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【ヨハネによる福音書 第5章21節】
すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。

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【ルカによる福音書 12章13~21節】

12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

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イエスは言います。「貪欲に注意しなさい。有り余るほどの財産を持っていても、人の命は、財産によってはどうすることもできないのだから。」
人間の生命そのものは、財産や所有物によって成り立っているものではない、ということです。これを聞きますと、お金で寿命は延ばせない、死んでしまっては何もならない、という意味に捉えられると思います。それは確かにそうなのですが、人の命は財産ではどうにもならないという時の「命」という言葉は、単に生物学的な意味での命ではなく、人間の生死を超えたクオリティとしての命、命の質ということを意味します。したがって、ここでの「人の命は財産によってはどうすることもできない」とは、命のクオリティを財産によって高めることはできない、ということです。

このことの意味を明確にするために、イエスは譬えを話します。
ある金持ちが持っている畑が大豊作になりました。その金持ちは悩みます。収穫物をしまっておくところがないためです。そこで、彼は、現在の倉を一旦壊して、もっと大きな倉を新たに建てて、そこに保管することにします。収穫物を溜め込んで安心した彼の前に神が現れて言います。「せっかく財産を蓄えたようだが、今夜、あなたの命は取り上げられてしまう。」

自分の財産を少しでも蓄えて将来に備えて安心したいと思うのは当然だと思います。それはそれとして必要なことです。ここで、イエスが問題にしているのは、私たちが生命を維持し、健康的な生活を営むために必要な蓄えのことではありません。問題なのは富と呼ばれるものです。それは端的に言えば、普通の暮らしをしても、あり余る財産やお金のことでありましょう。
ここに登場している金持ちの態度を見ると、財産を蓄える、と言っていることの意味がはっきりしてきます。特に金持ちのセリフの原文は印象的です。私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産というふうに、やたらと「私」という言葉が出てきます。この金持ちの関心ははっきりしています。自分です。自分のことだけです。
現代においても、食糧の分配の不平等は世界的な問題ですが、それは当時も同じでした。にもかかわらず、彼はその不平等を見ようともしません。彼が倉庫を建てて蓄えようとしていた食糧は、彼の、あるいは彼の家族が食べていくために必要な量をはるかに超えていました。このことが問題であったわけです。
食糧を独占しようとする彼の自己中心的な態度について、イエスは、人の命は財産ではどうにもならない、と言ったのでありました。それはすなわち、財産をいくら自分の中に貯め込んでも、いのちをクオリティ、命の質を高めることにはならない、ということです。

そしてイエスは「自分ために富を積んでも、神の前に豊かにならない」と言います。これは、シンプルに言い換えれば、私たちが自らの富を他者と分かち合うことこそが、私たちの生きる質を高め、神の前に豊かなものにされる、ということでありましょう。それは、この物語が示しているように、「私が、私が」と自己中心的にならないということです。すなわち、相手の命を輝かせることこそが自分の命を輝かせることになるのであり、それによってこそ、私たちは神の前に豊かに生きることができる、ということです。ついつい自己中心的になってしまう私たちですが、他者と分かち合うことを通して、命の質を大切にする生き方を追い求めていきたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


1号館南

【ヨハネによる福音書 第8章12節】
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

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こんにちは、総務課の神戸です。本日はお話をさせていただく時間を頂きましたので「人生が豊かになる映画」をご紹介したいと思います。

昔から映画は、好きで色々と見ていました。昔は、TVで映画を放送する機会が多く特に、日曜洋画劇場の解説者 淀川長治さんの解説を一週間の楽しみにしていました。また、エンディングを聞くと日曜日の終わりを感じ残っている宿題を思い出し心が、ブルーになる事も多々ありました。この話は少し年を取ってる人しかわかりませんね 失礼しました

映画は映画館で見れば一番いいのですが、少し前までは、レンタルビデオ屋さんへ通い借りてきて見ていましたが、最近はAmazon プライムにて見る機会が多くなりました。好きな時間に映画を見ることができ、レンタル期間にとらわれることもなく、返しに行かなくても良いと 良い事ずくめです。

話は、戻りまして。

YouTubeでの映画紹介がとても印象に残りましたので皆さんにご紹介します。YouTubeからの内容引用もさせていただいています。YouTubeさん ありがとうございます

