*
カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【マタイによる福音書20章1~16】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20.8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

✝  ✝  ✝

今日のお話で、気前が良いのは神さまのことなのですが、わたしたち人間はなんで、ねたむのでしょうか? 生物学的には子孫をより良い形で残すための機能の一つなのだそうですが、現代では無用な、というより不用な感情の一つのようです。でも、この感情がある以上、わたしたちがこの「ねたみ」という感情とうまく付き合っていくことが、生きていく上で必要なことのようです。この妬みという感情は、人との比較によって生じてきます。そもそも人との比較でしか、自分の大切さを確認できないことが、問題なのですが、比較してしまうのはなぜなのでしょうか?

わたしたちは思います。あの人は、わたしよりも能力が劣る、だから与えられるものは少なくて当然である。責任を果たしていないのだから、権利ばかり主張するな。神の愛を受けるにふさわしくない人だから、大切にされなくても仕方がない、と。
今日のたとえ話にも、そんなわたしたちの思いが、反映されています。わたしはあの人より長い時間がんばっている。だからあの人より報酬がいいはずだ。あの人より愛される価値があるのだ、と。わたしはあの人たちより役に立つ、間に合う人間である、と。だからこのたとえ話を、すなおに聞くことが出来ません。

このお話しを聞いて、「みんな一デナリオンもらえて良かったな。」と思った方いらっしゃいますか? 「朝から一生懸命ずっと働いていた人が約束通り1デナリオンもらえて、最後に来て1時間も働かなかった人も1デナリオンもらえて、みんな1デナリオンもらえて良かったな…」と思った方、いらっしゃいますか? 多分いないのではないでしょうか?
今日のお話は、わたしたちがどこに、誰に自分を重ねて、この物語を聴いたのかということが、ポイントになってくるようです。わたしたちが自分を重ねて物語を聴いたのは、朝早くから雇われて、夕方まで汗水垂らして一生懸命に働いた、その人たちだったと思うのです。わたしたちは、ある意味その人たちに自分を重ねることが出来る一人一人なのだと言うことが出来ます。

今日のぶどう園の主人は、朝早くから人を雇いに行って、さらに12時頃と3時頃、そして夕方5時にまだ仕事が見つからず、広場に残っていた人々までも雇っています。労働時間が終わる6時まで、もうそんなに仕事をさせることが出来るはずもないにも関わらず、主人は雇ったのでした。これには、ブドウの収穫の後にすぐ雨期がやってくることもあって、収穫を急がなければならず、多くの労働力が必要だったという事情がありました。
それは良いとしても、このぶどう園の主人は賃金を支払う場面で、監督に『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と指示しているんですね。おかしな話です。この指示さえ無ければ、みんな喜んで1デナリオンを受け取って帰って行ったのだと思います。しかし、まさにこの指示によって、朝早くから働いていた人たちは、最後に来て1時間も働かなかった人たちも、自分たちと同じ1デナリオンを受け取ったことを知って、不満を感じることになったのです。
※「1デナリオン」は当時の一日分の賃金だといわれています。
わたしたちは、最初に雇われた人たちに自分を重ねていますから、そんなことがあって良いものかと、気前の良い主人に不満を募らせます。

このぶどう園の労働者のお話しは、いわゆる日雇い労働者と呼ばれる人たちのお話であります。収穫の時には、働き手が必要ですので、仕事にありつくことが出来るかも知れません。しかし、そうではない仕事があまりない時期には、仕事に就くことが出来ずに、その日の食べ物にも事欠いてしまう。そのような人たちの物語です。
まだ名古屋の「笹島」という所に、職安・ハローワークがあった頃のお話しですが、朝早くに笹島に行きますと、現場で働く人たちを雇うために、ワゴン車が何台も止まっていました。その仕事を求めて、沢山の人たちが集まって来ます。そこでその情景に佇んでいますと、やはり最初に雇われていくのは、より若くて、体が丈夫そうで、力があってよく働きそうな人たちなのです。わたしたちの社会は競争社会ですので、そのように雇われる基準は明確です。いわゆる「生産性」が判断基準です。仕事に必要な人員が満たさせれば、ワゴン車は出発をし、後に残されるのは、高齢の方や体のどこかを怪我していたりする人たちなのです。折角朝早くから、仕事を求めてやって来ていても、雇ってもらえずに、寝床へと帰って行くことになるのです。
早起きしましたので、多くの人たちが通学・出勤する時間帯に、それぞれの寝床で一升瓶に入れた水を飲んでいる姿は、朝から酒を飲んでいるというような誤解を生じさせることになるのです。

この福音書のお話しでも、夕方の5時に雇われた人たちというのは、わたしたちの時代の年を取っていて、体が丈夫では無いために、仕事に就くことが難しく、日常的に生活の糧を得ることが難しい人たちの姿と重なって見えてくるのでは無いでしょうか? わたしたちは朝から晩まで一日一生懸命に働くことが出来る、生産性の高い人たちに自らを重ねてお話しを聞くことが出来るのですが、日常的に仕事に就くことが難しい、一日の食事も充分に摂ることが出来ない人たちにとっては、今日の物語は、みんなが同じように1デナリオンを貰うことが出来た、とても素晴らしい良い出来事のお話として、響いたのではなかったでしょうか?

今日のお話は「天の国は次のようにたとえられる。」と語り始められていました。天の国では朝から晩まで、ただ雇われることを願いながらも、この世の価値判断によって、存在を認めてもらうことすら出来なかった人たちが、他の人たちと同じように神さまから抱いてもらえたお話しなんだと思います。ですから主人からかけられた「あなたたちもぶどう園に行きなさい」という言葉は、とても大きな喜びをもたらしたのだと思います。

この物語を聴いて「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」と、つぶやくわたしたちは、生産性で人を判断するその価値観の転換を促されているのでしょう。神さまの「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」』という眼差しに、わたしたちの視線を重ねて、すべての人間は平等でかけがえのない存在であることを心に留めて、自己中心的なわたしたちの歩みを方向転換し、一人の人をありのままに、その存在自体で受け入れることが出来る、神の国の到来を喜ぶことが出来る一人一人に変えられて参りたいと思います。(チャプレン 後藤香織)

【ルカによる福音書 13章10~17節】
13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

✝  ✝  ✝

今日ご一緒に聴きましたお話しは、新約聖書に四つある福音書の中でルカ福音書だけが記しているあまり有名ではないお話しです。一般的にこのお話しは、愛の行いは「安息日に働いてはならないという規定」を越えることを教えているのだと解釈されてきました。しかし、わたしたちが注目したいのは、一人の女性が解放されたということです。

今日のお話のタイトルは、「奇蹟とはなにか?」です。皆さんは、このお話しで何が奇蹟だと思われますか? 教会では一般的に、この女性の十八年間曲がったままだった、腰がまっすぐになったことを奇蹟だと理解するようです。
ちなみに、わたしのお話しのタイトルでは「奇蹟」の「蹟」という字を、旧字体の方を使っています。教会では、ただの驚くような出来事ではなく、神さまの力によって起こった出来事であると言うために「奇跡」ではなく「奇蹟」と記して区別しているのです。

お話しは、ユダヤ教徒が大切にしている安息日に、ユダヤ教徒が礼拝をする会堂で起こりました。日本語ではそう訳されていませんが、ギリシア語では、『見よ、女性が』と、女性に注目するように呼びかけられます。「目を見開け」という強い呼びかけは、この女性の存在が人々から無視されていたことを示しています。この女性はそこにずっと居るのに、誰からも気にされていませんでした。誰の目にも映ってはいないのです。
女性は十八年間、腰が曲がったままで、伸ばすことが出来ないでいました。イエスさまの当時、病気や障害は、罪の結果、神さまからの罰、悪霊の仕業などと考えられていました。病気の苦しみに加えて、神さまから罰を受けたのだという蔑みの視線が、この女性に注がれていました。みんなが集まる会堂では、隅っこで邪魔にならないように、黙ってそこに居たのです。

