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クリスマスツリー点灯式の記念企画を2年前から行ってきましたが、今年はテゼの楽曲を用いた「黙想と祈りの集い  ~テゼの歌とともに」にチャレンジしました。保育科2年の学生さん4名による有志企画です。

きっかけは八事聖霊修道院の「賛美の集い」にセンタースタッフ1人が2年程前からプライベートで参加していたことでした。この清くて静寂な集いを柳城でも実現させたいという気持ちが高ぶり、ずっとアイディアを温めてきたのです。それで、今年のXmasミニコンサートが残念にも開催不可能になったことが逆にチャンスとなり、本企画を実現させようとの動きに繋がったというわけです。

幸いにも本学で洗礼/堅信の恵みに預かった学生さんの協力が得られ、話が一気に現実味を帯びてきました。これが今年の7月頃のことです。この学生さんにとっては洗礼を受けたことへの証にもなるということで、彼女は積極的に仲間を募ってくれました。そして10/3に4名からなる準備チームが結成され、特設LINEも立ち上がったのでした。

有志4名は総指揮&BGM、独唱、伴奏、朗読の4パートに分かれ、個人がそれぞれの練習に入りました。なお、シナリオはセンタースタッフが担当しました。全体リハーサルを4回行い12/7の本番に備えました。その間、キャンドル作りやBGMの選曲、チャペルの雰囲気作りなど細々とした作業も続きましたが、伴奏楽器の選択に一番苦労しました。チャペルのオルガンでは音が大き過ぎたからです。結局、キーボードに頼ることにしました。テゼの集いでは、ギターを使うのが一般的ですが、今回は聖霊修道院に準じました。まあ、人間の声がメインですので、伴奏は手軽な方が企画としては長続きしそうですね。

今回は日本聖公会中部教区の名古屋聖マタイ教会と教区センターのご協力も得られました。特に教区センターのスタッフの方には集いのお手伝いと宣伝をしていただきました。感謝です。

なお、開催当日、八事聖霊修道院から8名のシスターさんにご出席いただいたおかげで、集いが一層清らかなものになりました。終了後に設けたティーパーティーにも参加していただき、準備チームリーダーの手作りアップルパイも飛び出して、何だかすべてが満たされた感じがしました。

さて、今回の集いのテーマは「イエス・キリスト降誕の意味」です。キーワードは「わたしの息子なら敬ってくれるだろう(マルコ12:6)」。「ぶどう園と農夫のたとえ」(マルコによる福音書12:1-9)を用いて、神が私たちの成長に期待をかけてくださっていることが強調されました。信徒/未信徒の区別なく、イエス・キリストを人として見つめ、その教えのヒューマニズム的要素を学ぶことがどれほど重要か。有志学生メンバーは全員、主から与えられた力を十二分に発揮して、このメッセージを見事に参加者へ届けてくれました。

闇の中に美しく輝くキャンドルと清らかに響くテゼの歌。この雰囲気の中で流れる黙想と祈りの時間は、それを繰り返すことで人を人格的に整えてくれるはずです。柳城短大の重要イベントに成長するよう願ってやみません。主に栄光 (加藤)

★「その2 スタッフさんの感想」はこちら

「ぶどう園と農夫」のたとえ(マルコによる福音書12:1-9)

12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

今年はトートバック。「By Love Serve St.Mary’s College, Nagoya」の文字がちょっぴりおしゃれです。布地がしっかりしているので色々と使えそうですね。愛知県セルプセンターさんのご協力により、今回もスムーズに準備できました。

これを製作してくださったのは豊田市障がい者総合支援センター「けやきワークス」さんです。ここは少数の注文に強いらしくて、本学からの540という注文数に最初は不安を感じたということです。「でも何とかなると思って企画書をセルプさんに送ったんですよお~」と明るく話してくださいました。働く他の方々もそうでしたが、ここは明るさで満ち溢れている感じがしました。施設自体も広々として日光が差し込み、利用者さんの描いた絵画もすこぶる色彩豊か。

さて、布地に文字を入れる作業を私の訪問に合わせて実演してくだったのは、実際に今回の注文に対応された方でした。その嬉しい配慮と、小型のプレス機で一枚一枚丁寧に仕上げるその根気の良さは、この施設の底力を表しています。

最後に。あるスタッフの方の娘さんがウチの附属豊田幼稚園の園児さんだと分かり、けやきワークスさんがより一層好きになりました(笑) (加藤)

今年もカラフルに仕上がりました!