ご紹介させていただきたい 作品は4本あります。「ショーシャンクの空に」はすでに、私も見たことがありましたが、その他は、是非直ぐにでも、見てみたいと思い即日鑑賞しました。どれも、とても素晴らしい作品でしたので、是非皆様もご鑑賞ください。

①まずは、インド映画からです。「きっと うまくいく」です

インド映画といえば、私の中では、歌って踊ってしかイメージがありませんでしたがこの映画は、歌って踊っても少しありますが、スティーブン・スピルバーグ監督が3回見たというほど、評価の高い面白い作品です。この映画から感じることは、「競争社会の中での、正しい人生の選択を学べることが出来る」です。

物語は、インドのエリートを養成する鬼学長のいる大学で、ちょっと変わった3バカトリオがたくさんの騒動を起こします。この物語は、その3バカトリオの話です。エリート大学を卒業してから10年後の話から始まります。

10年後に3バカトリオの1人の主人公で最もキーマンのランチョーを探すとこから始まります。このランチョーというのが型破りで、とてもすごい主人公なんですが、実は本質的でシンプルな行動原理で動いています。まず前提として、インドというのはものすごく競争社会だそうです。

貧乏から成り上がるにはエンジニアか医者になるという選択肢しかないほど。なので、主人公たちのいるエリート学校の子たちもみんな必死で勉強します。主人公のランチョーは一見勉強していないように見えても、そのエリート学校のテストでは、ガリ勉くんを抑えて1位になります。その1位になった時にランチョーはこう言います。

「なぜ私が試験で1位になったか分かるか?エンジニアリングに情熱があるからだ」と。生徒たちはみんないい点数を取って、人を蹴落としてでも自分が上に行くために、勉強を頑張っています。でも主人公のランチョーは違いました。ただ単にエンジニアリングを面白くて、それだけのために夢中になって学んでいたんです。

他人に勝とうとしてやってる人、自分が好きだから夢中でやっている人、2者の取り組み結果に差が出るのは当たり前ですよね。Appleの共同設立者「スティーブ・ジョブズ」がスピーチで言ったように、「まず人生で夢中になれることを見つけろ」っていうのは、何よりも大切なことだと思います。

勉強で何かを学ぶというのは人を蹴落とすためにやるのではなくて、学ぶこと自体が面白いから、新しいことを知ることが楽しくてやることだと思います。ぼくたち日本人も、受験勉強して、良い大学や良い企業に行かないと、良い人生を送れないという固定観念にとらわれがちです。もう1度子供の頃に戻ったつもりで、新しい何かを知るのは楽しいという、学びの原点に戻っていくべきだと思いました。

この映画の中で心が打たれるシーンがありました。3バカトリオの1人にファルハーンっていう写真を撮るのが大好きな人がいます。ファルハーンは、父からの影響でエンジニアにならないといけないという強い固定観念を持っています。彼の父はそれを押し付けてきます。その友人に主人公のランチョーはこう問いかけます。「こんなに素晴らしい写真が撮れるのに、何で写真家を目指さないんだ?写真家にならないならもったいない」と。インドではそんなこと言う人は誰もいないわけです。

とにかくエンジニアか医者になることが人生の成功だと思っています。にもかかわらず、ランチョーは、ファルハーンに写真家になれよと進言します。ファルハーンがどうやって説得されて、どういった行動をしていくのか。ここのストーリーが素晴らしいので、是非映画をご覧ください。

・競争する人と比べることに、ずっとこだわって生きていくのか?
・夢中になれることをやって生きていくのか?

どちらの方が幸せな生き方でしょうか。ぜひ、「きっと、うまくいく」のランチョーから「競争社会の中での人生の正しい選択の仕方」を学んでみてください。

しかし、この映画には難点があります。上映時間が長いことです。3時間ぐらいあるので、時間に余裕がある時にゆっくり鑑賞してくださいね。(つづく) (総務課 神戸 厚)

【全文はこちらでご覧ください】

【ルカによる福音書 6章27~35節】
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

✝ ✝ ✝

「敵を愛しなさい」という教えは、理想としてはわかるが現実には難しい、と思われるかもしれません。しかし、この教えはとても現実的です。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉がそのヒントになります。
こんなことを人から自分にしてもらいたい、と思ったら、そのことを、まず、自分が人に対してしなさいよ、ということです。イエスが言ったのは、人から何かしてもらったら、そのお返しに人にもしなさい、ということではありませんでした。人にしてもらったら自分もではなく、人からしてもらいたいと思ったらまず自分が人にしなさい、です。この順番が重要です。

