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カテゴリー:活動記録 の記事一覧

今回心に響いた御言葉は…
しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マルコによる福音書14:61~62)

ゲツセネマで捕らえられたイエスは、祭司長、長老、律法学者らによってエルサレムにある最高法院の裁判にかけられました。そこではイエスを死刑とすることを前提とした権力者たちの愚問極まりない尋問が行われたのです。

イエスへの証言が食い違うのにしびれを切らした大祭司は、イエスに自ら問いただしました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか(14:61)」と。すると、イエスはそれまで黙っておられましたが、その質問に「そうです(I am)」とお答えになられました。イエスは最高法院において御自身が「神の子メシア」であることを明言なさったのです。

イエスはその後連れられたローマ人総督ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか(15:2)」との問いには、「それは、あなたがたが言っていることです。」とお答えになって「ユダヤの王」を否定されました。

今回、私はこの二つの尋問に着目し、尋問した彼らが重要視していたことを考えてみました。

ユダヤの宗教指導者たちはイエスを「神の子メシア」であるわけがないと断罪しました。それは彼らが、ソロモン、ダビデのような強くて立派に見える支配者こそメシアであると考えていたからです。だから、民衆から絶大な人気を誇っていたイエスが妬ましく、抹殺したい対象に思えて仕方がなかったのでした。

一方、ピラトの関心はローマにおいての自身の保身にありました。自分がユダヤの総督である間に社会的トラブルがあってはならない…。だから、イエスが「ユダヤの王」を否定したことをきっと安堵したはずです。

尋問した彼らの視点は、常に自分の保身であり、権威の維持でした。

イエスのお答えは彼らの視点とは全く次元が異なっています。イエスは「I am 」、その偽りの無い御言葉によって、私たちに、当時もそして今も神の子イエスそのものが「愛」であり「救い主」であることを宣言なさっています。それは「I am 」の返答が自身の死刑を決定することをご存知でも、常に「神の御心のまま」に行動された、まさに見返りのない愛だったのです。

イエスの受難は続きます。次回もイエスの御姿を学ぶことで私自身の信仰の礎を重ねていきます。


ヒマワリとスイセン

今回心に響いた御言葉は…
そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」(マルコによる福音書14:48〜49)

祭司長、律法学者、長老たちに遣わされた群衆が一団となり、イエスを捕らえるためゲツセマネにやってきました。その手引きをしたのは、彼の12弟子の1人であるユダでした。

イエスの存在を疎ましく思う権力者は、この時を待ちに待っていました。ついに彼らの「時」が来たのです。

その権力者に扇動され群衆たちは、愚かにも剣や棒を持ってやって来ました。でもイエスは、ご自身が死に追いやられようとする時でさえ、愚かな群衆を憐れむかのように「これは聖書の言葉が実現するためである」と語られました。

そのようなイエスの御言葉を、群衆たちはどう受け取ったのでしょうか。

もしかしたら、その群衆は頭が一瞬真っ白になり、剣や棒を振り上げたまま固まってしまったのではないかと私は想像しました。

一方、イエスを敬愛していたはずの弟子たちは、その「間」にイエスの元から散り散りに逃げていったのでした。

今回私は、記事の状況にいっそう深く入る事が出来ました。すると、イエスや弟子たち、群衆たちの息遣いが肌で感じられ、それによって福音書の理解が深まったと思います。

イエスの行動は、どのような時にも弱い人間への憐れみに満ちています。人間の本質である弱さや愚かさを熟知なさっていたのですね。すべては「御心のまま」として…。

イエスの憐れみ深い御姿は私達のなすべき行動の指針となります。

次回もその学びを大切に、イエスの受難への道を学んで行きます。


ナスタチウム

今回心に響いた御言葉は…

一同がゲツセネマという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのぞけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14:32〜36)

