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【旧約聖書 創世記2章18~25節】
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

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今日の聖書も、旧約聖書の創世記から選ばせていただきました。

創世記1章は、神さまがこの世界をとても素晴らしい世界として創造され、わたしたち人間を神さまの似姿に造られて、一人ひとりがかけがえのない存在であることを明らかにしてくださっていました。ところが、今日の2章18節は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と記されています。とても素晴らしい世界に造られたのに、良くないと言われています。その理由は、1章の天地創造の話しと、2章の人間を造られたお話しは直接には続いていないからなのですが、ここで聖書は人間が孤独な状態が、神さまの創造の目的に適っていない状態で、良くないことなのだと語るのです。

このお話しは、もともと村の共同体の中で、長老が結婚適齢期の若者を集めて、結婚について教えるために語り継がれて来た物語であったと考えられています。その証拠が、24節の「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」という言葉です。
人間はそもそも一人ぼっちで生きる存在ではないこと、誰かといっしょにに生きるように造られたことを、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と念を押しているのです。そしてさらに19節では、神さまが「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり」人の所に連れて来ますが、動物の中には「自分にあう助ける者は見つけることが出来なかった」と報告しています。現代のペットを擬人化し、家族同様に思う人を生み出しているペットブームの中では、非難されそうな記述ですが、動物の中には「ふさわしい助ける者」は見つけられなかったと、聖書は語るのです。

この2章の創造物語で、7節にあるように人間は土のちりで形造られ、その鼻に神さまから「命の息」を吹き込まれて「生きる者」となっています。「生きる者」であるのは、人間も海の魚や動物、空の鳥など、他の動物などと同じですが、他の生き物とは違って、特別に「命の息」が神さまにより直接吹き込まれて造られたこと、すなわち神さまに似る者として、神さまのかたちに造られたことが語られています。
そのように人間の尊厳について語られている箇所であるにもかかわらず、残念なことに、この2章の創造物語は、しばしば女性差別を肯定するように読まれてきた歴史があります。わたしたち柳城学院が、新たに柳城女子大学という形で、男女間の扱いの違いを無くして行こうと言う時代に、わざわざ女性に特化した教育を選び取っている理由は、まさに女性への不平等を解消して行くことがその理由に挙げられます。だからこそ、この創造物語がしっかりと男女平等を語っているということを、柳城生の皆さんには知っていてもらいたいと思います。
今日はしっかりと触れることは出来ませんが、例えば、2章18節の「彼に合う助ける者」という表現があります。この「助ける」が誤解され、なぜか女性が「男の補助者」として造られたのだと解釈されることが多くありました。しかし、この「助ける」は、ヘブル語では「エーゼル・ケネグドー」ですが、神さま自身が弱い人間を助けるために働いてくださるときに使われる単語です。「助ける者」は、その存在が無ければ欠けを生じてしまうほど、互いに必要な存在を意味しているのです。女性も、男性も互いに助ける者として尊重し合う、存在としてあることを今日の聖書の箇所は教えているのです。

