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天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:10~12)

クリスマス降誕劇で良く知られたイエス・キリスト誕生の物語。今回は「マタイによる福音書」と対比させながら学んでいきました。

福音記者ルカは、イエスがベツレヘムで生まれて飼い葉桶に寝かされると、そこへ羊飼いたちが見にやって来るという物語を綴りますが、マタイの方は、イエスの生まれたベツレヘムの、その「家」に東方から学者らがやって来て高価な贈り物を捧げたと記します。

降誕劇の台本はこの二つの事実をミックスして作られています。だから、これでは、ルカとマタイがそれぞれ別の視点でイエスの誕生を捉えている点が曖昧になってしまうことに、今回はじめて気づかされました。

マタイの視点とは…。それは「学者」という権威ある者がイエスを拝んだことで、イエスの尊厳さを際立たせようとしたことです。それは権威を重んじるユダヤ人指導者の発想に近いものでした。でも、その学者らは異国人でした。だから、マタイは「ユダヤ人のために生まれたはずのイエスをユダヤ人が拝みに来ない」と風刺するとともに、イエスがユダヤだけではなくて全世界の救世主である点を強調することも忘れてはいません。

一方のルカは、当時、地位が低く軽蔑されていた職業である羊飼いを登場させます。弱者の側にいつも立つイエスを「飼い葉桶」によって象徴的に描こうとするルカの姿勢がここにも表れています。ちなみに、マタイが「赤ちゃんイエスが家に住んでいた」ことを示唆する、その違いを見逃してはなりません。

そして、羊飼いらに天使は次のように語ったとルカは続けます。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(2:10)」  
「民全体」とは全世界を意味しますので、ルカもマタイ同様、イエスがユダヤだけの救世主ではないことを伝えます。なお、この「告げる」とは「福音を告げる」ことを意味する言葉だそうです。

さて、彼らは一連の不思議な体験を人々に告げ知らせますが、信じてはもらえなかったようです。でもイエスの母マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(ルカ2:19)」のです。

マリアは羊飼いらの姿を見て感じながら確信を持ったのでしょう。「心に納める」とは、内緒にすることではなくて、しっかりと記憶するという意味です。

このマリアの姿勢は保育者となる私たちに常に必要な冷静さを教えてくれています。自分なり、独りで感じること…そう。大きな確信を得て、これからの道を冷静に歩いていく術をマリアから学べるのではないでしょうか。

飼い葉桶に寝かされたイエス。
「だが人の子は枕する所もない(ルカ9:58)」 
この御言葉どおりのご生涯が、今、始まったのでした。

次回もイエスの道をたどり、学んでいきます。イエスを大好きになる、そんな子どもたちが一人でも増えることを信じて。(Y)


押し花の準備

今回は、あの有名な「マリアの賛歌」に触れて、マリアの姿を強くイメージすることが出来ました。

旧約聖書(詩篇、サムエル下、ヨブ記など)の言葉の段片が豊富に散りばめられているこの賛歌。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。(1:46~48)」とか「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。(1:50)」には、受胎告知を受けた母マリアの深い信仰と神への賛美、謙遜な姿が女性らしい祈りの言葉として記されています。

一方、51節からは「腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。(1:51~56)」と記されているように、言葉にも勢いが増します。そこには当時のイスラエル人らしい、全てを神に信託するマリアの本性が力強く感じられます。

今回私はこの美しいマリアの祈りが、単なる神への賛美だけではなく「預言」でもあることを知りました。

マリアは聖霊に満たされる中で、イエス・キリストの誕生によって旧約の時代が終わり新しいイエスの時代へと世の中が変わることを、喜びを持って告げました。

新しい時代では、神によって、権力を持っておごり高ぶる人間は引き下ろされ、不要な人間と蔑まれてきた弱い立場の人々は高くあげられるのです。

私は、このマリアの預言はイエスによって実現し、これこそが「希望」だと感じます。自分を「はしため」と語ったマリアもその希望は同じ思いであったのでしょう。

次回では、いよいよイエスが誕生なさいます。「深い闇を切り裂く光」の象徴であるイエスの登場に心をときめかせながら学びを進めていきます。(Y)