例えば、他の人から親切にされたら同じようにする、あるいその親切に対してお礼をするというのは、当然のこと、社会常識、あるいは礼儀として理解されると思います。
しかし、イエスの言葉は、人からしてもらう、ということが前提となっていません。そうではなく、人からしてもらおうが、何もしてもらわなかろうが、それとは関係なく、人にしなさい、ということです。むしろ、ここでは、他人から何もしてもらっていない、ということが、前提となっています。それでもなお人にしなさいということです。相手から何らかの見返りが期待できないとしても、自分がしてほしいと思うようなことを、その相手にしなさい、ということです。自分によくしてくれる人に、よくしようとするということではない、ということです。

「敵を愛しなさい」というときの敵とは、自分によくしてくれる、見返りをくれる人、メリットをもたらす人とは逆で、自分にとって都合が悪い人、デメリットをもたらすかもしれない人です。イエスは、そういう人こそ愛しなさい、大切にしなさい、と言われるわけです。イエスの語る愛とは、自分にとってメリットがあろうがなかろうが、見返りがあろうがなかろうが、そんなこととは関係なく、何の条件もなしに他者を大切にする、というところにポイントがあります。
自分への見返りもなく、なんの条件もなしに、他者を大切にすることなんかできるか、と思われるかもしれません。しかし、例えば保育とは、まさにそのようなものであると思います。子どもたちからの見返り、メリットは期待していないはずです。将来、自分にこんなことをしてくれるからこの子を大事にしようとか、あるいは、こんなことをする子どもだから、大事にするのはやめようなどと条件をつけることは、ないはずです。

イエスは、自分を慕ってくれた弟子たちはもちろんのこと、社会から除け者にされた人々を愛し、そればかりか、イエスを嫌う人々、さらには、彼を十字架によって死に至らせた人たちをも愛されたのでした。そのようにして、神は、私たち人間に、イエスを通して、なんの見返りもなしに、愛されるその愛を示し、そして、私たち人間にもそれができるのだ、ということを表されました。

私たちはそのことに信頼し、この社会の中で、条件なしに人を愛していくことに、この社会において寂しい思い人をしている人を大切にしていくということを、一歩ずつでも実践していけたらと思います。
(チャプレン 相原太郎)


ムラサキゴテン

 

【マルコによる福音書 第10章43節】
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

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【ヨハネによる福音書6章26~35節】
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

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「私が命のパンである。」イエスが、こう話す前、5000人もの貧しい人々がイエスのところに集まっていました。そこでイエスは、わずかのパンと魚を彼らと分かち合いました。すると、そこにいた全ての人たちのお腹は満たされました。イエスが奇跡を起こしたということで、この時、イエスの人気は頂点に達しました。そして、人々はこのイエスこそ自分たちの支配者にふさわしいと考え、来るべきユダヤの王として祭り上げようとしました。当時、イスラエル地方はローマ帝国によって支配されていましたので、人々は、イエスがローマの圧政から解放してくれる王となるのではと期待しました。
しかし、イエスはそのような王になるつもりはありません。人々の求めに気がついたイエスは山に逃れます。しかしそれでもなお人々はイエスを追いかけ、探し出して見つけます。パンと魚で自分たちを満たしてくれた、あのイエスを自分たちの王にしようと求めて追いかけてきたわけです。

そのような人々に対してイエスが話した内容が、今日の聖書の言葉です。

イエスは、自分を探している人たちに対し、パンを食べて満腹したから自分を探しているのだろうと語ります。パンは確かに生存に必要不可欠なものであり、イエスはもちろんそれ自体を否定しているわけではありません。単にパンなどよりも大事なものがあると言っているわけでもありません。食べるパンが本当に必要であったからこそ、イエスは5000人とパンを分かち合いました。しかし、お腹を満たした民衆たちはイエスが王として君臨することを追い求めます。もっとパンをということです。
そんな民衆たちにイエスは語りかけます。私こそが命のパンなのだと。私自身の命が人々の間で共有されること。それによって、「誰一人、失わないで、終わりの日に復活させること」、それこそが父なる神のみ心なのだと話します。
 イエスは、人々を一人も失わないため、王として支配することは積極的な意味でしませんでした。むしろ、最も低い立場に立ち、貧しい人たちに徹底して寄り添い、彼自身が貧しさの中でその人生を送り、そして、その激しい愛の行為ゆえに十字架にかけられました。イエスは、自分自身の命を文字通り割き、人々に分け与えられたわけです。
イエス自身が分かち合われるパンであるということは、その命を、自分だけの個別的なもの、パーソナルなものとせず、人々と分かち合い、共有し、提供し、投げ出すということです。そのことによって、私たちは一人も失われることなく、誰一人飢え渇く者はなく、永遠の命へと至らせられる、ということです。

