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【マタイによる福音書22:15~22】
22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

✝ ✝ ✝

 イエスのいたイスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。住民は、ローマ帝国に税金を払わなければなりませんでした。多くの人が、この税金に反感を持っていました。そんな中で、ファリサイ派とヘロデ派、と呼ばれる2つのグループの人たちが、イエスに、このローマに対する税金を払うべきかどうかについて質問します。

ファリサイ派の人々は、ローマ帝国の支配に反対していました。ですので、もしイエスが、ローマに税金を支払うべき、と答えれば、ローマの支配を肯定することを意味します。ローマの支配からの解放を願っていた一般の多くの人々は、これを聴いたら、民衆の裏切り者だと思うはずです。逆にヘロデ派は、ローマの支配の現状を肯定する人たちでした。したがって、もしイエスが、ローマへの税金は拒絶すべきだ、と答えれば、支配者であるローマに対する反逆者とみなされてしまいます。

そんなことを問われたイエスは、デナリオン銀貨を出して答えます。デナリオン銀貨とは、当時、ローマが支配していた地域で広く流通していたローマの貨幣です。ローマ帝国の支配を強く印象づけるものでしたので、よい印象を持たれていませんでした。さらに、この銀貨には、ローマ皇帝が神のごとく刻印されていました。ですので、神以外のものを神としてはならないとする、ユダヤ教の教えに抵触するものでもありました。

そのようなデナリオン銀貨を見て、イエスは言います。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」このイエスの答えは何を意味しているのでしょう。

ローマ皇帝が神のごとく刻まれていたローマの貨幣は、エルサレムの神殿での使用が許されていませんでした。そこで神殿の境内には、ローマの貨幣を、神殿で使用可能な貨幣に交換する両替商がありました。ところが、実は、この神殿で用いる貨幣、そしてそれは結局神殿の収入となるわけですが、それがまた問題でありました。
イエス時代、ローマの支配は、人々の生活を苦しめるものでしたが、苦しめたのはそれだけではありません。実は、神殿そのものも、人々の生活を苦しめるものでありました。住民は、神殿税を払わなければなりませんでした。年収の10分の一を神殿に献げ、さらにはお祭りの時や、人生の節目のときなどには、神殿に献げ物を出さなければなりませんでした。

ここから考えますと、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉は、人々が手にしている貨幣は、皇帝の貨幣でも、神殿の貨幣でも、結局取られてしまうものだ、とも読み取れます。イエスの言葉は、税金をとるローマ、献げ物を求める神殿を告発する面もあったかもしれません。

しかし、この言葉の意味はそれにとどまらないと思います。
イエスは、ローマの銀貨を見て、そこに刻まれているのは、誰の肖像かと尋ねました。そこには、皇帝の姿が神であるかのように刻まれていました。
さて、ユダヤ教におきまして、本来、神の姿が刻まれているのは、どこでしょう。旧約聖書の創世記によれば、神は、神の姿に似せて私たち人間を創造されました。つまり、本来、神の姿が刻まれているのは、実は私たち自身であるということです。私たちは、そもそも神の形に似せて作られているのであり、全ての人に、神の姿が確かに刻み込まれている、というのが聖書の人間理解です。

したがって、「神のものは神に返しなさい」とは、神の姿が刻まれている私たち自身は、皇帝ではなく、そしてまた神殿でもなく、神に返されなければならない、ということです。

私たち人間に、神の姿が刻まれているとは、どういうことでしょう。たとえば、私たちは、自分のためだけに、自分勝手に生きることもできるのに、苦しんでいる人を見れば放っておけません。何か悩みを抱えている人がいれば、なんとか力になれないだろうか、と考えます。そうしたことの中に、私たちに刻まれた神の姿、神の刻印を見ることができると思います。

コロナ禍の中、私たちは、人との接触をなるべく避け、必要な人と、必要な時間を限定して会うことが求められてきました。このことは、効率重視の社会にとっては、好ましいことかもしれません。たとえば、たまたま隣にいる人が実はこういったことで困っている、ということが分かり、そのことで自分の時間を犠牲にすることなったら、ある意味で非効率で、時間の無駄になってしまいます。しかしながら、イエスがされていたように、自分のため、ということを横において、たまたま隣にいる他者のために自分の時間を犠牲にする、というような行為にこそ、本来の人間の姿、つまり神の似姿を見ることができると思います。そして、そのような行為こそが、私たちの学校の建学の精神である「愛をもって仕える」ということでもあります。                                                                                                                              (チャプレン 相原太郎)


ブラックベリー

【「コヘレトの言葉」3.1~8】
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

✝ ✝ ✝

一昨年にコロナの感染が日本中でまん延し始めてから、これまで大学では、皆さん一人一人をコロナ感染からどのように守っていくかということに、重きを置きながら歩み続けてきた。今もコロナ感染の第七波が押し寄せていると言われているが、今後は、そのような中にありながらも、皆さんの学業を、皆さんの学生生活を、より積極的に、より前向きに進めていく、そんな「とき」がきていることを強く感じている。

今日読まれた聖書の箇所では、人生には、また、世の中のさまざまなものや出来事には、それぞれの「とき」というものがあって、しかも、それがとても相応しい仕方で定められているということが語られている。コロナのことを例にとっても、それにひたすら耐える「とき」、がまんしながら少しずつ新たな準備をする「とき」、用心しながらも前に向かって動き出す「とき」、そのようなさまざまな「とき」があるように思われる。

