*
カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【マタイによる福音書2:16】
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

あけましておめでとうございます。皆さんはどんな思いで新年を迎えましたか。「1年の計は元旦にあり」ということわざもありますが、「きっと今年こそは」と実行計画を心に決めた人もいることでしょう。不言実行でスタートするのもいいかもしれません。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。(マタイ2:13)           

今日は「わたしの中のヘロデ」という題でお話したいと思います。

ヘロデは極悪非道のヘロデ大王として知られています。彼はローマ帝国がパレスティナを占領した当初はガリラヤ地方の知事でしたがBC37年ごろユダ、ガリラヤ、サマリヤ、ヨルダン川東側地域の王になりました。イエスさまがお生まれになった時は王でしたが、イエスさまがエジプトに逃避しておられた時に死んでいます。(BC4年)

星に導かれて東方の占星術の学者たちがエルサレムに到着し、まず最初に訪ねたのがヘロデ大王の宮殿でした。ユダヤ人の王としてお生まれた方は当然王宮にいると考えたからです。しかし、現実はそうではありませんでした。

ヘロデはメシアとしてイエスさまがユダヤ人の王が生まれたことを知りませんでしたので、早速、祭司長たちや律法学者たちを呼び寄せて詳しく調べさせ、それがベツレヘムの地であることを知り、学者たちを先に行かせ、生まれた場所がわかったら、自分も拝みに行くから、帰りに寄って状況を詳しく知らせるようにと学者たちに伝言します。しかし、学者たちはメシアである幼子を拝んだのち、夢でヘロデのところに寄るなとのお告げを受けたので、ヘロデのところには寄らず帰国してしまいました。

学者たちに騙されたことを知ったヘロデは、大いに怒って、その地方に生まれた2歳以下の男の子を虐殺するという恐ろしいことを断行したのです。

そのとき、主の天使が夢でヨセフに現れ、マリアとイエスさまを連れて、エジプトへ逃れるよう伝えました。イエスさまはヘロデの毒牙を逃れ、ヨセフとマリアに守られながらエジプトへと逃避行されたのです。

さて、2歳以下の男の子を虐殺するという恐ろしいことを断行したヘロデとは一体どんな人物だったのでしょうか。神経過敏で偏執狂的な人物でした。一人の幼子の誕生が、彼をここまで恐怖に落とし入れたのは、衰えつつあった権力支配の座を、ひょっとしたらこの幼子に奪われるのではないだろうかと危うんだからにほかなりません。自分の地位を何が何でも守ろうとする、みじめな自己保身の姿をさらけ出した行動でした。どうすることもできない自分の運命に対する、暴力による最後の悪あがきでした。彼の怒りは自分の思い通りにいかなかったことに対してでもありました。占星術の学者たちに裏切られたという苦々しい思い、自分は絶対であり、誰もが自分の言うことには当然聞き従うに決まっていると思い込んでいた奢り、思い上がりが、彼の怒りを爆発させ、奇行へと走らせたのです。

皮肉なことですが、ヘロデの絶望による言動は、イエスさまによる希望と自由をもたらす新しい時代を到来させました。イエスさまの到来は闇の力、罪の支配のもとにある悪の力が衰退していくことを指し示すものでした。

今日の社会の中におけるヘロデ、わたしの中のヘロデとは何でしょうか。

日本でも法の下に公然となされる死刑執行、妊娠中絶、安楽死、性的不品行、蔓延している汚職のなどの闇の業は、まさにヘロデの業です。これらの闇の業、ヘロデの業が勝利している、勝っているようにさえ見えることが多い現実の社会です。仕方がない、諦めるしかないとわたしの中のヘロデを肯定して、希望を捨てかけてはいないでしょうか。自分の我を通すために、大切な人を無視したり、軽蔑したりしていないでしょうか。ひょっとしたら、知らず知らずのうちに、人を窮地に陥れてはいないでしょうか。