イエスは十字架へと進まれる直前、弟子たちを伴われゲツセネマへと向かわれました。そこでイエスはお一人、弟子たちから少し離れた所で、父である神に祈られたのです。

何とその時、この世の人々が救世主と期待するイエスであっても、自身では逃れようのない苦悩を「死ぬばかりに悲しい」と嘆かれました。

十字架の直前、イエスは弟子たちに「人間イエス」を見せることで信仰のあるべき姿をお伝えになられたのでしょうか。

私自身今回、解説を聞きながら福音記事を深く読み取ることにより、子どもの頃から抱いていた「強く何でもできる方」であったイエス像を大きく転換させることになりました。

それは生身の人間イエスを知ることで、彼をより身近に感じられたと共に、私自身の肩の力が抜けてあたたかい感情や喜びが湧きあがった瞬間でした。

逃れられない「死」という使命を取り除いてくださいと、イエスはその弱さをあらわにして神に懇願されました。しかし、その直後、彼は神への全き信頼を示して「御心に適うことが行われますように」という謙遜な祈りを捧げられるのです

私はそのお姿こそ、真の信仰者、真のメシアであると感じます。

人生には不安や恐れ、苦しみが伴いますが、私はそんな時、イエスのこのお姿を思い出して、ひたすら神に祈ることが出来る人間は本当に「幸せ」であると思うのです😊✨

イエスの道は続きます。
次回もまなざしを深くして、真摯に学んでいきます。


ハーブのリース

今回心に響いた御言葉は…
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 (マルコによる福音書14:22〜25)

マルコ通読も35回を重ね「最後の晩餐」と言われている重要なシーンに入りました。

イエスは弟子たちとの語らいの中、楽しい食事が進むうちに、御自分が一人の弟子によって律法学者たちに引き渡されることをお伝えになったのです。

それを聞いた弟子たちは強く動揺し、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めるのでした。

そんな最中、イエスはパンを引き裂き、弟子たちに「取りなさい。これはわたしの体である。」と語りかけられました。

そして杯を取り弟子たちに「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とお渡しになられたのです。

今の聖餐式の起源はこの最後の晩餐に由来しています。つまり世界で最初の聖餐式は食事の最中に行なわれたのです。イエスがこだわられたこの日常性の意味を私は大切にしたいと思いました。

日々の忙しさにかまけて信仰から遠のきがちになる私たちに、「せめて食事をする時は私のことを思い出しなさい」とイエスは声をかけてくださっているのではないでしょうか。

イエスはいよいよ十字架の道へと進まれます。
次回も真摯にその御心を学びます。


真冬のヒマワリ

今回心に響いた御言葉は…

イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコによる福音書14:6〜9)

ユダヤ人が大切にしている過越祭と除酵祭を二日後に控え、エルサレムの神殿には多くの民衆がやってきていました。イエスを捕らえて殺そうとたくらむ宗教指導者らは、彼らが騒ぎ出すのが怖くてイエスを静観しています。

そのような中、ベタニアに住むシモンという重い皮膚病を患った人の家にイエスが滞在された時のことです。食事の席に着いておられるイエスの前に、小さな石膏の壺を持った女性が現れます。彼女はその壺を割って、非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけるのでした。

ところが、その女性の行いに、そこにいた何人かが「香油の無駄遣いだ。香油を売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と憤慨し始めます。イエスは彼らを戒める一方で、女性の献身的な態度に最高の賞賛と感謝の思いをあらわされたのでした。

女性を非難した人たちがどういう人物かを記者マルコは語りませんが、彼らには自分たちの日常生活や国のことなど、イエスを離れた外側の世界にしか関心がないのでしょうか。一方の女性の方は、イエスの内側に入り込み、彼が一番欲していたものを感じとり、純粋な思いを持って惜しみなくすべてを差し出したのだと私は思います。そういう対照性を一瞬で指摘されたイエスに私は本当に胸が熱くなります。マルコも、この美しい物語の直後に「ユダの裏切り」の記事を配置して、この対照性を強調しているかのようです。

次回も、十字架へと向かわれるイエスの御言葉と道とを心で感じながら、学びを続けたいと思います。


名古屋で初積雪

今回心に響いた御言葉は…
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコによる福音書13:32〜33)

