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カテゴリー:バイブルタイム の記事一覧

【マルコ15:34】「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

今回イエスの御姿を通して、苦しみを味わっている時にこそ神を賛美するという祈りの基本を学びました。

場面はイエスの十字架上、死の直前のことです。イエスは「(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。

この言葉は詩篇22篇の冒頭で用いられています。神への嘆きに聞こえますが、十字架の上で苦しみもがくイエスです。断片的な言葉しか話せない状況であったはずです。

この詩篇は後半に入ると、神への賛美と信頼への言葉が続きます。

今回私は、イエスは十字架の上で22篇全体の意味を思い出して祈り、主を賛美されたと推測できることを学びました。

イエスは死の直前、ゲツセマネでの祈りと同様に、神に「本音」で祈られました。

その時、イエスでさえ神に疑問を抱いたのではないでしょうか。まさしくその言葉は綺麗事では無く、腹を割った本音の問いかけです。しかしイエスは、ご自身の最期の場面においても、神への信頼と賛美に満ちた祈りのあるべき姿を伝えられたのです。

神の前では無理をしなくていいのだよ。
神には本音を話せるのだ。
だから、こうやって私のように祈るんだよ、と。

十字架刑のイエスのお姿を間近で見ていたローマ軍の百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と語っています。私は、今回この言葉が彼の「信仰告白」であると知りました。むごたらしい死の直前に、神を賛美するイエス・キリストを彼はずっと見ていたのです。

苦しみを味わっているその祈りの始まりは神への嘆きであったとしても、賛美へと続くその祈りは、イエスの神への愛そのものです。

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さて、このシェア32をもって、マルコによる福音書の学びは一区切りとなりました。私の洗礼準備期間から一貫してイエスの信仰の「糸、愛、ご人格」について学びを与えていただいています。

次回からはいよいよルカ福音書による学びが始まります。

イエスが神に信頼し祈られるお姿を模範に、私はこれからも学び、祈りの日々を続けていきたいと思います。(Y)


ワイルドフラワー

マルコ15:31「他人は救ったのに、自分は救えない。」

今回はキリスト教の奥義とも言える「自己犠牲に徹するイエス・キリストの愛」について学びました。

記事の箇所はイエスが十字架刑に処された場面です。イエスは、そこを通りかかった人々や祭司長、律法学者たちに代わる代わる罵倒を浴びせられました。そこには、傲慢、いじめ、悪ふざけ、無知、権力志向、裏切り、ねたみ、不信仰、事なかれ主義…など、人間の持つ罪の醜さが渦巻いていました。

でも、その中にあって「他人は救ったのに、自分は救えない」という罵りだけは、実は、イエスにとっては最大級の褒め言葉だったことに、私たちは気づかないといけません。クリスチャンとは、このような自己犠牲的な愛をイエスから学び、そして実践することが神の御心に適うことだと信じる者だからです。

こうしてイエスは、私たちの罪を帳消しにするために、十字架の上で「いけにえ」として死んでくださったのです。私はその計り知れない大きい愛を感じる時、言葉を失います。そして「イエス・キリストについていきたい」と心から思います。

ところで今回、お話の中で「もし自分がその場にいたとしたら、どうするだろうか?」そんな問いかけをいただき、続いて「きっと私たちも記事の人間たちと同じように、イエスを見放すだろう」との言葉に胸がつまりました。

聖書の記事をこのように自分の身に置いて感じ、自分に与えられている問題として考えることは重要な学びです。

私はあらためて、イエスを殺した二千年前の人間たちと、現代の私たちとの精神構造は同じであり、つながっていることを知りました。技術や制度は進歩していますが、「心」は二千年前と同じかもしれません。そう、私たちと同じ仲間の「人間」が、イエスを十字架の上で殺したのです。そういう意味でも、福音書は人類にとって永遠に必要な書物だと言えます。

今回の学びから、私は本学院の理念「愛をもって仕えよ」の本当の意味を見出したと思っています。自己犠牲と自戒。これからも、その教えを大切にしながら、日々進んでいきたいと思います。(Y)


カマキリ

【マルコ14:36】「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

今回は、イエスが祈る御姿をとおして、キリスト教の根幹である「祈りの基本」について学びました。

イエスは十字架刑に処される直前、弟子たちを伴われゲツセマネで神に祈られました。その呼びかけは「アッバ(お父さん)」。 イエス独特の呼び方です。弟子たちが見ている先で、苦悩を吐き出して祈られたのでした。福音書には「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」と記されているます。

ですが、イエスは「苦しみを取りのけてください」とだけ願われただけではありません。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、最後には神に身を委ねられたのです。

