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【マタイによる福音書19:13-15】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

毎朝8時40分~50分の10分間、「キッチンはらぺこ」で朝の礼拝をしています。その礼拝の中で聖歌を歌い、主の祈りを唱え、そして次の祈りを時々することがあります。

「子供たちを愛する私たち」
主よ、今朝も柳城に集えることを感謝します。
柳城はフレーベルの思想を大切に、保育を価値あるものとして120年もの道を歩んで来ました。
あなたのご計画に驚くばかりです。
創設者マーガレット・ヤング宣教師の思いが、いつまでも私たちと共にありますように。
イエス・キリストは言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と。
フレーベルはこの言葉から、子どもの生命(いのち)の偉大さを、子どもに自由な成長が保証されることを学んでいます。
子どもたちを教え、かわいがる対象としてだけではなく、愛し、敬意を払う対象にできるように、主よ、どうか私たちを成長させてください。
フレーベルは語りかけます。「子どもたちから、学ぼうではないか。」と。
主よ、この謙虚さ、誠実さ、信仰心を私たちにも与えてください。
私たちを高いレベルに導いてください。
この祈り、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン

子どもたちと長い時間を一緒に過ごしたことがある人ならだれでも、子どもたちが素晴らしい天使のような存在ではないことをよく知ってます。走り回って物をひっくり返したり、壊したり、親の会話の邪魔をしたり、面倒で厄介な質問をしてきたりします。イエスの時代も同じだったでしょう。多分いろんな性格や気質の子どもたちがいっぱいいて、中にはやんちゃな子もいれば、内気な子、好奇心いっぱいの子、わがままな子もいたことでしょう。実に多種多様な子どもたちでしたが、イエスに惹きつけられたのです。そんな子どもたちをすべてイエスは喜んで受け入れられました。子どもが最も弱く、小さな存在とされていた当時の文化の中で、イエスはご自分が子どもたちを祝福できるよう、子どもたちがそばに来ることを歓迎なさいました。

イエスは私たちに対しても同じまなざしで見ておられます。私たちがすべてを持っていなくても、完璧なふるまいをしなくても気になさいません。そんなことを期待しておられるのではなく、いつも私たちのそばにおいでになりたいのです。イエスは私たちが人々から歓迎され、大事にされ、仲間にしてもらいたいという願望を持っていることをご存じです。イエスにとっての理想像(私たちが勝手に考えた)など問題になさいません。ただ、私たちがイエスのもとに来ることだけを望んでおられるのです。

イエスのもとに連れてこられた多種多様な子どもたちに、深い愛情と忍耐力を示され、子どもたち全体と、個々の子どもたちとのやり取りを通して、イエスはあふれるばかりの愛と喜びを与えられました。

私たちに対しても、イエスは子どもたちに対すると同様に手を差し伸べてくださいます。イエスは私たちの良いところと悪いところすべてをご存じの上で、そのままの私たちを受け入れてくださり、良いところはさらに伸ばしてくださるのです。イエスを信じてイエスのもとに行く時、子どもたちのようにイエスに近づけるようになれることを、保育者を目指す私たちも覚えたいものです。(チャプレン大西 修)


ポーチュラカの実

【マルコ15:34】「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

今回イエスの御姿を通して、苦しみを味わっている時にこそ神を賛美するという祈りの基本を学びました。

場面はイエスの十字架上、死の直前のことです。イエスは「(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。

この言葉は詩篇22篇の冒頭で用いられています。神への嘆きに聞こえますが、十字架の上で苦しみもがくイエスです。断片的な言葉しか話せない状況であったはずです。

この詩篇は後半に入ると、神への賛美と信頼への言葉が続きます。

今回私は、イエスは十字架の上で22篇全体の意味を思い出して祈り、主を賛美されたと推測できることを学びました。

イエスは死の直前、ゲツセマネでの祈りと同様に、神に「本音」で祈られました。

その時、イエスでさえ神に疑問を抱いたのではないでしょうか。まさしくその言葉は綺麗事では無く、腹を割った本音の問いかけです。しかしイエスは、ご自身の最期の場面においても、神への信頼と賛美に満ちた祈りのあるべき姿を伝えられたのです。