さて、このお話しは結婚の準備のお話しだと申し上げましたが、24節では人間が親離れすることがまず語られます。成人した二人がともに「ふさわしい助ける者」同士、互いを大切にして、助け合い、愛し合って過ごしてゆく、人間の人生の歩みが豊かな出来事として記されています。未熟で、独りでは生きて行けないから、助ける者の存在が必要なのではありません。「自立」した二人が、互いに交わることで、お互いの違いを楽しんでいくことが、人生の醍醐味なのだと教えてくれているのです。
この後、人間が神さまとの約束を破って、「善悪の知識の木」の実をとって食べ、罪が入ってしまった時、二人の人間は、責任の擦りあいを始めてしまいます。それ以来人間の歴史は、お互いに愛し合い、支え合い、分かち合う歩みではなく、足を引っ張り、憎み合って争い、奪い合う歩みに終始することになります。家族の中でも、社会の中でも自己中心的な歩みをしているわたしたちは、せっかく神さまが、交わりの中に、わたしたちの生命を与えてくれたにもかかわらず、その交わりを喜べなくなっています。わたしたちの最大の悩みは人間関係です。良い形で人間関係を結べませんので、わたしたちは今日の聖書の呼びかけとは反対に「ひとりでいるほうが良い」のだと感じてしまうほどです。
にもかかわらず、「一人でいた方が楽だ」、「人と交わらずに、人間関係で悩まないことが幸せだ」と交わりを紡ぐことを諦めているわたしたちにとって、「人がひとりでいるのは良くない」という神さまの言葉は、どこか心惹かれる言葉です。神さまは、わたしたちが散々人との関係で傷つけられ続けていても、独りでないことがわたしたちが生命を与えられた目的なのだと力強く語りかけてくださるのです。人は、みんな違った存在です。でもその違いゆえに、わたしたちはお互いに助け合う機会が与えられるのです。わたしが一人では経験出来ないことが、互いに交わりの中で分かち合えるのです。さまざまにちがうわたしたちが、実際には互いに支え合い、分かちあい、愛し合うことが出来ずに傷つけ合うことが多かったとしても、誰かといっしょに歩むことの方が、一人で何ごともなく、過ごすことよりは「良い」のだと教えられているのです。

ですから、独りでいないで、交わるように生命を与えられていることを、積極的に受けとめて、傷つけ合うのでは無く、愛し合い、支え合い、分かち合う交わりを、この柳城での生活の中で紡いで行きたいと思います。  (チャプレン 後藤 香織)


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【創世記12:1~9】
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
12:6 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
12:7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
12:9 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

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旧約聖書の創世記の中で、神はアブラハムという人物に対して、あなたは生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へと旅立て、と言います。このアブラハムという人は、後に信仰の父と言われるようになる重要な人物です。そんなアブラハムは、神の言葉に従って、故郷を離れ、まだ見ぬ世界を目指して旅立ちます。
当初、アブラハムは、カルデアのウル、というところに住んでいました。彼はそこから旅立ち、ユダヤ民族の基礎を築くことになります。アブラハムが、神の呼びかけに応えて、生まれ故郷を離れて旅立ったことから、ユダヤ・キリスト教歴史がスタートしたとも言えます。

先ほどの聖書の箇所を読みますと、神は、アブラハムに旅立て、と言っているのですが、しかし、どこに向かってかについては、はっきりと言わず、目的地は曖昧でありました。というのも、ここでは、目的地よりも旅立つこと、そのものが重要であったからです。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』
これが何を意味するかというと、慣れ親しんだ故郷から、あるいは、同じようなバックグラウンドを持って固まって生きる人たちの間から離れて、旅立て、ということでもあります。
この神の呼びかけに応えて歩むアブラハムの姿こそ、ユダヤ教、キリスト教のアイデンティティ、自己理解を示すものでもあると思います。そしてそれは、キリスト教主義の学校である柳城が、どのような学びの共同体なのかを、表すものでもあります。
それはつまり、私たちは、当然と感じて慣れ親しんでいる場所や人のつながり、すなわち、地縁や血縁、住み慣れた場所から離れ、神の示す地に向けて、共に旅をする者たちだ、ということです。
私たちは、家族や親戚からの視線、地域の目、社会の常識に、縛られながら生きています。そんな中で、私たちは、今日、あらゆることに対して、安定を求めがちです。そして、自分の人生を旅として歩むことに臆病になっています。しかし、人生とは、何かマニュアルに沿って、与えられた台本をなぞるようなものではないはずです。人生は、本来、旅でありましょう。今日の聖書の物語は、私たちをしばっている当たり前、秩序、安定、マニュアルから離れ、旅立つことを促しています。

私たちは、今、この柳城という、キリスト教会によって建てられた学校で過ごしています。それは、私たちが、神の呼びかけ、すなわち「わたしが示す地に行きなさい」という呼びかけに応え、共に旅をする者たち者たちとして、招かれている、ということを意味します。真理を求め、そして、愛をもって人々に仕えていくために、共に旅をする仲間として、今、ここに招かれている、ということです。柳城の一員として、本当に大切なことは何かを探し求め、常識に安住せず、共に旅をし続ける者たちでありたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


