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【使徒言行録 11章19~26節】
11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。
11:20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。
11:21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
11:22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

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はじめに
 どうも皆さん、「いつくしみ!」 チャプレンの柳川真太朗です。学校礼拝にようこそお越しくださいました。
皆さん、もう、僕らチャプレンの名前を覚えてくれましたか? 今日、司会をしてくださっているのが、後藤香織チャプレン。そして、僕が、柳川真太朗です。後藤香織……、柳川真太朗……。後藤……、柳川……。まぁ、どちらもね、そんなに覚えづらい名前じゃないと思うので、ぜひ覚えていただければと思います。
(ちなみに、後藤チャプレンに質問ですけれども、後藤チャプレンは、「みんなにこういう名前で読んでほしい」っていうの、あったりしますか?)

ぼくのニックネーム
 僕はですね、あんまり、「柳川さん」とか「柳川先生」みたいな感じで呼ばれるのが、好きじゃないんですよね。結構小さい頃から、周りの人たちにニックネームで呼んでもらっていたので、大人になった今でも、できれば周りからはニックネームで呼ばれたいなぁって思っているのです。

これまでどんなニックネームで呼ばれてきたかなぁと、ちょっと振り返ってみたのですけれども、たとえば、「しんちゃん」とか、「やなさん」とか、「やんちゃん」、「やんこ」とか、いろいろありましたねぇ。まぁ、ほとんどは、いま挙げたように“自分の名前”に由来しているものばっかりでしたけれども……、そういえば一つ、これは秀逸なネーミングセンスだなぁと思ったあだ名がありました。それがこちら。「微調整」
かつて、高校の頃に1年だけラグビー部に所属していたことがあるのですけれども、試合中によく、フィールド上でチョコチョコ細かく動いているように見えたらしいのです。自分がどのへんに立っていれば、上手くボールが受け取れるか……とか、相手の動きに合わせられるか……とか、そういうことを考えながらポジショニングをしているつもりだったのですけれども、それがチョコチョコとしていて、仲間からは面白く見えたんでしょうね。それで、みんなから付けられたあだ名が「微調整」でした。まぁ、ラグビーやってる時だけの名前でしたけどね。これを越えるあだ名は、後にも先にも無いだろうなぁと思います。

皆さんはぜひ、「微調整」じゃなくて、「やなさん」とか、「しんちゃん」とか、そんな感じで呼んでいただけたら良いかなと思います。「しんたろう!」って呼び捨てにしてもらっても大丈夫です。そうやって、気軽にね、声をかけてくれると、僕は嬉しいです。

特別な呼び名の光と影
 さて、そのように、ニックネームとかあだ名というようなものに関しては、その特別な名前で呼ぶことで、その人との心の距離というものをグッと縮めてくれる……、そういう不思議な力があるわけですけれども、ただし、気をつけなければいけないのは、もしかすると、そのニックネームやあだ名で呼ばれているほうは、その名前を嫌がっているかもしれない――という可能性があることです。

昨今、この日本の教育現場・保育現場においては、「ニックネーム・あだ名で呼ばない」、「さん付けで呼ぶ」ということを推奨している――、そういう学校が増えてきていると聞いています。え〜?ホンマかなぁ?と、最近まで内心疑っていたのですが、実際に、うちの子が今年の3月まで通っていた保育園では、うちの子ども曰く、「お友だちのことを呼び捨てにしない」、「きちんと『〜〜さん』『〜〜くん』って呼び合う」ということが決められていたそうです。……でも、その割には、僕がお迎えに行ったら、子どもたちがワラワラと寄ってきて、「おい!しんたろうが来たぞ!」「しんたろう!なんで前髪だけ金色なんだ!」って、僕のことは呼び捨てだったんですけどねぇ。パパは例外なのかもしれません。
でもまぁ、たしかに、そういう“名前”“呼び名”に関する扱い方というのは、少なくとも僕が子どもだった頃よりかは丁寧になされているんだなぁと思わされました。そんなルール、僕のときには無かったですからね。ニックネームで呼び合って、親しく、フレンドリーに接する――よりも、その前に、相手が「嫌だな」と思うような呼び方はしない、というほうに重点が置かれているということなのかもしれません。

そのように、ニックネームとかあだ名で呼ぶことは、もちろん、それが良い方向に転じれば、心の距離が縮まって、より親しくなれるのかもしれませんけれども、しかしその一方で、悪い方向に転じれば、相手の心に土足で踏み込むことになって、ややもすれば、その相手の人のことを支配する(独占する)ということにも繋がりかねない……。そういう危険性を秘めている行為でもある、ということを覚えておく必要があるように思います。