あの残虐極まりないヘロデが、今、わたしの中で生きて働いていることに気づくことが重要です。そんなヘロデもまだほんの幼子に過ぎなかったイエスさまの光によって、その心が恐怖でいっぱいになったのです。イエスさまはわたしの中のヘロデに気づかせ、新しく立ち上がり、再出発する力をくださいます。

幼子イエスさまはわたしたちの周囲にいます。皆さんが実習に行ったり、職場として働く保育の場、幼稚園、子ども園、保育園などの幼児の中に幼子イエスさまはいらっしゃいます。わたしの中のヘロデに気づきを与えてくれる存在、それが幼児たちです。幼子から学ぶ姿勢を常に忘れずに進んで行ってください。(チャプレン大西 修)

鐘と聞くと皆さんは何を連想しますか。わたしは牧師なので、すぐ教会の塔の上にある鐘を思い浮かべます。チャペル(マタイ教会)の塔にも鐘があります。夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘の鐘が鳴ると歌われているお寺の鐘、除夜の鐘、ミレーの晩鐘なども思い出されます。昨日の朝授業の前に、第一学生ラウンジからきれいなハンドベルの音が響いてきました。クリスマス礼拝の時の練習のようでした。

鐘は時を告げる大切な役割をこれまで担ってきました。少なくなってしまいましたが、今でもまだその役割を果たしているところは残っています。けれどもいつの頃からか、鐘の音は騒音だと言われるようになりました。教会の礼拝の開始を告げる鐘の音や、お寺の朝夕定まった時を告げる鐘の音も消えつつあります。除夜の鐘も騒音扱いを受け、近隣に住宅が建て込むよりはるか以前からその地にあるお寺さんも例外ではありません。マタイ教会も塔の鐘を鳴らすのをやめてから50年以上になります。わたしが小学生の頃、鐘を撞くお手伝いをしたことを懐かしく思い出します。

ところで、皆さんは和田アキ子という歌手を知っていますか。知らないよねえ~。多分皆さんのおじいさん、おばあさんなら知っていると思いますが。2019年までにNHKの紅白歌合戦に39回出場、連続30 回出場、紅組のトリ7回、司会3回 もこなしているベテラン歌手です。

彼女のヒット曲で1972年にレコード大賞を受賞した「あの鐘を鳴らすのはあなた」(安久 悠作詞)があります。歌詞は次のとおりです。

あなたに逢えてよかった
あなたには希望の匂いがする
つまずいても 傷ついても 泣き叫んでも
さわやかな希望の匂いがする
町は今 眠りの中  あの鐘を鳴らすのはあなた
人はみな 悩みの中  あの鐘を鳴らすのはあなた

あなたに逢えてよかった
愛し合う心が戻ってくる
やさしさや いたわりや ふれあうことを
信じたい心が 戻ってくる
町は今 砂漠の中  あの鐘を鳴らすのはあなた
人はみな 孤独の中  あの鐘を鳴らすのはあなた
町は今 眠りの中  あの鐘を鳴らすのはあなた
人はみな 悩みの中  あの鐘を鳴らすのはあなた

わたしが最初にこの歌詞を読んだとき、すぐにイエスさまのことが浮かび上がってきました。聖書に記されているクリスマスの出来事、そしてイエスさまのご生涯に思いを馳せました。

あなたとは誰? それは神さまがこの世にお遣わしになったイエスさまです。イエスさまに逢えた喜びと嬉しさを伝える歌詞としてこれを読むことができます。多くの人々がイエスさまに遭ってよかったと心底思いました。つまづきから立ち上がることができ、心と体の傷が癒され、泣き叫ぶ苦しみから解放され、生きる希望が与えられました。砂漠のように渇いた心と悩みと孤独の闇の中でイエスさまに逢えたのです。

愛し合う心、やさしさ、いたわり、ふれあい、信じたい心がイエスさまに逢うことによって取り戻すことができたのです。社会の底辺で呻吟していた羊飼いたちがその代表者でした。