ご自分の感情を解放した上で神に従うイエスは、彼が「心の解放者」である証拠です。武家の血筋で育てられ、感情を吐き出すことはカッコ悪いことと教えられてきた私の目が開かれ、今もイエスに強く憧れる理由がここにあります。

また、このイエスのしかしという言葉がキリスト教の「はじまり」であることも知りました。「しかし」が無ければ、イエスはひょっとすると十字架を避けたかもしれないという、小説風の解釈です。

さらに、祈りとは、希望を自由に唱え、最後は神の意志にゆだねて心の平安を得ることと理解できました。

ゲツセマネで神に身を委ね祈られたイエス。
「感情を超えて、神の真理へ」。イエスはいつも私たちをこう導かれています。(Y)


白クローバー

「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)

マルコによる福音書5章35節〜43節に記されている「ヤイロの娘の復活」を皆さんは信じることができるでしょうか。

私は最初読んだ時、とてもじゃないけど信じられない、そんなことが起こるわけがないと思っていました。ですが、クリスチャンは、聖書に書かれていることだから、きっとそんなことがあったんだと考えているみたいです。そしてクリスチャンの凄いところは、クリスチャンではない人が聖書に書かれていることに対して「信じない」と言ったとしても、その人を責めたり非難したりしないそうです。クリスチャンの人はイエス・キリストと共に生きている人たちだから、私はたいへん尊敬しています。

あるクリスチャンの話ですが、もうすぐ死のうとする人にこう言ったそうです。「あなたは、もう15分で神さまに会えるのだ、喜べ」。このように言える人は本当に神を信じ、神に近い人なのだそうです。

私はクリスチャンでもないし、イエスや神を信仰している人間でもないですが、いつも弱い者の味方で、助けを求めてくる者を無視しない、そんなイエス・キリストは本当に凄い人物だったということを知ったし、もっとイエス・キリストを知りたいなと思います。(YM)


飛べないセミ

「これはわたしの体である。」「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコによる福音書14:22,24)

イエスは十字架刑にかかる直前、「別れの宴」とも言える晩餐の時を弟子と共に持ちました。

そこでイエスは、パンとブドウ酒を使って弟子への深い愛を示されたのです。「パンを食べるたびに私を思い出しなさい。ブドウ酒を飲むたびに私があなた方にした約束を思い出しなさい。そうすれば、永遠の命が得られる」と。

その深い愛は私たちへも向けられています。生きていくに必要な食べ物を使って、誰もがいつでも簡単にイエスに「帰る」ことが出来る仕組み。今回私は改めてイエスが私たちにあらわされた愛と恵みの大きさに感謝しました。実にシンプルで合理的です。

クリスチャンである私は、週に一度の聖餐に預かるたびにイエスの愛に感謝を捧げてきましたが、これからは、イエスのシンプルな教えにのっとり、ありふれた日々三度の食事においても、形式にとらわれずに心のままにイエスを感じたいと思います。(Y)


ミニヒマワリ

「目を覚ましていなさい」(マルコによる福音書13:37)

今回は、愛ゆえの厳しさによってイエス・キリストが私たち人類にお求めになられる真実の信仰の姿について学ぶことが出来ました。

前回に続いて十字架に向かわれる直前の貴重な時を用いられ、イエスは弟子たちに終末について述べられました。その中でイエスは「目を覚ましていなさい」と4回も繰り返し諭されました。私たちが油断し真の信仰から離れてしまうことのないように念を押されたのです。

イエスが諭された「目を覚ましている」こととは、日々の生活の中で福音書に触れてイエスを仰ぎながら暮らすことだと、私は今回学びました。それは毎日の努力の積み重ねを要し「行動」であらわされるものです。

私は本学保育科の二年次、洗礼堅信にあずかりました。学びの中、イエスのお姿を辿るうち、行動を伴わない信仰は真の信仰とは言えないというキリスト教の厳しさがあることを知りました。しかし一方で、イエスの計り知れない愛のお姿も学んでいます。

今回の聖書記事において、終末がやってきた時にすべての人が神に選ばれ救われて欲しいとイエスが願われていることが分かります。イエスはそのためにこの世に遣わされたのです。私はその愛に心が熱くなります。でも、イエスを受け入れて救われるかどうかは私たちが判断することです。ここに現実の厳しさが感じられます。

イエスに出会う人生。それはたとえキリスト教徒でなくても、人生をまっすぐに生きる指針となり、喜びであると私は思います。

次回もイエスに真中に感じ、仲間とともに、学び、そして祈ります。(Y)


ミニヒマワリ

「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコによる福音書13:13)