保育・幼児教育への道を歩み始めている皆さんにとっても、学生時代の今というこの「とき」だからできること、今だからこそしておいたほうがよいこともあるのではないだろうか。

さて、わたしがこの大学と関わりをもつようになったのは、もう今から30年ほど前のことである。個人的なことを言うと、それはちょうどわたしの長女が誕生してまだ三ヶ月くらいのころであった。キリスト教の授業を担当するということで、この大学と新たに関わることになったが、わたし自身はそれまで幼児教育の勉強はほとんどしたことがなかったが、ちょうど子育てをする時期と重なったということもあり、自分なりにいろいろと保育のことを学んだように思う。すてきな絵本や童話、またすてきな言葉ともいろいろと出会ったのもそのころであったと思う。そしてそのような作品のなかのひとつに、ロバート・フルガムというアメリカ人の書いたエッセイがある。タイトルは、『人生で大切なことはすべて幼稚園の砂場で学んだ』というもので、今日はそれをぜひ皆さんに紹介したいと思っている。


人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのでなく、幼稚園の砂場に埋まっていたのである。

 わたしはそこで何を学んだだろうか

 何でもみんなと分け合うこと
ずるをしないこと
人をぶたないこと
使ったものはかならずもとのところに戻すこと
ちらかしたら自分で片づけをすること
人のものに手を出さないこと
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと
食事の前には手を洗うこと
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと
(焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい)
釣り合いの取れた生活をすること―毎日、少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして少し働くこと
毎日かならず昼寝をすること
おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないようにすること
不思議だな、と思う気持ちを大切にすること

 

大学院を出てから、まだそんなに時間も経っていないころだったので、この文章と出会ったときは、まさしく大学院という山のてっぺんから転げ落ちるような気分でもあった。
自分が長らく当たり前だと思っていた、たくさんのこと、それがどこに由来するものであるかをほとんど考えていなかったようなことが、じつは、幼稚園に由来するものであることが、とても簡潔に見事に表現されていると思った。幼児教育に関わるというのは、人間の根幹に関わる何かとてもスゴイことであると感じた瞬間でもあったし、この柳城に入学し、そして卒業していく学生たちは、これほど大切なことを伝えることに関わっている、とても尊い存在であると感じた瞬間でもあった。(とてもこの文が気に入って、会議で、昼寝の時間を取り入れませんか、と提案したことがありましたが、即、否決されました。)

幼稚園や保育園の時代の先生にあこがれたのがきっかけで、保育者を目指したということを入学試験の面接でよく耳にすることがあるが、わたしは、皆さんにも、是非とも、あこがれの対象となるような存在になってほしいと思っている。
あこがれるという言葉は、あくがるという言葉が語源となっているようで、その意味するところは、心が身体から離れる、心がさまよい歩くということに由来しているらしい。
何かに夢中になっているとき、人の心は身体から離れたようになる。絵本に集中しているとき、子どもの心は、その場を離れて、絵本の世界へと旅をしている。
そんなあこがれのポケットをたくさんもった保育者になってほしいと思っている。
そのためには、保育者を目指す皆さん自身が、たくさんのあこがれの体験をしてほしい!と願ってもいる。

フルガムさんが、「不思議だな、と思う気持ちを大切にすること」と語っているように、
不思議なことに心を踊らせてほしいし、美しいものに心を魅せられてほしい。ワクワク、ドキドキするようなことをたくさん経験してほしい。学生である今のうちに、と思っている。そして、そのような体験の積み重ねこそが、卒業後の、幼稚園や保育園やこども園でのこどもとの出会いを生き生きとしたものにすると思って歩んでいただきたい。

また、幼いときにしか身につけることのできない大切なことはどのようなことかを、ときどきは考えることもしてほしいし、そのようなことを考える習慣を持つことは、きっと皆さんの今の生活をも豊かにしてくれると思っている。

今、きっと目の前に試験やレポートもあるが、その少し先には夏休みを控えているので、今日はついこんなことを伝えたくなり、お話をさせていただいた。 (学長 菊地伸二)

【ヨハネによる福音書9:1~12】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

✝ ✝ ✝

 弟子たちはイエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」と尋ねます。
この時代、こうした病気や障害などの原因は、何か悪い霊に取り憑かれたから、あるいは、罪を犯した罰、と考えられていました。

イエスは、こうした考えを二つの点で否定します。一つは、誰かが罪を犯したからではない、ということです。もう一つは、そもそも、目が見えないということをマイナスに捉える必要はない、ということです。そのことをイエスは、こう表現しました。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
イエスは、そう語ると、その人の目に土を塗り、そして、シロアムの池というところ行って、洗いなさい、と告げます。その通りにすると、その人は、目が見えるようになって戻ってきました。

彼が池から帰ってくると、近所の人々や、物乞いをしていた姿の彼をなんとなく知っている人たちが集まってきます。すると、口々に「彼は物乞いをしていた人なのか」「違うだろう」「似ているだけだ」などと言いいました。すると本人は、「わたしがそうなのです」と彼らに言ったのでした。
これまで、彼は、通りの傍らでひっそりと物乞いをし、見向きもされませんでした。当時の社会では、こうした人々は、物乞いをするくらいしか生きる道はありませんでした。街の人たちは、そんな彼の存在を気にも止めず、関わりを持とうとしませんでした。