神の前では無理をしなくていいのだよ。
神には本音を話せるのだ。
だから、こうやって私のように祈るんだよ、と。

十字架刑のイエスのお姿を間近で見ていたローマ軍の百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と語っています。私は、今回この言葉が彼の「信仰告白」であると知りました。むごたらしい死の直前に、神を賛美するイエス・キリストを彼はずっと見ていたのです。

苦しみを味わっているその祈りの始まりは神への嘆きであったとしても、賛美へと続くその祈りは、イエスの神への愛そのものです。

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さて、このシェア32をもって、マルコによる福音書の学びは一区切りとなりました。私の洗礼準備期間から一貫してイエスの信仰の「糸、愛、ご人格」について学びを与えていただいています。

次回からはいよいよルカ福音書による学びが始まります。

イエスが神に信頼し祈られるお姿を模範に、私はこれからも学び、祈りの日々を続けていきたいと思います。(Y)


ワイルドフラワー

【マタイによる福音書23:25-28】
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

わたしたちは見えないところをきれいにすることをあまり得意としていません。ですから掃除をする時も、見えるところ、例えば部屋の真ん中をまるく掃いてきれいにしますが、それでは隅の方はきれいになりません。隅の方からきれいにすれば、真ん中のほうは自然にきれいになっていきます。

小学校の家庭訪問で担任の先生がおいでになり、お母さんと話しをしていた時、子供が入って来て、いつもおもちゃが入れてある押入れを開けた途端、中からお母さんが投げ込んでいたいろんな物が転がり落ちてきて恥ずかしい思いをしたというた話を聞いたことがあります。コーヒーを飲もうとしてカップを手に取ろうとした時、外側はきれいに見えますが、きれいに洗われていないため、内側にはコーヒーの滓と汚れが付着しており、期待していたようなきれいなコーヒーカップではないことに気づきます。メッキは当初きれいでもやがて剥げます。わたしたちは外側をきれいにすることにどれだけ神経を使い、労力を使い、たくさんのお金を使っていることでしょうか。着るもの、化粧品、アクセサリーなどはまさにその代表的なものと言っていいでしょう。外見は美しくても、心の内側はどうでしょうか。

スッピンの顔は恥ずかしくて見せられないと言います。それならば、スッピンの心は比較にならないほど恥ずかしくて、とても見せられないのではないでしょうか。

律法学者たちとファリサイ派の人々とは、イエスさまの時代、社会の中で人々から敬われていたユダヤ教の宗教的指導者たちでした。イエスさまは彼らとしばしば論争されました。彼らの外側の態度や行動はきれいに見えても、心の内側は見るに堪えない偽善に満ち溢れていたため、そのことをはっきり指摘し、悔い改めを迫りました。しかし、彼らはその指摘を素直に受け入れようとはせず、本当のことを言われたことに憤りを感じ、挙句の果てにイエスさまを無き者にすることによって、偽善者と呼ばれた屈辱を晴らし、自分たちの社会的な立場を固守しようとしたのです。彼らは見栄のため、人に見せようとして律法を形だけ表面的に守り、その精神をないがしろにし、人々に天国への道を示すどころか、閉ざしてしました。それは、最も重要な正義、慈悲の心、誠実な思いを無にしていたからにほかなりません。

わたしたちも内側をきれいにする必要があるのではないでしょうか。一見素晴らく思われることも、それを誤った態度や気分ですることがあるのです。たとえば、ホームレス支援活動で貧しい人々に奉仕している時、この人々はなぜこのように底辺まで落ちてしまったのだろう。きっと何か悪いことをして、こうなってしまったのではないだろうかと、その人々を裁いてしまっていることがあるかもしれません。また、友人が自分にはとても真似のできない勇気ある行動をした時、「すごいなー、立派だなー」と素直な思いを表わせないで、あの人はお金があり、余裕もあるからそれが出来たんだと決めつけてしまうような、醜く狭い心の自分に気づかされることがあります。そのような自分の心の内側が、いかに薄汚く、暗く、傲慢や偽善に満ちているかを思い知らされ、気づかされることは重要です。