イエスは、今日、ここに集められた私たちに対しても、「私こそ命のパンだ、私は自らを差し出す、だからもはや誰一人失うことはない」と語られます。
様々な不安や痛みを抱える私たちですが、イエスが、「誰一人失うことはない」と私たちを力づけ勇気づけ、その命を私たちに分け与えられ、そのようにして私たちは支えられ生かされていることを覚えたいと思います。
そして、イエス自身が、その生涯を、私たちに、とりわけ貧しい人、飢えている人に分け与えられたように、私たちも自らの生活を自分だけのものとして抱え込むのではなく、人々と分かち合っていきたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


オオスカシバの幼虫

【ヨハネによる福音書第15章5節】
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

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【ヨハネによる福音書 2章1~11節】
2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

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 カナでの婚礼において、お酒が足りなくなったので水を美味しいワインに変えたというのが、ヨハネによる福音書でのイエスの最初の奇跡物語です。イエスによる奇跡と言ったら、例えば、病人を癒すとか、大勢の貧しい人が少量の食べ物を分け合って満腹になるなどがイメージされます。ですので、最初の奇跡であれば、例えば、水を薬に変えて飲ませたら不治の病から回復したというような奇跡が相応しいのではと思ってしまいます。なぜイエスは最初に、宴会で水をワインに変えるというような奇跡を行ったのか、あるいは、どうして福音書を記したヨハネは最初の奇跡の記録としてこの物語を選んだのでしょうか。

ポイントとなるのが水です。イエスがワインに変えた水がめの水は、本来、清めの水として用いるものでした。清めの水とは何かというと、当時の律法にしたがい、外出した後に家に入る前に手を洗う際などに用いるものでした。外出すると不特定多数の人とすれ違います。その中には、律法を守らない人、守れない人がいました。具体的には、外国人などが想定されていました。そういう人たちは律法を守っていないがゆえに、汚れているとされていました。したがって、外出すると、汚れた人とすれ違っているかもしれないから、外から帰ってきたら手をしっかり洗って清めなければならない、ということになっていました。
清めの水とは、このように、あの人は汚れている、私は汚れていない、だから清めの水で汚れを洗い流し、自分を守るのだという形で、人と人とを分離するものでした。イエスがワインに変えた水とは、そのような清めの水であったことが物語の鍵と言えます。
イエスは、当時差別されていた外国人、障害をもつ人、重い病にある人と、積極的に関わりを持ちました。そして、社会に張り巡らされた人と人とを隔てる壁をなくして、共に生きる神の世界をこの地上に実現されようとしていました。
そんなイエスにとって、人と人との関係を分断する清めの水などは無用でありました。そんな清めの水などいらないのだ、人間を汚れた者と清い者とに分けること自体がそもそも間違いなのだ、ということです。

さて、宴の席でワインがなくなったことを知ったイエスは、この清めの水を飲んでしまおうと提案しました。それはすなわち、人々を分断する水を飲んでしまうということによって、そこでの人々の交わりを真に豊かなものにする、ということです。これこそが、水を極上のワインに変えたということの本質的な意味であるように思います。 イエスはこのようにして、すべての人々が隔てなく一緒に生きることを求め、人々の暮らしや生き方を一変されていくのであり、その最初の事件がカナでの出来事でありました。

 

現代の私たちも、様々な分断の中で生きています。日本人と外国人、女性と男性、障害者と健常者など。そのような分断によって差別も生まれます。カナの婚礼において、分断の象徴であった清めの水が一致の象徴であるワインに変えられたように、現代においても、分断を取り除き、共に生きる喜びが分かち合われることが求められています。全ての人が隔てなく共に支え合って生きること、そのようなヴィジョンに支えられて、歩んでまいりたいと思います。


芝生のショウリョウバッタ

【マルコによる福音書 第8章31~33節】
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

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