*
カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【ルカによる福音書 第1章28節】
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【マタイによる福音書 22章34~40節】

22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

✝ ✝ ✝

 「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは当時のユダヤ教徒が毎日の朝夕に祈りの中で唱える言葉でした。ユダヤ教徒にとって間違いなく最も大切な掟です。つまり、イエスがこれを口にした時、誰もがそれは当然だと思ったということです。
しかしイエスは、続いて「隣人を自分のように愛しなさい」と述べ、これが最初の掟と同じように重要だと語ります。神を愛することと隣人を愛することは切り離せないというわけです。これこそがイエスの発言の最も特徴的なところです。そして、このことは当時のユダヤ教の指導者たちにとって大変厳しい批判となるものでもありました。

当時、ユダヤ教の律法には600以上の細かな掟があり、彼ら指導者たちはそれに従って生活をしていました。そして、彼らは、律法を守っているという自負がありました。それ故に、その裏返しとして、律法を守ることのできない人たちを軽蔑し、神から見放された者として、その人たちと交わることすらしませんでした。というのも、神が人間に対して要求していることは、律法の個々の掟を一つずつ忠実に守ることだと考えていたからです。だから律法を守らない人、守れない人は、神から離れた罪人だとしたわけです。宗教指導者たちは、いわば自分が神から愛されるために、律法の文言を頑なに守ろうとしました。また、隣人の範囲を自分たちと同じ価値観を持つ人たちに限定しました。

これと対照的なのがイエスでした。イエスは、律法から外れた罪人とされた人たち、つまり、神から愛されていないとみなされていた人たちに寄り添いました。イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と指導者たちに語った時、イエスは具体的な人々の顔を思い起こしていたに違いありません。それは、イエスが、ガリラヤで伝道を始めて以降、出会ってきた人たち、すなわち罪人としてユダヤ社会における「隣人」という枠組みから排除された人たちのことです。イエスは、そうした人たちの顔を思い浮かべながら、あの彼ら彼女たちこそが私たちの隣人なのだ、神を愛することとは、彼ら彼女たちを隣人として、神から愛されているかけがえのない人として大切にすることにほかならないのだ、と語っているわけです。

イエスは、十字架の死に至るまで、ガリラヤで出会った人々の苦しみや悲しみを放っておくことは決してされませんでした。だからこそ、イエスは、宗教的政治的指導者のいる中心地であるエルサレムで、彼らと対決せざるをえませんでした。それは、ひとえに、イエスが彼らを隣人として自分のように愛したからにほかなりませんでした。そのようにして、神がすべての人を愛しておられることを示されました。

神はすべての人を愛され、悲しみにある人、悩みの中にある人を決してそのままにすることはありません。全ての人ですので、もちろん、今ここにいる私たちも、含まれます。ですので、私たちは、隣人を自分のように愛そうとするその基礎として、自分自身が神に愛されているということを今日確認したいと思います。そして、イエスが当時の社会から排除されていた人たちを隣人として大切にしていかれたように、私たちも、誰一人排除することなく、隣人を自分のように愛する働きを、ご一緒に担っていければと思います。
(チャプレン 相原太郎)


フレーベルの折り紙

【マタイによる福音書 6章25~34】
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

✝ ✝ ✝

 この話は、有名な山上の説教、「心の貧しい人々は、幸いである」から始まるイエスの教えに含まれるものです。その説教の冒頭に次のように書かれています。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。」。山上の説教は、この群衆に語りかけたものですが、それがどんな人達なのかについてその直前に書かれています。
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、イエスに従った。」
山に集まってきたのは、このような人たちでした。彼ら彼女たちは、祝福された人生、恵まれた人生とは、縁遠い人たちでした。自分たちのことを、神様の恵みや祝福から見放された者だと思っていました。