「クリスチャン」という名称
 さて、本日の礼拝のために選んでまいりました聖書の箇所。今回は、使徒言行録11章19〜26節というところをお読みいただきましたけれども、この箇所にも、一種の「あだ名」のようなものに関して書かれていました。26節の最後のセンテンスですね。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」
 ここに、「キリスト者」という名称が書かれていますよね。英語では、「クリスチャン(Christian)」。この使徒言行録という書物が書かれた元々の原語であるギリシア語では、「クリスティアノス(Χριστιανός)」という言葉が使われています。「キリストの」とか「キリストの人」というような意味の、言わば“造語”ですね。ニューヨークに住んでいるから「ニューヨーカー」。関ジャニ∞(SUPER EIGHT)のファンだから「エイター」――みたいな感じです。キリストを信仰しているから「クリスチャン」、日本語では「キリスト者」というように言います。
ただし、この「キリスト者」という呼び名。実は、どうも最初は、自分たちで使い始めた名前ではなかったみたいなのですね。これは諸説あって、確実なことは言えないのですが、どうやら、イエス・キリストの信奉者たちのことを「キリスト者」と呼び始めたのは、その当事者たちではなくて、周りの人たち……、つまり、イエス・キリストを信じていない人たちだったようなのですね。
「なんか良くわからんけど、最近うわさのアイツら、いるだろ?ほら、あの『キリスト、キリスト』ばっかり言ってるヤツら。ありゃ、一体何なんだろうなぁ」というような感じで囁かれているうちに、いつしか、「キリストの人」、もっと下品に言えば、「キリスト野郎」みたいな意味で、「クリスティアノス(Χριστιανός)」という呼び方が、人々の間で広まっていたのだろうと思われます。
それは、もしかすると、親しみを込めた“愛称”だったかもしれないし、逆に、嫌悪や不信感から付けられた“蔑称”だったかもしれない。これは、もうもはや当時の人たちしか分からないことなのですけれども、しかしいずれにせよ、おそらく、この「キリスト者」「クリスティアノス(Χριστιανός)」という呼び名は、最初は、外部の人たちから呼ばれ始めた、一種の「あだ名(ニックネーム)」のようなものだった――ということを、まず抑えておいていただければと思います。

「キリスト者」という名前を自分たちのものに
 では、それに対して、当の「キリスト者」たち自身はどう受け止めたのか。答えは、この26節の中にあります。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」これが、この日本語に翻訳された文章ですけれども、実はこの翻訳、間違っているのです。正確に翻訳するとこうなります。「このアンティオキアで、弟子たちを初めてキリスト者と呼んだ。」……「呼ばれる」という受け身(受動態)ではなくて、「呼んだ」、能動態で書かれているのですね。自発的、ということです。つまり、彼らは自分たちで、自分たちのことを「キリスト者」と呼ぶようになった、ということなのですね。
彼ら、イエス・キリストの信奉者たちは、周りから「キリストの人、キリストの人」と呼ばれていた状況を、最初は、そんなに好ましいものだとは感じていなかっただろうと思います。勝手に“あだ名”を付けられるのって、大抵の場合は、あんまり嬉しくなかったりしますからね。
でも、イエス・キリストの信奉者たちは、そうやって周りの人たちから付けられた“あだ名”を、後に、自分たちのものとします。彼ら彼女らは、自ら、「そうです、我々はまさに『キリストの人』、『キリスト者』です」と自称するようになったのですね。そして、そうすることで、周りの人たちはもはや、蔑称として「キリストの人、キリストの人」とは言いづらくなった。だって、本人たちが胸を張って「自分たちは『キリストの人』です」って言っちゃっているわけですからね。公式がそれでOKと認めてしまったがゆえに、アンチはもう、ぐぬぬ……と言いながら、手を引っ込めるしかなくなったということです。キリスト教という宗教には、こういう“何かをひっくり返す力”、マイナスをプラスに転換する力があります。この「キリスト者」という呼び名に関するエピソードは、まさに、そのようなキリスト教が秘めている“何かをひっくり返す”力を象徴しているお話だと僕は思うのですね。

おわりに
 今でこそ、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる人々は、世界中に何十億人といるわけですけれども、当時は、小さな小さなコミュニティでした。圧倒的マイノリティだったのです。でも、そのようなアイデンティティを肯定的に受け止めて、「そうだ、自分は『キリストの人』だ。それで何が悪い!」と認識を改めたときに、彼らは、うつむいていた顔を上げ、未来へと一歩、進み始めることができるようになったのだろうと思います。
名前というのは、その人の存在そのものを表す大切なものです。誰かのことを、ニックネームなど特別な名前で呼ぶときには、尊重の思いと愛情の気持ちをもって、呼んであげたいものですね。そして何より、自分が普段使っている名前、また周りから呼ばれている名前、いろいろありますけれども、それらの名前が表している「自分」という人間を、誰よりも愛して、かけがえのない存在だと肯定してあげられる……、そういう心を持つことができるよう、これからの日々の中で、ご一緒に養い、培っていくことができればと願っています。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。     (チャプレン 柳川 真太朗)

【ガラテヤの信徒への手紙 3章28節】
3:28  そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

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皆さんは、将来何になりたくて、この柳城学院で学んでいらっしゃいますでしょうか?もちろん幼稚園の教諭や保育士として働こうと考えて柳城にいらっしゃった人は多いのでしょうね。しかし、わたしたちの人生の歩みには、いろいろな顔があります。大学生として過ごす顔、

わたしは、名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学のチャプレンですが、附属幼稚園である、三好丘聖マーガレット幼稚園のチャプレンもしています。柳城の附属幼稚園のチャプレンは、皆さんが生まれる前、1997年からしていますが、その間、保育園の園長をしたりしているのでずっと続けてチャプレンではないのですが、幼児教育には牧師になる学校を、終えた1987年からずっと携わり続けてきています。でも、これはわたしが大学生になったときに思い描いていた、わたし自身の将来像とは大きく違うものです。