オオスカシバ

今回の記事を通して、信仰深い人には神のご計画が聖霊によって与えられるということを私は学びました。

前回のマリアの受胎告知に続き、今回はその後のマリアとエリサベトの物語です。

マリアに対する天使のお告げを聞いたエリサベトは、喜びに包まれ、自分の胎内の子がおどったと書かれています。エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)とマリアの信仰の深さを祝福し神を賛美しました。

一方のマリアも「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(1:47)と、信仰の深い人間らしく、神を仰ぎ讃えています。

しかし、福音書を知る私たちは、天使から祝福されて生まれきたイエスとヨハネが、共に人生の途上で殺される運命にあることを知っています。その悲惨さを知るからこそ、二人の母への神の祝福が余計に深遠なものに感じられるのです。シェイクスピアなら正に悲劇の場面として描くはずです。でも福音書は違います。これこそが神のご計画であり、世を救う福音だと断言するのです。

私は今回の学びによって、聖霊に満たされ神のご計画に生きる人間は、艱難を乗り越える強さを持っていると理解できました。

日々の祈りの姿と合わせ、神を仰ぎ行動し続ける人間だからこその恵みであると思います。神のご計画のもと、みごもった女性たちは、心からの喜びに包まれていました。二人には、その先に「見えない世界=神の国」があることを信じられる信仰の深さがあったのです。

次回はイエスの誕生へと物語が続きます。
主に感謝しながら学びを進めていきます。(Y)


ミニヒマワリの定植

今回私は、すべては神のご計画の手のうちにあるのだということが理解できました。それは洗礼者ヨハネ、そしてイエスの誕生においても…。

記事では、前回にひきつづきヨハネの誕生物語が記されています。またマリア受胎の場面が、その後に続きます。

ルカは旧約聖書の記事(民数記6:3、マラキ書3:23)を引用することにより、ヨハネを神に遣わされた特別な人間だと強調しています。つまり、民にイエス・キリストに耳を傾けさせる準備をした人間、民に神への信仰に心を向けさせた人間と記しているのです

ヨハネは民が待ち望むメシアの先駆けとしてあらわれました。イスラエルの民が待ち望んでいた救世主がいよいよ、この世にあらわされるのです。特別な人間、ヨハネを遥かに超えた存在が。

後半ではクリスマスの時期ページェントでもお馴染みのガブリエルとマリアの受胎告知の場面が続きます。

マリアは夫と離れて暮らす婚約の期間に、イエスを身ごもります。それは世の負い目を追って生きるマリアへの試練、また福音でもありました。

天使の言葉を信じず、ヨハネが生まれるまでの間、罰として「沈黙」を余儀なくされたザカリアと同じく、はじめは天使の言葉に戸惑ったマリアでしたが、最後は、神から与えられた使命を「お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)と受け入れたのでした。

私は今回の記事を通して、信仰には、福音の前では「沈黙」し、神のご計画に生きる謙遜さが常に重要であると感じました。それは、私たちがイエス・キリストに少しずつでも近づくことが出来る唯一の方法であると思います。

ザカリアもエリサベトもヨハネも、そしてマリアも、そうやって生きていました。福音書は常に、私たちにその姿を通して学ぶよう促しています。

次回もイエス誕生の記事を通して学びます。救世主を待ち望んだ当時の民と、現在の私たちが同じ思いで繋がっていることを感じながら。(Y)


中庭のミニヒマワリ

バイブルタイムでは今回より、ルカによる福音書の学びが始まりました。

まず序文では、「すべてのことを」「はじめから」「くわしく」「順序正しく」(ルカ1:3)という言葉に注目しました。そこでは福音書に寄せるルカの自信のあらわれに気づくことが出来ました。

また、合わせてルカが「確実なものであることを」(ルカ1:4)と述べていることから、それ以前に著されていた福音書の内容にルカは十分満足していなかったと推測出来ました。

続く記事では、洗礼者ヨハネの誕生以前についての出来事が記されています。

ヨハネの両親、ザカリアとエリサベトは良家の出であり、信仰の深さでも「非のうちどころがなかった(ルカ1:6)」人でした。ただ、二人の間には子どもが生まれていなかった点を除いては…。

当時のユダヤでは不妊は「神の裁きが起きた」などと思われていました。その中で肩身の狭い暮らしをしていた二人のもとにヨハネは誕生したのです。

聖所にて香を焚くという名誉ある仕事に招かれたザカリアは、またとないチャンスに思わず自分の願いを祈っていたのでしょうか。その祈りは聞き入れられ、イエスの御業の道を備えるため、ヨハネは誕生しました。