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【旧約聖書 創世記1章26~31節】
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

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 今日の聖書は、旧約聖書の一番初めの書物である、創世記から選ばせていただきました。と言っても、旧約聖書って、何? と、思っている方もいらっしゃるでしょう。旧約聖書の旧約は、「旧い契約」という意味の言葉です。キリスト教には、「新しい契約」を記した「新約聖書」があるので、神さまとの最初の約束を旧い契約、旧約と呼んでいます。
しかし、ユダヤ教やイスラム教では、旧約聖書での神さまとの約束は、決して旧いものではありませんので、「旧約」とは呼ばれませんし、あまりにもキリスト教中心の呼び方ですから、最近は旧約聖書ではなく「ヘブライ語聖書」と呼ぶようになってきています。

さて、今日は旧約聖書創世記の朗読、神さまがこの世界を造られ、わたしたち人間も造られたという「天地創造」のお話しを聴きました。
日本には、この創世記のお話しを歴史的な事実だと受けとめている人は少ないのですが、アメリカでは、たとえばアーカンソー州という州では、現在でも公立高校でこの「天地創造」の物語を、歴史的な事実として自然科学の時間に教えることが許されています。
自然科学で進化論を教えられてきた、わたしたちにとってはビックリするような状況がアメリカにはありますが、では、この創世記の神さまがこの世界を造ったというお話しは、おとぎ話のような、もっといえば単なる作り話なのでしょうか?
もちろん、この「天地創造」の物語は、起こった出来事を、正確に記録しているという意味では、歴史的事実ではありません。しかし、おとぎ話のような、作り話なのかといわれれば、それは違います。
聖書のお話しは、すべてが歴史的な事実ではないかもしれませんが、この聖書を記した人たちが、その人生をどう生きたのか、その人生の出来事で何か感じ、何がこの世の中の確かなものであると確信したのかという、その人たちの真実の告白の記述なのです。
この聖書を記述した人たちが、困難な中にあっても、神さまの確かな導きを信じて、その恵みに希望を与えられて、神さまを讃美した信仰の叫びなのです。

では、聖書の内容に聴いてみましょう。
26節で「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」という神さまの言葉が記されています。すごい言葉です。みなさん、そう思いませんか?
なぜなら、この聖書の時代、神さまの形、神さまの像、イメージに造られたのは、王さまだけだったのです。王さまは、神さまの形につくられているからこそ、人々に命令をすることが出来ました。
しかし、聖書はすべての人がみな等しく神の形につくられた、素晴らしい存在であると語っているのです。
社会の中で、その存在を否定され、貶められている、わたしたちの人間性を回復し、わたしたちの存在そのものが、かけがえのない尊いものなのだと聖書は語るのです。
聖書は、わたしたち人間社会が持っている、階級制度を批判し、人間の間には、尊いものと卑しいもの、身分の高いものと低いもの、支配するものと支配されるもの、力を持つものと力を奪われているものというような、分け隔てがあってはいけないのだと語るのです。
31節で、「身よ、それは極めて良かった」と言われているその内容は、互いに愛し合うことが出来ずに、奪い合い、傷つけあって、人生を謳歌できずに生きているわたしたちに、わたしたちが本来与えられている、神の似姿を回復し、互いに愛し合い、支え合い、分かち合う世界を回復するようにという励ましの言葉なのです。

今日わたしたちは、極めて良い存在として、生命を与えてくださり、その生命を光り輝かせて生きるようにと祈ってくださっている神さまの招きに、応えて歩みを始めて行きましょう。
(チャプレン 後藤 香織)


スノーフレーク

【ヨハネによる福音書13:31-35】
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

✝ ✝ ✝

柳城では、さまざまな場面で、愛という言葉が、繰り返し登場します。そして、愛という言葉は、聖書の中でも、最も重要なキーワードだと思います。しかし、その一方で、この言葉は、誤解を生みやすい言葉でもあります。
例えば、「人を愛しましょう」という言葉は、誰にとっても特に違和感がないと思えます。しかし、聖書の中で描かれるイエスの愛は、私たちが思い描くような、誰にでも受け入れられるようなものではありませんでした。むしろ、社会を混乱させるようなものとも言えました。