わたしは1984年に大学に入学をしたのですが、教会の皆さんからの牧師になったらという期待には応えずに、父親の後を継いで、政治家に、代議士になるために大学での学びを始めました。学問を修めるというよりも、将来へのコネづくりで大学生活を送っていたように思います。ですから、学校には顔を出しますが、講義への出席よりも、サークル活動や友人づくりに精を出していました。学校にいないときには、自由民主党という政治団体の学生部に所属して、当時わたしは法務大臣の私設秘書として、派閥の地方議員の選挙運動や、今問題になっている、政治資金を集めるためのパーティを開催しながら、毎日を送っていました。
自分で望んでそのような毎日を送っていたのかというと、そういうわけではありません。わたしはトランス女性ですが、当時は男性として生活をしていました。本当の自分は隠し続けて、死ぬまで男性として、政治家として人生を送らなければならないのだと、あきらめていたのですね。

今日聴きました聖書の箇所は、ガラテヤの信徒の手紙3章28節の箇所でした。この箇所は、最初期のキリスト教会で使われていた、「洗礼を受けるときの信仰表明」、つまりわたしはこれこれこういうことを信じて、そのような世界を実現するために働いて行きますよという決意表明の文章からの引用の部分だと言われています。
パウロという人がこの手紙を書いていますが(50年代中頃)、ガラテヤにある幾つかの教会に回覧板のようにして書き送った手紙をまとめたものです。イエスさまを信じることで、当時のこう生きなければならないとユダヤ人が信じていた、とても厳しい規則「律法」から解かれて、わたしらしく命を光り輝かせて生きて良いのだということを確認するために、28節で言われていたように、ユダヤ人もギリシア人もなく(人種差別、民族差別の否定)、奴隷も自由な身分の者もなく(民族差別の否定)、男と女もありません(性差別の否定)と、語られているのです。それは、当時のキリスト教会が自分たちの集まりの特徴をあげて、他のグループとの違いを明確にするための決意表明だったのです。引用されたこの決意表明は、もともとは

「あなたがたは皆、神の子たちです。なぜなら、キリストの中へと洗礼を受けた人たちは皆、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。なぜならあなたがたは皆、一人だからです。(ガラ3:26-28) 」

というような内容だったようです。
イエスさまが宣べ伝えた神さまを信じて生きる生き方は、民族や身分、性別の違いを問題にすることはなく、様々な違いを超えて平等で公正な集まりを造っていこうとするものでした。様々なしがらみや、こうあるべきと云う押しつけから自由になっていて、自立した一人の人として、自分の人生の選択をして、決断をして歩んで行って良いのだと、神さまから召された、招かれているのです。だからわたしはこう生きなければいけないという決めつけを跳ね返して、頂いている命を光り輝かせて、互いに愛し合いながら、わたしはどう生きてこの世界が正義と平和に満ちた世界になって行くように生きてゆくことが大切なのだと言われている箇所なのです。わたしたちの可能性は閉じられているのではなく、開かれているのだと励ましてくれているのです。
ですからこの言葉は、民族・身分・性別などの違いによって差別され、生き方を抑圧されていることに痛みや憤りを感じ、その世の中に抗って生きようとする人々にとって、大きな支えと励ましになったので、当時のキリスト教に人々が集まり、次第に多くの人に影響を与える集まりになって行ったのです。

実はわたしたちが読んでいる新共同訳聖書では、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」と訳されています。最初の二つは確かにユダヤ人も、と訳すのですが、三つ目の「男も女も」は、正確には「男と女もありません」と訳すべきなので、実はあまり正確な訳ではありません。2018年に「聖書協会共同訳聖書」という新しい翻訳が出ましたが、その訳では「男と女もありません」と正確に訳されています。では、「男も女もありません」と「男と女もありません」ではどういう意味の違いがあるのでしょうか?

ここで注目したいのは「男と女もありません」の「男と女」は、一般的に使われる「男性(アネールνηρ)」「女性(グネーγυνή)」という言葉ではないことです。ここでは、創世記の創造物語「神は人を男と女に創造された」(創1:27)で使われたのと同じ、「オス(アルセーンρσεν)」「メス(セールスθλυ·)」という言葉が使われています。つかり、女性差別や男女の格差を解消よりさらに踏みこんで、「男(オス)と女(メス)」で「一対」という概念も乗り越えて一人一人の大切さが宣言されているのです。
これは、「男と女」で「一対」として生きる抑圧に縛られずに、女は結婚して子どもを産まなければというプレッシャーから解放される福音だったのです。子どもを産めない・産まないことで、「女」である自分を後ろめたく思う必要もありません。
この宣言は、女はこうあるべき、男はこうあるべき、というジェンダー規範で縛られて生きにくくされていた、同性に魅かれる人々や、トランスジェンダーの人々などにとっては、まさに大きな自己肯定として響いたのでしょうょう。様々な社会・文化規範に順応出来ない、したくない人々にとって励ましの宣言だったのです。

当時のキリスト教会はとても小さな集まりでした。その小さな集まりが、世界に拡がる集まりになっていったのは、「こうでなければいけない」と思い込み、命を光り輝かせることが出来ずにいた人々に、そうでなくても良いのだという励ましを与えて、命を光り輝かせて歩む力になったからだったのだと思います。わたしたち一人一人が自分の人生を縛られることなく自由に選び取って行くことで、それは素晴らしい多様な世界が実現していくのだと宣言をした集まりだったからこそ、多くの人たちが集まってきたのでしょう。残念ながら、今、キリスト教会は「こうでなければいけない」と語る集まりになってしまっていますが…。

