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今回は、本学教員の山脇眞弓先生にお話ししていただきます。
先生のプロフィールについてはこちらをご覧ください。
イエス・キリストは、律法でがんじがらめに縛られていた当時の民衆を憐れんで、人の心を解放してくださいました。その福音の営みは現在まで続いています。今回のお話が、ひょっとすると、その解放に役立つかもしれません。ご期待ください。

●奨励のテーマ:「人の心と心理学」
●内容:人の心って不思議で面白いですね。心に関係するお話を皆さんと共に考えてみたいと思います。
●奨励者:山脇 眞弓 先生

●日付:7月19日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○予告
・7/26(水) 合同礼拝(体育館) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
説教:田中 誠 司祭(名古屋聖マタイ教会) 礼拝後に奉仕活動(学生生活委員会企画)
・8/2(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員


このミニヒマワリの商品名は「ビッグスマイル」です。

販売会社のウェブを見ると…
「基本的に1本立ちで、側花のつかない頂花のみの1輪咲きです。」
「鑑賞期間は10~15日程度です。ただし、移植時の断根により側枝が3~5本出て開花することがあり、この場合は鑑賞期間が長くなります。」

ということで、柳城のビッグスマイルは、苗を植え付けた際の断根が原因で、写真の通り、花が1株に5個以上もついたようです。

おかげで花を長く楽しめたことは確かですが、葉の老化が意外に早いので、株全体を美しく鑑賞できる期間はせいぜい2週間といったところでしょうか。

To be continued.(加藤)

 

【マタイによる福音書 19:16-22】
 19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

「若い」とはどんなことをいうのでしょうか。これを青春と言い換えてもいいかもしれません。皆さんは自分自身で、あるいは友人同士で「若いということ」「青春とは何だろう」ということについて考えたり、話し合ったりしたことがありますか。

もちろん、一言で若いとは、青春とはこんなことだ、というには、あまりにも複雑で難しいことです。けれども若い時、青春の特徴を2つ3つ挙げることができます。そのことについて考えてみたいと思います。

第一は「焦燥感」です。いらいらした気分、自分自身に対するいらだたしさ、そしてこの社会、自分の住んでいる世界、生きている世界に対する不満、怒りなどがそれです。すべてのことに対して何か物足りなさを感じ、何とかならないのか、あるいはまた、何とかしなければ・・・という気分を抱いています。

「わが青春に悔いなし」という言葉がありますが、悔いのない青春は多分ないと思います。過ぎ去った青春を振り返ってそのように言えたとしても、現に今、青春真っ只中にいる人には、その言葉は当てはまらないでしょう。あらゆる点において青年から大人へと移り行く時期、この時期は言い換えれば、汗と怒りと不眠と不安の時期、苦しい戦いの時期ともいえるかもしれません。青春時代は腹の立つことも多い時です。親の言うことが癪に障り、友人の態度が気にいらず、またこの世界に向かって、言いようのない怒りをぶちまけてみたくなるそんな時ではないでしょうか。何か漠然とした、言いようのない憤りを覚える時でもあります。このようなエネルギーは考え方によれば、消極的で、非建設的、非生産的なもののように思われますが、必ずしもそうとは言えません。確かに、ある明確な対象に向かって発散されるエネルギーは、積極的、建設的で生産的なものに違いありません。

しかし、言葉では到底言い表せない部分、わたしたちの心の奥深くに潜んでいる焦燥感、あるいは欲求不満といったものを、どのように自分の中で蓄え、生産的なエネルギーにしていくか、この点に青春の生き方の重要さがあります。

第二は「挫折」です。青春には挫折がつきものです。挫折することは若さの一つの表れと言ってもいいでしょう。

二十歳になる一人の男性がいました。彼の前途は洋々としており、たくさんの可能性に満ちていました。洋服屋の前を通ると、自分も将来あんな最新流行のスーツを着ることができるのだと思い、本屋の前を通ると、よーし、あらゆる本を読破してやるぞと考え、きれいな女性を見ては、今にあんな女性と結婚するぞと憧れる、そんなバラ色の日々でした。