具体的にどのようなものだったのか、一つの例を紹介します。それは、ベトザタの池というところで、イエスが病人を癒やした、という出来事です。
イエスが、池のほとりを歩いていると、長い間、病気で苦しんでいる人が、そこに横たわっているのを見つけます。イエスは彼に近づき、その病人を癒やされます。このイエスの癒しの行為が、当時の宗教指導者たちの間で、大きな問題となりました。というのも、イエスがその人を癒した日が、安息日という日であったからでした。安息日とは、ユダヤ教の規定に基づいて、仕事をしてはならない日として厳しく決められている日でした。安息日にできることは限られていました。イエスによる癒しの行為も、安息日にしてはならないことの一つとみなされました。しかし、イエスは、その病人を放置することができず、その人を癒やされました。
この安息日の癒しの行為は一つの例ですが、イエスは、当時の社会の価値観や常識を超えて、出会った人、一人一人を愛し、大切にされたのでした。しかしそれは当時の支配層、指導者たちにとっては問題でありました。社会の安定や秩序を崩す、不穏当なものであったからです。このイエスがこの病人を癒やされた後に、何が起きたかについて、聖書は次にように記録しています。
「このために、ユダヤ人たちは、ますます、イエスを殺そうと、ねらうようになった。」

池のほとりでの病人の癒しの出来事は、イエスが、十字架で処刑されるにいたる、その引き金となった事件とも言えます。十字架とは、政府の転覆を企てようとした人などに対する処刑方法です。このように、イエスは、自分の立場が危うくなるかもしれない、命が狙われるかもしれない、それでもなお、出会ってしまった一人ひとりを大事にしていかれました。これがイエスの語る愛でありました。それは、この世的な評価、自分にとってのメリット、といったことを抜きにして、具体的に出会った人を、心底大切にしていく、ということでした。こうした愛こそが、イエスの教えに連なる私たちの学びの基礎にある、ということを、改めて覚えたいと思います。

そのためにも、まずは、イエス自身が私たちのことを愛してくださっている、ということを心にとめていきたいと思います。イエスは言います。
「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」
ここでイエスが述べている「あなたがた」とは、今、ここにいる私たちも含まれています。イエスは、他ならぬ私たち一人ひとりを、愛してくださっている。十字架で苦しめられてもなお、大切にしてくださっている、ということです。そのような私たちであるからこそ、たとえ、自分にメリットがなくても、世間から評価されないことがあっても、イエスの言われた「互いに愛し合いなさい」に、こだわってまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


柳城のサクラ

【ガラテヤの信徒への手紙5:13~15】
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

✝ ✝ ✝

 私たちは、人との関わりの中で生きています。すなわちそのことは、私たちが、自分自身の人生、自分自身の時間、自分自身の命を、他の人と少しずつ分かち合いながら、あるいは削りながら生きている、ということです。人は、ただ、生物学的な自分自身の命を、ただ長引かせるために生きているわけではありません。
今、ウクライナで大変なことが起きています。ロシアによる軍事侵攻の即時停止を求めます。そして、皆様も、少しでも自分にできることはないか、と思っているのではと思います。例えば、募金をする、SNSで発信する、デモに参加する、ウクライナの人々を覚えて祈る、と言ったことも、自分の時間を使って、自分を削って、自分を他者のために用いる、ということでありましょう。

自分を他者のために用いることの大切さを、長い生涯において家族以外の場で初めて見出すのはどこでありましょう。それは、おそらく、多くの人にとっては、これからみなさまの多くが働かれる、保育や幼児教育の場ではないかと思います。
他人に出会わなければ、傷つかずにすみます。オンラインであれば、隣に誰がいるかを気にしなくていいかもしれません。誰とも会わなければ、あるいは、短い間だけの接触であれば、大変な思いをしている人がいるという現実が、直接、自分の生活に入り込んでくることもないかもしれません。
人と人とが出会い、長い時間を一緒に過ごせば、意見のすれ違いもあります。傷つくこともあります。しかし、それでも、私たちは、人と出会うことによって、喜びを分かち合い、悲しみを共有します。自分自身だけの心地よさを超えて人と向き合うとき、自分を他者のために用いること、共に生きることの素晴らしさ、豊かさを知ることができます。そのようなことを、最初に味わう場所、それこそが、幼稚園や保育園でありましょう。