クリスマスシーズンにチューリップ? 全くのミスマッチですみません。でも本学の方針ですので、どうかお許しください。

今年採用されたその「この一年の写真」は中庭花壇の風景でした。保育科の大学にふさわしいシンプルで美しい姿が多くの学生さんの心をとらえたようです。

詳しくはカードに載せられた以下のコメントをお読みください。(加藤)

写真は、本学の園芸サークル・マーガレットが管理している花壇です。日本園芸協会主催の第20回JGS全国ガーデニングコンテスト2017で特別賞(地域振興賞)をいただきました。学生さんから「柳城の顔だね」と評価されるくらいにキレイでしたよ。生き物が「顔」だなんて、「保育/介護の柳城」らしいなあと思いました。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった(マタイ6:29)」。イエス・キリストの言葉が心にしみます。

2017年も残り10日余りとなりました。神に生かされている私たちですが、誰にも平等に1日86,400秒が与えられていて、それが淡々と毎日刻まれていくわけです。その流れの中で何を習慣化するか。人生の目的を見つけた人は幸せだと思います。今年最後の礼拝で、心静かに自分自身を見つめてみてはどうでしょうか。心よりお待ちしています。

●説教のテーマ:「年末年始に思うこと」
●説教者:大西 修 チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書2:13-15
2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

●日時:12月27日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・1/10(水)合同礼拝(チャペル)13:10~ 説教:大西チャプレン

カンタベリー大聖堂の大時計

シェア15:『あなたにとってイエスとは』
(マルコ8:29)「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」

【マルコによる福音書8:27-30】
◆ペトロ、信仰を言い表す
8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

シェア15回となったバイブルタイムでは、イエスの「問いかけ」が何度も十字架とともに浮かび上がる機会となりました。

いよいよ弟子たちに、これから御身に起こるべき苦難を話されたイエスですが、「救い主(メシア)」というイエスの使命は、民衆たちには、日々の暮らしを向上させてくれる「王」という認識でしかなかったことを、今日の福音書は暗示しています。

イエスと民衆のメシア観のその相違に、精神世界ブームに理想を求め、様々に「あやかる場所」を徘徊し終えることのない現代人の姿が垣間見えるようです。

イエスはメシア観の相違が大きいことを承知で神のご計画を話されました。

「誰にも話さないように」(マルコ8:31)と弟子たちに言われたその時、彼がどのような思いであったのか推測はできますが、福音書には答えはありません。

バイブルタイムでは様々な方向からのシェアが自由に行われます。それぞれのメシア観があり、イエスの思いを体感したいとイメージを膨らませます✴。

『イエス・キリスト』すなわち『救い主・イエス』―。 この信仰告白こそ、十字架にひとり向かわれたイエスの生き様を模範とし愛する喜びです。また、この『イエス・キリスト』という告白こそが人生の終着点です。

その安心感と平和な心とがバイブルタイムの目標でもあります。

シェア14『明快な主張』
(マルコ8:15)「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。」

【マルコによる福音書3:1-6】
◆ファリサイ派の人々とヘロデのパン種
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

イエス・キリストは「愛」の師。一般的にはそのように言われていますね。

しかしシェアを重ねる毎にイエスの師としての真理への姿、厳しさが浮き彫りとなってきました。

シェア14回では、イエスの問いかけの真理を理解できず、忘れたパンをめぐり論じあう弟子たちの不甲斐なさに、イエスの師としての教えが鋭く矢のように弟子たちに指し示す姿を学びました。

パンの「無い」ことで議論しあう弟子たちの姿は、イエスの伝えたかった真理に対して、あまりに理解の差があり過ぎました。イエスの師としての歯がゆさはいかばかりか。

「まだ悟らないのか。」

イエスは、そう何度も弟子たちに告げています。

ずっとイエスと共に歩んできた弟子たち。彼らはいつまでも「物」が無いことを見、惑っている。しかしイエスは、その「源」の在りかたを見、語っている。その違いに、人間の限界が浮き彫りになります。

イエスの言葉は、「バサリ」と音がするように真理であるのです。和を尊ぶ日本人には馴染むことが簡単ではないかもしれません。しかし、弟子たちの変化を願い、愛をもって真理を語るイエスの姿は、まさに真実の「師」のそれです。

イエスを模範とし生きることが喜びであると感じるとき、バイブルタイムでは一歩一歩その道を歩んでいることに気がつくことができます。

【ルカによる福音書1:26-38】
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

初期ルネッサンス期に、イタリア人の有名な画家フラ・アンジェリコ(天使のような修道士の意味、本名はグイ―ド・ディ・ピエトロ1395-1455~ドミニコ会の修道士)が描いた代表作「受胎告知」を知っている人は多いと思います。現在はこの絵はフィレンツェのサン・マルコ美術館(修道院)にあります。

この絵は今読んでいただいてルカによる福音書1:26-38が素材になっています。天使ガブリエルがガリラヤ地方の町ナザレのマリアのもとに、神から遣わされ、次のように告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」

天使ガブリエルは口元に微笑みをたたえ、祝福に満ちた優しいまなざしでマリアを見つめて素晴らしいメッセージを伝えています。そしてマリアは胸に両手を交差させて、厳粛な面持ちでメッセージを受け入れているように描かれ、またその両手は胎内に宿る命を優しく守っているようにも見受けられます。

そのほかにも「受胎告知」の絵画は、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されているレオナルド・ダ・ビンチとアンドレ・デル・ヴェロッキオによるものなどが有名です。(大塚国際美術館にその陶板画があります。)