ところが、イエスによって癒された彼は、堂々と道の真ん中を歩いて帰ってくるのでした。そんな彼の姿に、人々は混乱しました。彼は、一体誰なのだろうかと。彼は、人々に向けて、「わたしがそうなのです」と宣言しました。彼のこの言葉は、次のような意味を持ちました。すなわち、私は、みなさんが、これまで気にもとめず、関わりを持とうとしなかった者です。自らも社会の隅の方でひっそりと暮らさなければと思ってきました。そのようにして通りの傍らで暮らしていたその人物こそ、今、ここに皆さんの前に立っている私なのです。
この時、彼の人間の尊厳は回復され、街の人たちとの関係は、大きく変わったのでした。そのことこそ、この奇跡物語の重要なハイライトです。

イエスの時代、社会から取り残され、一人寂しく物乞いをしていた彼のように、この現代においても、多くの人たちが辛い境遇にあります。イエスがされたように、愛をもって仕えることで、無関心であった関係性が変化し、そのようにして、人々の間に神様の業が現れるよう求めて参りたいと思います。

私たち自身も、この社会の中で、自分が生きていることが無意味であると思ったり、孤独に追いやられていると感じたりすることもあると思います。しかし、そのような、私たちが生きていく中で抱えている痛み、その弱さに、イエスは語りかけられます。あなたの痛み、あなたの弱さの中に、神の業は現れます、と。だからこそ、私たちは、この世界の中で、確かに存在している、確かに生きているのだ、と宣言してまいりたいと思います。    (チャプレン 相原太郎)


中庭のラベンダー

【新約聖書 マルコによる福音書4章30~32節】
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

✝ ✝ ✝

今日のお話のタイトルは、「神の国ってどんなとこ?」としました。
そもそも神の国って聞いても、皆さんには、ちんぷんかんぷんかも知れませんね?
宗教は、歴史的に、権力者とぐるになると、死んだ後の世界、天国に素晴らし世界が待っているから、今は辛いかも知れないけど、頑張って耐え忍べば、死んだ後には、報われるんだよといって人々を、言いくるめるような働き方をして来たことは歴史を振り返ると分かります。
ですから、天国、神の国について考えを廻らせるときに大切なのは、来世に望を託すのではなく、いまわたしたちの生きているこの世界をどう良くして行くことが出来るのかが、問われていることをまず、頭に置いてお話しに聞いて参りましょう。

「からし種」は、アブラナ科のカラシナ(芥子菜)の種子で、その名からもわかるとおり、辛子、マスタードの原料として有名です。しかしガリラヤ湖周辺に生えていたカラシナは、大して美しい花が咲くわけでも、良い香りがするわけでもない、当時はいわゆる雑草と呼ばれる類のものとして扱われていました。たしかにその種は 0.5mm 程度と小さいのですが、実際のカラシナの木は成長してもそれほど大きくはならず、せいぜい 150 ㎝程度にしかなりません。

文脈を無視してこの「からし種のたとえ」だけを読むと、神の国が確実に成長して大きく広がっていく話のように読めます。事実、教会ではそのように読まれてきた聖書個所です。
しかし当時「からし種」は、「小ささ」を強調するために比喩として用いられたようです。さらに旧約聖書では神さまの聖なる秩序を守るために、違う種類の種を混ぜて植えることが禁じられています。境界線を軽々と越えて、他の作物の畑に侵入してくるやっかかいものの「からし種」は、神さまの聖なる秩序を犯す、「汚れた」植物という否定的なイメージで見られ、ユダヤ教のミシュナーと呼ばれる、口伝えの法律集の中で、植える場所が細かく制限されていました。
また同じ「からし種」を使った譬話がマタイによる福音書の13章にもありますが、こちらのお話しでは「からし種」は、神の国が拡がっていくことを邪魔する、悪魔の働きの象徴として語られているのです。
ですから、初めは小さくても神の国がとても大きく拡がって行くという希望を語ろうとするなら、むしろ「からし種」を比喩にしない方がよいのです。
この話を聞いていた人たちは、神の国が「からし種」のような、本当に小さくて厄介者で、不浄なものだという話を聞いて、とても違和感を憶え、困惑をしたはずです。
32節では「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくな」ると記され、大きくなることが強調されますが、最初に言いましたように、からし種は背が低く、木のように幹がある訳ではありません。大きくなったとしても、せいぜい藪を造るぐらいです。

では、どうしてイエスさまは、神の国をイメージの良くない「からし種」に譬えられたのでしょう。もういちど、「からし種」について確認しましょう。畑の端っこに育つ「からし種」は、大きくなってもそのへんの藪にしか過ぎないのです。決して大きくな貼らないのです。大きいことは良いことだというイメージが一般的にあるのでしょうか? 聖書には、大きな鳥から小さな鳥までが、宿ることの出来る大きな木として、ヒマラヤスギが登場しています。でも、この大きな木は人間の傲慢さを表す象徴として、聖書では否定的に描かれているのです。ですから、そんな大きくならなくて良いのではという、イエスさまの問いかけが「からし種」に込められているのではないでしょか?