そして、五年経ち彼は苦労してやっと就職しましたが、低賃金のため安い吊るしのスーツしか着ることができず、大学卒業後は漫画以外の本は読まず、せいぜい通勤電車の中で週刊誌を読む程度、家に帰ればテレビを見て寝てしまうという疲れた毎日でした。恋愛から結婚へという甘い夢は無残にも消え、今までの女性観(女性を見る目)があまりにも理想的過ぎたことに気付きました。

これはほんの一例ですが、現実の青春とは大なり小なりこのようなものではないかと思います。わたしたちの人生は挫折の連続です。けれどもその挫折の一つ一つにどのように対処し、戦い、耐え、それを生かしていくか、そこに青春の道が開けていくか否かの分岐点があるように思います。

なぜ、このようなことを話してきたかと言いますと、最初に読まれた聖書の箇所がそのことを教えているからです。ここに登場する青年はイエス様のところへ来て質問しました。「先生、永遠の生命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と。彼は礼儀正しい優秀な青年で、真剣にどうしたら本当に幸せになれるかを尋ねました。永遠の命を得るという、とても真面目な、宗教的、倫理的な質問でした。イエス様はモーセの十戒・隣人愛の教えを守るようにとおっしゃいました。それに対して「それらはすべて守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」と、青年は聞き返しています。彼にはすべての教えを守ってきたという自負の念はありましたが、まだどこか満たされない気持ちがあったのではないかと思われます。青年の熱心さの中に、確かなものをつかみ取りたいという焦燥感を見ることができます。

イエス様の次の言葉によって、この青年の志は無残にも打ち砕かれ、挫折してしまったのです。「もし完全になりたいのなら,行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

イエス様の言葉はいつもわたしたちの予想しない思いがけない方向からやってきます。この青年は所有していた財産が、彼にとってあまりにも大きな前提になっていたので、そのことに気づかず生活していたのです。イエス様はこの青年に観念上の問題としてではなく、一番身近な物質の問題を投げかけ、彼が気づいていない点をつかれました。自分の身に何の痛みも危機も感じない愛の行為はないのです。青年は見事にここで挫折しました。多くの場合、予想していないときに挫折という事態が起こります。ですから事態が意外であればあるほど、挫折の傷跡は深いのです。この青年が悲しみながら立ち去った姿を想像することはさほど困難なことではありません。そして、この挫折が彼にとって実に貴重な体験であったということができます。今まで何の問題もなく上昇志向でいた人間が、ここで初めてつまずき倒れるという経験をしたのです。この挫折こそ、青年が真の人間になるために、どうしても必要な条件でした。おおよそ傷つくこともなく、痛みを感じたことのない人間はまだ子どもであり、青年とは言えません。この青年にとって、イエス様の言葉による挫折を契機として、一段と飛躍するエネルギーを燃え立たせることが彼の青春なのです。

彼はイエス様と出会うことによってつまずき、倒れ、突き放されてしまいました。けれども、イエス様に引きつけられた青年が、逆にイエス様によって突き放され、去って行くということは、表面的な、またその時点だけでのことです。イエス様による拒否とこの青年の挫折という出来事の中に、青年の新たな立ち直りが暗示されており、またイエス様によって受け入れられることが約束されています。そのことは「そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」という受け入れを約束する言葉が示しています。

さて、「若さ」の特徴を「焦燥感」と「挫折」というマイナスのイメージで語ってきましたが、積極的な面を挙げるならば、「自立」、自分で立つということにあると思います。

「自立」、「独立」こそ青年の積極的な面です。そしてそれは多くの場合、精神的な自立、独立を意味します。

現代の青年の多くはこの精神的な自立、独立という点でやや遅れているのではないかと思います。精神の植民地化ということが言われています。例えばそれは、親との関係に見られます。大学の入学試験、入学式、卒業式、そして就職などが親がかりでなされていないでしょうか。それだけでなく青年の精神が全く親の支配下にあるという事実に、皆さんは何とも感じませんか。親の言いなりなる子どもが一概に良い子どもとは言えません。勿論、親に反抗する子どもがいい子どもであると言っているのではありません。