前回に引き続き、イエスは弟子たちに終末の徴(しるし)についてお話になられました。

イエスは終末の時に備えるよう強く警告なさり、その上で、御心に従う覚悟ある者を旅に出た主人を待つ僕や門番になぞらえて「主人はいつ戻って来るのか分からないのだから、主人がいつ戻ってきてもよいように心を主人に向け、準備を怠らず日々過ごしていなさい」と諭されました。

ところでイエスが再臨する「その日、その時」とはどのような時なのでしょうか。

これを考えるヒントを、今回、私はマザー・テレサの姿から与えられました。

マザー・テレサは死を待つような弱く小さな人々の中に、常にイエスの姿を重ねて接していました。それはイエスの再臨を待つだけの受身の姿勢ではありません。弱い立場の人々をイエスだと思って、イエスのために愛の奉仕を積極的に行なうということなのでしょう。

「ひょっとすると、イエスはすでに現れているのかもしれないし、もしかしたら、昨日出会ったあの人だったのかもしれない」と思うことは、信仰を深める意味で重要ではないでしょうか。

私は真の目覚めのない信仰は自分勝手であり、虚しいものに終わってしまうのではないかと感じました。

常にイエスを感じて目を覚ましていることは、油断してすぐに怠けがちになる私たち人間には厳しい教えかもしれません。

しかし一方で、真の目覚めとは内と外よりイエスをいつも感じるアンテナであり、イエスとともに歩み続ける「喜び」の根であると感じました。

私は今回、マザー・テレサの視点から、常にイエスを感じ弱い立場の人々には愛を、自身には揺るぎない信仰の深さを求めて生きる姿勢を学びました。

イエスは今も「目を覚ましていなさい。私はいつもあなたがたと共にいる。」
そのように私たちに語られています。

次回もイエスのお姿を通して御心を学んでいきます。


出来上がった干し柿

今回心に響いた御言葉は…
そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(マルコによる福音書13:21〜23)

前回イエスは、弟子たちへ向け終末の徴(しるし)について話されました。そこでは人間同士の争いや天変地異が起こり、そして、それらの結果、数多くの人間が災難に遭い死に至るということでした。

そこでイエスは弟子たちに、これから彼らの身に起こることを預言されました。しかし、たとえ患難があろうと、信仰をもって「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13:13)との御言葉も授けられました。

また、イエスは旧約聖書のマカバイ記にある「憎むべき破壊者」という言葉をお使いになり、苦難を引き起こす破壊者の存在についてお話になりました。

今回私は、イエスのお姿を簡潔に書き記そうとするマルコには珍しく、リアルな終末の惨劇が描写されていることに注目しました。これはイエスの終末の御言葉にある「憎むべき破壊者」の存在を知らしめて、それに打ち克つ信仰の厚さを常に心に留めておきなさいという強いメッセージであると思いました。

しかし、たとえ厚い信仰心をもっていたとしても、それを揺るがす偽メシアや偽預言者が現れるとイエスは警告します。

それは現代社会の中にも存在します。甘い言葉や共感を売り物にして、個性を活かすことよりも仲間作りに励む今時の流れに惑わされないよう、私は学びをとおし、イエスの言葉だけを頼りに歩み続けたいと思います。


学食の風景

今回心に響いた御言葉は…
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」 (マルコによる福音書13:2〜3)

説教を終えられたイエスは弟子たちと共に神殿から出てこられました。神殿は当時の王が建てさせた力の象徴です。その姿は、「お上りさん」的な弟子たちにとって威厳に満ち溢れていたのでしょう。思わず弟子の一人が神殿をほめ称え、師イエスに伝えました。