さらに、からし種は小さな種なのに、どんな条件が悪い土地でも、岩地でもたくましく根を張り、境界線を越えて拡がり皆から嫌われます。その根っこはあちこちにはびこり、簡単には取り除くことが出来ないのです。そんな嫌われ者のからし種がつくり出す、大して大きくもない藪ですが、小さな鳥たち、小さな生き物たちの隠れ家、住処としては絶好の場所です。ご馳走と外敵から身を隠すことの出来る素敵な場所です。

イエスさまは、この話を聞くわたしたちにも問い掛けます。「あなたたちは誰といっしょに、どんな風に生きて行こうとしているの? 本当にあなたが求めている歩みは、皆が幸せになれる道なの?」と。わたしたちに刷り込まれている、「強く美しく」がイエスさまからチャレンジを受けているのでしょう。イエスさまのお話に耳を傾けながら、キャンパスでの生活を送り、わたしたちが本当にホッとする幸せな時間や場所がどこなのか、もういちど思い巡らしてみたいと思います。   (チャプレン 後藤香織)

【新約聖書・ヨハネによる福音書第8章3~11節】
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

✝ ✝ ✝

今日の聖書の場面には、「姦通の現場で捕らえられた女」が登場しています。旧約聖書の申命記22章22-24節には、結婚している女性との性交渉をした男女は、ともに死刑にという規定があります。旧約聖書の律法(法律)は、性差別や障がい者差別の内容を含んでいますので、そのまま肯定することは出来ません。しかし、男女ともに死刑に処せられるという規定違犯であるにもかかわらず、ここでの問題は連れて来られたのが女性だけということです(3節)。いったい相手の男性はどこに行ってしまったのでしょうか?

律法学者やファリサイ派というユダヤの指導者たちは、この女性をイエスさまを十字架に追い遣る口実をつくるために、連れてきたのです。イエスさまが「女性には罪がない」と言えば、律法に違反していますので、それをもってイエスさまを十字架に追い遣ることが出来ます。「女性は罪を犯したのだから、石打の刑に」と言っても、すくなくとも女性を尊重し、民衆の側に立っていたイエスさまの人気を落とすことが出来ます。いずれの対応でも、窮してしまう状況に追い込まれたのでした。しかし、イエスさまはそのような状況にも関わらず、かがんで地面に何かを書いています(6節)。イエスさまは何をしているのでしょうか? 屈み込む姿勢は、人に仕える姿勢です。仕えられるためではなく、人に仕えるために来られた、イエスさまの謙遜さが、この屈み込む姿に表されています。自分を陥れるために、道具とされ、犠牲にされる女性をどうやって助けようかと、イエスさまは考えを廻らせていたのでしょう。

そんなイエスさまが口にされたのが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)という言葉でした。ふしだらな女に石を投げつけて殺してやろうと意気込んで集まってきていた人々は、握りしめていた石を投げつけることが出来なくなりました。イエスさまの言葉を聞きながら、女性に石を投げつければ、神さまの前に罪を犯したことがないという意思表示になってしまいます。それはあまりにも不信仰な態度です。誰もが、握っていた石を棄てて、その場を立ち去って行きました。
去って行った人たちは、自分の行いを反省をした訳ではありませんでした。律法学者やファリサイ派たちユダヤの指導者は、この出来事によってまずますイエスさまへの憎悪を募らせ、イエスさまを十字架につけて死刑にするために、邁進して行くのです。

わたしたちの日本という国は、いまだに死刑制度を存置し、積極的に死刑執行を進める野蛮で残念な国の一つです。死刑制度は、残虐で野蛮な制度ですので、国連の自由権規約委員会は、この死刑制度を廃止するという国際的な潮流に逆行し続ける日本の慇懃無礼な態度に対して、死刑制度の廃止を検討するか、少なくとも死刑の対象となる犯罪を最も重大な犯罪にのみ制限するようにという厳しい勧告を出し続けているのですが、残念ながら日本政府はその勧告を拒否し続けています。その他にも、死刑囚の処遇についても、問題が多くあって、改善するように勧告されていますが、日本政府は聞く耳を持っていません。
国連の194の加盟国のうち170の国で、法律上あるいは事実上、死刑制度が廃止されています。ですから経済先進国中、死刑を廃止していないアメリカと日本は、繰り返し野蛮な行為を止めるように、各国から批判されています。アメリカでは死刑執行に積極的だった、トランプ大統領に代わって、アメリカ連邦政府の死刑制度を廃止して、各州に追随を促すことを選挙公約にしていたバイデン大統領が就任しましたので、死刑廃止への期待がわずかですが見えてきたように思えます。
また歴史的に、日本という国は非常に早い時期、平安時代の818年に嵯峨天皇の決断によって、1156年までの347年間、一度死刑制度を廃止している、文化的に成熟した国でした。残念ながら、武士の時代になって死刑が再開されるのですが、歴史的に、本当に早くから死刑制度を廃止していた名誉はどこへやらです。このままですと、野蛮な国の汚名は返上できずに、世界でもっとも野蛮な国争い参加し続ける状況になってしまうのです。
生きている人間の命を奪うという刑罰は、非人道的であり、一度執行してしまうと、間違いがあとで発覚しても二度と取り返しがつきません。ですから国際的には、犯罪への対応として、死刑に頼らない政策が積極的に採用される傾向が年々強まっています。とりわけ先進国では、死刑廃止の潮流は揺るぎないものとなっているのです。
日弁連は、冤罪での死刑執行により、人の命が奪われてしまうことがあってはならないとして、死刑廃止を呼びかけています。しかし、わたしは今日この福音書のイエスさまの言葉を心して聞きたいと思います。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)