ルカはイエス・キリストの様々な行い、御言葉、すなわち神の御業を述べることの「はじめから(ルカ1:3)」をヨハネ誕生の物語から綴っています。

今回、ルカによる福音書は「物語」として豊かであること、また他の福音書と比べ、豊かなたとえ話が多いと知りました。

愛するイエス・キリストをどのように伝えたらよいか、ルカは熱い志と使命感を持って、考えに考えながら福音書を綴ったのですね。私たちは、それによって、あたかもイエスを昔から知っている人のように感じられます。

今回最も大切なこととして、イエスを深く知っている人、また知らない人にかかわらず、イエス・キリストをどう伝えるか、そこに力点を置くことが福音書を解き明かす上での重要なことと学びました。そして私たちは福音書を通して千分の一でもよいからイエス・キリストと同じ行動をすることが福音書が掲げる「到達点」であると理解できました。

さて、イエスの御姿を豊かに感じられる、ルカによる学びは始まったばかりです。次回も福音書を通して、イエスの歩かれた道を辿っていきたいと思います。(Y)


河川敷で遊ぶ園児たち

【マルコ15:34】「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

今回イエスの御姿を通して、苦しみを味わっている時にこそ神を賛美するという祈りの基本を学びました。

場面はイエスの十字架上、死の直前のことです。イエスは「(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。

この言葉は詩篇22篇の冒頭で用いられています。神への嘆きに聞こえますが、十字架の上で苦しみもがくイエスです。断片的な言葉しか話せない状況であったはずです。

この詩篇は後半に入ると、神への賛美と信頼への言葉が続きます。

今回私は、イエスは十字架の上で22篇全体の意味を思い出して祈り、主を賛美されたと推測できることを学びました。

イエスは死の直前、ゲツセマネでの祈りと同様に、神に「本音」で祈られました。

その時、イエスでさえ神に疑問を抱いたのではないでしょうか。まさしくその言葉は綺麗事では無く、腹を割った本音の問いかけです。しかしイエスは、ご自身の最期の場面においても、神への信頼と賛美に満ちた祈りのあるべき姿を伝えられたのです。

神の前では無理をしなくていいのだよ。
神には本音を話せるのだ。
だから、こうやって私のように祈るんだよ、と。

十字架刑のイエスのお姿を間近で見ていたローマ軍の百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と語っています。私は、今回この言葉が彼の「信仰告白」であると知りました。むごたらしい死の直前に、神を賛美するイエス・キリストを彼はずっと見ていたのです。

苦しみを味わっているその祈りの始まりは神への嘆きであったとしても、賛美へと続くその祈りは、イエスの神への愛そのものです。

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さて、このシェア32をもって、マルコによる福音書の学びは一区切りとなりました。私の洗礼準備期間から一貫してイエスの信仰の「糸、愛、ご人格」について学びを与えていただいています。

次回からはいよいよルカ福音書による学びが始まります。

イエスが神に信頼し祈られるお姿を模範に、私はこれからも学び、祈りの日々を続けていきたいと思います。(Y)


ワイルドフラワー

マルコ15:31「他人は救ったのに、自分は救えない。」

今回はキリスト教の奥義とも言える「自己犠牲に徹するイエス・キリストの愛」について学びました。

記事の箇所はイエスが十字架刑に処された場面です。イエスは、そこを通りかかった人々や祭司長、律法学者たちに代わる代わる罵倒を浴びせられました。そこには、傲慢、いじめ、悪ふざけ、無知、権力志向、裏切り、ねたみ、不信仰、事なかれ主義…など、人間の持つ罪の醜さが渦巻いていました。

でも、その中にあって「他人は救ったのに、自分は救えない」という罵りだけは、実は、イエスにとっては最大級の褒め言葉だったことに、私たちは気づかないといけません。クリスチャンとは、このような自己犠牲的な愛をイエスから学び、そして実践することが神の御心に適うことだと信じる者だからです。

こうしてイエスは、私たちの罪を帳消しにするために、十字架の上で「いけにえ」として死んでくださったのです。私はその計り知れない大きい愛を感じる時、言葉を失います。そして「イエス・キリストについていきたい」と心から思います。

ところで今回、お話の中で「もし自分がその場にいたとしたら、どうするだろうか?」そんな問いかけをいただき、続いて「きっと私たちも記事の人間たちと同じように、イエスを見放すだろう」との言葉に胸がつまりました。

