら礼拝を進める」という方式にチャレンジしてみました。キリスト教の礼拝を生まれて初めて経験する、ほとんどの新入生の皆さんにとっては優しいやり方だったと思います。大西チャプレンも楽しそうでした!(^^)!

2019年度の通常礼拝が始まります。
主の導きにより静寂な祈りの時が持てるよう、切に願いたいと思います。

さて、今回のテーマは今年度の年間聖句についてです。
「青年時代を楽しく過ごせ!」
「言われなくても、毎日やってますよ!」と皆さんにささやかれそうなテーマですが…(笑)

まあ、せっかくですので、この機会に聖書をじっくり読んで、その意味するところを考えてみてはどうでしょうか。この思考の訓練が、人生にきっと役立ちますよ(^o^)/

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●テーマ:「青年時代を楽しく過ごせ!」
●聖書箇所:【コヘレトの言葉11:9,12:1】
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。
12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。

●説教:大西チャプレン
●日時:4月9日(火)
3限:保育科1年ABクラス、保育科2年CDクラス、教職員
4限:保育科1年CDクラス、保育科2年ABクラス、保育専攻科1,2年、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・4/16(火)説教者:大西チャプレン
・4/23(火)説教者:下原司祭(名古屋聖マタイ教会)
・5/7(火)礼拝&観劇会(同窓会企画)

入学式 2019

カテゴリー:入学式

2019年度入学式の模様をお届けします。
(式全体の流れは昨年度と同じですので、こちらをご覧ください。

●学長式辞

・ご入学おめでとうございます。

・保育科新入生のみなさん、入学おめでとうございます。保育専攻科に進学された皆さん、進学おめでとうございます。今日は、保育専攻科2年生、保育科2年生も全員参加、私たち教職員ほか関係者一同、学校挙げて新入生の皆さんを歓迎いたします。ちょうど庭の花壇にも春の花が咲きそろい、皆さんを歓迎・祝福しています。

・ある本の中で、5歳の子どものこんな質問が目に留まりました。「人間は何のために生きているの?」 なかなかむずかしい質問です。すぐには答えられません。答えは、人間は他の動物と違って、誰でも自分自身で目的や目標を持つことができる。そしてその目的や目標を達成しようと生きることで、生きる意味が生まれてくるというのです。皆さんもこの柳城でその答えを見つけていくことになります。一人ひとりがオンリーワンの人生に向かって、一歩一歩、意味のある自分自身の人生のドラマを作っていってください。

・名古屋柳城短期大学は1898年、カナダ聖公会の宣教師マーガレット・ヤング先生によって創設されました。本当に小さな保姆養成所からスタートしました。ヤング先生は、ドイツのフレーベルという教育者を尊敬しておられ、キンダーガルテン、「子どもの園」という意味ですが、子どものパラダイスであり、天国の園で遊ぶ子どもたちとともに大人も一緒に学び成長すると考えておられました。そして、新約聖書の「ガラテヤの信徒への手紙」から「愛によってたがいに仕えなさい」(By Love Serve)ということばを建学の精神とされました。

・赤ちゃんから幼児の時期が、人間としての基本的な性格が形成される、人間にとって最も大切な時期です。みなさんは日々成長している子どもたちの最も大切な時期に保育者としてかかわることになります。現在、4年制大学併設に向けて魅力的なキャンパスづくりを進めています。私たち名古屋柳城短期大学の教職員一同は皆さんの夢の実現を応援します。夢と希望をもって楽しい柳城生活を始めてください。

●理事長祝辞

ご入学おめでとうございます。

柳城での学びが始まります。短大は忙しいには違いありませんが、それがまさに人生勉強となりますので、一日一日をどうか大切にしてください。今年121年目を迎える本学院も一日一日の小さな結果を積み重ねてここまで歩んできました。その歴史を皆さんが受け継ぐことになります。創設者ヤング先生の厚い思いと信仰が今もここには流れています。『愛をもって仕えなさい』という建学の精神のひとつの表現として、小さな存在かもしれない子どもたちの命を大切にすることが挙げられます。そういった精神を学ぶためにも、どうか大学礼拝に出席してください。

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●前奏と司式者団入場

●聖書  ガラテヤの信徒への手紙 第5章1、13~14節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

●新入生認証(保育科、専攻科保育専攻)