皆さんがこの柳城学院での学びを深めてゆくときに、「こうでなければならない」と思い込んでいるしがらみを越えて、わたしたちがどうしたらお互いに仕え合って、助け合って、愛し合って、この世界を平和で正義に満ちた世界へと変えて行けるのかを、今日の聖書から聞いて参りましょう。ご一緒にしがらみから解放されて命を光り輝かせて歩み始めましょう。           (チャプレン 後藤香織)

【マタイによる福音書 第6章25~34節】
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

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 今日の箇所で、イエス様は言います。

空の鳥をよく見なさいと。種を蒔くこともしない。刈り取ることもしない。倉を作って収めることもしない。しかし、天の父、すなわち、神様は、鳥を養ってくださっているではないか、と。だから、何を食べようか、何を着ようかなどと、思い悩む必要はない、と言われます。神様がいつも私たちを養ってくださる、守っていてくださる、だから、思い悩む必要はない、ということです。
この箇所は、何を食べようか、何を着ようかなどと、贅沢なことは考えず、与えられたもの、すでに持っている物で、質素に暮らそう、というような、いわゆる清貧のススメ、という教訓として受け止められることも多い箇所です。しかしながら、この箇所は、一般的な教訓ということとは、異なる次元の意味を持っています。
ここでイエスが語っている相手とは、そもそも、そのような贅沢とは無縁の人たち、そもそも質素に暮らさざるを得ない、貧しい人たちでした。どんな人達がイエスの話を聞いているかというと、少し前の箇所に、次のように書かれています。
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、イエスに従った。」
つまり、イエスの周りで話を聞いていた人たちとは、様々な病気や苦しみに悩む人たち、社会の中心から排除されてしまった人たち、貧しい人たちでした。彼ら彼女たちは、祝福された人生、恵まれた人生とは、縁遠い人たちでした。そして、自分のことを、神様の恵み、神様の祝福から見放された者だと思っていました。そんな彼らに語ったのが、今日の言葉でした。そんなわけですので、その人たちを前にして、もっと質素に生きようと語った、とは考えられません。彼らは、すでに十分すぎるほど、質素に生きています。おそらく着る物だって、そんなに持っていなかったでありましょう。

では、イエスがここで大事にしたいこととは、なんだったのでありましょうか。
空の鳥は、働かなくても生きている。それはどういうことか。それは、すなわち、働く人も、そして、働かない人、あるいは働けない人も、生きていていいのだ、ということです。
全ての人は、そもそも、神様によって造られ、神様によって、生きることが許されています。鳥がそうであるように、あるいは、野の花がそうであるように、働いても、働かなくても、何の条件もなしに、きちんと生活することができる、食べることができる、着ることができる、住むことができる、そのようにあるべきなのだ、ということです。
もちろん実際には、誰かが食べ物を収穫しなければなりません。しかし、自分の手で収穫しなければ食べてはならないということでもありません。例えば、こどもたちや高齢者がそうです。働かなくても、働けなくても、食べていかれるようにしなくてはなりません。それぞれの理由はどうあれ、全ての人は、仕事をしようがしまいが、生きていていいはずです。私達は働いていないことを理由に、この人は生きる資格がない、死んでも良い、などと言ってはならない、はずです。
種も蒔かず、働くこともなく、そんな鳥や花たちに対して、神様は、食べ物を与えない、雨を降らせない、などということがあろうか。同じように、あなたがたも、さまざまな理由で、社会から置き去りにされているかもしれないが、しかし、神様の目から見て、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言うことは、ありえない、神様は全ての人を大切にされる、全ての人間は生きていてよいものとして神様によって造られたのだ。このようにイエス様は述べ、彼ら彼女たちを勇気づけたのでありました。

現代に生きる私たちも、イエス様が語られた言葉を、今、ここで聞いています。空の鳥を見よ、野の花を見よ、あなたも、生きていていいのだ、神様から大切にされているのだ、誰からも、生きる資格がない、生きる意味がないなどと言われてはならないのだと、イエス様は語りかけます。働かざるものであろうが、あなたは大切なのだ、ということです。

空の鳥を見るとき、野の花を見るとき、それらが神様によって生かされていることを思い起こし、私たちも、神様によって、無条件に、生きることが赦されているのだ、ということを思い巡らしながら、過ごしたいと思います。(チャプレン 相原太郎)


フェイジョアの実

【ルカによる福音書 第6章27~36節】
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

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 「敵を愛しなさい」という有名な言葉の少し前に、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」とイエスは言われます。このことから、敵を愛する、ということは、全部相手の言いなりになることかと思われるかもしれません。怒りや憎しみなどをすべて押し殺して、相手に合わせることと思うかもしれません。

しかし、そうではありません。ここでイエスは、このような極端な言い方を通して、当時の人たちが思い込んでいた常識を揺さぶろうとしました。例えば、当時のユダヤ人たちの常識では、サマリア人は宗教的に穢れていると考えられていました。ですので、サマリア人を愛するどころか、彼らに接触すること自体もタブー、というのが当時の常識でありました。サマリア人以外にも、様々な人達のことを、憎むべき者たち、自分たちにデメリットをもたらす者たち、愛してはならない者たち、いわば敵として規定されていました。イエスが「敵を愛しなさい」というときの敵とは、このようにその社会から排除されている人たち、自分たちにデメリットをもらす人たち、というニュアンスを含んでいます。