日本聖公会が女性の司祭按手を認めたのは1998年5月27日の総会でした。日本聖公会最初の女性の司祭が誕生したのは、1998年12月12日、名古屋聖マタイ教会主教座聖堂でのマーガレット渋川良子司祭の按手式でした。わたしはみんなが大きな喜びに包まれて、お祝いしているのに混じって、ちょっと複雑な思いでお祝いしていました。
当時わたしは男性として生活していましたが、女性の牧師さんへの連帯の意思表示として、女性の司祭が実現するまでは、司祭にならないと決心をしていました。他の男性の執事たちと一緒に司祭按手を受けなかったことを、当時ずっと執事でいらした渋川良子執事から問われて、女性の牧師に連帯して、女性の司祭が実現するまで、執事職をしっかりと担いたいと伝えたところ、返ってきた答えは、「何言ってんの! 司祭になれるのに、ならないなんて言えるのは、傲慢よ」という言葉でした。喜んでもらえるだろうと思っていましたので、ショックで、なぜそのように言われたのか理解出来ませんでした。その後、1996年の教区会の時に司祭按手を受けるようにと言う促しに、異を唱えることなく、わたしは司祭に按手されます。
そんなことがあったので、渋川先生の司祭按手式を、わたしは複雑な思いで迎えたのです。そしてわたしのわだかまりは消化できないまま、くすぶり続けます。
2005年11月にわたしはトランス女性であることをカミングアウトして、女性として生活を始めます。このカミングアウトの後、様々なことが頭の上を素通りして行く出来事を経験します。そこにいるのに、存在を認めてもらえない。そんな女性としての経験に畳みかけられて、初めてわたしは、渋川良子執事からの言葉に思いを寄せることが出来始めるのです。

『ほら、女性が』という呼びかけは、女性が誰の眼にも映っていないことを表します。そこに居るのに、存在は忘れられています。もちろん何かを主張することなど出来なかったでしょう。
社会の中で、いわゆる「多数派」として過ごす他人の目には映ることのない人たちが、少なからずいます。ジュンダー・ギャップ指数が146か国中125位の日本は、顕著な男性社会ですので、女性であることは男性の視線からは、「居ない」ものとし見做されることが残念ながらまだあり得るのです。「「みんなでいっしょに!」という掛け声を、いろいろなところで聞きます。しかし「みんなでいっしょに!」という掛け声は、目の前を通り過ぎて行ってしまうのです。いっしょの輪にしがみつこうと、「わたしはここにいます」などと口にすれば、輪を乱す不埒な奴として、そこに居ることさえ出来なくなってしまいます。だから、せめてみんなの「いっしょの輪」を眺めることが出来るように、黙っていなくてはいけないのです。何かを口にすれば、排除され、蔑まれることの苦しみや、悲しみ、寂しさがより大きく迫って来てしまうのですから…。

誰にも顧みられずに、黙していたこの女性に目を留めたのは、イエスさまでした。イエスさまの「あなたは病から解放されている」という力強い宣言と、両手を女性に置かれる行為によって、十八年間の屈み込んだ状態から女性は解放され、たちどころに腰がまっすぐになり、神さまを讃美し始めたのです。新共同訳聖書では覆い被さるイメージをぼかして「その上に手を置かれた」という訳になっていますが、イエスさまは「彼女の上に覆い被さって両手を置いた」のです。覆い被さって手を女性の上に置く動作は、身をかがめて、女性と同じ低さに、位置に座り込むことをつことを前提にします。その人のいるところに、ともに座り込むイエスさまの身のこなしをしっかりと憶えたいと思います。
では奇蹟とは何でしょうか? 本来ありのままで良いはずの存在、受け入れられるべき存在が完全に無視され拒否されているところで起きたのが、このお話しにおける奇蹟でした。奇蹟とは、信じられないことが起きることを意味しますが、イエスさまの行われる奇蹟は、関係が絶たれていた状態が、諦めていた断絶が、繕われて紡がれてそこに交わりが生み出される出来事として、わたしたちに希望と共に示されるのです。この女性の腰が伸びたことに、わたしたちは目を奪われがちですが、それを越えて、この女性への眼差しが回復されたことが、ありのままに受け入れられるようになることが今日のお話の奇蹟の出来事なのです。

そういう意味では、わたしたちは誰かの曲がった腰を治すことは出来ないかも知れませんが、尊厳を持ったわたしたち一人一人が、ありのままにお互いの存在を受け入れ合う社会を実現してゆくことは、諦めなければ出来るのではないでしょうか? わたしたちの独り善がりな生き方を、共に仕え合い、分かち合い、愛し合う歩みへと変えてゆくことで、実現出来そうになかった、平和と正義に満ちた世界を実現してゆくように、今日、このお話しによってわたしたちは招かれているのです。神さまからの愛と恵に満たされて、イエスさまとともに奇蹟の働きをして行くことが出来るように、わたしたちも座り込み、視点を変えられ、視野を拡げられて参りましょう。

誰も見ていなかったこの女性を見たのはイエスさまでした。イエスさまは、女性を見るとそのまま「呼びよせ」たとあります。そして、まず言葉で宣言します。「あなたはあなたの病気からすでに解放されている」。ここに出てくる「ajpoluvwアパルーオー解放する」という言葉は、病気を治す」というのとは言葉も意味も違います。聖書(新共同訳)はここを「治す」と訳していますが、大変残念です。しかも、イエスさまは解放されていると、解放された状態の継続を強調しています。女性に必要だったのは、病気のための疎外や蔑みや無視からの解放で、もちろん病の癒しを伴いました。しかし、イエスさまは、このあとも、二回この「解放する」という言葉を用い、「qerapeuvwセラペウオー治す」を一度も使いません。まさに「解放する」がこの物語のキーワードなのです。対照的に会堂長は、「治す」しか用いないのです。
イエスさまの行為がさらに続きます。イエスさまは「彼女の上に覆い被さって両手を置いた」のです。新共同訳では「その上に手を置かれた」とさりげない訳になっており、覆い被さるイメージをぼかしてしまいました。覆い被さり手を彼女の上に置く動作は、自らの身をかがめ、彼女と同じ低さに立つことを前提にします。その痛み苦しみに共感することをギリシア語では、「splagcnivzomaiあわれむ内臓が痛む」と表現しますが、イエスさまはこの女性の痛みを自分の痛みとし、放っておくことができなかったのでしょう。触れることが、もしも悪霊の汚染の真ん中に入って働くことを意味したとすれば、この動作は極めて象徴的な表現です。
誰も見ようとしなかった女性に目をとめ、心を砕いたイエスさまは、一人の女性の苦しみと真っ向から向かい合った唯一の存在だったわけです。
イエスさまは、この女性をアブラハムの娘と呼びます。聖書の中で、アブラハムの息子(新共同訳では「子」と訳す。原語の息子という語が男女両性を表現できるので子と訳すのも間違いとは言えない)という呼び名はしばしば出てきますが、娘という呼び名はここだけです。人々がアブラハムの子として互いに仲間同士であるのなら、彼女が仲間から排除されてきた理由を見つけることは不可能だということを、このような表現によっても確認しているのです。彼女が解放されることは、安息日に相応しいというのがイエスさまの主張です。
新共同訳は、16節で「安息日であっても」という訳をしています。これは、女性を苦痛から解放し安息日にふさわしい存在にしたイエスさまの行為を、「安息日には働かない」という律法原則を肯定した上で、例外的に認めるという解釈になってしいます。
これを「安息日だからこそ」と積極的に訳したい気もしますが、やはりイエスさまの行為を例外的なものにしてしまいます。ただ単純に「安息日に」と訳し、安息日に極めて当たり前のことが起こった報告と受け止めたいのです。しかし、多くの人々の目にはそれが、尋常ではない奇蹟の出来事として映ってしまうことが、ここでの問題です。
イエスさまのこの行為は、ありのままに存在することを拒否されている人々の存在権への挑戦と解釈できます。