●歓迎のことば/誓いのことば

●平和の挨拶

 

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貴重な2年間です。
柳城短大にいる間でしか体験できないことを最優先にして、子ども達のために、高いものを求めて成長していって欲しいですね(^^♪ (加藤)

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカによる福音書10:41-42)

柳城キャンパスニュースでもご覧いただけます】

―3.11東日本大震災を覚えての祈りをともにして―

 

東京にある立教大学に日帰りで行ってきました 名付けて「立教CV」(*^^)v

CVとは、campus visitの略で、文字通り立教大学の中を見学してきました。これは、今後立教大学の学生と交流していきたいというはじめの一歩なのです!!!

今回、立教大学に行ったメンバーは、名古屋柳城短期大学専攻科保育専攻の新2年生3名と、この春新たに専攻科に入学する新1年生1名、引率教職員2名の合わせて6名です。

なぜ、私たちが立教大学に行ったのかというと・・・

名古屋柳城短期大学と立教大学はなんとっ 同じ日本聖公会に連なる学校だったのです!!

(出発前、名古屋駅でパチリッ

 

どんなところなのか、どんな出会いがあるのか、ドキドキとワクワクで胸がいっぱいです(*’▽’)

立教大学に到着し、お昼ご飯を食べて、礼拝に参加しました。この日は、奇しくも8年前、東北に大きな爪痕を残した東日本大震災の起こった日でした。礼拝では「東日本大震災 8周年記念の祈り―同じ時 想いを一つに 皆で祈りをー」を、すべての逝去者、困難のうちにある方々を覚えて祈りました。私は、被災地に行ったことがありませんし、所縁があるわけでもありません。大学でのボランティア活動で被災地に毎月お茶菓子を送っていますが、正直なところ気持ちが徐々に薄れていっていたのは事実で・・・。しかし、8年がたった今でも行方がわからない方、つらい生活を強いられている方、悲しみの癒えない方が多くいます。チャプレンの勧話を通して、また、東京といういつもと違う場所にいること、そして何より礼拝の中で心に余裕をもてたことで、いかに自分が未熟だったのか改めて考えるきっかけになりました。実際に被災地に行くことで、ニュースを通してでは見えないものが見えてくるのではないか、そこから微力ながらも支えになれたらと思いました。

(立教大学池袋キャンパスの立教学院諸聖徒礼拝堂にて)

わたしたちの名古屋柳城短期大学と教会を介してつながりをもつこの立教大学を訪問して、さまざまなことを考えるきっかけを神様が下さったのは、何か意味があるからなのではないかと思います。そこで私は、いつか立教大学の学生と名古屋柳城短期大学の学生とが被災地の方々と交流できたらないいなぁと密かに想いをはせています(。-`ω-).。o○

(立教学院諸聖徒礼拝堂での祈りのあとで)

礼拝では、祈りのほかに、柳城の礼拝にはないものがありました。

それは・・・パイプオルガンとハンドベルの生演奏です♪♪ 素敵な音色で癒し効果は抜群です 柳城でも・・・なんてこちらもまた夢が広がります💖

 

それでは、またいい報告ができますよう、神様のお導きがありますように・・・☆彡

(保育専攻 市川満理奈)

(立教学院諸聖徒礼拝堂のオルガン)

 

※  ※  ※

 

この日の立教大学チャペルでの礼拝では、次の聖句が朗読されました。

【マルコによる福音書10:46-52】
一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイと言う盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を読んでいった。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言った。イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

目の見えない人に丁寧に「何をしてほしいのか」と尋ねるイエスの姿勢に、自分がよいと思ったことを一方的に行うのではなく相手がしてほしいことを丁寧に行おうとするということが大事だ、という支援の一番大切なあり方を改めて学ぶことができました。

(村田)

 

(立教学院諸聖徒礼拝堂の聖書台)

【ヨハネによる福音書4章14節】
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」 

昨年のクリスマスに皆さんにお渡しした「ちゃぺるにゅーす」の巻頭言に、「オアシスの原点」というタイトルで、短いメッセージを載せましたが、読んでくださいましたか?