イエス様の青年に対する応答の中に、おのずからこの青年の精神的な自立を促そうとする意図が働いていたのではないでしょうか。

わたしたちも自分自身をこの青年の立場において、イエス様の言葉をもう一度聞き直してみましょう。(チャプレン 大西 修 主教)

夏の花壇
6/14と比較

物理学者アインシュタインの最後の言葉は、付き添った看護師がドイツ語を理解できなかったために永久に失われたとのこと。イエス・キリストのそれは幸いにも「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」として二千年たった今でも福音書に残されています。その一つが今回の礼拝で取り上げられます。愛に満ちたその深い言葉に耳を傾けてみましょう。ご参加、心よりお待ちしています。

●説教のテーマ:人生最後の言葉
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書 23:32-35
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

●日付:7月12日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○予告
・7/19(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
礼拝奨励:山脇先生
・7/26(水)合同礼拝(体育館) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
説教:田中 誠 司祭(名古屋聖マタイ教会) 礼拝後に奉仕活動(学生生活委員会企画)

大学礼拝の直前に実施する「お昼の賛美歌タイム」は、通常、チャペルの受付付近で行うのですが、今日は入口エントランスで体験できました。

聖歌を練習するオルガンの音と賛美歌タイムのギターの音とが微妙に不協するので困っていたところ、大西チャプレンが「あそこでやってみたら?」と声をかけてくださったおかげで、このような初体験が実現したというわけです。

場所がちょっと変わるだけも、気持ちが一新  ☆彡

なんか路上ライブのような気持ちになって、普段よりも明るく元気に賛美ができた気がします )^o^(

この楽しさを多くの人とシェアしたい…

魂で強くそう感じました 。主に感謝です  (^_^)/ (加藤)

新しい歌を主に向かってうたい
美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。(詩編33:3)

 

今回の聖書の箇所を読むたびに、ミッキー・ローク主演の映画『フランチェスコ』で、裕福な青年らが持ち金を民衆にばら撒くシーンを思い出します。服までも失った彼らは、笑いながら水槽で戯れる・・・。私たちの永遠の課題が見事に演じられていました。

実年齢に関係なく本当に「若い」とはどういうことか。次回の説教にその答えがあるかも。
ご期待ください。チャペルでお待ちしています。

●説教のテーマ:「若い」ということ
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書 19:16-22
 19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

●日付:7月5日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○予告
・7/12(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
・7/19(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
礼拝奨励:山脇先生

本日の賛美歌タイムは特別な聖歌をご用意いただき始まりました。聖歌481「この世の波風さわぎ」

それは私のたいせつな友人の訃報を受け、彼女の御霊に祈りを捧げる、「旅立ち」の賛美となりました。

チャペルには目には見えないけれど、たしかに彼女がいるようでした。笑って「Yさんたら…っ」といつものように、私をまっすぐ見つめる息づかいを感じました。

お昼の賛美歌タイムは身体で心で感じる時間…。
ギターで感じる楽しい鼓動と目には見えないイエスさまへの賛美が、動と静をともに癒します。

聖歌を選んでくださった加藤さん。
そして共に心を合わせ歌い、お祈りもしてくれた仲間たち。

本当にありがとうございました。(岩付)

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)

【創世記11:1~8】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

現代のように複雑で多岐にわたる対人関係の中で生きていくことは、だれにとっても大変なことです。多くの人々が対人関係で悩み、心を痛め、時には傷つきながら日々を過ごしていると言っても過言ではありません。

ある人は親しい友人がほしくても、なかなかできないと言い、またある人は、人を愛することができず、人から愛されないと言って悲しみ、さらに、人は自分の考えをなかなか理解してくれないと言って嘆きます。

これらの悩みを一つ一つ数え上げたら限りがありません。「対人関係で悩むことは、生きている証拠だから・・・」と言ってみても、問題の解決にはなりません。

ところでわたしたちが悩むのは、一体どんな時でしょうか。それは自分の考えが、なかなか思い通りに他者に伝わらない場合が多いようです。人間は元来とても自己中心的です。自分中心に物事を考えることに慣れていますから、思った通りに事が進まないと面白くありません。自分の考えを通すことに急なため、他者の意見を十分に聞くことをせず、他者の気持ちを損なっていることにも気付かず、対人関係をダメにしてしまっている場合がよくあります。