現代に生きるわたしたちにとっての奇蹟とは何でしょうか。わたしたちが受けている挑戦とは何でしょうか。
わたしたちの社会には、さまざまな形で様々な人を受け入れない状況が存在します。例えば障害を負って生きている人がたくさんいます。精神や身体の障害そのものは、医学の発達によってある程度の治療や改善が可能になってきています。しかし、問題はそれで解決するものではないことが、この物語によって明らかです。問題は、いわゆる存在を否定されない多くの人の無関心にあります。さまざまな理由で社会からはじき出されている人々が、ありのままで生きることができる社会を生み出すこと、そのことが今日の物語がわたしたちに問いかけていることなのではないでしょうか。そして、それを生み出すことこそ現代の奇蹟と呼べるのではないでしょうか。奇蹟とは、信じられないことが起こることを意味します。それほど大変なことへとわたしたちは、イエスさまによって問いかけられ、またイエスさまと共に働くことへと招かれていることを覚えたいと思います。

「さて彼は安息日に、会堂の一つで教えていた。すると、見よ、女性。彼女は十八年の間病の霊を抱え、腰が曲がったままであって、どうしても完全に伸ばすことができないでいた。イエスは彼女を見て呼びよせ、彼女に言った。『女性よ、あなたはあなたの病気からすでに解放されている。』そして彼は彼女の上に両手を置いた。するとただちに彼女はまっすぐになり、神を賛美し続けた。しかし会堂長は、イエスが安息日に治したので怒り、反論して群衆に言った。『働くべき日は六日ある。だからそれらの日にやって来て、治してもらうがよい。安息日にではなく。』しかし、主は彼に答えて言った。『偽善者たちよ、あなたたちは誰でも、安息日に牛やろばを飼い葉桶から解放して、水を飲ませに引いていかないのか。ところが、この女性はアブラハムの娘なのに、見よ、十八年の間サタンが縛りつけているのだ。安息日に、彼女はその束縛から解放されるべきではないか。」そしてこれらのことを彼が語ると、彼に反対する者たちは恥いった。そして群衆は彼によって起こるあらゆる素晴らしいことを喜んだ」(ルカ13:10-17直訳に近い訳)

会堂長の振る舞い-誰に対して腹を立てたのか

イエスさまによってその苦悩から解放された女性が賛美し続けたのとは対照的に、「会堂長は、イエスが安息日に治したので怒り、反論して群衆に言った」。会堂長は、イエスさまが彼女をその苦悩から解放したことに気がつかず、治したことに腹を立て、そしてその非難を群衆にぶつけました。実際のところ、会堂長の非難はこの無力な女性に向けられていたのでしょう。それは続く発言に現われています。「働くべき日は六日ある。だからそれらの日にやって来て、治してもらうがよい。安息日にではなく」。病を治すことは、会堂長にとっては仕事であり、そのための日が週に六日あるのでした。これは、働く側の利益に立った発言です。安息日に「男性」に働くことを要求するとは、何とでしゃばりなことか。病気がそんなに深刻であるはずもない。すでに十八年も耐えてきたのではないか。律法を知らないのか。と言わんばかりの発言です。イエスさまの目につくようにその場に居合わせたことが悪いかのような非難の仕方です。しかし、会堂長は、女性に語りかけることをしませんでした。多分相手にするに足りないとの判断だったのでしょう。ここにもイエスさまとは対照的な振る舞いが表れています。
しかし、一読して分かることは、会堂長の真の非難の対象は、女性ではなくイエスさまであったはずです。女性は、いわば顰蹙を買うような出来事のきっかけを作ったに過ぎません。問題を起こしている張本人はイエスさまでした。主導者は、確かにイエスさまだったのですから。しかし、会堂長は、イエスさまに直接語りかけることはせず、かくも屈折した仕方で非難を浴びせたのです。イエスさまを直接攻撃すれば、イエスさまに味方する人たちも出てくる可能性がありました。会堂長はそれを避けたのでしょう。誰も援護してくれないほど社会的に疎外されていた女性を間接的に責めるのが一番安全だったのです。
会堂長の振る舞いは、この人が律法に気を取られて大事なものを見落としていることを示しています。その日が「安息日である」こと、それが会堂長の最大の関心事だったのです。人のいのちを見ることができなくなっていたことを象徴しています。自分の利益のみを追求する存在を象徴しているとも言えるかもしれません。
(チャプレン 後藤香織)

【レビ記16章20~22節】
16:20 こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、
16:21 アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。
16:22 雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。

✝  ✝  ✝

はじめに
 どうも皆さん、「いつくしみ」!
今日は、僕一人で、司式とお話の両方を担当させていただいております。後藤チャプレンは、教会関係のご用事のため、本日はお休みです。こういう日もありますのでね、ぜひとも宗教委員の学生さんたちには、積極的にご協力いただきたいと思いますし、宗教委員じゃなくても、「手伝いたい!」と思ってくれる人がいれば、遠慮なく、声をかけてくれたら嬉しいなと思っています。

5月の聖歌について
 さて、今日ははじめに、キリスト教の「聖歌」のお話をさせていただこうと思います。5月に入って、新しい聖歌を歌うようになりましたね。先月は、『いつくしみ深き』(入学式のときにも歌いましたよね)、そして『グロリア、グロリア』という二つの聖歌を、4月の月間聖歌として歌っておりましたけれども、今月は、先ほど歌いました『聖なる 聖なる』という曲と、それともう一曲(これは礼拝の最後で歌いますが)、564番の『来ませ来ませ(오소서 오소서)』という聖歌を、今月の聖歌として歌っていくことになります。
『聖なる 聖なる』のほうは、世界的にメチャクチャ有名な聖歌です。まぁ、少なくとも“我々の業界”では、おそらく、知らない人はほとんどいないと言っても過言ではないほど、超有名な聖歌なんですよね。19世紀にイギリスで作られて以降、瞬く間に世界中へと広がっていき、今や、様々な国の聖歌集・賛美歌集に収録されて、歌い継がれるようになっています。
一方で、564番の『来ませ来ませ』という聖歌に関しましては、これは恥ずかしながら、僕も知りませんでした。この聖歌集を使っている聖公会の教会の方々でも、歌ったことがない人は多いと思います。
皆さん、よかったら聖歌集を開いていただけるでしょうか。564番です。この564番の楽譜を見てみますと、日本語の歌詞の下に、英語と、そして“韓国語”の歌詞が載っていますよね。皆さん、“ハングル”読めます?僕は、ちゃんと勉強したことがないので、未だに読めないのですけれども……、学生の皆さんはね、もう、バリバリの韓国ブーム世代ですからね。ひょっとすると、読める人も何人かおられるかもしれません。
この『来ませ来ませ』という聖歌、元々のタイトルを韓国語で『오소서 오소서(オソソ オソソ)』と言うのですけれども、この聖歌は、韓国を代表する作曲家の一人、이건용(イ・ゴニョン)という人によって作られました。それを、日本語に翻訳したものが、このように日本の聖歌集の中に収録されているというわけです。
キリスト教の聖歌というのは、決して“アメリカやヨーロッパだけ”で作られてきたわけではありません。まぁ、「キリスト教」と聞きますと、つい“欧米の宗教”というようにイメージしてしまいがちだと思いますし、実際のところ、キリスト教の「聖歌」と言えば、それこそ、先ほど歌った『聖なる 聖なる』のような、西洋、英語圏で作られた歌を第一に想像してしまうものではあるのですけれども……、しかし、本当はそうじゃない。キリスト教の「聖歌」「賛美歌」の中には、実は、古今東西、いろんな時代の、あらゆる国や地域において、様々な言語や音楽的感性をもとにして作られた曲が、たくさんあるのですよね。
もちろん、日本人のクリスチャンが作った聖歌も、いっぱいありますし、そしてこのように、韓国で作られた聖歌もある――。この『日本聖公会聖歌集』には、韓国の聖歌が全部で5曲(284、324、514、534、564)、収録されています。そのほかに、アジアで生まれた聖歌だと、フィリピンのタガログ語とセブアノ語、そして中国語の曲が載っています。正直言うと、もっと、いろんな国の聖歌を採用しても良かったんじゃないかなとも思うのですが……、とにかく、キリスト教の「聖歌」というのは、一概に「これが聖歌だ」と言えるようなものではなくて、非常に多種多様なものなのだということを、ぜひ皆さん、これを機に覚えておいていただければと思います。