明らかに殺人という罪を犯していて、その制度を残している野蛮な国日本で、死刑判決を受けている人であっても、その人の命が奪われることがあってはならないのです。
なぜならば、何か理由があれば、人の命は奪われても仕方がないという考え方こそが、人の命を蔑ろにする考え方だからです。戦争が起こって人の命が蹂躙されることがあってなはらないのと同様に、死刑という制度によって人の命が奪われることはあってはならないのです。
死刑制度が、犯罪の抑止力にはならないことは、すでに死刑を廃止してる国での犯罪発生率調査統計から明らかになっています。むしろ、昨今の日本での凶悪犯罪をみると、自らが死刑になるために、多くの人の命を奪うというような事件が多発している状況を鑑みるときに、わたしたち日本の国も、人の命を本当に大切にする歩みを始めるようにと、イエスさまが語りかけてくださっているのではないでしょうか。
死刑囚という低みにまで屈み込まれ、わたしたちの生命を尊重してくださいました。誰かに死刑の判決を出すことが出来る人など誰もいません。人間が人間を罪に定めることは出来ないのです(10-11節)。
イエスさまの赦しを、その愛を豊かに受けながら、互いに愛をもって仕える歩みをこの礼拝から始めて参りたいと思います。  (チャプレン 後藤香織)


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【マタイによる福音書11:25~30節】
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

✝ ✝ ✝

軛とは、牛や馬の首にひっかけて、台車などを引かせるための道具です。聖書に登場する軛は、牛や馬が二頭、一緒になって、引っ張って歩くような仕掛けになっているものです。
この文脈で軛が示しているのは、当時の社会で守らなければならないユダヤ教の律法、あるいは、その律法の守り方でありました。当時、ユダヤ教の律法は守らなければならない厳しいものが多く、それが人々の生活、とりわけ貧しい人たちにとっては、生きていく上で大きな妨げ、負担になっていました。そのような重い負担のあるユダヤ教の律法が、軛と表現されています。しかも、律法とは、単なる日常の法律ではありません。神の前で正しい者と認められるために守るべきものでありました。したがって、律法を守れない人は、神から見放されたものと、位置付けられていました。

そして、疲れた者、重荷を負う者とは、具体的には、律法の教えに押しつぶされた人々のことでありました。律法の規定を守ることを優先するあまり、そこからこぼれ落ちる人、たとえば、重い病気の人など、律法を守りたくても守ることができない人々のことでありました。そして、社会から、さらには神からも、見放された、とされた人たちでありました。

これに対して、イエスは、そのような重くのしかかる軛とは違って、自分の軛は、負いやすくて、軽いと述べます。この「軽い」という言葉は、柔らかいという意味があります。柔らかい軛、すなわち自分たちが首にかけても痛くない、フィットしている、馴染んでいる、私たち人間のためにカスタマイズされている、というようなことです。イエスの軛は、律法のための律法、指導者のための律法ではなく、人間のため律法なのだ、ということです。
さらに、イエスは、自分は柔和で謙遜な者だ、と述べます。柔和というのは、他者の痛みを知っている、というような意味、謙遜とは、低い立場に置かれている、というようなニュアンスの言葉です。

そう考えていきますと、今日の箇所は、次のような意味にとることができます。

この社会で負いきれない重荷を負わされ、本来しなくていいはずの苦労を強いられている人たちは、私のもとに来なさい。あなたはもう、そのような無理な重荷、不条理な苦労を背負う必要はない。もう、ここでおろしていいのだ。わたしも貧しく、身分が低い者だ。私は、あなたがたの痛みを知っている。律法とは、本来、人間のためのものであるはずだ。だから、一緒にそれを担っていこうではないか。イエスは、このように呼びかけられたのでした。

このイエスの言葉は、今日、ここに集まっている私たちに対する言葉でもあります。私たちそれぞれも、この社会にあって、様々な不安や痛み、重荷を、かかえながら生活しています。そうした私たち一人ひとりに、イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけてくださっています。その重荷は、その苦労は、本当は、あなた一人で、負わなくていいはずだと。
そして、イエスは、この社会から押し付けらえた重い軛ではなく、「わたしの軛を負いなさい」と言います。イエスの軛とは一人ひとりの命と尊厳を大切にする、一人ひとりを愛するものです。そして、先ほど申しましたように、当時の軛とは、牛や馬が一頭ではなく、複数が一緒になって、車を引っ張って歩くものでした。
つまり、イエスが、軛を負いなさい、というとき、それを一人で負いなさい、担いなさい、ということではない、ということです。わたしたちと一緒に担う人がいる、ということです。それは、他でもなく、イエスご自身でありましょう。私たちの負う軛は、私たちが自分一人で担っているかのように見えて、実は、他でもないイエスが、横にいて、すでに担っておられるということです。
私たちの柳城の建学の精神は、「愛をもって仕えよ」です。イエスは、私たちに向かって、自分一人で、隣人を愛せ、愛をもって仕えよと、命令しているのではありません。他ならぬイエスご自身が、私たちの横にいて、すでにそれを実践しておられるということです。イエスは、私たち一人ひとりを大切に愛され、一緒に歩んでいてくださる、ということです。だからこそ、私たちは、イエスによって、安らぎが与えられ、そこに身を委ね、そして、そうすることを通じて、今度は、隣びとに愛をもって仕える者として歩んでいくことができるのだと思います。    (チャプレン相原太郎)