聖書の記事をこのように自分の身に置いて感じ、自分に与えられている問題として考えることは重要な学びです。

私はあらためて、イエスを殺した二千年前の人間たちと、現代の私たちとの精神構造は同じであり、つながっていることを知りました。技術や制度は進歩していますが、「心」は二千年前と同じかもしれません。そう、私たちと同じ仲間の「人間」が、イエスを十字架の上で殺したのです。そういう意味でも、福音書は人類にとって永遠に必要な書物だと言えます。

今回の学びから、私は本学院の理念「愛をもって仕えよ」の本当の意味を見出したと思っています。自己犠牲と自戒。これからも、その教えを大切にしながら、日々進んでいきたいと思います。(Y)


カマキリ

【マルコ14:36】「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

今回は、イエスが祈る御姿をとおして、キリスト教の根幹である「祈りの基本」について学びました。

イエスは十字架刑に処される直前、弟子たちを伴われゲツセマネで神に祈られました。その呼びかけは「アッバ(お父さん)」。 イエス独特の呼び方です。弟子たちが見ている先で、苦悩を吐き出して祈られたのでした。福音書には「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」と記されているます。

ですが、イエスは「苦しみを取りのけてください」とだけ願われただけではありません。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、最後には神に身を委ねられたのです。

ご自分の感情を解放した上で神に従うイエスは、彼が「心の解放者」である証拠です。武家の血筋で育てられ、感情を吐き出すことはカッコ悪いことと教えられてきた私の目が開かれ、今もイエスに強く憧れる理由がここにあります。

また、このイエスのしかしという言葉がキリスト教の「はじまり」であることも知りました。「しかし」が無ければ、イエスはひょっとすると十字架を避けたかもしれないという、小説風の解釈です。

さらに、祈りとは、希望を自由に唱え、最後は神の意志にゆだねて心の平安を得ることと理解できました。

ゲツセマネで神に身を委ね祈られたイエス。
「感情を超えて、神の真理へ」。イエスはいつも私たちをこう導かれています。(Y)


白クローバー

「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)

マルコによる福音書5章35節〜43節に記されている「ヤイロの娘の復活」を皆さんは信じることができるでしょうか。

私は最初読んだ時、とてもじゃないけど信じられない、そんなことが起こるわけがないと思っていました。ですが、クリスチャンは、聖書に書かれていることだから、きっとそんなことがあったんだと考えているみたいです。そしてクリスチャンの凄いところは、クリスチャンではない人が聖書に書かれていることに対して「信じない」と言ったとしても、その人を責めたり非難したりしないそうです。クリスチャンの人はイエス・キリストと共に生きている人たちだから、私はたいへん尊敬しています。

あるクリスチャンの話ですが、もうすぐ死のうとする人にこう言ったそうです。「あなたは、もう15分で神さまに会えるのだ、喜べ」。このように言える人は本当に神を信じ、神に近い人なのだそうです。

私はクリスチャンでもないし、イエスや神を信仰している人間でもないですが、いつも弱い者の味方で、助けを求めてくる者を無視しない、そんなイエス・キリストは本当に凄い人物だったということを知ったし、もっとイエス・キリストを知りたいなと思います。(YM)


飛べないセミ

「これはわたしの体である。」「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコによる福音書14:22,24)

イエスは十字架刑にかかる直前、「別れの宴」とも言える晩餐の時を弟子と共に持ちました。

そこでイエスは、パンとブドウ酒を使って弟子への深い愛を示されたのです。「パンを食べるたびに私を思い出しなさい。ブドウ酒を飲むたびに私があなた方にした約束を思い出しなさい。そうすれば、永遠の命が得られる」と。

その深い愛は私たちへも向けられています。生きていくに必要な食べ物を使って、誰もがいつでも簡単にイエスに「帰る」ことが出来る仕組み。今回私は改めてイエスが私たちにあらわされた愛と恵みの大きさに感謝しました。実にシンプルで合理的です。

クリスチャンである私は、週に一度の聖餐に預かるたびにイエスの愛に感謝を捧げてきましたが、これからは、イエスのシンプルな教えにのっとり、ありふれた日々三度の食事においても、形式にとらわれずに心のままにイエスを感じたいと思います。(Y)


ミニヒマワリ

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