私たちは、通常、人を愛するという時、その対象は、どうしても、自分によくしてくれる人、自分にメリットをもたらす人になりがちだと思います。

しかし、イエスの語る愛とは、自分にとってメリットがあろうがなかろうが、見返りがあろうがなかろうが、そんなことは関係なく、何の条件もなしに、他者を愛する、大切にする、というところにポイントがあります。むしろ、自分にとって都合が悪い人、デメリットをもたらす人をこそ、愛しなさい、大切にしなさい、と言われているわけです。

さらにイエスは、次のように続けます。 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」

人から何かしてもらったら、そのお返しに、自分もその人にしなさい、ではありません。人からなにかしてもらう、ということが前提となっていません。それでもなお、人にしなさい、ということです。何らかの見返りがあろうがなかろうが、メリットがあろうがなかろうが、自分がしてほしいと思うようなことを、人々にしなさい、ということです。

自分への見返りもなく、なんの条件もなしに、他者を大切にすることができるのだろうか、と思われるかもしれません。しかし、私たちの柳城が大切にしている保育こそ、実はそのようなものではないかと思います。保育の現場において、子どもたちからの見返りは期待していないはずです。この子が大人になったら自分にこんなことをしてくれるかもしれない、だから大事にしようとか、条件をつけることはないはずです。その子の将来がこうなるから、ではなく、目の前にいる一人ひとりのこどもを、そのまま大切にする、ということが、保育にとって重要な原則であろうと思います。

「敵を愛しなさい」と言われたイエスは、何ら見返りを期待することなく、目の前にいる人たち、とりわけ社会から排除されていた人たちに徹底して寄り添いました。当時の社会では一人前と見られていなかった子どもたちを、一人一人大切な人間として大事にされました。そして、十字架によって死に至らせた人たちをも愛されたのでした。神様は、イエスの生涯を通して、私たちに見返りを求めない愛を示されました。このような神様の愛の質を私たちは様々な場において大切にしてまいりたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)


柳城祭2023

【ルカによる福音書 第6章20~26節】
6:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
6:21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
6:22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
6:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
6:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
6:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
6:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

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「貧しい人々は幸い」というのは、普通に考えれば、とても受け入れ難い教えです。貧困は、やはり克服すべき事柄です。飢えている人には、食べ物が与えられなければなりません。泣いている人の涙は、ぬぐわれなければなりません。
そして、貧しい人ではなく富んでいる人、飢えている人ではなく満足に食べることのできる人、泣いている人ではなく笑っている人、そういう人たちこそが幸福だ、と思うのが自然であると思います。

聖書の中で貧しい人とは、文字通り衣食住に事欠く人たちでした。イエスの周りに集まってきた人たちは、貧しく、あるいは社会の隅に追いやられ、神様からも見放されたと考えられていたような人たちでありました。そんな彼らに対して、皆さんこそが幸いなのだ、皆さんのところにこそ神が共におられるのだ、と語ったわけです。

イエス自身も、貧しい大工の息子として生まれます。そして、自ら持たざる者として育ち、貧しい者、社会から見放された者、罪人とされた人たちと共に暮らしました。そのようなイエスが、決死の思いでイエスのもとに集まってきた貧しい人たち、困難の中にある人たちを目の前にして、あなた方こそ幸いなのだ、神は決して見捨てることはないのだ、神の国はあなたがたのものだ、あなたがたのものにならなければならないのだ、と宣言したのでありました。
そして、イエスは、その言葉通り、彼らと共に生涯を送り、人生をかけて、生き方として、そのことを示したのでありました。「貧しい人々は幸い」というイエスの発言は、自分がどうなろうとも、あなたがたといつも一緒だ、という決定的な覚悟と決意の表れでもありました。

そもそも、すべての人間は、本来ひとりで生きることはできません。助けを求めなければ暮らしが成りません。とりわけ困難の中にある人は、そのことを、その弱さを、身にしみて理解しています。貧しさゆえに、自分が不完全であることを、弱い存在であることを、お互いに頼って生きる必要があることを、知っています。イエスのいう「幸い」とは、そのような人と人のつながり、愛をもって仕える関係の中にこそ、神様はいてくださる、ということであると思います。

このイエスのメッセージは、私たちにも向けられています。イエスは、その生涯を通して、自ら痛み、苦しんだ者として、私たちの悲しみ、不安、弱さ、不完全さを知っておられます。神様は決して見捨てることはない、神は必ずあなたとともにおられると語っておられます。
今、それぞれの生活において、さまざまな不安、悲しみ、疎外感、孤独に苛まれることがある方もいらっしゃるかもしれません。イエスは、そうした、一人一人の具体的な苦しみの中に、自ら低くなって、身を挺して、一緒にいてくださいます。神様が、共におられることを覚え、人と人との愛のつながりの中で歩んでいくことができればと思います。(チャプレン相原太郎)


ヒガンバナ

【ルカによる福音書14章7~14節】
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

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今日の箇所を読みますと、日本の上座・下座の文化の話に聞こえてきます。謙虚でいなさいというような教訓に聞こえるかもしれません。そして、これが天国のたとえであるとすると、天国は日本の宴会の場のようなところなのかと思うかもしれません。天国には序列があるのかと、思うかもしれません。しかし、そういうことではありません。
ここで大事になってくるのが、この場面で誰がこの話を聞いていたか、ということです。それは、ユダヤ教のファリサイ派と呼ばれる人たちでした。ファリサイ派は、当時、ユダヤ教の教えとその規則を熱心に守っていた人たちでした。それ自体はいいのですが、問題は、彼らが自分たちのことを他の人達と比べて正しいことをしている、と考えていたことでした。そして、その規則を守ることのできない人たちの気持ちを軽視し、ユダヤ社会から排除しようとすることでした。