あの鐘とは神様からのメッセージ、良いおとずれ(福音)、イエスさまのお誕生のことです。その鐘を鳴らす(イエスさまのお誕生を告げ知らせる)お手伝いをしたのが、野原の羊飼いたちに現れた天使たちとそれに加わった天の大群でした。イエスさまのお誕生が、喜びと希望と愛の鐘を鳴らさせ、人々に眠りから覚めるべき時を告げたのです。

わたしたちが生きているこの世界は今、深い眠りと孤独との闇の中に漂っていないでしょうか。イエスさまのお誕生を記念するクリスマスは、一体わたしたちに何を呼びかけているのでしょうか。静かに考えてみたいものです。(チャプレン大西 修)


干し柿作り

11月中旬から2週間にわたって行われた、1年生の幼稚園や子ども園での教育実習、2年生の保育園での保育実習が終わり一息ついたところですね。どうでしたか。とても長く感じた。楽しくて短く感じた、もっと続けたかった。思ったようにいかなくて、自信をなくしそう、しんどかった。子どもたち、先生方、保護者の方とのコミュニケ―ションがとても難しかった。ピアノがうまく弾けなかった等々、たくさんの感想、そして反省点が見つかったのではないでしょうか。その貴重な経験をプラスに考えて次の機会に生かしてください。2年生は4月から現場の保育士、幼稚園教諭としての働きが始まります。残された4か月を大切に準備の時として有意義に過ごしてください。

さて、キリスト教の教会には教会暦というカレンダーがあります。このカレンダーはクリスチャンの生活にとって大切なものです。なぜなら教会暦というカレンダーに従ってクリスチャンは1年を過ごすからです。このカレンダーの中で皆さんがよく知っているものがあります。12月25日のクリスマスイエス・キリストのお誕生を祝う日)、復活日(イエス・キリストの復活を祝う日、3月21日以後の満月の後の最初の日曜日)、キリスト教と関係なく日本で有名になった2月14日の聖バレンタイン日(バレンタインデー)、母の日(5月の第2日曜日)など、そのほかにもたくさんあります。

教会暦はクリスマスと復活日を軸にして、1年間に約50ある主日(日曜日)で組み立てられています。

教会暦のお正月(新年)は今年で言うと12月1日(クリスマス前の4つ目の主日~降臨節第1主日~)です。残る3つの日曜日(12/8、12/15、12/22)を経て、クリスマスを迎えます。言い換えると、教会暦はクリスマスを迎える準備の時から始まります。この4週間をアドベント(降臨節、降待節)とも言います。アドベントとは「来る、接近する」という意味のラテン語です。クリスマスは言うまでもなく神の御子イエスがキリスト(救世主、救い主)として、人類に平和をもたらすためにお生まれになったことを喜び祝う日です。

素晴らしい日を迎えるためには準備が必要です。ですから、クリスマスを本当に素晴らしい日として迎えるために、わたしたちがなすべき準備は、心をきれいにすること、悔い改めることです。神さまの前に自分の罪を告白し、それを赦していただき、自己中心的な生き方から、他の人々にも思いを寄せる生き方へと変えていただくのです。そうすることによって、心が美しくなり、クリスマスがもっともっと素晴らしい日になります。教会ではこの準備の期節に祭色として紫色を使います。祭壇や説教壇にかけられている聖布、聖職が着る祭服やストールも紫色です。紫は慎み、悔い改め、懺悔などを表わす色です。そしてこの4週間は祭壇に花を飾りません。クリスマスに心から大きな喜びを表わすための準備の時をそのようにして過ごします。クリスマスは勝利と祝福と喜びを表す白の祭色を用い、きれいな花を飾ってお祝いします。復活日はキリスト教での最大のお祝いの日ですから、祭色は勝利と祝福と純潔と喜びを表す白、花は復活のシンボルである百合の花を飾ることが多いです。