自分の時間、自分の命を度外視して、隣人を大切にする、というのは、キリスト教でいう「愛」ということでもあります。そして、その「愛」とは、親しい家族や仲間だけを大事にする、ということではありません。隣人を愛する、ということは、自分の損得勘定を超え、自分にとって都合がよくない人をも大切にする、ということです。また特に、この社会の中で隅に追いやられている人を、あるいは弱い子どもたちを、たとえ自分の命が、あるいは命の一部が、あるいはまた、自分の貴重な時間の一部が損なわれても、かけがえのない人として大事にする、ということです。

そして、このことは、この2年間、自らの感染リスクと向き合いながら、それでも本学で学び続け、実習をしてこられたみなさんが、体験的に学ばれてきたことです。これまでの卒業生とは、次元の異なる、大変な学びの経験をされたことを、どうぞ大切にしていただきたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)


クリスマスローズ

【コロサイの信徒への手紙 3:12~14】
3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

✝ ✝ ✝

 本学の今年の聖句は、「愛は、すべてを完成させるきずな」でありました。この「きずな」という言葉を聞くと、何かその人と仲良くなる、あるいはその人のことを好きになる、というようなイメージを持つかもしれません。
しかし、「きずな」あるいは「愛する」というのは、好き嫌いといったことではなくて、相手の存在を大切にするということです。逆に、「きずな」、「愛する」の反対語とは、嫌いになる、ということではなくて、関わりを持たないこと、無視すること、無関心でいること、無責任であること、ということであると思います。

私たちは、人と出会うとき、この人は自分には関係ない、あの人は部外者だ、と判断してしまうことがよくあると思います。そして、自分に直接関係がある人、あるいは自分に役立ちそうと思う人、そんな人ばかりを大事にしてしまいます。だとすると、結局、人との関係は自分中心であり、自分の中に閉じているということであり、自分のためでしかなくなってしまいます。相手に関心を持っているようで、実は関心は自分にあり、相手そのものには無関心であったりします。そのような関係は「きずな」とは言えません。
「きずな」とは、自分に利益があろうがなかろうが、出会った人のこと、あるいは隣人に、損得勘定抜きに、関心を持つことだと思います。そして、好き嫌いとは無関係に、一人一人を、かけがえのない人として理解すること。そうした中での関係こそが、「きずな」であり、柳城が大切にしている、「愛」ということでありましょう。

聖書で示される神が、まさにそのような方です。神は、その存在全てをかけて、損得勘定抜きに、私たちに関わってくださいます。
神の子であるイエスは、自分の立場が、そして自分の命そのものがどうなろうとも、この世の誰からも見向きもされない人に常に寄り添い、徹底して大切にされました。そして、最後には、十字架によって命を落とされ、神の子でありながら、苦しみと死を経験されました。

そのようにして、神は、世界のあらゆる人を一人残らず、部外者にすることなく、かけがえのない人として大切にしておられます。そのような、神からの愛を受けている者として私たちは、出会う人、隣にいる人、一人一人を、損得勘定抜きに、関心を持ち、大切にし、愛すること。そのようにして、きずなを深めていくことができたらと思います。  (チャプレン 相原太郎)


キンカンとラズベリー

【ローマの信徒への手紙 第8章18、24~25節】
8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【コリントの信徒への手紙一 12章4~11節】
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