イエスは、このようなファリサイ派たちの考え方は間違っていると考えました。このたとえに出てくる最初から上座に座ろうとしている人とは、ファリサイ派のことだと言えます。一方、ファリサイ派のようなエリートによって断罪され、ユダヤ社会から排除されていた人たちは、そもそも自分は天国に行けないのではないか、そもそも席がないのではないか、と思っていました。

しかしながら、このたとえにおいて、神様は、そのように思っている人たちに向かってこう言うのです。

友よ、もっと上席にお進みください。

自分などだめな存在だ、神様に愛されているはずがない、と思うような人たちにむかって、宴会の主催者、すなわち神様は呼びかけます。「友よ」。神様は、あなたこそ友なのだ、あなたこそ私のそばに来てほしいのだと、言われているわけです。
今、この世界の中で排除されている人たち、自分などだめな存在だと思っている人たちに対して神様は「友よ、もっとも上席に」と招いていること、これこそが、イエスの語る神の国、天国のイメージです。

この例えには、宴会に招かれたときだけでなく、自分で宴会を開くときのことが出てきます。そのポイントは、人を宴会に招くときには、相手にお返しを期待しない、見返りを求めない、というところにあります。
私たちがパーティーなどを行うとき、何らかの意味で利害関係者を招くのが普通だと思います。この人を招いて、あの人を招かなければおかしい、とか、この人を呼ばないと、後で困ったことになるかもしれない、といった具合です。そして、こうしたことは、パーティーなどに限ったことではありません。私たちが人に何かをする時、相手のためと思いながら、実際には、何らかの自分へのメリット、見返りを期待しているということが、多かれ少なかれあると思います。この人にお願いされたことをやっておけば、後で自分が得することがあるのではないか、この人に親切にしておけば、後でみんなから尊敬されるのではないか、といった具合です。相手のためと言いながら、実はお返しを求めている、つまり実は自分のためにしている、ということは、よくあることだと思います。

しかしながら、天国、あるいは神の支配とは、それとは全く異なる原理である、ということです。
たとえの中で、婚宴に招くべき人としてリストに出てくる人たちとは、貧しい人たちなどでした。その人たちは、当時の社会においては、社会の期待に答えられない、すなわち、お返しができない人たち、と考えられていました。そして、イエスは、そのようにお返しができないからこそ、婚宴に招かれるべきなのだ、と言われます。それはどういうことかというと、神の国、天国は、何もお返しができない人、何も持っていない人、あるいは、神様の期待に応えることなどとてもできないと思っているような人こそ招かれているのだ、ということです。

これらのたとえが示していることは、神様は私たちに見返りを求めていない、ということです。私たちは、神様に対して何かを差し出す必要はない、ということです。私たちは、そもそも一人一人大切な存在として、神様によって創造されました。であるから、神さまは、私たちが何かを差し出すことによって、あるいは私たちの能力によって、その人の存在価値を判断する、というようなことはないわけです。そもそも神様にとって、私たちの価値とは、私たちの存在そのもので十分です
私たちは、この社会の判断基準、あるいは、自分が持っているたくさんのものから離れ、神様の前に、何も持たないありのままの自分で、神様に立ち帰りたいと思います。 (チャプレン相原太郎)

 

【マルコによる福音書10章2~9節】
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

✝ ✝ ✝

 今日の箇所では、まずユダヤ教のファリサイ派の人が登場します。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の中でも、とりわけ律法のさまざまな規定に忠実に従って暮らしていた人たちです。そのファリサイ派がイエスに、「夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」と問いかけます。夫が妻に離婚を言い渡すことは、正しいですか、と聞いているわけです。
当時の離婚は、基本的には、夫に強い決定権がありました。夫だけが自分の都合で、妻を自由に離縁することができる、ということです。しかもその都合が、いかなる場合であっても認められるというのが、ファリサイ派の基本的な考え方でした。実際、当時、鍋を焦がしたといった本当に些細で身勝手な理由で、夫は妻と離縁する人たちがいました。しかし、ファリサイ派は、そうした離縁も、律法に基づいて手続きが行われれば許される、と考えていました。
当時の社会では、夫から離縁させられた女性は、穢れたものとされ、再婚も困難でした。女性たちは生計手段を持っていませんでしたので、離縁とは、そのまま路頭に迷うことを意味します。

イエスがこのような離縁のあり方を批判していることは、ファリサイ派も知っていたはずです。しかしその離縁は、形式的には、律法に基づいているわけです。ですので、イエスがもし、夫が妻を離縁するのは間違いだ、と言い出したら、イエスが法律を無視する発言をしたとして、告発しようと思っていたわけです。

そこで、イエスは、ファリサイ派に「モーセはなんと命じたのか」と尋ねます。するとファリサイ派は「離縁状を書いて離縁することを許しています」と答えます。確かに聖書にはそのように読める記述があります。しかしながら、それは、本来、女性の権利を守る意味合いがありました。というのも、離婚する夫は、離縁状を作成する際に、自分自身の身勝手さを認めるような形で署名をしなければならなかったそうです。イエスは、身勝手な男性による離縁という問題意識から、聖書はそのように記したのだ、ということをファリサイ派に述べます。