この復活日を迎える準備の期節を教会暦では大斎節(受難節、四旬節)~レント~と呼んでいます。やはり祭色は紫を用います。イエスが捕らえられ、鞭うたれ、十字架につけられた出来事(聖金曜日、受苦日)もこの時にあたりますが、この日の祭色は血の色である赤を用います。

ところで今、花屋や街のあちこちに真っ赤なポインセチアが美しく飾られています。ポインセチアは日の光を受けて成長しますが、昼間12時間は明るい所で、そして夜間12時間は真っ暗なところで1か月間を過ごすことによって、あのように目の覚めるような赤い色になるのです。何気なく見ていますが、そのように目に見えない大変な準備の時があって、あのようにきれいな赤になるのです。

わたしたちの生活もしっかり準備され、計画されたカレンダーがある時、人生の実りある結果を手にすることができます。教会暦というカレンダーは、わたしたちが何を目標に歩んで行けばよいのかという指標を与えてくれるものです。そしてなぜ生きるのか、生きる意味は一体なんなのかを、絶えず考えさせてくれるものです。

皆さんはどんな暦(カレンダー)に従って日々の生活をしていますか。(チャプレン大西 修)


創立記念講演会

【マルコによる福音書1章16節より】
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

始める前に、今回の「黙想と祈りの集い」が生まれた経緯がスライドを使って説明されました(こちらがその参考になります)。

「祈り」の中身については次のファイルをご参照ください。
025R【導かれる】人間をとる漁師にしよう

また、礼拝後に簡単なアンケートを実施しました。その中で「ちょっとあやしい」と感じたという回答もありましたが(決して怪しくはありません‼ 念のため(笑))、次のように、今日の礼拝の意義をしっかりと理解した学生さんもいたことをご紹介しておきます。
—–
「私の天職は愛」、「自分自身を甘やかしておきながら、子どもたちを教え導こうなどという傲慢さは、子どもたちに対して失礼」「子どもたちに対して恥ずかしくない人生を歩むための努力」という言葉がとても心に残りました。最近、中だるみで寝坊が多かったので、今日の礼拝を機に心新たに頑張るつもりです。
—–

主に感謝。

 

 

 

 

保育経験40年という榎戸裕子先生のお話は、あふれる実務体験がよどみなく流れ出るといった感じで、聞いていて心地良かったです。そして、その確かな実績には説得力がありました。だから、お話の最後に出てきた「私は愛をもって仕えます!」という言葉が完璧に耳に残りました‼ このような感覚はまったく新鮮でした。

以前、オープンキャンパスで出会った高校生の母親が「結局、By Love Serveなんですよね‼」って、ご自分の母校である柳城を誇らしく語ってくれたことが思い出されます。

榎戸先生のお話の内容は、後日、「ちゃぺるにゅーす」でご紹介しますので、お楽しみに(^^♪ 今回はひとまず、建学の精神が柳城にとっては何よりの宝であることを改めて感じさせてくださった先生について、感謝の気持ちを込めてご報告しました。「By Love Serve」を宗教などという枠に押し込めないで、日常会話でもっと使えるように訓練したいものです。それこそが本学の社会的役割だと確信するからです。(K)

今年で5回目を迎えたAHI巡回報告会。年にたった一度の機会ですが、毎回、中身の濃いお話を頂き、ほんとうに感謝です‼

今回はカンボジア国籍でクリスチャンのチャン・レイさんをお招きしました。通訳はいつものようにAHIスタッフの中島隆宏さんです。

チャンさんはFIDR国際開発救援財団の職員で、現在は、カンボジア事務所に勤務しています。栄養改善のため、州・郡の保健課職員の能力育成とともに、母親グループづくりによって5歳児未満の子どもたちの栄養改善活動に取り組んでいるとのことです。

その現状と、ここまでに至る彼女の道のりとが、礼拝の奨励と礼拝後の「柳城タイム」の中で熱く語られました。それらの要点を以下に箇条書きします。テーマの根底を支える聖書の言葉は、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:13)」