そんな彼らに語ったのが今日の言葉でした。この言葉は、抽象的な世間一般に対して語ったものではありません。あるいは、それなりの暮らしをしている人たちに対して、もう少し質素になろうと述べているものでもありません。この言葉は、貧しい人たち、差別や病によって生きる希望を失った人たちに対して向けられたものです。そんなわけですので、その人たちを前にして、たとえば、もっと質素に生きようと語ったとは考えられません。彼らはすでに十分すぎるほど質素に生きています。

では、イエスがここで大事にしたいこととは、なんだったのでありましょう。空の鳥は、種を蒔くこともしないが、父は鳥を養ってくださるとは、どういうことか。それはすなわち、働く人も、そして、働かない人、働けない人も、神によって生かされているのであり、生きていていいのであり、生きるべきなのだ、ということです。全ての人は、生きることが赦されているのであり、鳥がそうであるように、あるいは、野の花がそうであるように、何の条件もなしに、きちんと食べることができる、この世界は、この社会はそのようにあるべきだ、ということです。

種も蒔かず、働くこともなく、そんな鳥や花たちに対して、神は、食べ物を与えない、雨を降らせない、などということがあろうか。同じように、あなたがたも、様々な理由で社会から排除されているが、神の目から見て、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言うことはありえない。神は全ての人を大切にされる。だから全ての人間は無条件で生きていてよいのであり、生きられるようにすべきなのだ、と述べられたわけです。

現代に生きる私たちも、イエスが、あの山の上で語られた言葉を、今、ここで聞いています。イエスは言います。空の鳥を見よ、野の花を見よ、あなたも、生きていていいのだ、神から大切にされているのだ、誰からも、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言われてはならないのだと、イエスは語りかけておられるはずです。

空の鳥を見るとき、野の花を見るとき、それらが神様によって生かされていることを思い、そして、私たちもまた、神様によって無条件に生きることが赦されているのだ、ということを思い巡らしながら過ごしたいと思います。    (チャプレン 相原太郎)


パンジーとチューリップの植付

【エズラ記(ラテン語) 第7章3節】
わたしは言った。「わが主よ、お話しください。」天使は言った。「海は広い場所に置かれていて、深く限りない。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【ルカによる福音書 15章1~7】
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

✝ ✝ ✝

このたとえ話のポイントの一つは、必死に探しているのは誰か、ということです。必死に探しているのは、迷い出た一匹の羊ではなく、羊飼いです。羊飼いが迷い出た羊を探しています。迷い出た羊は、たとえば、「見つけてもらうために努力した」など、何らかのアクションを起こした形跡がありません。一方、羊飼いのほうですが、あの迷い出た羊はこういう優秀な羊だから探そうなど、羊について何か条件を付けることもありません。つまり、羊はまったくの受け身、無条件です。
このたとえにおいて、羊飼いは神を意味します。そして、羊は私たち人間です。つまり、この物語のポイントは、探しているのは、迷い出た私たち人間ではなく、あくまでも羊飼い、すなわち神である、ということです。
私たち人間は、たとえば、どのようにして神を見つけることができるか、あるいは、どうしたら神に救われるか、と考えがちなところがあります。これは、自分たちが神を探す側にいると思っているからだと言えます。しかし、このたとえの構造はそうなっていません。このたとえの中においては、探しているのはあくまでも羊飼い、すなわち神です。私たち人間が、神を見つけるのではなく、神が私たちを見つける、ということです。私たちは、見つける側ではなく、見つけもらう側にいるわけです。

ここで示されている神の姿とは、何があろうと、徹底して私たち人間を探し出す神神から離れたと思い込んでいる人を見つけ出す神少数の立場においやられた人の立場に立とうとする神です。