美術作品としての「受胎告知」はとても美しく、優雅な情景として描かれていますが、聖書の告げる「受胎告知」は、思いも寄らないほど厳しく、想像をはるかに絶する苦しみと過酷な現実をわたしたちに提示しています。なぜならば、まだ結婚もしていない十代の一人の乙女のところに、天使が現れ、「あなたに赤ちゃんが生まれます」と告げたのです。しかも「恵まれた方、おめでとう」とまで言うのです。マリアが驚かないわけがありません。寝耳に水、何がおめでとうですか。ふざけないでくださいと言ってもいいくらいな、当時(2000年前)ではとても考えられない、まず生きていけないほどのスキャンダラスな出来事だったのです。マリアの小さな胸は張り裂けんばかりであったでしょう。ですから「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と天使に答えているのです。

マリアが神の子を身ごもることは、彼女の意志ではなく、神の御計画であり、神があなたをお選びになったのだと天使は告げます。マリアは小さな田舎町の一女性であり、地位も身分も財産も、学歴もなく、また人間として特別に秀でていたわけではありませんでしたが、不可能を可能にする神を信じ、その神に自分自身を委ね、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えました。マリアのどこまでも謙遜で従順な姿が、イエスをこの世に送り出す器とされたのです。神がイエスを人間としてこの世にお遣わしになり、マリアは神であるイエスの母として生きる光栄を与えられたのです。クリスマスは、神が一人の乙女マリアを通して、人間の世界に直接関わってこられた出来事であり、この出来事をわたしたちは「おめでとう」という挨拶で受け入れます。

わたしには到底信じられないようなことを信じる決断をする時、そこに不思議な出来事、すなわち奇跡が起こります。マリアが世界中の人々から親愛の情をもって現在も崇敬されているのは、彼女が一人の人間として思い悩み、迷いつつも、最終的には神にすべてを委ねる生き方を信仰によって決断したからに違いありません。

クリスマスはまさに奇跡です。わたしたちには到底信じられないようなことが起こったからです。このイエス誕生の出来事を信じるとき、わたしたちは「主が共におられる」大きな喜びを、間違いなく体験できるのです。(チャプレン大西 修 主教)

ラベンダー

可愛い天使たちが今年も柳城短大を訪れてくれましたよ。

附属柳城幼稚園の年長さんたちと和やかなひと時が持てました。主に感謝です。トーンチャイムの演奏とクリスマスソングのお歌が元気いっぱいチャペルに響き渡ります。

舞台に立ちながらも、お母さんの目の前で満面の笑みを見せる園児さんがとても印象的でした。クリスマスの思い出がこの子たちの胸に一生生き続けるよう、主にお願いしたいです。

 

 

 

 

 

 

●お話「クリスマスの備え」~愛あるところに神います~
【マタイによる福音書25:34-40】
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

今週からクリスマスの準備に入りました。そこにある4本のローソクは日曜日ごとに1本ずつ点灯されていきます。クリスマスは私たちを嬉しい気持ちにさせてくれますね。

さて、よく知られた話に『靴屋のマルチン』というのがあります。幼稚園児もよく知っているこの物語は、愛のあるところに神様もおられることを伝えようとしています。その幸せを伝えるために神様はイエス様を地上に送って下さいました。

「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と今日の聖書には書かれています。私たちが人をそのように愛する時、それを神様はよくご存知です。ただ、それがごく自然な気持ちからではなくて、何か打算的に働く時、神様は本当にはお喜びにはなりません。

私たちが知る知らないに関わらず、神様はいつも働いて下さいます。イエス様をこの世に送って下さったのもその表れです。神様の愛で満たされたクリスマスを喜んで迎え入れ、周りの人々にもその喜びをおすそ分けしたいものです。(チャプレン大西 修 主教)

倉敷の大原美術館にあるエル・グレコの絵画『受胎告知』は薄暗い部屋に飾られていました。この美術館を立ち上げた大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880-1943)は、ヤング宣教師がちょうど柳城を創設した頃、東京で放蕩三昧を繰り返しています。でも謹慎中に回心し、さらに25歳の時にはクリスチャンとなり、数々の社会貢献に身を投じて行くのです。
今年もクリスマスを迎える時期(アドベント 降臨節)に入りました。新しい自分になりたい、何かに挑戦したいという気持ちに私たちをさせる時期でもありますね。

●説教のテーマ:「受胎告知」
●説教者:大西 修 チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書1:26-38
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

●日時:12月13日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・12/20(水) クリスマス礼拝(体育館)16:30~
・12/27(水)合同礼拝(チャペル)13:10~ 説教:大西チャプレン
・1/10(水)合同礼拝(チャペル)13:10~ 説教:大西チャプレン

Xmasツリーの点灯式は、今年も静かに行われました。

最近のスマホは実に写真の出来がよくて、私の様な素人でもこんな感じに撮れてしまいます。もちろん、肉眼でこんなふうには決して見えません。

ネット上で写真が飛び交う時代です。メラビアンの法則は誤解されて流布されているそうですが、それでも、視覚に訴える情報には確かに説得力があります。

イエス・キリストは偽善を嫌いました。見た目よりも心を大切にされた方です。

クリスマスのこの時期、彼の誕生を祝うとともに、彼のお人柄を心静かに思い起こす日々を過ごしたいものです。(加藤)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。【マタイによる福音書23:27-28】

記念企画の方もご覧ください

 

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