アジア祈祷日を覚えて
 さて、それにしましても、今回どうして、564番の『来ませ来ませ』という聖歌を“5月の聖歌”として選んだのかと言いますと、これにはちゃんと理由があります。
キリスト教の世界には、社会的な活動に取り組んでいる数多くの組織があるのですけれども、その中に「CCA(アジア・キリスト教協議会)」という、日本を含めたアジアのキリスト教のグループがあります。日本の聖公会も加盟しているのですが、そのグループが、毎年この5月頃に「アジア祈祷日」という日を覚えましょう、という呼びかけをしているのですね。
「アジア祈祷日(Asia Sunday)」というのは、アジアの様々な国や地域の現状と課題、そして、そこに住むキリスト教の仲間たちを覚えて、特別な礼拝をささげる日とされています。アメリカやヨーロッパなどの国々とは違って、アジア(特に、南アジアや東南アジア)という地域には――テレビなどでも度々取り上げられておりますように――、非常に多くの問題が山積しているのですよね。食料、飲み水、住居、仕事、医療、治安、エネルギー、ジェンダー、そして宗教……などなど。すべての人が安心して暮らせる社会とはほど遠い状況が、各地に広がっています。
殊に、宗教(キリスト教)に関して言えば、仏教やイスラームが中心的な宗教とされている中にあって、キリスト教の信者たちは、いわゆるマイノリティ(少数派)として生きることを余儀なくされています。そのため、そこではやはり、無理解とか未知に対する嫌悪感から、差別や迫害ということが行われている。それによって、アジアの少数派であるキリスト教徒たちは、常に安全が脅かされ続けているのですね。
そのような、アジアの国々の平和を祈るために、「アジア祈祷日(今年は5月12日)」という日が設けられている――。そのことを、皆さんに覚えていただきたいなと思って、それで今月は、韓国の『来ませ来ませ(오소서 오소서)』という聖歌を“月間の聖歌”として選ばせていただいたというわけなんですね。

スケープゴート
 2024年という今の時代、この日本という国は、アジアという地域にあって、中国や韓国とともにアジア全体の経済をリードする、そういう重要な立ち位置にあります。また、アジアの多くの国々からは、たくさんの若い方々が、仕事を求めて日本へとやって来られて、今や、じつに様々なシーンで、ベトナムやフィリピンを中心とした外国人労働者たちの方々の働きをお見かけするようになりました。逆に、日本のほうも、あらゆる企業が、たとえば、タイやシンガポールなどといったアジアの国々に進出しています。それは、人件費削減のために海外工場を建てるという“一昔前の考え方”に基づくものではなくて、経済成長が進むアジアの国々を舞台に勝負をしていく――、つまり、それぞれの国のマーケットを開拓していく――という方針を掲げて、アジア進出が行われているということなんですね。僕は経済の専門家ではないので、これ以上のことは分かりませんけれども、しかし、これから先も、日本とその他のアジアの国々が、互いに協力し合いながら、共存共栄を目指していくべきだ……というのは、言うに及ばない、当然のことであろうと思います。

しかし、その上で、この日本という国に住む僕らが、絶対に心に留めておかなければならないことがあります。それは、日本にはかつて、アジアのあらゆる国に対して侵略行為をおこない、そこに住む大勢の人々の尊厳を踏みにじってきた過去がある、ということです。今回は時間の都合上、詳しくは触れませんけれども、僕らのこの国は、中国や朝鮮半島、さらには、先ほど名前を挙げたような東南アジアの国々にまで軍事侵攻を行い、各地で、様々な形での人権侵害を公然と行なってきたわけです。しかもそれらの行為を「アジア解放」と銘打って、「悪いのはアメリカだ、あるいは共産主義者だ」と喧伝しながら、自らを正当化していたのですよね。のような日本の手法は、まさに「スケープゴート」と言えるだろうと思います。

「スケープゴート」というのは、簡単に言えば、誰かを“悪役”に仕立て上げて(つまり誰かに責任を転嫁して)その人を断罪し、自分たちの正当性を保つことを言います。実は、今日の聖書の箇所として選んできた、旧約聖書の内容に由来しているのですよね。レビ記16章20〜22節。ここには、雄の山羊の頭に、すべての人の“罪”を移して、その山羊を町の外、何もない荒れ野へと追放する――という、古代の(呪術的な)儀式のことが書かれていましたけれども、古代の人々は、その儀式を行うことで、一年に一度、自分たちの“罪”をすべて無かったことにできると考えたらしいのですね。その山羊にすべての罪の責任転嫁をすることによって……です。日本でもよく聞く「スケープゴート」という言葉には、このお話から生まれたものなのですね。

おわりに
 かつての日本は、アメリカや共産主義者、また、日本政府の意にそぐわない者たちを、まさに「スケープゴート」として断罪しながら、主にアジアへの侵略戦争を続けてきました。そのことを、僕らは多少なりとも、学校で勉強したりして知識としては知っています。けれども、実はどこかで、過去のこと……、あるいは「昔の日本がやったこと」というように、今の自分たちとは関係ないこととして理解している部分があるのではないでしょうか。それはもしかすると、僕ら自身もまた、「過去の日本」を「スケープゴート」として自分たちから切り離して、それで歴史を清算したつもりになっていると言えるかもしれません。でも、それでは良くないと僕は思うのですね。今回の聖書のお話を読んで、「山羊の頭に罪を移したところで、罪がなくなるわけないじゃん」と、皆さん思われただろうと想像しますけれども、それと同じように、この現実の世界においても、人々の間から“罪”を簡単に消すことはできないんだよ、ということを、心に留めておきたいと思います。

このあと歌う、564番『来ませ来ませ』という韓国の聖歌。その歌詞には、「(神よ、私たちを)ひとつのからだに してください」というメッセージが込められています。日本と韓国、また、日本とアジアの国々が「ひとつのからだ」になるためにはどうすれば良いのか。歴史を真摯に見つめ、反省すべきことを反省し、愚かな行いを繰り返さないこと。そして、愛をもって異なる存在同士、助け合い、支え合うこと。そのような関係を続けていくことで、少しずつ、また少しずつ、国と国、人と人とが「ひとつのからだ」を作り上げていくことができるのではないかと僕は願っています。

……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。    (チャプレン 柳川 真太郎 )

【使徒言行録 11章19~26節】
11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。
11:20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。
11:21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
11:22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

✝  ✝  ✝

はじめに
 どうも皆さん、「いつくしみ!」 チャプレンの柳川真太朗です。学校礼拝にようこそお越しくださいました。
皆さん、もう、僕らチャプレンの名前を覚えてくれましたか? 今日、司会をしてくださっているのが、後藤香織チャプレン。そして、僕が、柳川真太朗です。後藤香織……、柳川真太朗……。後藤……、柳川……。まぁ、どちらもね、そんなに覚えづらい名前じゃないと思うので、ぜひ覚えていただければと思います。
(ちなみに、後藤チャプレンに質問ですけれども、後藤チャプレンは、「みんなにこういう名前で読んでほしい」っていうの、あったりしますか?)

ぼくのニックネーム
 僕はですね、あんまり、「柳川さん」とか「柳川先生」みたいな感じで呼ばれるのが、好きじゃないんですよね。結構小さい頃から、周りの人たちにニックネームで呼んでもらっていたので、大人になった今でも、できれば周りからはニックネームで呼ばれたいなぁって思っているのです。

これまでどんなニックネームで呼ばれてきたかなぁと、ちょっと振り返ってみたのですけれども、たとえば、「しんちゃん」とか、「やなさん」とか、「やんちゃん」、「やんこ」とか、いろいろありましたねぇ。まぁ、ほとんどは、いま挙げたように“自分の名前”に由来しているものばっかりでしたけれども……、そういえば一つ、これは秀逸なネーミングセンスだなぁと思ったあだ名がありました。それがこちら。「微調整」
かつて、高校の頃に1年だけラグビー部に所属していたことがあるのですけれども、試合中によく、フィールド上でチョコチョコ細かく動いているように見えたらしいのです。自分がどのへんに立っていれば、上手くボールが受け取れるか……とか、相手の動きに合わせられるか……とか、そういうことを考えながらポジショニングをしているつもりだったのですけれども、それがチョコチョコとしていて、仲間からは面白く見えたんでしょうね。それで、みんなから付けられたあだ名が「微調整」でした。まぁ、ラグビーやってる時だけの名前でしたけどね。これを越えるあだ名は、後にも先にも無いだろうなぁと思います。