シルバープリペット

【旧約聖書 創世記9章12~17節】
9:12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
9:13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
9:14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
9:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
9:16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
9:17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

✝ ✝ ✝

 梅雨には、雨が沢山降りますね。雨が降り、雨が上がってわたしたちが目にするのは、虹です。最近はときどき目にされるようになってきているのかなと思いますが、この虹の旗についてご存じでしょうか? レインボー・フラッグもしくは、プライド・フラッグ(pride flag)と呼ばれます。LGBTQ+を表現するための旗で、ここで言うプライドとは、ゲイ・プライドを意味します。レインボー・フラッグは最も広く使われているLGBTQ+の旗であり、LGBTQ+のシンボルとなっています。
そして今月6月は「プライド月間(Pride Month)」と呼ばれ、世界各地でLGBTQ+の権利を啓発する活動・イベントが多く実施される月です。皆さんが生まれる前、1969年6月28日にニューヨーク・マンハッタンにあったゲイバー「ストーンウォール・イン」で、始まった「ストーンウォールの反乱」という出来事があります。アメリカでは1933年には「禁酒法」が廃止され、レストランやバーで酒を出すことが合法となったのですが、この時、同性愛者への差別から、同性愛者に酒を提供することが多くの州で違法となっていました。1969年6月28日、警察が「ストーンウォール・イン」に酒類販売管理法違反の取り締まりにやってきていたのですが、この日はレズビアンやトランスジェンダーが日頃の警察への嫌がらせに絶えかねて反抗したのです。この反抗がその後の抵抗運動のきっかけとなり、LGBTQ+の権利擁護運動が始まるのですが、ストーンウォールの反乱以来、6月はLGBTQの人々にとって記念すべき月となっているのです。

さて、先ほど聞きました旧約聖書は、人間が愛し合うことが出来ずに、お互いに憎み合い、争い、生命を奪い合うような生き方ばかりをしていることに神さまが心を痛め、人を創造したことを後悔し。神さまは、地上に雨を降らせ、洪水を起こして、せっかく素晴らしいものとして造られた世界をリセットすることにしたのです。そのために、無垢な人ノアに箱舟を造らせ、ノアの家族と動物をつがいにして箱舟に乗せて、雨を降り続けさせて洪水を起こされます。雨は40日40夜降り続いて、ノアの箱舟に乗った生き物以外のすべてが、洪水によって大地からぬぐい去られます。水が地上からひいた後、神さまはノアと契約を結び、これからはどんなに人間が悪い思いを抱く存在であったとしても、二度と滅ぼすことはないと決心をされます。その平和のしるしとして神さまが雲の中に置かれたのが虹なのです。虹はヘブライ語で、ケシェトですが、弓という意味もあります。神さまは、人間を滅ぼすために、雨のしずくを射った弓を、もう二度と使わないと、雲の中に置かれたのです。空を染める美しい虹に、この神さまの決意が表されているのです。

神さまは言われます。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(16節)。神さまは虹を見るたびに「地上の生き物との間に契約」を思い起こされているのです。ですから、わたしたちも虹を仰ぎ見ながら、いくら人間が邪なことを考えていても、諦めずに導いてくださる神さまの恵みに思いを馳せましょう。この世界はわたしたち人間の罪にもかかわらず、豊かに祝福されていることを虹はわたしたちに伝えています。

このように聖書で虹は、平和を指し示す約束のしるしですが、最初にレインボー・フラッグを紹介しましたように、わたしたちはこの虹を「多様性のシンボル」として、掲げて行きたいと思います。

すべての人が、様々に違った賜物を与えられています。神さまの眼差しの中で、わたしたちが、それぞれの違いを尊重しながら、互いにかけがえのない存在であることを、虹を仰ぎ見ながらしっかりと憶えて行きたいと思います。まだまだ、差別や偏見に覆われているわたしたちの世界ですが、神さまが豊かに祝福してくださっていることを、神さまの約束の虹を見ながらしっかりと憶え、互いに愛をもって仕える歩みを続けて行きたいと思います。   (チャプレン 後藤香織)


グミ

【ルカによる福音書18章9~14節】
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

✝ ✝ ✝

 当時の社会では正しい人物の代表格であったファリサイ派の人は、こう祈ります。自分は、こんなことをします、あんなことをしています、だから、神様に感謝します、というような祈りをします。一方、嫌われ者の代表格であった徴税人の方は、ただ、神様、私を助けてください、憐れんでください、と祈ります。
さて、私たちは、どちらのお祈りをお手本にすべきでしょうか。おそらく、この二人の対照的なお祈りの仕方を見れば、自分の行動を自慢するように祈るファリサイ派ではなく、謙虚な徴税人の祈り方を、お手本にすべき、と思うのではないかと思います。
しかし、このたとえをイエスが語った当時、聞いていた人たちは、徴税人を手本にすべきとは思っていませんでした。むしろ、ファリサイ派こそが正しいと思っていました。