ところがイエスはそんな弟子の浅い視点を「こんな派手な上辺だけの建物など、いつか簡単に壊されてしまうよ」と一蹴なさったのでした。

その通り、数十年の後にローマによって神殿は破壊されて、その預言は的中します。しかし、弟子たちに預言を話される事をイエスは重要としたのではありません。

イエスはあくまでも一般的なたとえとして「形あるもの(派手な神殿)ではなく魂(信仰)の部分を見なさいよ」と諭されました。

現代においても、私たちは莫大なお金をかけて建てられたタワーや豪華な装飾で飾られた美しい教会などに目を奪われる時があります。その見せかけの雰囲気に心が一瞬同化してしまうからです。

しかし落ち着いてよく見てみると…その姿は虚勢や人を集める事だけを目的に建てられた安易さが感じられます。私たちはよく見ることで感じ、何故そのように見せかけをとりつくろうとするのか考え、その結果、真実を知るのではないでしょうか。

イエスはその私にも語られます。

「気をつけなさい。心の目を常に研ぎ澄まし、きらびやかな物欲ではなく、確かな魂の真実を見よ」と。

次回はこの御言葉の内容が詳しく明かされます。
引く続き、心で感じながら学びます。


スイートアリッサム

今回、心に響いた御言葉は…
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコによる福音書12:43〜44)

イエスは賽銭箱の前に座り、人々がお金を入れているのを見ておられました。その賽銭箱はラッパ状で、お金を入れるたびに大きな響きが回廊に轟き、それが裕福さをあらわす一つのステイタスとなっていました。

次々に身なりの良い人々が沢山のお金を投げ入れる中、イエスは1人のやもめの姿に目を止められたのです。

やもめが捧げたお金は、当時のユダヤの最小通貨であった1レプトン銀貨2枚。1日の労働賃金分と言われる1デナリオンの64分の1というわずかな額でした。

やもめを食いものしていた律法学者とは対照的なその姿は、世間では「少数で弱い立場」そのものです。しかし彼女には世間の人々が持つことが出来ないものを持っていました。それは、ただひたすらに神を頼りに生きる彼女の信仰の厚さです。そこにイエスは目を止められ、彼女の神への献身、献げる感謝の思いを感じたのです。

1人のやもめは痛いまでに神への献身をあらわしました。

見せかけの祈り、身なり、行動をしていた律法学者たちはイエスの御言葉をどうように聞いたでしょう。

いつもイエスは「見かけ」ではなく「心」を問題にされます。そこには信仰と愛に繋がる献身の思いが頂点にあるのです。そのイエスを、神を、ただひとつ拠り所として生きる。それは失ったものを知っている人間が得られる賜物だと私は思います。イエスはその弱い立場の人間の思いを知っておられます。

次回も学びは続きます。
これからも与えていただけることに感謝し、続けていきます!


ワイルドフラワー

今日はマルコ通読二十九回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『 主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。 (マルコによるよる福音書12:35〜38)

大群衆が見ている中、イエスは詩編110章で記されているダビデの言葉を使って律法学者たちを厳しくとっちめました。

律法学者や当時の人々によってメシア化されたダビデ本人が『主は、わたしの主にお告げになった』と記しているのに、なぜ、お前たちは「メシアはダビデの子だ」と言っているのかと。

私はこのダビデの言う二つの「主」が誰にあたるのか、すぐには理解できませんでした。しかし主を崇めるダビデの目線で読むというヒントを頂くうち、最初の「主」が神であり、後の方は「メシア(救い主」であると分かりました。

ダビデ自身が「主(神)は、わたしの主(メシア)にお告げになった」と言って、自分の子以外の何者かをメシアと呼んでいるのです。従って「メシアがダビデの子である」はずはなくなります。

律法学者たちはこの理路整然としたイエスの御言葉に、ぐうの音も出ません。

当時、事細かな律法や決まりを守れない民衆は罪人呼ばわりされて蔑まれていた時代です。イエスの御言葉に何も言い返すことが出来ない律法学者たちの様子を見た民衆たちは、きっと「イエスよ!よく言ってくれた!律法学者たちよ、聞け!」と、日頃から虐げられてきた胸の内がスッとなり大喜びしたことでしょう。

イエスは常に今でも、弱い立場の人間の味方です。

次回のイエスの道のりも楽しみです。


干し柿

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