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【ルカによる福音書18:15-17】
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

イエスさまは弟子たちの常識的な考え方を覆されました。小さく弱くこの世で無視されているような者への深い思いと行動こそが、神の愛の働きであると教えられたのです。

子供のようになるとはどういうことでしょうか?

「そんな子供っぽいことをして!」と叱られたことはありませんか。それとは逆に「もっと大人になりなさい。」と言われたこともあるのではないでしょうか。この言葉の中に大人は子供より偉い、優れているといった先入観があるように思われます。

子供が持っている特性をいくつか挙げることができます。バプテスト連盟東山キリスト教会の牧師であり、教育評論家であった玉木 功先生(2012.1.28.逝去、84歳)の「子どもの声が」という教育エッセイの中にそれが書かれています。

信頼、素直さ、純粋さ、優しさ、感受性、環境への順応、開放性などがそれです。これらは成長してから身につける学問や知識にもまして、神の国で喜ばれるものです。

信頼とは疑わないこと。大人はまず疑います。子供は疑いませんので、全幅の信頼を大人に、ことに母親父親に、そして教師、保育者に寄せます。

素直さとは愛情を素直に受け入れること。人の愛情を目の動きで、言葉(口)で、体の動き(行動)で受け入れていきます。

純粋さとはありのままを受け止めること、こうすればああなる、だからやめておこうなどといった損得勘定をしたり、利害関係にとらわれないことです。

優しさとは小さな命に対する心のこもって思いやりと溢れる優しさ。踏みつけて殺してしまいそうな小さな虫をも大切に守り育てることなど。

感受性が豊かなこと。身の回りのどんな小さなことにも、驚きと感動の態度を示します。大人が忘れてしまったTHE SENSE OF WONDERをしっかり保持しています。

環境への順応が早い。親や保育者・先生の態度(言葉遣い~しゃべり方、イントネーション、身のこなし方)が似てきて、身についてくる。親は自分の姿を子供から教えられます。

開放性とはいつも何かにとらわれず、生き生きとしていること。

これらの特性を認めることは、子供のすべてが素晴らしいということではありません。これらの特性を持っている子供の成長を見守りながら、共に歩むことが保育の営みです。子供の特性に触れつつ、そこから教えられ、大人は子供と共に生き成長していきます。

教育実習、保育実習、施設実習の機会を通して、これらのことを実際の現場で経験していってほしいと願っています。(チャプレン大西 修)


ポーチュラカとアシナガバチ

「子供のように」とはどういうことか…。
今回の聖書箇所ではここが話のポイントです。

福音書は2000年も前に書かれたものです。社会状況が今とは違いすぎます。たとえば、当時は、乳幼児の死亡率が高かったこともあって、イエスのような偉大な方に我が子を触れさせたいと思う親はたいへん多かったことでしょう。子に対する親の愛情は今も昔も変わりはないでしょうが、こと人権などという話になると状況は一変します。「子供など役に立たない」という感じの社会通念がはびこっていたようです(ヘロデ大王による幼児虐殺 マタイ2:16-18)。

子供を引き合いに出してイエス・キリストが語りたかった、その真意とは?
礼拝、ご参加ください。お待ちしています(^^♪

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●テーマ:「子供のようになる」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書18:15-17
◆子供を祝福する
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

●日時:7月18日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★8月誕生日の祈りを行います。

○次回以降の予定
・7/25(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科2年生)【前期最終礼拝、保育科1年生は補講期間中のため礼拝なし】
・9/5(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン

【ルカによる福音書15:11-32】
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

イエスさまが話された「放蕩息子のたとえ」から少し考えてみましょう。

①このたとえはどんな時に、誰に向かってお話になったものでしょうか。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスのもとに近寄って来た時、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「イエスはこの人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い始めた。彼らと共に食事をしたり、交わりを持つことは、不浄であり、神を汚すものであると考えていたファリサイ派の人々や律法学者たちへの答えとして、このたとえをお話になった。