ファリサイ派とは、ユダヤ教のグループで、大変熱心にユダヤ教の教えを守り、自ら清く貧しく生活していました。そんな姿から、当時の一般の市民の間では、大変に尊敬されていました。ここでのファリサイ派の祈りは、誇張したり自慢したりしているように見えるかもしれませんが、実際のところ、自分たちがしていることをありのままに語ったとも言えます。

一方、ローマという外国の支配者の手先となって税金を取り立てるのが徴税人でした。しかも、徴税人たちは、決められた金額以上に税金を取り立てて、私服を肥やすのが当たり前でした。外国の支配者のために働き、しかも、その立場を利用して不正に利益を得ていたということで、誰もが、悪人だと感じていました。

神から正しいとされるのはファリサイ派である、と考えるのが、当時としては素直な感情でありました。ところが、イエスの答えはまったく反対でした。正しいのは、ファリサイ派ではなく、徴税人でした。
不正を行っている徴税人のほうが正しいとする、そのポイントの一つは、ファリサイ派が「正しい人間だとうぬぼれている人」という文言です。
「うぬぼれている」という言葉は、原文では「自分自身に頼る」というような意味をもった言葉です。ファリサイ派は、週に二度断食をしたり、全収入の十分の1を献げたりなど、当時の宗教者としては、極めて真面目に規律を重んじて生きていました。問題は、ファリサイ派が、自分が努力していることに頼っている、ということでした。それは、裏を返せば、神に頼ることをせず、自分だけを見て、自分自身の力だけを頼りにした生き方であった、ということです。
ファリサイ派は次のようにも祈っています。自分が「この徴税人のような者でないことに感謝します。」結局のところ、ファリサイ派は、神に向かって祈っているはずなのに、実際には、徴税人のほうを見て、そして人と自分を比べ、自分の方ばかりを見て祈っていたわけです。

一方徴税人はどうでしょう。彼はただ、「私を憐れんでください」、神様助けてください、と祈ります。そこには他者との比較はありません。自分を頼りにすることもありません。
この徴税人は、自分の力で自分自身を救うことなどできない、という自覚がありました。そして、ただ、神に寄り頼んでいます。だからこそ、この徴税人こそ、神と正しい関係にあるのだ、とされるのでありました。

私たちは、この現代の日本で、自分自身だけを頼りにし、自分の努力で、様々な困難を乗り越え、生きていかざるえない社会で暮らしています。そんなことで、私たちは、自分自身に頼ることは慣れていますが、人を頼りにし、助けを求めることには慣れていません。
しかし、私たちは、自分だけを頼りとする必要はありません。むしろ他の人を頼っていい、助けを求めていい、ということを確認しておきたいと思います。助けを求めることによって、自分に欠けている部分を、他者が補ってくれるはずです。
このことは、神との関係においても同様です。神は私たちをよいもので満たしてくださいます。ですから、常に完璧であろうとするよりも、自分には欠けがあるのだと理解することが重要です。自分が、自分が、と、常に自分自身を頼りにし、自分の中を自分自身で充満させていたら、神様が入り込むスペースが、なくなってしまいます。
神様は、そもそも私たちを良いものとして作られました。それは、完璧なもの、一人で完結できる者として、という意味ではないと思います。むしろ、自分がパーフェクトでないことを認め、助けを求めるもの、助け合うもの、言い換えれば、愛をもって仕え合う者として作られた、ということだと思います。
であるからこそ、私たちは、率直に自分に欠けのある者であることを認め、神に信頼して祈り、また、他者に助けを求めて生きる者でありたいと思います。    (チャプレン 相原太郎)


クローバーの冠

【マルコによる福音書10:42-45】
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

✝ ✝ ✝

 弟子たちは「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とイエスにお願いしています。これは、イエスが天下を取ったら、自分たちがナンバー2、ナンバー3になりたい、ということです。弟子たちは、この時、イエスのそばにいることで、将来の身分が保証されるはずだ、というように考えていました。しかしイエスは、人間がいくら頑張っても、いくらイエスのそばにいたからと言っても、将来の身分保証にはならない、と語ります。むしろそれは、結局はただ自分のためにやっていることでしかない、と見抜いておられるわけです。
マルコによる福音書の最後の方を見ると、弟子たちの願望であった「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、もう一人を左に」という言葉が、全く意外な形で達成されたことがわかります。それはイエスが十字架に架けられた時のことです。イエスが、十字架によって処刑されたとき、イエスとは別に、二人の強盗が、「一人は右に、もう一人は左に」十字架につけられて、処刑されました。そして、イエスは横にいた死刑囚の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げて祝福します。
神の子であるイエスは、十字架によって処刑されます。それは、神ご自身が人間と同じように死ぬ、しかも最も残酷な形で処刑されるということです。そのようにして、神の子が私たち人間と同じ死の苦しみを経験し、最も悲惨な痛みと敗北、挫折、絶望を自ら担うことを通して、私たちに心底寄り添われる、ということを示されました。これこそが、イエスにとって栄光であり、それは、弟子たちが思い描いていた栄光とは、まったく次元の違う事柄でありました。