そして、イエスは、「神が結び合わせた者を、人は離してはならない」と語ります。この言葉は、結婚式の大切な場面でよく用いられる箇所です。しかし、この言葉は、もともとは結婚式に臨んでいるカップルに対するものではありません。また、単純に、離婚をしてはならない、ということでもありません。
この言葉は、夫の全く身勝手な理由で離婚するのは許されない、男性の身勝手によって女性が苦しむようなことがあってはならない、ということです。

「結び合わせた」という言葉は、もともとの意味は「複数でくびきを担う」ということです。くびきとは、家畜が一緒に荷物を引っ張るための道具です。つまり、結び合わせるとは、重荷を一緒に並んで共に担う、ということです。男性が女性を支配するのではなく、男性も女性も、神のもとで、一緒に重荷を分かち合う関係となるのだ、ということです。
イエスの時代、男性と女性はそもそも対等ではありませんでした。一夫一婦制すら確立していませんでした。そうした中で、イエスは、全ての人は、そして夫婦となるカップルは、神の前で等しく尊厳を持っているのだと、激しい平等を主張したのでした。

そして、このことは、結婚する男女カップルの関係だけのことではありません。あらゆる人間関係について、言うことができます。私たち人間は、そもそも共同体的に生きるように創造されています。私たちは、生まれながらに繋がりあって生きています。そもそも、世界の全ての人は、本来、「神によって結び合わされた者たち」に他なりません。愛によって仕え合う関係、それが、神によって結び合わされた状態である、ということです。
神に結び合わされているはずの関係なのに、例えば、男性の都合、あるいは、大人の都合、あるいは、力の強いものの都合によって、一方的に支配するようなことがあってはならないわけです。

私達の社会には、さまざまな不平等が存在しています。そうした中で、私たちは、神に結び合わされた者、共に生きる者として創造された者、対等に共にくびきを担うものとしての関係を、築いていきたいと思います。

時に、私たち自身も、この社会から切り離され、その存在を否定されるようなことがあるかもしれません。イエスは、そうした私たちの間に立って、「神が結び合わせた者を、人は離してはならない」のだ、と宣言されます。私たちは、そのようなイエスによる宣言を通して、私たち一人一人が、神のかたちに似せて創られた尊厳を持つ者であり、共に繋がりあって生きる者として造られたことを覚え、日々を過ごしてまいりたいと思います。     (チャプレン 相原太郎)


正門のメランポジューム

【マルコによる福音書 1章29~34節】
1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
1:33 町中の人が、戸口に集まった。
1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

✝ ✝ ✝

 イエスの時代は、病気は悪魔の力によると考えられていました。悪魔に支配されているから病気になるのだ、ということです。言い換えれば、神から見放されているから、あるいは、神に呪われているから病気になるのだ、というわけです。こうしたことを背景としていますので、イエスが病人を癒したというのは、イエスが医学的な意味で、治療したということとは、少し違います。イエスが癒す際には、イエスが悪霊を追い払ったと表現されたりしますが、それは、イエスによって、その人が悪魔的なものから解放された、ということを意味します。それは別の表現を用いれば、その人が、神との交わり、そして人々との交わりを回復した、ということです。

イエスの一行がシモン・ペテロとアンデレの家に行くと、ペテロの姑が熱を出して寝ていました。当時の常識では、結婚した女性は、自分の夫の家で暮らします。しかし、彼女は、自分の夫ではなく、娘の夫の家にいたわけです。これはすなわち、彼女の面倒を本来見てくれるはずの家族がいない、ということになります。彼女にとって、ペテロの家は本来自分がいるべき場所ではないところと考えていました。しかし、他に頼りにできるところもなく、肩身の狭い思いをしながらも、そこに身を寄せていました。
そんな彼女のいる家に、イエスがやってきます。するとイエスは、他でもなく彼女のところに真っ先に近づきます。そして手を差し伸べて、彼女を癒やされました。イエスとの出会いを通じて、孤独の中にあった彼女は、人々との関係性、そして見放されていたと思い込んでいた神との関係性を回復していきました。

現代の社会では、神と人、人と人との関係を断ち切るような力が、私たちを取り囲んでいるように思います。私たちは競争を強いられ、孤立し、大きなストレスを抱えながら日常を送っています。そして、そんな中で社会から脱落していく人に対しては「自己責任」、その人が悪いのだ、と言って、切って捨てるのが、現代の社会の厳しい現実です。これは、イエス時代、重い病にかかると、悪魔に支配されたのだから仕方がない、その人が悪い、と切って捨てていたことに似ているようにも思います。

そうした中で、イエスは、切って捨てられていた人々の間に入っていき、人々の関係を回復していきました。私たちも、その働きに連なり、隣人との人間的なつながりの回復を求めていきたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


色合い豊かな柳城花壇

【マタイによる福音書 第14章13~21節】
14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

✝ ✝ ✝

 聖書の中には、イエスさまが人々と食事をするシーンがたくさん出てきます。今日の5000人の食事もその物語の一つです。

人々が大勢イエス様のところに押しかけてきました。彼らの多くは、貧しい人、病気の人、罪人と呼ばれて社会から排除された人たちでありました。夕暮れになりました。弟子たちは、そろそろ解散にしましょう、そして夕食に食べるものを買いに行きましょうとイエスに提案します。しかしイエスは言います。「ここにいる人たちみんなに、あなたがたが食べ物を与えなさい。」弟子たちは、これだけの人々に配る食べ物なんてありませんとイエスに言います。しかし、イエスは、弟子たちが持っていた少量のパンを手に取り、感謝してこれを割いて、弟子たちに渡します。すると、そこで何かが起きて、そこにいたすべての人達は満腹になりました。