皆さんはぜひ、「微調整」じゃなくて、「やなさん」とか、「しんちゃん」とか、そんな感じで呼んでいただけたら良いかなと思います。「しんたろう!」って呼び捨てにしてもらっても大丈夫です。そうやって、気軽にね、声をかけてくれると、僕は嬉しいです。

特別な呼び名の光と影
 さて、そのように、ニックネームとかあだ名というようなものに関しては、その特別な名前で呼ぶことで、その人との心の距離というものをグッと縮めてくれる……、そういう不思議な力があるわけですけれども、ただし、気をつけなければいけないのは、もしかすると、そのニックネームやあだ名で呼ばれているほうは、その名前を嫌がっているかもしれない――という可能性があることです。

昨今、この日本の教育現場・保育現場においては、「ニックネーム・あだ名で呼ばない」、「さん付けで呼ぶ」ということを推奨している――、そういう学校が増えてきていると聞いています。え〜?ホンマかなぁ?と、最近まで内心疑っていたのですが、実際に、うちの子が今年の3月まで通っていた保育園では、うちの子ども曰く、「お友だちのことを呼び捨てにしない」、「きちんと『〜〜さん』『〜〜くん』って呼び合う」ということが決められていたそうです。……でも、その割には、僕がお迎えに行ったら、子どもたちがワラワラと寄ってきて、「おい!しんたろうが来たぞ!」「しんたろう!なんで前髪だけ金色なんだ!」って、僕のことは呼び捨てだったんですけどねぇ。パパは例外なのかもしれません。
でもまぁ、たしかに、そういう“名前”“呼び名”に関する扱い方というのは、少なくとも僕が子どもだった頃よりかは丁寧になされているんだなぁと思わされました。そんなルール、僕のときには無かったですからね。ニックネームで呼び合って、親しく、フレンドリーに接する――よりも、その前に、相手が「嫌だな」と思うような呼び方はしない、というほうに重点が置かれているということなのかもしれません。

そのように、ニックネームとかあだ名で呼ぶことは、もちろん、それが良い方向に転じれば、心の距離が縮まって、より親しくなれるのかもしれませんけれども、しかしその一方で、悪い方向に転じれば、相手の心に土足で踏み込むことになって、ややもすれば、その相手の人のことを支配する(独占する)ということにも繋がりかねない……。そういう危険性を秘めている行為でもある、ということを覚えておく必要があるように思います。

「クリスチャン」という名称
 さて、本日の礼拝のために選んでまいりました聖書の箇所。今回は、使徒言行録11章19〜26節というところをお読みいただきましたけれども、この箇所にも、一種の「あだ名」のようなものに関して書かれていました。26節の最後のセンテンスですね。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」
 ここに、「キリスト者」という名称が書かれていますよね。英語では、「クリスチャン(Christian)」。この使徒言行録という書物が書かれた元々の原語であるギリシア語では、「クリスティアノス(Χριστιανός)」という言葉が使われています。「キリストの」とか「キリストの人」というような意味の、言わば“造語”ですね。ニューヨークに住んでいるから「ニューヨーカー」。関ジャニ∞(SUPER EIGHT)のファンだから「エイター」――みたいな感じです。キリストを信仰しているから「クリスチャン」、日本語では「キリスト者」というように言います。
ただし、この「キリスト者」という呼び名。実は、どうも最初は、自分たちで使い始めた名前ではなかったみたいなのですね。これは諸説あって、確実なことは言えないのですが、どうやら、イエス・キリストの信奉者たちのことを「キリスト者」と呼び始めたのは、その当事者たちではなくて、周りの人たち……、つまり、イエス・キリストを信じていない人たちだったようなのですね。
「なんか良くわからんけど、最近うわさのアイツら、いるだろ?ほら、あの『キリスト、キリスト』ばっかり言ってるヤツら。ありゃ、一体何なんだろうなぁ」というような感じで囁かれているうちに、いつしか、「キリストの人」、もっと下品に言えば、「キリスト野郎」みたいな意味で、「クリスティアノス(Χριστιανός)」という呼び方が、人々の間で広まっていたのだろうと思われます。
それは、もしかすると、親しみを込めた“愛称”だったかもしれないし、逆に、嫌悪や不信感から付けられた“蔑称”だったかもしれない。これは、もうもはや当時の人たちしか分からないことなのですけれども、しかしいずれにせよ、おそらく、この「キリスト者」「クリスティアノス(Χριστιανός)」という呼び名は、最初は、外部の人たちから呼ばれ始めた、一種の「あだ名(ニックネーム)」のようなものだった――ということを、まず抑えておいていただければと思います。

「キリスト者」という名前を自分たちのものに
 では、それに対して、当の「キリスト者」たち自身はどう受け止めたのか。答えは、この26節の中にあります。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」これが、この日本語に翻訳された文章ですけれども、実はこの翻訳、間違っているのです。正確に翻訳するとこうなります。「このアンティオキアで、弟子たちを初めてキリスト者と呼んだ。」……「呼ばれる」という受け身(受動態)ではなくて、「呼んだ」、能動態で書かれているのですね。自発的、ということです。つまり、彼らは自分たちで、自分たちのことを「キリスト者」と呼ぶようになった、ということなのですね。
彼ら、イエス・キリストの信奉者たちは、周りから「キリストの人、キリストの人」と呼ばれていた状況を、最初は、そんなに好ましいものだとは感じていなかっただろうと思います。勝手に“あだ名”を付けられるのって、大抵の場合は、あんまり嬉しくなかったりしますからね。
でも、イエス・キリストの信奉者たちは、そうやって周りの人たちから付けられた“あだ名”を、後に、自分たちのものとします。彼ら彼女らは、自ら、「そうです、我々はまさに『キリストの人』、『キリスト者』です」と自称するようになったのですね。そして、そうすることで、周りの人たちはもはや、蔑称として「キリストの人、キリストの人」とは言いづらくなった。だって、本人たちが胸を張って「自分たちは『キリストの人』です」って言っちゃっているわけですからね。公式がそれでOKと認めてしまったがゆえに、アンチはもう、ぐぬぬ……と言いながら、手を引っ込めるしかなくなったということです。キリスト教という宗教には、こういう“何かをひっくり返す力”、マイナスをプラスに転換する力があります。この「キリスト者」という呼び名に関するエピソードは、まさに、そのようなキリスト教が秘めている“何かをひっくり返す”力を象徴しているお話だと僕は思うのですね。

おわりに
 今でこそ、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる人々は、世界中に何十億人といるわけですけれども、当時は、小さな小さなコミュニティでした。圧倒的マイノリティだったのです。でも、そのようなアイデンティティを肯定的に受け止めて、「そうだ、自分は『キリストの人』だ。それで何が悪い!」と認識を改めたときに、彼らは、うつむいていた顔を上げ、未来へと一歩、進み始めることができるようになったのだろうと思います。
名前というのは、その人の存在そのものを表す大切なものです。誰かのことを、ニックネームなど特別な名前で呼ぶときには、尊重の思いと愛情の気持ちをもって、呼んであげたいものですね。そして何より、自分が普段使っている名前、また周りから呼ばれている名前、いろいろありますけれども、それらの名前が表している「自分」という人間を、誰よりも愛して、かけがえのない存在だと肯定してあげられる……、そういう心を持つことができるよう、これからの日々の中で、ご一緒に養い、培っていくことができればと願っています。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。     (チャプレン 柳川 真太朗)

【ガラテヤの信徒への手紙 3章28節】
3:28  そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

✝  ✝  ✝

皆さんは、将来何になりたくて、この柳城学院で学んでいらっしゃいますでしょうか?もちろん幼稚園の教諭や保育士として働こうと考えて柳城にいらっしゃった人は多いのでしょうね。しかし、わたしたちの人生の歩みには、いろいろな顔があります。大学生として過ごす顔、