今回はイエスのお姿を通して、どんな状況にあっても相手に真実を伝える正直な愛のお姿を学びました。

イエスは十字架刑に処される目前のある日、弟子たちに終末について述べられました。

その中でイエスは、弟子たちがこれから迎えるであろう災難について警告をなさり、弟子であることの厳しさを超然と当たり前のこととしてお伝えになられました。

一方で、イエスはこの災難こそが、福音書が伝えられる最大のチャンスであると語ります。そして災難を成就した果てには神の国に入る道が与えられるとお約束なさったのです。

イエスは常にどのような時も本音を丁寧に語られます。それがいかに厳しい道に至るものだとしても。そして自ら、十字架上の処刑という災難を通して全世界に福音が述べ伝えるきっかけを作られたのです。

今回私は、師とは言葉だけでなく行動によって真実を証しすべきものと知りました。私はそのお姿に心からの信頼を感じます。

相手に真実を伝えることは一見とても冷酷に感じます。しかし今回私はお話を聞いているうちに、イエスの深い真意が感じられました。そこには、イエスの私たちに与えてくださる愛と真実が見えます。

次回も福音書を通しイメージを膨らませ、よりいっそう人間イエス・キリストのお姿を感じられるよう学んでいきます。(Y)


モンシロチョウ

「これらの大きな建物を見ているのか。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マルコによる福音書13:2)

神殿の境内を出て行く時、一人の弟子がイエスに向かってこう言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう(13:1)。」するとイエスは表題にある御言葉をお返しなさったのです。

今回学んだ内容は以下の通りです。

・物よりも愛や心を大切にする、イエスの基本姿勢。
・「石が、絶対に崩れ去らない石の(=基礎の石)の上に残されることは決してない。」と訳した方が分かり易い。つまり基礎以外の石は全部破壊されるということ。
・この箇所は、紀元70年、ローマ軍によって攻撃され廃墟と化したエルサレム神殿の姿をイエスが予言されていると論じられることが多い。でも、イエスの純粋な本性に倣い、これは一般論としてお話になっていると考えた方が自然。
・栄華を極めた荘厳な建物は、しょせんは人間が作ったものでしかない。それよりも大切なのは愛や心である。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)」とイエスが語る通りである。
・祈りは立派な建物がなくても出来る。そんな建物を神が要求なさるとは思われない。場所にこだわらないイエスは次のように語る。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:21)」(Y)


学食の花瓶

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)

「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか」と、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちに聞かれ、イエスはこう答えました。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(2:19-20)

ここで出てくる花婿はイエスのことであり、婚礼の客というのはイエスの弟子たちのことを指しています。つまり、イエスと一緒に喜びに浸っている時に断食などできはしないが、イエスが十字架にかけられた時には、弟子たちはしっかりと断食することになる、という解釈になります。

断食を規則的に行なうという古いルールに縛られずに、その時々の状況に応じ、気持ちを込めて断食をしなさいとイエスは教えられたのです。

私はイエスが言った言葉を聞き、イエスはとても頭がよくて、いつか自分が十字架にかけられて死ぬことを予見していた感のいい人物だと思いました。そして、古いものから離れる勇気、つまり、今までと同じやり方から離れる勇気は、保育者を志す私たち柳城生にとって、とても必要だと思いました。

そのような意味でイエスは新しい存在だといえます。福音書を手に取り、イエスの生涯を学んでいくうちに、私はこれからどんな人生を歩むべきなのか、勉強になったことが沢山ありました。福音書はすごく奥が深いと思います!


学食から見えた虹

 

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」(マルコによる福音書12:43)

エルサレム入城を果たされたイエスは、神殿の賽銭箱の近くにお座りになり群衆が献金する様子をご覧になっていました。当時、献金者は、自分の献金の目的と金額とを声高く告げたので、周囲の人は、それを聞くことができたといいます。そういう習慣は「見え」のための献金を助長したに違いありません。

その時、貧しいやもめが最小単位のレプトン銭2枚、今の日本で言うと1円玉2枚を献金しました。それは彼女にとって生活費の全てだった事をご存知だったイエスは、「彼女は誰よりも多く献金した」と語って彼女を称賛されたのです。

確かに、彼女の献金額は金持ちのそれに較べれば取るに足らないものでした。でも、その額は彼女にとって大きな痛みを伴うものでした。それを痛みとは思わない彼女の厚い信仰、つまり神への絶大な信頼心は感動的です。

今回この場面を通して、イエスは献金のススメと同時に「見かけではなく心を大切にしなさい」と教えられていることを知りました。そして、イエスはお金というものは「悪」ではなく、その人が変わるチャンスに繋がる可能性を持つものと捉えられていることに、イエスの現実的な感性を感じました。そして、保育者を目指す私も、目に見える現象に囚われることなく、心の目を常に磨き続ける必要があると思いました。

「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)。人間関係よりも神関係を大切にせよとのこの御言葉を常に心に留めながら。(Y)


花壇の花を摘む親子

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