✝ ✝ ✝

私は柳城に勤めた最初の年に東日本大震災の話しをさせてもらい、今日はこうして、柳城での最後の年に話す機会が与えられました。このような配慮を有難く思います。

さて、最近思っていることですが、こうして年を重ねてくると、自分の時間とか人生に関する感覚というか考え方が変化していることを感じます。例えば、時間の経過が加速度的に速く感じたり、人生のゴールを想定してゴールから物事を考えたりするとかです。また、「年寄りの繰り言」と言われる通り、年を取ると、同じ話や昔話を何度も繰り返すようになるのですが、それは死というものを意識するような年齢になると自分の人生の意味を考えるからだと心理学的に説明されていて、ごく自然なことなんだと自分でも納得しています。ちなみにエリクソンはこの現象を「老年期における自我の統合」という言葉で表現しています。さらに、人には「レミニッセンス・バンプ」とか「記憶のこぶ」といって、強く記憶に残っている時期があります。もちろん最近のことは誰でも良く覚えていますが、10代後半から20代の思春期・青年期の頃を特に良く思い出すようです。たとえば、認知症の方でも自分が輝いていたこの時代に戻ることがあります。

ということで、私自身も今日の話しのテーマを「私のたからもの」にして、自分を振り返ってみたいと思った次第です。

私は子どもの頃から「人は使命を持って生まれてくる。では、自分の使命は何だろう、どう生きたらいいのだろう」と考えるようになり、信念とか使命という言葉に憧れていました。そんな思いで自分の道を長年探しながら、私は多くの人と出会い、豊かな時間をいただきました。というのも、私は、たまたまですが、色々な学校で学び、いくつかの町に住み、多様な職場、特に看護・保健・介護の分野、つまり対人援助職という分野で働く過程で、多くの人と出会い、様々な方の人生に触れながら豊かな時間を過ごすことができたのです。これが私のたからものだと今では思っています。

そういう中で、私は自分の使命として看護の道を最初に求めましたが、看護学生になっても自分の道に確信が持てなくて悩んで別の道を探したこともあります。それでも、看護の最初の実習が始まり、その時出会った忘れられない患者さんがいます。血液内科に再生不良性貧血で入院していた若い重症患者さんです。廊下側のベッドにいて、私たちにさわやかな笑顔を見せ冗談も飛ばすような方でしたが、突然次の日にそのベッドが空いていたのです。10代後半で、それまで死に向きあったことのない私には非常にショックでした。また、その実習で、必修ではない解剖にも立ち会ったのですが、解剖室に横たわっている人は私には蝋人形にしか見えず、うまく言えませんが、解剖の最中は悲しいなどといった感情がわいてこない状態でした。でも、解剖が終わったときに、実習のメンバーの一人が泣き出し、それがきっかけになって、私にも一気に感情が戻ってきて、解剖されたのは亡くなった人だったんだとやっと感じることができて、涙が出ました。

その後も、人の生とか死について答えのない問いが私の心に残りましたが、看護の実習を重ねるうちに、体育教師になるのが夢だった白血病の中学生とか、1型糖尿病で幼少期からおやつを我慢してきた若い女性とかに出会いながら、この道でよかったんだなと自然に思えるようになりました。ただ、私には病院よりも地域で働きたいという思いが強かったので、保健師の資格を取ったりもしました。ここにいる皆さんも対人援助職に就こうとしているわけで、これから色々な人に出会うと思います。私も次の場所でどんな人と出会えるのかが楽しみです。

最後に皆さんへお伝えしたいのは、無力感に陥ったり、理不尽だなと思うような時の対応についてです。そんなケースに出会った時には、そのままを受け入れて耐えていくことも時には必要だと、私は最近感じるようになりました。自分の道がこれでよかったと思えるなら、耐える力も生まれるということでしょうか。実は、この力には名前がついていることを私は数年前に知りました。それはネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える力)という言葉です。本日は、この言葉でもってお話を終わりたいと思います。

(名古屋柳城短期大学 教授 芝田郁子)