わたしは、名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学のチャプレンですが、附属幼稚園である、三好丘聖マーガレット幼稚園のチャプレンもしています。柳城の附属幼稚園のチャプレンは、皆さんが生まれる前、1997年からしていますが、その間、保育園の園長をしたりしているのでずっと続けてチャプレンではないのですが、幼児教育には牧師になる学校を、終えた1987年からずっと携わり続けてきています。でも、これはわたしが大学生になったときに思い描いていた、わたし自身の将来像とは大きく違うものです。

わたしは1984年に大学に入学をしたのですが、教会の皆さんからの牧師になったらという期待には応えずに、父親の後を継いで、政治家に、代議士になるために大学での学びを始めました。学問を修めるというよりも、将来へのコネづくりで大学生活を送っていたように思います。ですから、学校には顔を出しますが、講義への出席よりも、サークル活動や友人づくりに精を出していました。学校にいないときには、自由民主党という政治団体の学生部に所属して、当時わたしは法務大臣の私設秘書として、派閥の地方議員の選挙運動や、今問題になっている、政治資金を集めるためのパーティを開催しながら、毎日を送っていました。
自分で望んでそのような毎日を送っていたのかというと、そういうわけではありません。わたしはトランス女性ですが、当時は男性として生活をしていました。本当の自分は隠し続けて、死ぬまで男性として、政治家として人生を送らなければならないのだと、あきらめていたのですね。

今日聴きました聖書の箇所は、ガラテヤの信徒の手紙3章28節の箇所でした。この箇所は、最初期のキリスト教会で使われていた、「洗礼を受けるときの信仰表明」、つまりわたしはこれこれこういうことを信じて、そのような世界を実現するために働いて行きますよという決意表明の文章からの引用の部分だと言われています。
パウロという人がこの手紙を書いていますが(50年代中頃)、ガラテヤにある幾つかの教会に回覧板のようにして書き送った手紙をまとめたものです。イエスさまを信じることで、当時のこう生きなければならないとユダヤ人が信じていた、とても厳しい規則「律法」から解かれて、わたしらしく命を光り輝かせて生きて良いのだということを確認するために、28節で言われていたように、ユダヤ人もギリシア人もなく(人種差別、民族差別の否定)、奴隷も自由な身分の者もなく(民族差別の否定)、男と女もありません(性差別の否定)と、語られているのです。それは、当時のキリスト教会が自分たちの集まりの特徴をあげて、他のグループとの違いを明確にするための決意表明だったのです。引用されたこの決意表明は、もともとは

「あなたがたは皆、神の子たちです。なぜなら、キリストの中へと洗礼を受けた人たちは皆、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。なぜならあなたがたは皆、一人だからです。(ガラ3:26-28) 」

というような内容だったようです。
イエスさまが宣べ伝えた神さまを信じて生きる生き方は、民族や身分、性別の違いを問題にすることはなく、様々な違いを超えて平等で公正な集まりを造っていこうとするものでした。様々なしがらみや、こうあるべきと云う押しつけから自由になっていて、自立した一人の人として、自分の人生の選択をして、決断をして歩んで行って良いのだと、神さまから召された、招かれているのです。だからわたしはこう生きなければいけないという決めつけを跳ね返して、頂いている命を光り輝かせて、互いに愛し合いながら、わたしはどう生きてこの世界が正義と平和に満ちた世界になって行くように生きてゆくことが大切なのだと言われている箇所なのです。わたしたちの可能性は閉じられているのではなく、開かれているのだと励ましてくれているのです。
ですからこの言葉は、民族・身分・性別などの違いによって差別され、生き方を抑圧されていることに痛みや憤りを感じ、その世の中に抗って生きようとする人々にとって、大きな支えと励ましになったので、当時のキリスト教に人々が集まり、次第に多くの人に影響を与える集まりになって行ったのです。

実はわたしたちが読んでいる新共同訳聖書では、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」と訳されています。最初の二つは確かにユダヤ人も、と訳すのですが、三つ目の「男も女も」は、正確には「男と女もありません」と訳すべきなので、実はあまり正確な訳ではありません。2018年に「聖書協会共同訳聖書」という新しい翻訳が出ましたが、その訳では「男と女もありません」と正確に訳されています。では、「男も女もありません」と「男と女もありません」ではどういう意味の違いがあるのでしょうか?

ここで注目したいのは「男と女もありません」の「男と女」は、一般的に使われる「男性(アネールνηρ)」「女性(グネーγυνή)」という言葉ではないことです。ここでは、創世記の創造物語「神は人を男と女に創造された」(創1:27)で使われたのと同じ、「オス(アルセーンρσεν)」「メス(セールスθλυ·)」という言葉が使われています。つかり、女性差別や男女の格差を解消よりさらに踏みこんで、「男(オス)と女(メス)」で「一対」という概念も乗り越えて一人一人の大切さが宣言されているのです。
これは、「男と女」で「一対」として生きる抑圧に縛られずに、女は結婚して子どもを産まなければというプレッシャーから解放される福音だったのです。子どもを産めない・産まないことで、「女」である自分を後ろめたく思う必要もありません。
この宣言は、女はこうあるべき、男はこうあるべき、というジェンダー規範で縛られて生きにくくされていた、同性に魅かれる人々や、トランスジェンダーの人々などにとっては、まさに大きな自己肯定として響いたのでしょうょう。様々な社会・文化規範に順応出来ない、したくない人々にとって励ましの宣言だったのです。

当時のキリスト教会はとても小さな集まりでした。その小さな集まりが、世界に拡がる集まりになっていったのは、「こうでなければいけない」と思い込み、命を光り輝かせることが出来ずにいた人々に、そうでなくても良いのだという励ましを与えて、命を光り輝かせて歩む力になったからだったのだと思います。わたしたち一人一人が自分の人生を縛られることなく自由に選び取って行くことで、それは素晴らしい多様な世界が実現していくのだと宣言をした集まりだったからこそ、多くの人たちが集まってきたのでしょう。残念ながら、今、キリスト教会は「こうでなければいけない」と語る集まりになってしまっていますが…。

皆さんがこの柳城学院での学びを深めてゆくときに、「こうでなければならない」と思い込んでいるしがらみを越えて、わたしたちがどうしたらお互いに仕え合って、助け合って、愛し合って、この世界を平和で正義に満ちた世界へと変えて行けるのかを、今日の聖書から聞いて参りましょう。ご一緒にしがらみから解放されて命を光り輝かせて歩み始めましょう。           (チャプレン 後藤香織)

【マタイによる福音書 第6章25~34節】
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

✝    ✝    ✝

 今日の箇所で、イエス様は言います。

空の鳥をよく見なさいと。種を蒔くこともしない。刈り取ることもしない。倉を作って収めることもしない。しかし、天の父、すなわち、神様は、鳥を養ってくださっているではないか、と。だから、何を食べようか、何を着ようかなどと、思い悩む必要はない、と言われます。神様がいつも私たちを養ってくださる、守っていてくださる、だから、思い悩む必要はない、ということです。
この箇所は、何を食べようか、何を着ようかなどと、贅沢なことは考えず、与えられたもの、すでに持っている物で、質素に暮らそう、というような、いわゆる清貧のススメ、という教訓として受け止められることも多い箇所です。しかしながら、この箇所は、一般的な教訓ということとは、異なる次元の意味を持っています。
ここでイエスが語っている相手とは、そもそも、そのような贅沢とは無縁の人たち、そもそも質素に暮らさざるを得ない、貧しい人たちでした。どんな人達がイエスの話を聞いているかというと、少し前の箇所に、次のように書かれています。
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、イエスに従った。」
つまり、イエスの周りで話を聞いていた人たちとは、様々な病気や苦しみに悩む人たち、社会の中心から排除されてしまった人たち、貧しい人たちでした。彼ら彼女たちは、祝福された人生、恵まれた人生とは、縁遠い人たちでした。そして、自分のことを、神様の恵み、神様の祝福から見放された者だと思っていました。そんな彼らに語ったのが、今日の言葉でした。そんなわけですので、その人たちを前にして、もっと質素に生きようと語った、とは考えられません。彼らは、すでに十分すぎるほど、質素に生きています。おそらく着る物だって、そんなに持っていなかったでありましょう。