旧約聖書の一番初めの創世記(2~3章)には、有名な「アダムとエバ」の物語が記されています。神が「とって食べてはいけない」と二人に命じられたエデンの園に植えられた「善悪の知識の木」の実を、蛇にそそのかされたエバが取って食べ、アダムもエバから渡されたその実を食べてしまいました。「取って食べるなと命じた木から食べたのか?」と神から問われたアダムは「あなたがわたしとともにいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と答え、エバは「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と答えました。

アダムとエバの信頼関係は、神からの叱責を逃れ、自分の立場を守るために自己弁護し、他者に責任転嫁することによって、失われてしまいました。「だれだれさんがやれと言ったのでやったら、こんな結果になってしまったんだ」と言って悔やんだことはありませんか。責任転嫁とは自己弁護し、自分では責任を負わず、その責任を他者になすりつけることです。これまではうまくいっていた対人関係が、何となく気まずく、おかしくなったと思われるとき、その原因を探ってみると、案外、自分の中に隠れている責任転嫁という代物が原因であることが多いようです。

わたしたちが自分の立場を頑なに守ろうとしたり、弁護したりせず、他者の前で自分のありのままの姿を見せることは、とても勇気のいることです。なぜなら、それは自分を曝け出し、相手に自分を開放してしまうことになるからです。けれどもそれができたとき、これまでとは全く違った新しい生き方が生まれてきます。自分の殻を打ち破ることによって、自分の中に新しいものを取り入れることができるのです。

今、東京上野の東京都美術館で開催されている16世紀オランダ(ネーデルランド)の画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が人気を博しています。言うまでもなく、この絵の基になっているのは、創世記11章の「バベルの塔」の物語です。

一つの言語によって生きていた人間は、高慢にもその知恵によって、神のおられる天にまで達する塔を建てようと企てました。これは神によって創造された人間が、自ら神の地位に就こうとする計画に他なりませんでした。神はこの計画を止めさせるため、その塔を破壊し、人間の意志伝達手段である言葉を通じなくされました。「バベル」とは混乱という意味です。わたしたちが対人関係で悩むのは、相手との意志の疎通を欠くことによります。

素晴らしく立派で高い塔を建てる時、上の方で働く人は下の方で働く人の思いを忘れがちです。同様に下で働く人も上で働く人の思いはよくわかりません。そんな時、相手の立場や気持ちを考えると見方が変わってきます。相手の立場に立つ、身を置くことによって、思いやりや優しさが生まれてきます。下で働く人は、上で働く人の大変さに思いを寄せ、上で働く人は、同じように下で働く人の大変さに思いを寄せる時、お互いが理解し合えるようになるのです。

あなたが対人関係で思い悩んでいる時、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12~13)と言われ、その言葉通り、十字架への道を歩んで行かれ、十字架の上でわたしたちのために死んでくださったイエス様に目を向けてください。イエス様を見つめることによって、きっとあなたの悩みを取り去ってくださる希望の光が差し込んでくることでしょう。(チャプレン 大西 修 主教)

カシワバアジサイ

本日の聖歌隊練習は、こどもの賛美歌『両手いっぱいの愛』を歌い練習しました。

この賛美歌は私たち二年生にはとても馴染み深く、「キリスト教保育」の授業のおり柴田先生よりご紹介いただいた大好きな賛美歌の一つとなっています。

そして今日。伴奏は扶瀬先生に、賛美歌は三番すべてまで柴田先生から手話を教えていただきながら・・・と、聖歌隊練習でしか味わうことのできない至福の時間をいただくことができました。

「もいちど イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を愛しているの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は優しく微笑んでる」

手話をし合うとき、仲間たちと瞳で話します。

ふと話すほほえみも、賛美。

これからも聖歌隊では礼拝での発表に向け、この賛美歌を手話とともに練習を続けていきます。
(岩付)