なお、詳しくは「ちゃぺるにゅーす」にて後日ご報告します。

✝ ✝ ✝

①高校卒業後から働いてきた中国資本の工場を辞めて、キリスト教会の英語の教師になったことで給料が大きく下がったが、教会に通う中で、私は人々への奉仕の仕事が自分にとって一番大切なことだと気づいた。

②看護大学在籍中、インターンでの経験から、病気の人々の命を救いたければ、治療よりも予防の方が優先事項であることを学んだ。

③失業中、私は多くのことに悩まされ、「神様、あなたの次のご計画は何か?」、「どうすれば私はそれを実現できるのか?」という問いかけをした。そして「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:13)」とのみ言葉が与えられた。私は待つことを学び、神のご計画の中にあることを知って、心穏やかになった。

④私はカンボジア保健省と協力してファシリテーターとして働き、母親と子どもの健康を改善するために、母親対象に健康と栄養に関する知識を伝え、意識を変える活動をしている。ところが、親の半数以上が乾季になると州外に出稼ぎに行ってしまう。残された子どもの面倒を見るのは祖父母であるが、彼/彼女らは、あの過酷だったポル・ポト政権時代の世代なので、教育や保健衛生の分野における知識が乏しい傾向にある。私は祖父母らの子育てをもサポートしようと努力しているが、読み書きができない人もいて、その道のりは大変険しい。でも、私は決してあきらめるつもりはない。ひたすら忍耐強く取り組むのみである。

⑤今回、AHIの研修に参加することで多くの経験と新しい知識を得たが、私が最も強いインスピレーションを持ったのは広島から学んだ「平和への構築」だった。被ばくしても生き続ける木や残された建物が私に大きな希望を与えてくれた。私は身近なところから平和を求め、家族や職場に広げたいと思う。

⑥すべての子どもは白い紙のように純粋なものとして生まれるが、中には暴力を受けたり親から離されたりして、十分なケアを受けられないケースもある。一緒に種をまこう。そうすれば将来に実りがあり、あなたの社会は愛で包まれるはずだ。愛と平和をあなたの周りの子どもたちと分かち合おう。そして、平和の作り手となろう。

✝ ✝ ✝

●最後にAHIのサイトに掲載されている記事をご紹介しておきます。こちらへ。

 

 

 

【コリントの信徒への手紙一 13:1-7】
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

「結婚の準備」って、あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、「結婚式の準備」と言えばすぐいろいろなことが浮かんできます。when(いつ)、where(どこで)、誰とは当然決まっていますが、どのような結婚式をするのか~結婚式の形式(キリスト教式、神式、仏式、人前式等々)、女性ならウエディングドレスにするのか白無垢の和装にするかで迷います。結婚指輪は? そして披露宴はどうするのか、だれを招待するのか、引き出物は何にするのか、さらに新婚旅行はどうするのか、もし行くとしたらどこへ行くのか、そのようなことが「結婚式の準備」に付随するものです。もっと大切なことは住まいの問題、どこに住むかということがあります。これらは具体的な目に見える結婚式に関連する諸準備と言ってもいいかもしれません。

わたしが今ここで「結婚の準備」としてお話しする重要な点は、結婚する二人のこれからの結婚生活に備えての「心と体の準備」の話と言ってもいいと思います。

牧師としてこれまで50年間に、たくさんの結婚式の司式をしました。「結婚式をしてください」と言って飛び込んできた二人に、「いいですよ」と言って、無責任に式をすることはありません。結婚式を挙げる条件として、リハーサルを含めて最低3回、二人で揃って準備に来ていただくことを守ってもらいました。それは、浮ついた気持ちではなく、結婚するってどういうことなのか、わたしたちはなぜ結婚するのか、二人は本当に結婚するのにふさわしいパーソナリティーを備えているか、「愛してるよ」って簡単に言うけれども、「愛する」ってどういうことなのか、二人は本当に愛し合っているのだろうかといったことを、結婚前に冷静にしっかり見つめ直してみること、そして夫婦生活において重要なセックスについての問題などについても話し合う時間を持ちました。