②登場人物3人(父と2人の息子、弟と兄)について考えてみましょう。

放蕩息子のたとえと呼ばれているが、実はこのたとえの主人公は父であり、放蕩息子(弟)ではなく、兄でもないことを覚えておくことが大切です。兄と弟は対照的な人物として描かれているが、勿論、人間を2つのステレオタイプに分類できない。しかし、わたしたちが持っている特徴的な性格の2面をこの兄弟に見ることができる。

弟は物事に対して積極的、行動的、挑戦的であり、父から財産の分け前をもらい、一旗揚げようとして出かけたが、放蕩に身を持ち崩しすべてを使い果たしてしまう。どん底まで落ちて初めて自分の本性に気づき、父のもとに帰り一から出直そうと決断する。

一方、兄は堅実で真面目、与えられた仕事は忠実にこなすが、冒険的な生き方はしない、できない性格である。しかし、弟の生き方をどこかでうらやましく思うところがある。弟の帰宅を知り、心の中の不平不満が爆発する。今までの自分の生き方が報われず、自分と弟への父の対応は不公平極まりないと直訴する。この二人には共通点がある。二人には真の喜びがないことと父から離れていることである。

生きている喜び、生かされている喜びを二人共に感じていない、弟は父から距離的に遠く離れて生活してきたし、兄は父の近くに住んではいても、その心は父から遠く離れていた。父は弟と兄のすべてをありのままに受け入れる。決して叱らない、責めない、それぞれの心と体の痛みを優しく包みこみ、優しく諭す。決して父親の権威を振りかざさない。父の最大の特徴は喜びである。このたとえの中で二人の息子の父は神を表わしている。

③このたとえを通してイエスさまは何を伝えたかったのでしょうか。

死んでいたのに生き返り(再生)、いなくなっていたのに見つかる(再発見)ことが、父である神の最大の喜びであること、神にとっては罪人の再生と最発見こそ、何ものにも勝る喜びであり、それを祝うのは当然なのです。「神は悪人の死を喜ばない」(エゼキエル書33:11)、再生を喜ぶことを教えている。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」すべての人の父である神は、神のもとに来る者は誰をも拒まず、喜んで迎え入れてくださる。一人でも多くの人が、どんな時にでも神が共にいてくださり、すべてのものを与えてくださっていることに気付くよう望んでおられる。( チャプレン大西 修)


クチナシ

【ルカによる福音書10:25-37】
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ルカによる福音書15章25 節から37節は「善いサマリア人のたとえ」と呼ばれ、イエスさまのたとえ話の中で有名なものの一つです。

サマリア人とは紀元前721年、北のイスラエル王国がアッシリアによって侵略された時、外国人と結婚するようになった民族で、その当時、一般のユダヤ人はサマリア人を混血ゆえに軽蔑、差別し、付き合わず、旅行する時もサマリア人の住む土地を避けて行きました。このような民族間の憎悪、差別の感情を背景に、このたとえ話が成り立っています。

また、登場する律法学者はユダヤ教のパリサイ派という宗派に属し、モーセの律法に大変忠実かつ厳格でしたが、多くの場合、律法を形式的で欺瞞に満ちた守り方をしたため、イエスに彼らは偽善者と呼ばれました。

ある時、一人の律法学者がイエスに「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しました。何をしたら永遠に残る本当のしあわせをつかむことができるかという生きる上での本質に関わる質問を、イエスを試すためにしました。それによって自分の虚栄心、イエスへの敵愾心を満たそうとしました。イエスはその質問に対して直接答えず、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問されました。律法学者は聖書の専門知識をいかんなく発揮し、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(申命記6:5) また、隣人を自分のように愛しなさい。(レビ記19:18)』」と答えました。これは、聖書の全内容を「神への愛と隣人への愛」という2点に要約した模範解答でした。それに対してイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば、命が得られる。」と言われました。この言葉は律法学者にとって、実に不愉快な、痛いところを突かれた言葉でした。なぜなら、彼にとって聖書の知識は誰にも引けを取らないほど豊かでしたが、聖書のみ言葉を知っていることと、聖書のみ言葉を実行することとは別のことであったからです。しかし、自分を正当化しようとして、では「わたしの隣人とはだれですか」と質問しました。そこには律法学者の自分を変えずに、相手だけを変えようとする自己中心的な思いがありました。