わたしたちは誰一人として、自分の心の中に入ってくる思いをすべて制御出来ないことをイエスさまはよくご存じです。しかし、わたしたちにも何かできることがあります。それは自分の態度が間違っていると気づいたときに、迷わずすぐに立ち止まって、イスさまに赦しを願うことです。イエスさまは憐れみ深く、あなたが人を裁こうとしたり、批判したり、怒りの思いに誘われたりするときには助けてくださいます。その瞬間にもイエスさまはあなたの心に、その人に対する愛を溢れさせてくださるかもしれません。

あなたは心の内側も外側もきれいになることができます。イエスさまに目を注ぎ、あなたの心をもっとイエスさまの御心に近いものに変えてくださいと、信頼しお願いすることです。(チャプレン大西 修)


ワイルドフラワーとポーチュラカ

 

 

今回の福音書は、子連れの親がイエスのうわさを聞いて集まり、子どもの健やかの成長を祈って欲しいと願う場面です。2000年前の話ですから、当時の子どもの死亡率は今の日本よりも相当に高く、親も必死だったことでしょうね。でも、イエスと話をしている最中だった弟子たちが、その親たちを叱ったのです。「邪魔だ」というわけです。「結婚する意味なんてあるのか」と弟子たちが迷っていたというタイミングの悪さも災いしたのかもしれません。それ以前に、子どもの人権もへったくれもない時代ですからね。

それでも、イエスは違っていました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 つまり、「神が支配する国は、子どものような弱者のためにあるのだ」と高らかに宣言したのでした‼

柳城に集う私たちにとって、イエスのご人格に感動できる最適な個所です。
お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●日時:9月17日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「子供たちを来させなさい」
●聖書箇所:【マタイによる福音書19:13-15】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

次回以降の予定
・9/24(火)通常礼拝(チャペル)奨励:村田先生
・10/1(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

マルコ15:31「他人は救ったのに、自分は救えない。」

今回はキリスト教の奥義とも言える「自己犠牲に徹するイエス・キリストの愛」について学びました。

記事の箇所はイエスが十字架刑に処された場面です。イエスは、そこを通りかかった人々や祭司長、律法学者たちに代わる代わる罵倒を浴びせられました。そこには、傲慢、いじめ、悪ふざけ、無知、権力志向、裏切り、ねたみ、不信仰、事なかれ主義…など、人間の持つ罪の醜さが渦巻いていました。

でも、その中にあって「他人は救ったのに、自分は救えない」という罵りだけは、実は、イエスにとっては最大級の褒め言葉だったことに、私たちは気づかないといけません。クリスチャンとは、このような自己犠牲的な愛をイエスから学び、そして実践することが神の御心に適うことだと信じる者だからです。

こうしてイエスは、私たちの罪を帳消しにするために、十字架の上で「いけにえ」として死んでくださったのです。私はその計り知れない大きい愛を感じる時、言葉を失います。そして「イエス・キリストについていきたい」と心から思います。

ところで今回、お話の中で「もし自分がその場にいたとしたら、どうするだろうか?」そんな問いかけをいただき、続いて「きっと私たちも記事の人間たちと同じように、イエスを見放すだろう」との言葉に胸がつまりました。

聖書の記事をこのように自分の身に置いて感じ、自分に与えられている問題として考えることは重要な学びです。

私はあらためて、イエスを殺した二千年前の人間たちと、現代の私たちとの精神構造は同じであり、つながっていることを知りました。技術や制度は進歩していますが、「心」は二千年前と同じかもしれません。そう、私たちと同じ仲間の「人間」が、イエスを十字架の上で殺したのです。そういう意味でも、福音書は人類にとって永遠に必要な書物だと言えます。

今回の学びから、私は本学院の理念「愛をもって仕えよ」の本当の意味を見出したと思っています。自己犠牲と自戒。これからも、その教えを大切にしながら、日々進んでいきたいと思います。(Y)