結婚式の中では、次の「誓約」いわゆる「誓い」が交わされます。「神の定めに従って、わたしはあなたを妻(夫)とします。今から後、幸いなときも災いのときも、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病気のときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、あなたとともに生涯を送ります。今、これを約束します。」

この誓約の根底には神の愛があります。神の愛を信じ、それに基づいて誓約がなされるのです。最初に読まれたコリントの信徒への手紙1 13章の「愛」についてのパウロの言葉は、イエス・キリストが具体的に見せてくださった神の愛が語られています。

わたしたちには無い豊かな神の愛をしっかり見つめ、それを信じて生きていく時、わたしたちの中に、神の愛のしずくが注がれるのです。そして誓約の言葉が単なるお題目ではなく、リアリティーを持ったものとして二人の心と体に満ち溢れます。

今でも忘れられない思い出の結婚式があります。披露宴が終わり、出口で新郎新婦が皆さんをお送りした後、新郎の友人たちが新郎を胴上げしました。しかし勢い余って新郎を床に落としてしまったのです。大腿骨骨折で即入院となり、ヨーロッパへの新婚旅行はお預け、スーツケースを持ったまま、3週間の入院生活(新婚生活)を余儀なくされました。しかし、無事退院した後、二人はわたしのところにやって来て、「とても良い結婚準備をしていただき、その上、結婚式の中で交わした誓約どおり、本当の愛とは何かを身をもって体験できた、何ものにも代えがたいこの度の出来事でした。神の愛に守られて、これからも精一杯二人で愛を育てていきたいと思います。ありがとうございました。」と語ってくれました。現在、この二人は子どもたちにも恵まれ、幸せな家庭を築いています。

「わたしたちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙Ⅰ 4:19)

(チャプレン大西 修)


サザンクロス

【マルコによる福音書4:1-9】
◆「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスさまのこのたとえ話が「たねくんとよいはたけ」という紙芝居になっています。今からその紙芝居をしますので、皆さんは幼児(園児)になったつもりで見てください。

・・・・・・・・・・・

さて、皆さんは今、見終わってどんな感想を持ちましたか。

皆さんは種を蒔くことを一度や二度は経験していますね。草花の種や野菜の種にしても、麦や稲の種にしても、種を蒔く人が先ず最初に良い種を選別し、それを蒔きます。最初から発芽しないような悪い種は蒔きません。このたとえ話の中で、種を蒔く人とは神さま(イエスさま)を指しています。そして、種は神さま(イエスさま)のみ言葉、みこころを表わしています。神さまは素晴らしい種(み言葉、みこころ)をこの地上にお播きになり、人々がそれによって豊かな実りを得られるようにと望んでおられるのです。

この紙芝居では、蒔かれた土地(道端、石地、茨の中、良く耕された良い地)に視点が当てられています。いろいろな土地として、私たち人間の心の在り方が示されています。

固い道端のようでとりつく島もないような心、ゴロゴロしていて渇いた石のような心、やせこけて成長が不足している心、その場の状況を見て、しっかりそれを受け入れることのできる心を持っている人々のことです。

それと共に、種を蒔く人(神さま、イエスさま)の生き方に視点が当てられています。種を蒔く人はどんな土地(人間)であっても、同じ素晴らしい種(み言葉、御心)を蒔きます。必ず豊かな収穫があることを信じ、希望をもって種を蒔きます。種を蒔く人の良い種は必ず実ることが約束されているからです。私たちひとりひとりは、皆同じ人間でありながら、違う人格、性格、個性をもって生きています。人間の目で見れば、あまり好ましいとは思われない人であっても、神さまは平等に、溢れるような愛をその人に注いでくださるのです。長い目で見ると、神さまのみ言葉はどんな人であっても、そのみ言葉を受け入れるならば、必ず素晴らしい恵みが与えられることを伝えています。