では、イエスがここで大事にしたいこととは、なんだったのでありましょうか。
空の鳥は、働かなくても生きている。それはどういうことか。それは、すなわち、働く人も、そして、働かない人、あるいは働けない人も、生きていていいのだ、ということです。
全ての人は、そもそも、神様によって造られ、神様によって、生きることが許されています。鳥がそうであるように、あるいは、野の花がそうであるように、働いても、働かなくても、何の条件もなしに、きちんと生活することができる、食べることができる、着ることができる、住むことができる、そのようにあるべきなのだ、ということです。
もちろん実際には、誰かが食べ物を収穫しなければなりません。しかし、自分の手で収穫しなければ食べてはならないということでもありません。例えば、こどもたちや高齢者がそうです。働かなくても、働けなくても、食べていかれるようにしなくてはなりません。それぞれの理由はどうあれ、全ての人は、仕事をしようがしまいが、生きていていいはずです。私達は働いていないことを理由に、この人は生きる資格がない、死んでも良い、などと言ってはならない、はずです。
種も蒔かず、働くこともなく、そんな鳥や花たちに対して、神様は、食べ物を与えない、雨を降らせない、などということがあろうか。同じように、あなたがたも、さまざまな理由で、社会から置き去りにされているかもしれないが、しかし、神様の目から見て、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言うことは、ありえない、神様は全ての人を大切にされる、全ての人間は生きていてよいものとして神様によって造られたのだ。このようにイエス様は述べ、彼ら彼女たちを勇気づけたのでありました。

現代に生きる私たちも、イエス様が語られた言葉を、今、ここで聞いています。空の鳥を見よ、野の花を見よ、あなたも、生きていていいのだ、神様から大切にされているのだ、誰からも、生きる資格がない、生きる意味がないなどと言われてはならないのだと、イエス様は語りかけます。働かざるものであろうが、あなたは大切なのだ、ということです。

空の鳥を見るとき、野の花を見るとき、それらが神様によって生かされていることを思い起こし、私たちも、神様によって、無条件に、生きることが赦されているのだ、ということを思い巡らしながら、過ごしたいと思います。(チャプレン 相原太郎)


フェイジョアの実

【ルカによる福音書 第6章27~36節】
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

✝ ✝ ✝

 「敵を愛しなさい」という有名な言葉の少し前に、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」とイエスは言われます。このことから、敵を愛する、ということは、全部相手の言いなりになることかと思われるかもしれません。怒りや憎しみなどをすべて押し殺して、相手に合わせることと思うかもしれません。

しかし、そうではありません。ここでイエスは、このような極端な言い方を通して、当時の人たちが思い込んでいた常識を揺さぶろうとしました。例えば、当時のユダヤ人たちの常識では、サマリア人は宗教的に穢れていると考えられていました。ですので、サマリア人を愛するどころか、彼らに接触すること自体もタブー、というのが当時の常識でありました。サマリア人以外にも、様々な人達のことを、憎むべき者たち、自分たちにデメリットをもたらす者たち、愛してはならない者たち、いわば敵として規定されていました。イエスが「敵を愛しなさい」というときの敵とは、このようにその社会から排除されている人たち、自分たちにデメリットをもらす人たち、というニュアンスを含んでいます。

私たちは、通常、人を愛するという時、その対象は、どうしても、自分によくしてくれる人、自分にメリットをもたらす人になりがちだと思います。

しかし、イエスの語る愛とは、自分にとってメリットがあろうがなかろうが、見返りがあろうがなかろうが、そんなことは関係なく、何の条件もなしに、他者を愛する、大切にする、というところにポイントがあります。むしろ、自分にとって都合が悪い人、デメリットをもたらす人をこそ、愛しなさい、大切にしなさい、と言われているわけです。

さらにイエスは、次のように続けます。 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」

人から何かしてもらったら、そのお返しに、自分もその人にしなさい、ではありません。人からなにかしてもらう、ということが前提となっていません。それでもなお、人にしなさい、ということです。何らかの見返りがあろうがなかろうが、メリットがあろうがなかろうが、自分がしてほしいと思うようなことを、人々にしなさい、ということです。

自分への見返りもなく、なんの条件もなしに、他者を大切にすることができるのだろうか、と思われるかもしれません。しかし、私たちの柳城が大切にしている保育こそ、実はそのようなものではないかと思います。保育の現場において、子どもたちからの見返りは期待していないはずです。この子が大人になったら自分にこんなことをしてくれるかもしれない、だから大事にしようとか、条件をつけることはないはずです。その子の将来がこうなるから、ではなく、目の前にいる一人ひとりのこどもを、そのまま大切にする、ということが、保育にとって重要な原則であろうと思います。

「敵を愛しなさい」と言われたイエスは、何ら見返りを期待することなく、目の前にいる人たち、とりわけ社会から排除されていた人たちに徹底して寄り添いました。当時の社会では一人前と見られていなかった子どもたちを、一人一人大切な人間として大事にされました。そして、十字架によって死に至らせた人たちをも愛されたのでした。神様は、イエスの生涯を通して、私たちに見返りを求めない愛を示されました。このような神様の愛の質を私たちは様々な場において大切にしてまいりたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)


柳城祭2023

【ルカによる福音書 第6章20~26節】
6:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
6:21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
6:22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
6:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
6:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
6:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
6:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

✝  ✝  ✝

「貧しい人々は幸い」というのは、普通に考えれば、とても受け入れ難い教えです。貧困は、やはり克服すべき事柄です。飢えている人には、食べ物が与えられなければなりません。泣いている人の涙は、ぬぐわれなければなりません。
そして、貧しい人ではなく富んでいる人、飢えている人ではなく満足に食べることのできる人、泣いている人ではなく笑っている人、そういう人たちこそが幸福だ、と思うのが自然であると思います。

聖書の中で貧しい人とは、文字通り衣食住に事欠く人たちでした。イエスの周りに集まってきた人たちは、貧しく、あるいは社会の隅に追いやられ、神様からも見放されたと考えられていたような人たちでありました。そんな彼らに対して、皆さんこそが幸いなのだ、皆さんのところにこそ神が共におられるのだ、と語ったわけです。

イエス自身も、貧しい大工の息子として生まれます。そして、自ら持たざる者として育ち、貧しい者、社会から見放された者、罪人とされた人たちと共に暮らしました。そのようなイエスが、決死の思いでイエスのもとに集まってきた貧しい人たち、困難の中にある人たちを目の前にして、あなた方こそ幸いなのだ、神は決して見捨てることはないのだ、神の国はあなたがたのものだ、あなたがたのものにならなければならないのだ、と宣言したのでありました。
そして、イエスは、その言葉通り、彼らと共に生涯を送り、人生をかけて、生き方として、そのことを示したのでありました。「貧しい人々は幸い」というイエスの発言は、自分がどうなろうとも、あなたがたといつも一緒だ、という決定的な覚悟と決意の表れでもありました。

そもそも、すべての人間は、本来ひとりで生きることはできません。助けを求めなければ暮らしが成りません。とりわけ困難の中にある人は、そのことを、その弱さを、身にしみて理解しています。貧しさゆえに、自分が不完全であることを、弱い存在であることを、お互いに頼って生きる必要があることを、知っています。イエスのいう「幸い」とは、そのような人と人のつながり、愛をもって仕える関係の中にこそ、神様はいてくださる、ということであると思います。

このイエスのメッセージは、私たちにも向けられています。イエスは、その生涯を通して、自ら痛み、苦しんだ者として、私たちの悲しみ、不安、弱さ、不完全さを知っておられます。神様は決して見捨てることはない、神は必ずあなたとともにおられると語っておられます。
今、それぞれの生活において、さまざまな不安、悲しみ、疎外感、孤独に苛まれることがある方もいらっしゃるかもしれません。イエスは、そうした、一人一人の具体的な苦しみの中に、自ら低くなって、身を挺して、一緒にいてくださいます。神様が、共におられることを覚え、人と人との愛のつながりの中で歩んでいくことができればと思います。(チャプレン相原太郎)