カマキリ

今回の聖書箇所では、イエス・キリストが宗教指導者らの心の状態をものの見事に言い当てています。当時の権力者と言ってもいい「偉い」人々、それも、自分よりもずっと年上の集団に向かってハッキリものを言う姿は、福音書に記されたイエスの典型的な行動パターンの一つになっています。

宗教指導者らにとっては、まことに厄介な存在のイエスですが、その「偉い」人々がイエスによってやり込められる様子は、庶民にとってはかなり痛快だったことでしょう。

イエスは、終始、弱い立場の側につく人物でした。私たちも、そういう精神構造を若いうちに身につけたいものですね。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●日時:9月10日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「心の内側と外側」
●聖書箇所:【マタイによる福音書23:25-28】
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

●次回以降の予定
・9/17(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・9/24(火)通常礼拝(チャペル)奨励:村田先生

【ルカによる福音書12:54-57】
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

「時」を表わす言葉としてギリシャ語にはクロノス(Chronos)とカイロス(Kairos)があります。

クロノスは過去から現在、未来へと決まった速度・決まった方向で機械的に流れる連続した時間を表わします。1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日といった時刻としての時間。時が刻む客観的な時間のことをいいます。クロノスからクロック(時計)という語が生まれてきました。

もう一つのカイロスは、人間が受けとめる主観的、心理的な時間を表わします。受けとめ方や感じ方で長かったり短かったり、止まったり逆流したりする、内面的な時間です。ギリシャ語で「チャンス」(機会)の意味も持っています。嫌いな授業を1時間受けている場合の1時間と、恋人との楽しいデートの1時間はクロノスでは同じ1時間ですが、カイロスでは、嫌いな授業は数時間にも長く感じられ、楽しいデートは「うそ~、もう1時間過ぎちゃったの」と思うくらい短く感じられるのです。1回限りで、独自で質的な時、大切な時、決定的な時がカイロスという時です。

聖書に出て来るカイロスは独自で質的な時、大切な時、決定的な時としての意味を持っています。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)~神の新たな支配が始まる時が来たとのイエスさまのメッセージです。 その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたにはわからないからである。」~ここで言われているその時とは、終末の時、最後の審判がなされる時です。(同 13:32~33) 時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(同 14:41~42)~ここでの時はイエスさまが十字架にかけられる重大な時を表わしています。また恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いに日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ救いの日。(コリントの信徒への手紙Ⅱ6:2)といわれている時も、神さまの支配がこの地上に開始された、何ものにも代えがたい大切で決定的な時を表わすカイロスです。

そのほかにも、イエス誕生が天使によって羊飼いたちに知らされた今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」 (ルカ2:11) の今日今日、救いがこの家に訪れた。」(ルカ19:9)と徴税人ザアカイの悔い改めを喜ばれたイエスさまの言葉の今日は、何月何日の今日ではありません。特別な今日、かけがえのない2つとない価値ある今日、そうです、今なのです。

イエスさまは言われます。あなたがたは時間的経過の中で時を見分けることはできます。気象上では雲や風の様子、日照時間、潮の満ち引き、月の満ち欠けなどによって、また自然界では、季節の変化を虫の音、動物の移動や植物の色彩の移り変わりなどによって時を見分けているけれども、今の時を見分けることができないと指摘されます。

今の時を見分けるとは、今の時を吟味すること、解釈すること、与えられているしるし(兆候)を通して見分け、見極め、洞察することです。今はどんな時なのか、何をどう考え、どのように行動していけばよいのかを賢く判断し、実行することが求められているのです。

今でしょ!とは、あなたがたにとって、二度とない大切なこの時のことを言っています。皆さんにとってかけがえのない大学生時代、後期が始まった今日、わたしは今、何をどのように見つめ、吟味し、新たなステップへと進んでいけばよいのかの決断を迫られているのです。決して遅くはありません。毎日、祈りをもって(自分自身をしっかり見つめることも大切な祈りです。)歩んで行きましょう。(チャプレン大西 修)