イエスは、貧しさや不治の病などの理由で、当時、罪人とされていた一人一人を探し出し、一緒に食事をしました。イエスは、一緒に食事をすることで、その人の尊厳が回復されていくということを、何よりも喜びとしました。そのようにしてイエスは、罪人とされた人々との深い交わりを続け、その結果イエス自身も罪人と断罪され、十字架で処刑されるに至りました。それほどまでに、イエスは、自分の生死をも顧みず、一人一人を探し続けました。
このように、聖書が示す神は、私たち一人一人を、とりわけ、弱い立場にある人々を、無条件に、徹底して愛し、探し続ける神です。
先ほどお読みしました箇所に、羊飼いが羊を見つけたら、「喜んでその羊を担いで、家に帰り」とあります。羊飼いが羊を肩に担いだように、神が私たちを見つけた時、喜んで私たちを担いでくださるわけです。その時、それを一番喜んでいるのは、このたとえにあるように、他でもない神自身です。
神自身が、常に私たちを探し続け、そして、私たちを見つけることを喜びとしてくださっていることを覚えたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


アメジストセージ

【マルコによる福音書 第12章41節~】

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【ルカによる福音書 17章11~19節」
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

✝ ✝ ✝

 イエスの一行がサマリアの間を通って入ったある村には、特別に汚れているとされていた重い皮膚病を患った10人の人たちが共同生活を送っていました。その10人の中には、ユダヤ人とサマリア人が含まれていました。当時の社会では、サマリア人はユダヤ社会から差別を受け、ユダヤ人とサマリア人が一緒に暮らすことは通常ではありえませんでした。しかし重い皮膚病を患っているこの10人は、それぞれユダヤ人の社会、また、サマリア人の社会から追放されて自分の町に住むことができなくなったからか、追い出された者同士が身を寄り添って住むことになったようです。イエスは、そんな行き場を失った人達の暮らす村に立ち寄りました。
イエスは10人に「祭司に体を見せなさい」と言います。そこで彼らはその言葉に信頼して祭司のもとに向かいます。するとその途中で体は既に清くなっていました。しかし、当時のユダヤ社会では、重い皮膚病が治り、元の社会に戻るためには、ユダヤ教の祭司に見せて、その回復を証明してもらう必要がありました。だからこそ、道の途中で清くなったとしても、ユダヤ人は祭司に見せに行く必要がありました。しかし、サマリア人にはそれが許されていません。サマリア人はユダヤ社会から排除されており、ユダヤ教の祭司に見せたところでユダヤの共同体に戻ることができませんでした。
一方、サマリア人を除く他のユダヤ人9人は祭司のもとに喜んで向かったに違いありません。そして、祭司に自分たちの体が清くなったことを誇らしげに見せ、そして祭司に、もうあなたたちは重い皮膚病を患った人ではない、もう罪人ではない、あなたたちはユダヤ社会の正しい一員であると、認めてもらったことでありましょう。そして、彼らは喜び勇んで自分のもといたユダヤ人の共同体に帰っていったことでしょう。しかし、それは何を意味するのでしょうか。それは、すなわち、自分たちはもう重い病を負った罪人ではなく、サマリア人とは異なり、正しいユダヤ人として生きることができるのだということです。つまり彼らは、せっかく病気から回復したのに、ユダヤ社会の古い枠組みにしばられたままで、病者に対する偏見、外国人に対する差別感情は、もとのままであったということです。

他方、サマリア人ですが、清くなったのに祭司にもユダヤ社会の一員として認めてもらえず、トボトボと残念そうにイエスのもとに帰ってきたでしょうか。そんなことはありませんでした。彼は明るく自信に満ちた姿で帰ってきました。祭司に認めてもらう以上の、すなわち、ユダヤ社会に入れてもらう以上の喜びを感じているようです。というのも、彼は、イエスとの出会いを通じて、これまでの戒律に縛られた古いユダヤ社会の枠組みから解き放たれ、自分がもはやユダヤ教の祭司によって認めてもらう必要もないのだ、自分は自分のままで神に祝福され、ありのまま生きていていいのだ、ということに気付かされたからでした。

イエスはサマリア人に言います。「立ち上がって、行きなさい。」あなたは、もう大丈夫だと。なぜならば、あなたの信仰があなたを救ったからだと。神はあなたの存在をそのまま祝福される。あなたはそのことを既に理解している。だから安心して行きないと、告げられるのです。