【マタイによる福音書 2章1~12節】
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

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 イエスの誕生を祝い、大切な宝を差し出したのは、ユダヤ人ではなく、むしろユダヤ人にとっては、あまりイメージのよくない、東のほうから来た外国人の博士たちでした。この物語において、重要なポイントとなるのが、ユダヤ人が長い間、心待ちにしていた救い主の誕生を祝ったのが、実はユダヤ人ではなかった、ということです。
その博士たちとは逆の振る舞いをしたのが、ユダヤのヘロデ王です。ヘロデは、新しい王が誕生した、という情報を聞きます。すると、自分が築いてきた王としての立場が失われるかもしれないと、不安に陥ります。不安を抱いたのは、ヘロデ王だけではありませんでした。エルサレムの人も同様に不安を抱いたことが描かれています。救い主の誕生に不安を抱いたのは、エルサレムの人々全体の共通認識でした。
エルサレムは、ローマ帝国の支配の中で、さまざまな問題があるものの、表向きには日々の生活が成り立っていました。そんな中で、救い主が現れると、現在の自分たちの暮らしが大きく変化してしまうかもしれないと考えました。だからこそ、ヘロデ王だけでなく、イスラエルの人々も、メシアの登場を恐れたわけです。

そのような不安な気持ちとは、まったく異なる行動を取ったのが3人の博士たちでした。救い主、メシアとは、ユダヤ人の王となる人物です。しかし、博士たちはユダヤ人ではありません。博士たちが、わざわざ異国の地に赴くということは、その星が示すメシアが、ユダヤ地方の単なる民族の王としてのメシアを、超えるような存在になるかもしれないと考えたのかもしれません。異国の地にまで赴いた博士たちの行動には、これまでの生活が変わるかもしれないという、覚悟のようなものが感じられます。

ところが、そんな博士たちに意外な光景が待ち受けていました。星をたよりに、新しい王の誕生を探し求めて旅をすると、ついに星が止まりました。しかし、そこはヘロデ王がいるような王の宮殿ではなく、貧しい寒村の小さな家でした。そして中に入ってみると、そこにいたのは若き母マリア、そして幼子イエスでした。

博士たちは、ユダヤ王国の権力の頂点にいるヘロデ王から送り出されて、ベツレヘムに向かいました。博士たちは、ユダヤの王の姿がどういうものかを、実際に会って理解しているわけです。そして、そのヘロデ王を超えていくような王の登場を想定したわけです。しかし、星をたよりに旅をすると、そこにあったのは、ただの家でありました。そして、中に入ってみたら、若い母親、そしてその横に幼子がいるだけでした。普通に考えれば、これが本当に王なのかと、疑問に思うかもしれません。

しかし、博士たちは、そこから驚くべき行動に出ます。博士たちは疑問に思うどころか、その幼子の前にひれ伏し、幼子を拝んだのでした。そして、それまで大事にしてきた黄金、乳香、没薬を贈り物としてイエスに献げたのでした。

幼子はそこにただ寝ていただけかもしれません。泣いていただけかもしれません。ただの幼子としてこの世に生まれ、マリアに頼らなければ何もできないイエス。しかし、星の知らせ、言い換えれば、神からのメッセージを通じて、その何もできない無力な幼子こそ、救い主であるという決定的な価値の転換が博士たちに起きたのでした。それゆえに博士たちは、これまで最も大切にしてきたものを手放しました。

神は、私たちのためにその独り子を無力な者として私たちに差し出されました。そのようにして、神は神ご自身をこの世に差し出されました。しかも、何もできない幼子として、この世に投げ出されました。だからこそ、博士たちにも決定的な価値転換が起こり、これまで大事だと思っていたものを、投げ出すことが可能となったわけです。

私たち人間は、どこまでも自己中心的で、自己保身に走ってしまいます。隣人を愛するよりも、自分を愛することを優先してしまいます。そんな私たちに人間に対して、神自身が、あえて人となられました。しかも、幼子、無力な者となられました。それはすなわち、神ご自身がその立場を自ら捨てたということです。そのようにして、神は人間に徹底して寄り添い、私たちが、自分だけでなく、隣人を自分のように愛することが可能であることを示されました。

クリスマス。神は、その愛のゆえに、自ら身を差し出して、イエス・キリストを幼子としてこの世に遣わされます。それゆえに、博士たちは、それまで最も大切にしてきたものを差し出します。私たちも、また、自分自身を差し出して、愛によって人に仕える道へと旅立つ、そんなクリスマス、そして来るべき2022年になればと思います。  (チャプレン 相原太郎)


スイートアリッサム

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