一般にキリストに連なる者とは、イエスに従うことこそ大事なことだと考えていると思います。しかし、今日の箇所から見えてくるのは、そのイエスに従うという時の態度、考え、思いが、どのようなものなのかが重要であるわけです。もし、イエスに従う理由が、この世的に成功したいとか、自分だけがよくなりたい、ということだとしたら、それは結局、イエスに従っていることにはならない、ということです。

そこでイエスが弟子たちに対して述べたのが、「皆に仕える者になりなさい」ということでした。イエスは、「自分に仕えなさい」「イエスに仕えなさい」とは言いませんでした。イエスは、「皆に仕える者になりなさい」と語るわけです。弟子たちは一生懸命イエスの方ばかり向いているように見えました。しかし、イエスを見ているようで、実は自分のことばかり見ていました。イエスは、そんな弟子たちに対して、皆に仕える者になりなさい、と言います。

この「仕える者になりなさい」とは、人に支配されなさい、ということではありません。イエスが言っている「仕える」とは、上下関係や力関係を前提とした一方的な関係ではありません。イエスの言う「仕える者」とは、互いに仕え合うことを通して実現するものです。上下関係、支配・被支配の関係から自由になって、お互いのことを大切にし合う関係になる、ということです。それは、当初の弟子のような上昇志向や権力志向から離れること、言い換えれば、この世的な報いを放棄する、捨てる、ということです。何か、自分にメリットがあるから、この人と関係を持っていようという、そんな関係性から離れよう、ということです。

私たちは、このような仕え合う関係を、身近な場で、そして、この世界のあらゆる場で、求めていきたいと思います。それは、支配する、支配されるという関係、損得勘定やメリットのあるなしで人と向き合うのではなく、愛によって互いに仕え合う関係へと変わっていくということです。仕える者になるとは、そのような世界の変革を求める、大きなヴィジョンでもあります。私たちがそのようなヴィジョンに向かって共に歩んでいければと思います。    (チャプレン 相原太郎)


クローバー畑

【創世記11章1~9節】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

✝ ✝ ✝

 バベルの塔は、高い塔を作ることそのものよりも、その目的が問題でした。その目的とは、彼らの言葉の中にある「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」というものでした。
この「有名になる」とは、単に有名人なる、といったようなことではありません。「有名になる」という言葉は、元々の表現では、自分の名前にこだわる、自分にこだわる、というような意味です。別の言い方をすれば、自分を中心にして生きること、自分の強さを土台にして生きる、というようなことです。自分を中心にして生きるどうなるでしょう。自分が世界の中心ですので、周りの人を見下すことにつながってしまいます。そして、神の存在を忘れてしまい、あたかも、自分が神であるかのようになってしまいます。そのことこそが、問題でありました。

その時、聖書によれば、神が、降っていって、バベルの塔の建設を見た、と書かれています。人々は、天に届くような高い塔を建てた、と思っていました。ところが、実際には、神は天からそれを見ることなどできません。塔を見るためには、降ってこなければなりませんでした。つまり、天に届かせよう、という人間の思い上がりは、全くの見当違いであるわけです。神は天に居座って、天まで届く人間を待っているのではありません。実際はその逆で、神が、私たちの間に降りてこられる、ということです。
そして、バベルの塔を見た神は、一つだった言葉をバラバラにして通じなくさせて、そのような企てが起きないようにしました。

このストーリーで興味深いのは、人間が、神になったかのように思い上がり、周りの人を見下して、自己中心的になると、言葉が通じなくなってしまう、ということです。
言葉が通じない、というのは、日本語や英語といった言語のことではないように思います。自分のことばかり考えると、相手の言うことが耳に入らなくなってしまう、ということではないかと思います。あるいは、相手の言葉を、自分に都合のいいように解釈してしまう、ということです。
したがって、ここでのポイントは、相手の語る言葉に率直に耳を傾けられるか、ということだと思います。自分のことしか考えず、他の人のことはどうでもいい、という想いから、解き放たれることです。それによって、相手と通じ合うことが可能になる、ということです。

イエスが示された愛も、自分が高みに立って、隣人に対して、自分の考え、自分の存在を押し付ける、ということではありませんでした。むしろその正反対でした。イエスは、徹底して自分中心の考えから離れ、高みではなく、むしろ自分を低くして、全身全霊で、他者の痛み、悲しみ、苦しみ、そして喜びに寄り添われました。とりわけ、当時の社会から排除され、差別され、抑圧を受けていた人たちと共にあろうとしました。
それは、全ての人が、本来、神に似せて作られた素晴らしい存在であり、神に愛されているのだ、という確信がイエスにあったからに他なりません。イエスの愛の生涯とは、バベルの塔の建設とは、全く反対の事柄であるわけです。

私たちは、「愛をもって仕えよ」という建学の精神の中で学んでいます。それは、ここでの学びが、あたかも自分のための高い塔を建設するかのように、自分のためだけにするものではない、ということです。むしろ、その反対に、神が私たちの間に降りてこられたように、自分を低くし、他者の痛みを知り、その声に耳を傾ける、ということです。
バベルの塔の物語が示しているように、自己中心的な生き方は、結局は、人との関係が消えていき、身の破滅を招きます。私たちは、そのような生き方から離れていくことによって、豊かな生き方がもたらされることを、イエスによって知らされています。私たちは、そのことに感謝しながら、愛をもって隣人に仕えてまいりたいと思います。   (チャプレン相原太郎)


アゲハチョウ

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