今日、イエスは私たちにも同じように呼びかけておられます。「立ち上がって、行きなさい」と。あなたの存在を神はそのまま祝福しておられる。だから大丈夫だ、安心して行きなさいと。すべての人々に神が働いておられることに信頼し、感謝しつつ歩んでまいりたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


1号館南

【箴言 第22章6節】
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【テサロニケの信徒への手紙1 5:18】
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

✝ ✝ ✝

こんにちは、菊地篤子と申します。本日のお話の担当をさせていただきます。と申しましても、実際何を話せばよいかわからず、下原先生にお尋ねしたら「なんでもよいですよ。趣味のこととか」とおっしゃいました。そこで思ったのは、趣味について人に尋ねられたのは何年ぶりだろうかということです。しばらくの間、人に趣味を聞かれるような生活をしてこなかったことに気づきました。仕事や家事・子育ての中で、「だれがどんな趣味を持っているか」あまり必要のない情報なのではないでしょうか。つまり「趣味」について人に話す機会自体が久しぶりになります。
ところで、自分の趣味を人に語るというのは、部屋の中を覗かれるような気恥ずかしさを覚えるものです。なぜでしょう。おそらく「自分の内面の一部を外に出す作業だから」なのではないでしょうか。言い方を変えると「自分が何者か」、つまり自己(アイデンティティー)の表出だから気恥ずかしく感じるのかな、と思いつつ、今回はこれを少しお出ししようと思います。

「趣味」とは、辞書には「職業としてではなく、個人が楽しみとしている事柄」と書かれています。英語では「hobby」や「interest」があげられますが、本日ご紹介する私の趣味は「interest(興味を持って行う趣味)」に当てはまると思います。自分のライフステージとともに付き合い方が変化してきた「観劇」中でも「ミュージカル観賞」を紹介致します。

出会いは小学生のころで、おそらく最初は「ウエストサイドストーリー」だったと思います。バレエを習っていたことから舞台への馴染みがあり、とても楽しい観劇体験でしたが、地方在住ということもあり当時はなかなか機会を得られませんでした。本格的に楽しむようになったのは、大学時代です。「宝塚ファン」「劇団四季ファン」の友人の影響で数回一緒に出掛けました。中でも大学の卒業旅行の際、ロンドンで「オペラ座の怪人」を観たことは得難い体験で、他にももっと観たいと思うようになりました。それがきっかけで大学院生になるとすぐに一人観劇をするようになりました。特に劇団四季の舞台は頻繁に通いました。いくつかご紹介します。

一つ目は「クレイジー フォー ユー」です。ガーシュウィンの楽曲で、Boy Meeets Garlの軽快なストーリです。タップダンスが多く、リズミカルで元気で明るい演目で、若い頃は最もよく観に行きました。二つ目は「オペラ座の怪人」です。アンドリュー・ロイド・ウェーバーの楽曲で、ストーリーは暗いのですが、曲や歌が好きでした。三つ目は、同じくアンドリュー・ロイド・ウェーバー楽曲の「CATS」です。おそらく一番回数を重ねて観ている演目です。当初、あまりにメジャー過ぎて興味を持つことができずにいたのですが、叔母の「猫の世界に人間社会の縮図が見える」という言葉に誘われ観たのち、何度も通うようになりました。「CATS」は時代によって少しセリフが変わったり、演出も徐々に変化します。ロンドンのオリジナルの舞台と同じだったり、日本独自の曲・ダンス・演出になっていたり、公演地域で舞台背景が変わったりするなど、時代、場所などで異なった楽しみ方ができます。

他の演目を含め、国内だけでなく海外でも、旅についでに観に行きましたが、そこで感じたことは「海外ではチケットがすぐ手に入り、身近な文化である」ことでした。日本は、半年後のチケットの予約はよくあることですし、人気のものはなかなか手に入らず、関係のある会員登録が必要なことも多いのが実情です。

