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大学礼拝 2017/6/7『愛すること』 

カテゴリー:大学礼拝

【ヨハネによる福音書15:12-13】
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

人間が生きていくとき、そこにはいつも愛の関係が生まれます。人間は夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、知人はもとより、多くの人々との出会いの中で、愛し合い、助け合い、支え合い、励まし合いながら生きていると言っていいのではないかと思います。

特にそんな中で、一人の男性と一人の女性が愛のうちに結ばれ、結婚を通して新たな命をこの世に生み出していくといった営みは、これからもずっと続いていくことでしょう。

けれども他方では、人間が生きていくとき必ずと言っていいほど愛せない悩みや、愛されていない苦しみのために、自ら傷つき、また他者を傷つけるという悲しい現実があることも見過ごすことができません。むしろ、このために悩み、苦しんでいる人々の多いことが現実の姿といえるかもしれません。

では、わたしたちが考えている愛、信じている愛は本当の愛なのでしょうか。本当の愛とはどのようなものなのでしょうか? 聖書では「神は愛です」(ヨハネの手紙1 4:16)、また「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(同4:19)、

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(同3:16) 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)と教えています。

愛された経験のない人は愛することができません。どうすることが愛することなのかがわからないからです。暴言を吐かれ、殴られ、たたかれるような生活環境の中で、成長してきた子供が、親になったとき、同じような形で自分の子供に接するケースが多いと言われます。愛情表現がそのような歪んだ形でしか表せないのです。

人間の愛は自己中心的なものであり、自己愛がその根底にあります。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)という愛の戒めの中で、「自分のように」とは、人間のうちにある強い自己愛への思い、そのような思いをもって隣人を愛していくことが、神に愛されている者の生き方であるとされています。またそれは、ただ単に自己愛への思いという面だけではなく、神に愛され、受け入れられている自分を大切にすることによって、隣人のために自分を与えていくことにも繋がっていきています。

神の愛は隣人愛、他者志向の愛、与える愛です。自分の命を投げ出してまでも、他者を愛し、さらに敵をも愛し、無価値と思われている者、弱くて小さい者をも愛し抜いていきます。神の子であるイエス・キリストが十字架の上で、自己中心的で高慢な罪深い人間の身代わりとなり、犠牲の死を遂げられたことによって、神の愛がどれほど深く人間に注がれていたかを知ることができます。そこまで、愛を注いでくださったお方がほかにおられるでしょうか。このお方に愛されていることに気づき、このお方を愛し信頼して生きていくとき、神の愛をわたしたちも実践していくことができるようになります。人を愛せないこのわたしが、神に愛されていることに気づき、愛する喜びに生かされるように、造り変えられていくからです。(チャプレン 大西 修 主教)

●本日は礼拝後に、和気あいあいとした雰囲気の中、奨励奨学生表彰式が行なわれました。柳城の学生さんは頑張っています。

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