学食の掲示板

2019年度後期の大学礼拝がスタートします。

柳城短大に集うすべての人々に、黙想と祈りを通して、益々向上できるチャンスが与えられるよう、主のお導きに期待しましょう。

今回の福音書では、イエス・キリストが「どうして今の時を見分けることを知らないのか。」と語りかけています。「今の時」とは「イエスがこの世に遣わされている今この時」のこと。「私を信じるか信じないか、その判断が迫られている。偽善者ではなく私に従って、滅びの道から離れるように」との強烈なメッセージです。

これは、イエスが生きた2000年前の昔話ではなく、福音書を通して今の私たちにも向けられた福音でもあるのです。変化の激しい時代ですが、イエス・キリストの言葉に頼って、正しい判断で乗り切っていきたいものです。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

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●日時:9月3日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「時を見分ける ~今でしょ!~ 」
●聖書箇所:【ルカによる福音書12:54-57】
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

次回以降の予定
・9/10(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・9/17(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

今年度から幼保連携型認定こども園として再スタートした豊田幼稚園。園舎もピッカピカに改築されて、これからが本当に楽しみです。神の祝福がいただけますように。

その幼稚園から年長組さんが柳城短大に遊びに来てくれました。毎年恒例の交流会です。柳城生と一緒にゲームや体操をして、お弁当を食べ、最後に礼拝をするという柳城学院らしいプログラムです。

お昼の賛美歌タイムのためにチャペルに行ったら、ちょうどその礼拝が始まろうとしていたので、私も会衆席に着きました。

60名ほどの子どもたちは、式文や聖歌集を必要とせず、正面にある十字架の方だけを向いて礼拝に参加していましたよ。先生方の日頃のご指導の賜物でしょうか。

礼拝のお話は「紙ヒコーキ」という童話が題材でした。翼の破れた紙ヒコーキが修理工場へ飛んでいく間に、傷ついた昆虫たちを助けるというお話。この優しい紙ヒコーキはイエス様そっくりだねという大西チャプレンの導きは子どもたちの心に届いたことでしょう。

礼拝中にある「主の祈り」を暗記している子どもたちを見ながら、あらためて思いました。この子どもたちはこれからの長い人生において、この「主の祈り」が活かせるのかどうか。

ほとんどの子どもたちは、きっと「主の祈り」そのものは忘れていくことでしょう。でも、世の摂理を支配している何者かが存在するという畏れの感覚や、イエスという至高の人物が今も多くの人を向上へと導いているという現実を、何となくぼんやりとでも意識できる人に育ってくれれば、キリスト教保育は成功したと言えるかもしれません。

一生、向上しようと謙虚に努力できる人へ・・・。
主の豊かな導きが子どもたちにありますように。(K)

【マタイによる福音書】
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

【マルコ14:36】「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

今回は、イエスが祈る御姿をとおして、キリスト教の根幹である「祈りの基本」について学びました。

イエスは十字架刑に処される直前、弟子たちを伴われゲツセマネで神に祈られました。その呼びかけは「アッバ(お父さん)」。 イエス独特の呼び方です。弟子たちが見ている先で、苦悩を吐き出して祈られたのでした。福音書には「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」と記されているます。

ですが、イエスは「苦しみを取りのけてください」とだけ願われただけではありません。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、最後には神に身を委ねられたのです。

ご自分の感情を解放した上で神に従うイエスは、彼が「心の解放者」である証拠です。武家の血筋で育てられ、感情を吐き出すことはカッコ悪いことと教えられてきた私の目が開かれ、今もイエスに強く憧れる理由がここにあります。

また、このイエスのしかしという言葉がキリスト教の「はじまり」であることも知りました。「しかし」が無ければ、イエスはひょっとすると十字架を避けたかもしれないという、小説風の解釈です。

さらに、祈りとは、希望を自由に唱え、最後は神の意志にゆだねて心の平安を得ることと理解できました。

ゲツセマネで神に身を委ね祈られたイエス。
「感情を超えて、神の真理へ」。イエスはいつも私たちをこう導かれています。(Y)


白クローバー

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