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネによる福音書15:9)

【マタイによる福音書27:3-5】
27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

新約聖書の中で、自殺について記されているのは、このユダの自殺だけです。今読みました箇所を一つの手がかりに自殺について考えてみたいと思います。

自殺はわたしには関係のないこと思っている人もいるかもしれませんが、決して他人事ではありません。なぜなら自殺から最も遠いと思われる平和で幸せな状況の中ですら、自殺はあり得るからです。統計によると、どの国でも戦争中に自殺者が少なく、戦後あるいは平和の時代の方がその数が多くなっています。たとえ、それが戦争という間違った行為であっても、国家的な目的のために人心が緊張している時には、犯罪や自殺が少なくなっています。このような事実から、自殺の現代的な問題を取り上げてみると、自殺の原因がよくわからないことや、一見自殺とは無縁な環境の中でもそれは起こり得ると言えるのです。

「自殺してはいけないの?」という質問に対して、適切な答えを見出せませんが、わたしの乏しい経験から次のように言うことができます。「絶対に自殺してはいけないとは言えない。わたし自身何度か自殺を考えたことがあったけれどもしなかった、いや、できなかった。死ぬときの苦痛を思うと恐ろしかったのかもしれない。真剣に考えていなかったのかもしれない。あるいはちょっとしたことで思い止まったといった方が本当かもしれない。一日中、自殺しようと思い詰めて家に帰ると、親しい友人から手紙が届いていた。それを読んだとき『自殺しなくてもいいのだ!』との思いが沸き上がった。」

自殺は自己中心化であり、自分の殻に閉じ籠ることです。自殺を考える人は、自分自身を凝視する、極めて真面目な人だと思います。しかしその自己のあり方は何といっても閉鎖的です。その閉ざされた自己にほんの少しでも窓が開いて、光が射し込み、空気が流れ込めば、それだけですべての解決にはならないとしても、自殺を思いとどまるきっかけになるのではないかと思います。

自己を開いていくもの、それはおもに自分以外の人々との関係です。一人でもよいから、どんなことでも話し合える友人を持つことは、自殺の問題に限らず、あらゆる人生の問題解決に必要なことです。

わたしが自殺せずに今日まで生きてきたのは、やはりそのような大きな存在との出会い、関わりがあったからだと思います。その大きな存在とはイエス・キリストでした。それは何よりもイエス・キリストがわたしと同じ人間でありら、わたしと異なった大きな存在であることに共感したからです。聖書はそのことを、イエスが十字架の上で絶望の叫び声を上げて死に、そしてそれにもかかわらず、生き生きと復活されたと語っています。そのことはわたしにとって、「自殺してはいけない」という禁止命令としてではなく、「自殺しなくてもいいよ、自殺する必要はないよ、わたしが変わって死ぬのだから」という声として響いてくるのです。

イスカリオテのユダがどうして裏切り者になったのか、またイエスから排除されているのかわかりません。実際にはイエスではなく、弟子たちがユダを排斥したのかもしれません。ユダがイエスを裏切った後、後悔し、罪責の念にかられ、味方になったはずの祭司長や長老たちに訴えの取り消しを申し出たところが「勝手にしろ」とはねつけられ、ついに首をくくって死んだということは、同情に値する出来事です。ユダがどのような人間であったにせよ、彼は極めて真面目で誠実な人間であったのではないでしょうか。ユダは自殺しなくてもよかったのです。たとえイエスを裏切ったとしても、そのことによって真実のイエスがわかったとすれば、その瞬間から新しく生きてよかったのです。ユダは自殺によってイエスの十字架の死に出会う者となりましたが、その復活に出会う者にはなりませんでした。

「自殺してもよい、しかし自殺しないだろう」、これがイエスとの関わりの中に生きている者が言うことのできる、矛盾しているけれど自由な生き生きとした答えだと思います。

皆さんには、自殺ということを通して、「生きるということ」の積極的な意味を見出していただきたいと願います。(チャプレン大西 修 主教)

ミニヒマワリとモンシロチョウ

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