実際に何が起きたかは確かめようがありませんが、次のようなことが考えられます。最初に、イエスと弟子たちが持っていたパンを全て差し出します。すると、その様子を見ていた周りの人たちは、そのパンが入った小さなカゴが回ってくると、それぞれがポケットやカバンに持っていた食べ物を差し出したのではないか、ということです。場所は、人里離れたところです。自分の食べるものぐらいは持っていたはずです。みんなのために全てのパンを差し出すイエスを見て、自分も一人だけで食べるわけにはいかないと思い、それぞれが持っていたものを差し出し、そのようにして、食べ物は減るどころか、むしろ、増えていった、ということです。

そんなものは奇跡ではない、と思うかもしれません。しかし、大人数での食事は、当時の常識ではあり得ない、奇跡的なものでした。例えば、当時の社会において守るべき規則として、食前に手を洗い清めること、というものがありました。この手洗いは、単に手を清潔にする、というだけではなく、外でどんな人に触れているかわからないから穢れた手を清める、という宗教上の理由がありました。しかし、これだけの人数が一緒に食事をしたわけです。誰に触れたかわからないといったことを理由に手を洗ったとは思えません。また、同じようなことですが、穢れた者と食事の席を共にしないこと、という決まりもありました。5000人で一緒に食事をしたわけですので、そこに誰がいるのか、もはや誰にもわかりません。しかも、そもそも、イエスの周りに集まってきた人たちとは、社会から排除された人たち、つまり罪人や穢れた者ということです。そのような人たちが大勢集まって、堂々と一緒に食事をするなど、当時では考えられないことでした。

当時の社会には、清いもの、穢れているもの、という区分けが、宗教によって張り巡らされていました。そうした中で、イエスは実際に一緒に食事をすることを通して、そのような区分など無効なのだ、ということを人々に示したわけです。そして、清いもの、穢れたもの、というような区分による壁を壊して、人と人との本来のつながりを回復していきました。そこでは、こぼれ落ちる人もなく、人々は満たされたのでした。このようにして、当時の社会ではあり得ない世界、いわば神の国が目の前に展開されました。これは、当時としては奇跡と呼ぶに値するものであったに違いありません。

この出来事は、4つある福音書の全てに記されています。つまり、この食事は、イエスを特徴付ける忘れるわけにはいかない出来事であったということです。もちろん、実際にどのようにしてみんなが満腹したのかは確かめようがありません。しかし、このような奇跡物語が全ての福音書に記されているということは、その出発点には、イエスがそこに集まった多くの人たちと、当時の社会常識を大きく乗り越えて、みんなで一緒に分け合って食べた、という経験があるはずです。

今、イエスは、そのような食卓の分かち合いに私たちを招いておられます。今、ここにいる私たちは、物理的には飢餓の状態ではないかもしれません。しかしながら、この社会の中で、時には不条理なルールにしばられ、時には人のつながりを断ち切られるような仕組みの中におかれ、不安や孤独に脅かされることもあると思います。そのような中で、イエスは、人と人とを分断する様々な壁を乗り越えて、つながりを回復することを求めておられます。そしてそれは、私たちが、これは自分だけのものとして隠し持っているもの、独り占めしているものを分かち合うことよってこそ、実現するはずです。   (チャプレン相原太郎)


ランタナ

【マタイによる福音書25章31~40節】
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

✝ ✝ ✝

 今日のストーリーを注意深く読むと、神がどこにいるのか、ということについて、大変に興味深いことが書かれています。

神様というと、おそらく一般的には、困っている人を助ける存在、傷ついた人を癒す存在と見られていると思います。ところが、今日の物語では、神様はまったく反対の立場にいます。すなわち、飢えていたときに食べさせた者が神様ではありません。神様は飢えていた人、そのものでありました。のどが乾いていたときに飲ませた者ではありません。神様は、喉が乾いていた人そのものでした。病気のときに見舞った人ではなく、病気の人そのもの、刑務所に入っている人を訪問する人ではなく、刑務所に入っている人そのものでした。それこそが神の姿なのだと、ここでは指摘しているわけです。

多くの人のキリスト教のイメージにおいては、なにか困っている人に対して良いことをした人に、神様の姿、あるいはキリストの姿を重ね合わせると思います。しかし、今日の物語が示しているのは、神様は困難の中にある人と共におられるということです。したがって、私たちは、困難の中にある人に寄り添うとき、そこで、キリストに出会うわけです。その出会いによって、自分のそれまでの生き方は変えられていくこということです。

子どもたちとの関係で言えば、誰かが子どもに優しく接している姿に神様の姿を見るよりも、子どもたちそのものに神様の息遣いを感じるべきであるということです。とりわけこの社会の中で、さまざまな困難な状況の中で生きる子どもたち、助けを求めている子どもたちの叫びを聞くとき、そこに神様の叫びを感じるべき、ということです。

ここに集う皆さんは、子どもたちの声を聞いたら、なんとかできないだろかと思うのではないかと思います。できるかできないかは別として、無視することはできない、耳を塞ぐことなどはできないと思います。私たちがそのように感じるとき、あるいは、そのようにして子どもたちの声に応えるとき、私たちの中には、確かに神様の愛が宿っているはずです。こうして、私たちは私たちの本来の姿、すなわち神様に似せて作られたものとしての姿を取り戻していくわけです。  (チャプレン相原太郎)


アガパンサス

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