「一粒の麦は、地において死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12:24)と言われたイエスさまのみ言葉は、死んでしまったと思われた種が、本当は生きていることを語っています。「もうだめだ、何の希望がない」と思っている私たちに、「そうではないよ、あなたたちの中でわたしは生きているよ」とイエスさまは語りかけておられるのです。種を蒔く人のたとえは、どんな人でもみ言葉を受け入れる人には、神さまは豊かな恵みを与えてくださることを語っています。


学食北側のヘデラ

【マタイによる福音書19:13-15】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

毎朝8時40分~50分の10分間、「キッチンはらぺこ」で朝の礼拝をしています。その礼拝の中で聖歌を歌い、主の祈りを唱え、そして次の祈りを時々することがあります。

「子供たちを愛する私たち」
主よ、今朝も柳城に集えることを感謝します。
柳城はフレーベルの思想を大切に、保育を価値あるものとして120年もの道を歩んで来ました。
あなたのご計画に驚くばかりです。
創設者マーガレット・ヤング宣教師の思いが、いつまでも私たちと共にありますように。
イエス・キリストは言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と。
フレーベルはこの言葉から、子どもの生命(いのち)の偉大さを、子どもに自由な成長が保証されることを学んでいます。
子どもたちを教え、かわいがる対象としてだけではなく、愛し、敬意を払う対象にできるように、主よ、どうか私たちを成長させてください。
フレーベルは語りかけます。「子どもたちから、学ぼうではないか。」と。
主よ、この謙虚さ、誠実さ、信仰心を私たちにも与えてください。
私たちを高いレベルに導いてください。
この祈り、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン

子どもたちと長い時間を一緒に過ごしたことがある人ならだれでも、子どもたちが素晴らしい天使のような存在ではないことをよく知ってます。走り回って物をひっくり返したり、壊したり、親の会話の邪魔をしたり、面倒で厄介な質問をしてきたりします。イエスの時代も同じだったでしょう。多分いろんな性格や気質の子どもたちがいっぱいいて、中にはやんちゃな子もいれば、内気な子、好奇心いっぱいの子、わがままな子もいたことでしょう。実に多種多様な子どもたちでしたが、イエスに惹きつけられたのです。そんな子どもたちをすべてイエスは喜んで受け入れられました。子どもが最も弱く、小さな存在とされていた当時の文化の中で、イエスはご自分が子どもたちを祝福できるよう、子どもたちがそばに来ることを歓迎なさいました。

イエスは私たちに対しても同じまなざしで見ておられます。私たちがすべてを持っていなくても、完璧なふるまいをしなくても気になさいません。そんなことを期待しておられるのではなく、いつも私たちのそばにおいでになりたいのです。イエスは私たちが人々から歓迎され、大事にされ、仲間にしてもらいたいという願望を持っていることをご存じです。イエスにとっての理想像(私たちが勝手に考えた)など問題になさいません。ただ、私たちがイエスのもとに来ることだけを望んでおられるのです。

イエスのもとに連れてこられた多種多様な子どもたちに、深い愛情と忍耐力を示され、子どもたち全体と、個々の子どもたちとのやり取りを通して、イエスはあふれるばかりの愛と喜びを与えられました。

私たちに対しても、イエスは子どもたちに対すると同様に手を差し伸べてくださいます。イエスは私たちの良いところと悪いところすべてをご存じの上で、そのままの私たちを受け入れてくださり、良いところはさらに伸ばしてくださるのです。イエスを信じてイエスのもとに行く時、子どもたちのようにイエスに近づけるようになれることを、保育者を目指す私たちも覚えたいものです。(チャプレン大西 修)