ヒガンバナ

【ルカによる福音書14章7~14節】
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

✝ ✝ ✝

今日の箇所を読みますと、日本の上座・下座の文化の話に聞こえてきます。謙虚でいなさいというような教訓に聞こえるかもしれません。そして、これが天国のたとえであるとすると、天国は日本の宴会の場のようなところなのかと思うかもしれません。天国には序列があるのかと、思うかもしれません。しかし、そういうことではありません。
ここで大事になってくるのが、この場面で誰がこの話を聞いていたか、ということです。それは、ユダヤ教のファリサイ派と呼ばれる人たちでした。ファリサイ派は、当時、ユダヤ教の教えとその規則を熱心に守っていた人たちでした。それ自体はいいのですが、問題は、彼らが自分たちのことを他の人達と比べて正しいことをしている、と考えていたことでした。そして、その規則を守ることのできない人たちの気持ちを軽視し、ユダヤ社会から排除しようとすることでした。

イエスは、このようなファリサイ派たちの考え方は間違っていると考えました。このたとえに出てくる最初から上座に座ろうとしている人とは、ファリサイ派のことだと言えます。一方、ファリサイ派のようなエリートによって断罪され、ユダヤ社会から排除されていた人たちは、そもそも自分は天国に行けないのではないか、そもそも席がないのではないか、と思っていました。

しかしながら、このたとえにおいて、神様は、そのように思っている人たちに向かってこう言うのです。

友よ、もっと上席にお進みください。

自分などだめな存在だ、神様に愛されているはずがない、と思うような人たちにむかって、宴会の主催者、すなわち神様は呼びかけます。「友よ」。神様は、あなたこそ友なのだ、あなたこそ私のそばに来てほしいのだと、言われているわけです。
今、この世界の中で排除されている人たち、自分などだめな存在だと思っている人たちに対して神様は「友よ、もっとも上席に」と招いていること、これこそが、イエスの語る神の国、天国のイメージです。

この例えには、宴会に招かれたときだけでなく、自分で宴会を開くときのことが出てきます。そのポイントは、人を宴会に招くときには、相手にお返しを期待しない、見返りを求めない、というところにあります。
私たちがパーティーなどを行うとき、何らかの意味で利害関係者を招くのが普通だと思います。この人を招いて、あの人を招かなければおかしい、とか、この人を呼ばないと、後で困ったことになるかもしれない、といった具合です。そして、こうしたことは、パーティーなどに限ったことではありません。私たちが人に何かをする時、相手のためと思いながら、実際には、何らかの自分へのメリット、見返りを期待しているということが、多かれ少なかれあると思います。この人にお願いされたことをやっておけば、後で自分が得することがあるのではないか、この人に親切にしておけば、後でみんなから尊敬されるのではないか、といった具合です。相手のためと言いながら、実はお返しを求めている、つまり実は自分のためにしている、ということは、よくあることだと思います。

しかしながら、天国、あるいは神の支配とは、それとは全く異なる原理である、ということです。
たとえの中で、婚宴に招くべき人としてリストに出てくる人たちとは、貧しい人たちなどでした。その人たちは、当時の社会においては、社会の期待に答えられない、すなわち、お返しができない人たち、と考えられていました。そして、イエスは、そのようにお返しができないからこそ、婚宴に招かれるべきなのだ、と言われます。それはどういうことかというと、神の国、天国は、何もお返しができない人、何も持っていない人、あるいは、神様の期待に応えることなどとてもできないと思っているような人こそ招かれているのだ、ということです。

これらのたとえが示していることは、神様は私たちに見返りを求めていない、ということです。私たちは、神様に対して何かを差し出す必要はない、ということです。私たちは、そもそも一人一人大切な存在として、神様によって創造されました。であるから、神さまは、私たちが何かを差し出すことによって、あるいは私たちの能力によって、その人の存在価値を判断する、というようなことはないわけです。そもそも神様にとって、私たちの価値とは、私たちの存在そのもので十分です
私たちは、この社会の判断基準、あるいは、自分が持っているたくさんのものから離れ、神様の前に、何も持たないありのままの自分で、神様に立ち帰りたいと思います。 (チャプレン相原太郎)

 

【マルコによる福音書10章2~9節】
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

✝ ✝ ✝

 今日の箇所では、まずユダヤ教のファリサイ派の人が登場します。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の中でも、とりわけ律法のさまざまな規定に忠実に従って暮らしていた人たちです。そのファリサイ派がイエスに、「夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」と問いかけます。夫が妻に離婚を言い渡すことは、正しいですか、と聞いているわけです。
当時の離婚は、基本的には、夫に強い決定権がありました。夫だけが自分の都合で、妻を自由に離縁することができる、ということです。しかもその都合が、いかなる場合であっても認められるというのが、ファリサイ派の基本的な考え方でした。実際、当時、鍋を焦がしたといった本当に些細で身勝手な理由で、夫は妻と離縁する人たちがいました。しかし、ファリサイ派は、そうした離縁も、律法に基づいて手続きが行われれば許される、と考えていました。
当時の社会では、夫から離縁させられた女性は、穢れたものとされ、再婚も困難でした。女性たちは生計手段を持っていませんでしたので、離縁とは、そのまま路頭に迷うことを意味します。

イエスがこのような離縁のあり方を批判していることは、ファリサイ派も知っていたはずです。しかしその離縁は、形式的には、律法に基づいているわけです。ですので、イエスがもし、夫が妻を離縁するのは間違いだ、と言い出したら、イエスが法律を無視する発言をしたとして、告発しようと思っていたわけです。

そこで、イエスは、ファリサイ派に「モーセはなんと命じたのか」と尋ねます。するとファリサイ派は「離縁状を書いて離縁することを許しています」と答えます。確かに聖書にはそのように読める記述があります。しかしながら、それは、本来、女性の権利を守る意味合いがありました。というのも、離婚する夫は、離縁状を作成する際に、自分自身の身勝手さを認めるような形で署名をしなければならなかったそうです。イエスは、身勝手な男性による離縁という問題意識から、聖書はそのように記したのだ、ということをファリサイ派に述べます。

そして、イエスは、「神が結び合わせた者を、人は離してはならない」と語ります。この言葉は、結婚式の大切な場面でよく用いられる箇所です。しかし、この言葉は、もともとは結婚式に臨んでいるカップルに対するものではありません。また、単純に、離婚をしてはならない、ということでもありません。
この言葉は、夫の全く身勝手な理由で離婚するのは許されない、男性の身勝手によって女性が苦しむようなことがあってはならない、ということです。

「結び合わせた」という言葉は、もともとの意味は「複数でくびきを担う」ということです。くびきとは、家畜が一緒に荷物を引っ張るための道具です。つまり、結び合わせるとは、重荷を一緒に並んで共に担う、ということです。男性が女性を支配するのではなく、男性も女性も、神のもとで、一緒に重荷を分かち合う関係となるのだ、ということです。
イエスの時代、男性と女性はそもそも対等ではありませんでした。一夫一婦制すら確立していませんでした。そうした中で、イエスは、全ての人は、そして夫婦となるカップルは、神の前で等しく尊厳を持っているのだと、激しい平等を主張したのでした。

そして、このことは、結婚する男女カップルの関係だけのことではありません。あらゆる人間関係について、言うことができます。私たち人間は、そもそも共同体的に生きるように創造されています。私たちは、生まれながらに繋がりあって生きています。そもそも、世界の全ての人は、本来、「神によって結び合わされた者たち」に他なりません。愛によって仕え合う関係、それが、神によって結び合わされた状態である、ということです。
神に結び合わされているはずの関係なのに、例えば、男性の都合、あるいは、大人の都合、あるいは、力の強いものの都合によって、一方的に支配するようなことがあってはならないわけです。

私達の社会には、さまざまな不平等が存在しています。そうした中で、私たちは、神に結び合わされた者、共に生きる者として創造された者、対等に共にくびきを担うものとしての関係を、築いていきたいと思います。

時に、私たち自身も、この社会から切り離され、その存在を否定されるようなことがあるかもしれません。イエスは、そうした私たちの間に立って、「神が結び合わせた者を、人は離してはならない」のだ、と宣言されます。私たちは、そのようなイエスによる宣言を通して、私たち一人一人が、神のかたちに似せて創られた尊厳を持つ者であり、共に繋がりあって生きる者として造られたことを覚え、日々を過ごしてまいりたいと思います。     (チャプレン 相原太郎)


正門のメランポジューム

このページの先頭へ