「善いサマリア人のたとえ」をこれに答えるものとして話されたのです。イエスは「わたしの隣人とはだれですか」との質問には答えず、「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問い返されています。

律法学者は「自分が愛すべき対象はだれか」をイエスに問い、愛すべき対象を自分の同胞であるユダヤ人に限定しました。愛する対象を自分の好む人に限定するならば、愛することは簡単なことです。

ところが、イエスの「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」との質問は、律法学者の質問「わたしの隣人とはだれですか」とは正反対のことを言っています。

あのユダヤ人から軽蔑され、敵対視されているサマリア人が、傷つき倒れているユダヤ人に近づき、自分の身の危険も顧みず、親切の限りを尽くしたのです。イエスの質問はわたしたちをちょうど追いはぎに襲われた人の立場に立たせます。わたしたちを愛する側ではなく、愛される側に、傷つき倒れている半死半生のユダヤ人の側において「だれがこの傷つき倒れ苦しんでいるあなたの隣人なのか」と尋ねられます。わたしたちは往々にして、自らを苦しむ者、悩む者の側に置くことを避け、同情者、あるいは一段高い立場に置いて、人に親切にし、愛の行動をし、それに満足して、いつの間にか本当の愛の姿から遠ざかってしまいがちです。自分自身を変えることなしに、人を本当に愛することはできません。そうでなければ、愛の押し売りによる自己満足だけが残ります。

イエスはこのたとえ話の中で、わたしたちを低く、倒れ、傷つき、苦しんでいる者の側に置いて問いかけています。「一体だれが、このように苦しみのうちにあるあなたに近づき、あなたを心から愛した人なのですか」と。わたしたちは自分自身が本当に苦しむ者の側に立つことなくしては、苦しむ者を愛することができません。愛とは苦しみを共に担うことです。愛とは決して観念的抽象的なものではなく、具体的な人間としての出会いを通して生まれてくるものなのです。

イエスの十字架に見られる愛の姿には、神への全幅の信頼と、真に自分を投げ捨て、自分を否定することによる隣人への愛が交差し合っています。イエスの十字架の苦しみと死は、わたしたちの苦しみ、悩み、重い罪を背負ってくださることであり、血の滴るような現実の苦しみがそこにあります。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、わたしたちを苦しみの真っただ中へと押し出していくお方でもあります。

わたしたちが目をそむけ、避けて通りたい誘惑にかられる時、あえてその現実の中へ「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、呼びかけられるのです。あの善いサマリア人と同じように、苦しみ、悩みの中にある人の側に立ち、それを共に負いなさい。「あなたはそれを一人で負うのではありません。わたしもそこに一緒にいます。」そう呼びかけておられるお方の声をこのたとえ話から聴き取りましょう。(チャプレン 大西 修)


ベゴニア

今日は七夕ですが、日本列島各地は梅雨末期の記録的大雨に見舞われています。災害にあわれた方々も多いようです。神のご加護を切にお祈りします。

さて、柳城の朝の祈りが復活して、今日で2年目に入りました。毎回、ノートに参加者名を記録して来ましたが、こうして日々積み重ねることができた成果は、すべて神からのお恵み。神に栄光です(^o^)/

2018年度からは新築の学生食堂に場所を移して実施しています。朝のやわらかい光と時折吹き込む爽やかな風を感じながら、清らかな時間が与えられています。登校する学生さんは、大きなガラスの窓越しに祈りの様子を見ていることでしょう。まさに、福音書に出てくる偽善者の祈りのように?(笑)

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:5)」

朝の祈りは、他人の目に自身をアピールするものではなく、柳城のあるべき日常の風景の一つにしたいのです。それは、深い信仰を持つ先人らによって築かれてきた柳城の証。人間の意識とは無関係の、ただ、そこに「ある」もの。

人間の思いわずらいをはるかに超えて、神への全き信頼の祈りはこれからも続けられることでしょう(^^♪ (加藤)

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