ポーチュラカの実

【マタイによる福音書23:25-28】
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

わたしたちは見えないところをきれいにすることをあまり得意としていません。ですから掃除をする時も、見えるところ、例えば部屋の真ん中をまるく掃いてきれいにしますが、それでは隅の方はきれいになりません。隅の方からきれいにすれば、真ん中のほうは自然にきれいになっていきます。

小学校の家庭訪問で担任の先生がおいでになり、お母さんと話しをしていた時、子供が入って来て、いつもおもちゃが入れてある押入れを開けた途端、中からお母さんが投げ込んでいたいろんな物が転がり落ちてきて恥ずかしい思いをしたというた話を聞いたことがあります。コーヒーを飲もうとしてカップを手に取ろうとした時、外側はきれいに見えますが、きれいに洗われていないため、内側にはコーヒーの滓と汚れが付着しており、期待していたようなきれいなコーヒーカップではないことに気づきます。メッキは当初きれいでもやがて剥げます。わたしたちは外側をきれいにすることにどれだけ神経を使い、労力を使い、たくさんのお金を使っていることでしょうか。着るもの、化粧品、アクセサリーなどはまさにその代表的なものと言っていいでしょう。外見は美しくても、心の内側はどうでしょうか。

スッピンの顔は恥ずかしくて見せられないと言います。それならば、スッピンの心は比較にならないほど恥ずかしくて、とても見せられないのではないでしょうか。

律法学者たちとファリサイ派の人々とは、イエスさまの時代、社会の中で人々から敬われていたユダヤ教の宗教的指導者たちでした。イエスさまは彼らとしばしば論争されました。彼らの外側の態度や行動はきれいに見えても、心の内側は見るに堪えない偽善に満ち溢れていたため、そのことをはっきり指摘し、悔い改めを迫りました。しかし、彼らはその指摘を素直に受け入れようとはせず、本当のことを言われたことに憤りを感じ、挙句の果てにイエスさまを無き者にすることによって、偽善者と呼ばれた屈辱を晴らし、自分たちの社会的な立場を固守しようとしたのです。彼らは見栄のため、人に見せようとして律法を形だけ表面的に守り、その精神をないがしろにし、人々に天国への道を示すどころか、閉ざしてしました。それは、最も重要な正義、慈悲の心、誠実な思いを無にしていたからにほかなりません。

わたしたちも内側をきれいにする必要があるのではないでしょうか。一見素晴らく思われることも、それを誤った態度や気分ですることがあるのです。たとえば、ホームレス支援活動で貧しい人々に奉仕している時、この人々はなぜこのように底辺まで落ちてしまったのだろう。きっと何か悪いことをして、こうなってしまったのではないだろうかと、その人々を裁いてしまっていることがあるかもしれません。また、友人が自分にはとても真似のできない勇気ある行動をした時、「すごいなー、立派だなー」と素直な思いを表わせないで、あの人はお金があり、余裕もあるからそれが出来たんだと決めつけてしまうような、醜く狭い心の自分に気づかされることがあります。そのような自分の心の内側が、いかに薄汚く、暗く、傲慢や偽善に満ちているかを思い知らされ、気づかされることは重要です。

わたしたちは誰一人として、自分の心の中に入ってくる思いをすべて制御出来ないことをイエスさまはよくご存じです。しかし、わたしたちにも何かできることがあります。それは自分の態度が間違っていると気づいたときに、迷わずすぐに立ち止まって、イスさまに赦しを願うことです。イエスさまは憐れみ深く、あなたが人を裁こうとしたり、批判したり、怒りの思いに誘われたりするときには助けてくださいます。その瞬間にもイエスさまはあなたの心に、その人に対する愛を溢れさせてくださるかもしれません。

あなたは心の内側も外側もきれいになることができます。イエスさまに目を注ぎ、あなたの心をもっとイエスさまの御心に近いものに変えてくださいと、信頼しお願いすることです。(チャプレン大西 修)


ワイルドフラワーとポーチュラカ

 

 

このページの先頭へ