さて、こののち妊娠出産を境に、しばらく「冬眠期」に入ります。時間的にも経済的にも、やはり無理でした。それでも子どもが小学生の頃までは「ライオンキング」や「裸の王様」など子どもにもわかりやすそうな演目を選んで出かけていました。しかし、中学生になると部活などが多忙でそれもなくなりました。家族で観劇をすると1回数万円かかり、かつ、地方在住なので一日がかりになってしまいます。こうなると趣味はもはや一大イベントと化し、当然継続性はありませんでした。だからといって家族を放って一人で出かけようとも思わなかったので、子どもたちの受験がすべて終わるまでのおおむね約10年は「冬眠」状態でした。

子育てがある程度ひと段落したのが一昨年で、そのころ高校時代の友人が誘ってくれたことをきっかけに少しずつ「リハビリ」のような感覚で観劇を始めました。驚いたことは、チケットの取り方が10年で激変し、スマホで、ネットで取るようになっていたことです。また、大好きだった役者さんが演出・振り付け担当になっていたことにも時の流れを感じました。この年数回の観劇が叶いましたが、やはり地方住民にとっては大変な労力を伴いました。それでも「これからもっと遠征して楽しもう」と思っていたところ、コロナ禍に突入しました。

コロナ禍の観劇の中心は「オンライン観劇」です。この1年半で数作品見る機会がありました。オンライン観劇のメリットは、何といってもチケットは売り切れが無く、そして安価です。移動時間もないので時短観劇が可能です。また多くの場合一定期間の繰り返し視聴が可能で、気に入った場面を何度でも楽しむことができます。一方、デメリットは臨場感が激減することです。ただ「観た」だけ、ともいえるかもしれません。実感したことは、オンライン観劇は「本物の舞台への興味を保つための“つなぎ”」なのではないか、ということです。実際「生の舞台を観に行きたい!」という欲求はむしろ強くなり、集客制限がある中での観劇を実際に数回体験しました。そこには独自の臨場感がありました。観客は普段より大きめの身振りで拍手をしたり手を振って声以外の手段で感動を伝えたりしていましたし、演者の方々もこの時間を一緒に盛り上げよう、という気概が伝わるようなパフォーマンスだったりするなど、演者と観客の一体感のようなものを味わうことができました。

さらに、今年度から名古屋に拠点を置くことになり、いよいよ地方住民からの脱出です。名古屋には素晴らしい劇場がいくつもあるので、実際にはまだ行くことは叶っていないのですが、劇場が身近にあるだけで嬉しく感じています。今後に期待したいです。

今回これまでの自分の観劇を振り返って思ったことは、趣味を楽しむには「余裕」が必要だということです。時間や経済面もそうですが、もっとも大きいのは「精神的な余裕」だということです。話す内容を整理しながら「現在、私は精神的な余裕を持てているらしい」と自覚することができました。これは自分の趣味から全く遠ざかっていた時代があったからこそ感じることで、現在、様々なめぐりあわせでこの状況にいることに、ありがたみを実感しています。

さらに、現在になって趣味が拡大しつつあります。今どきの言葉でいう「推し活」の体験です。あるお気に入りの俳優兼演出家さんの活動を、様々な情報網を駆使して追うことを自宅にいながら楽しんでいます。「舞台を観に行く」以外にも観劇の楽しみ方があることを知り、一層趣味に深みが増しました。

今回、自分の観劇の変遷を振り返りまとめるのは楽しい作業でしたし、これを「楽しい」と思えてよかったと思います。おそらく少し前だったら、行けない・我慢・諦め等というマイナスワードが紐づいていたに違いありませんし、そもそも趣味の話をしようとすら思わなかったでしょう。とても前向きな気持ちをいただいた時間となりましたことに感謝申し上げたいと思います。

以上、個人的かつ稚拙な話題にお付き合いいただき、ありがとうございました。
(名古屋柳城女子大学 准教授 菊地篤子)

このページの先頭へ