「オアシス」とは広大な砂漠の中に水が湧き出て、樹木が生えている緑地のことです。転じて「慰めと安らぎを与えるところ」という意味にもなります。

創設者マーガレット・ヤング先生は、柳城がオアシスとして名古屋の地でその役割を果たすことを、切望しておられたに違いありません。ここでいう柳城とは地理的な場所や建物を言うのではなく、柳城の働きに関わるすべての人々、幼子はもとより、教師、保育者、職員、学生とその親たち、卒業生、そして教会の信者さんたちなどを指します。

旧約聖書の詩編23編の中で、イスラエルの偉大な王であったダビデは「主は羊飼い、・・・主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と歌っています。

柳城は今年創立121周年を迎えますが、現在オアシスとしての役割を果たしているでしょうか。羊飼いである神さまに導かれ、その呼びかけに答え、その愛に育まれた信仰を携えてカナダからはるばる来日されたヤング先生は、神さまが与えてくださる愛の水(命の水)が湧き、緑豊かな木々の息吹きが、多くの人々に清らかで暖かな心を与えるような柳城の成長を願い、30余年間を名古屋の柳城で全身全霊を注いで働かれました。

一昨年末亡くなられたノートルダム清心学院理事長の渡辺和子シスターは、オアシスの頭文字をとって次のように言っています。「オ」は「おはようございます」の「オ」、「ア」は「ありがとうございます」の「ア」、「シ」は「失礼します」の「シ」、「ス」は「すみません」の「ス」です。「おはようございます」、「ありがとうございます」、「失礼します」、「すみません」は、この砂漠のような時代に、人が人として生きていく上で基本的な挨拶の言葉です。

柳城がオアシスとしてその役割を担っていくためには、「おはようございます」、「ありがとうございます」、「失礼します」、「すみません」が、誰の口からもごく自然に出てくるような、そんな心があふれていることが大切です。そのためには、まず皆さんがそれぞれの家庭の中で、このオアシスの言葉が日々交わされるように、皆さんから率先して始めてみてください。そして柳城の中でも改めて今日から始めましょう。皆さんが笑顔をもって、明日のオープン・キャンパスに訪れる人々に、そして4月2日の入学式の日に新入生に進んで声を懸けましょう。それを何か照れくさいと思ったり、仰々しいと思う人がいたとしたら、多分その人は日ごろからオアシスを習慣にしていないのではないでしょうか。今年も幼稚園、保育園、こども園、児童養護施設、養護老人ホーム、障碍(がい)者支援施設などに実習に行きます。その時、忘れず率先してオアシスを使ってみてください。勿論、一年後、卒業し社会人として働くことになるどのような職場にあっても同じです。オアシスは目上、目下の区別なく、誰に対しても大切なものだからです。

慰め、安らぎ、憩いを与えるオアシスとして、わたしたち(柳城)が人々と関わる時、そこに一人一人を大切にし、生かしてくださるイエス・キリストの愛が、目に見える形で「愛をもって仕える」具体的な姿として実現しているのです。

イエス・キリストがおられるところがオアシスです。クリスマスのお話では、社会の片隅で貧しく、卑しい人間として蔑まれていた羊飼いたち、そして異邦人でありながら、遠路はるばる救い主を訪ねてやって来た占星術の学者たち、その人たちにとって辿り着いたイエスさまがお生まれになったベツレヘムの家畜小屋こそオアシスでした。

クリスマスの出来事は、わたしたちは勿論のこと、全世界中の人々にオアシスの素晴らしさを告げ知らせます。オアシスの原点こそ、神さまであり、その神さまがわたしたちにお送りくださったイエスさまなのです。わたしたちに慰めと安らぎと憩いを与えてくださるイエスさまは、悲しむ人、多くの悩みを持っている人、貧しい人、愛に飢え渇いている人、心と体に病を負っている人のオアシスとして、この世界に来られたのです。

昨日、マリナーズのイチロー選手が28年間にわたるプロ野球選手への引退表明をしました。連続10年間、200本安打、最終安打数4,367本という大記録はたぶん誰も抜くことはできないだろうと言われています。彼がインタビューに答えた言葉は素晴らしいものでした。「何の後悔もありません。ほかの人と比べることはできませんが、自分として精一杯頑張ってやってきましたから。」

わたしたちもこの1年間、オアシスの働きの一端を担う者として、人と比べるのではなく、自分として精一杯努力して、与えられた道を進んでいきましょう。 (チャプレン 主教 大西 修)


チューリップ

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