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16:30から1号館玄関ロビーにて、恒例の点灯式を行いました。

命の象徴であるツリーに「灯」を入れることで、クリスマスの意味を再確認しながら、イエス・キリストの誕生の恵みに対して感謝の祈りをささげました。

このツリー以外にも、学内では、クリスマス展がすでに開催されているし、クリスマスリースやアドベントカレンダー、折り紙クリスマスツリーなども飾られていて、ムードはすでにクリスマスを迎える準備に入っています。

さて、大西チャプレンからは、このツリーが、創世記に登場する「命の木」につながっているとのお話がありました。

場所はエデンの園。その中央に生える「命の木」と「善悪の知識の木」は特別な樹木です。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記2:17)」という神の命令に違反したアダムとエバに対して、神は「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。(同3:22)」と判断して二人を園から追放します。

「永遠の命」はイエスが語る大切なテーマの一つです。なかなか実感できない言葉ですが、死が間近に迫る時には、かなり真剣に意識できるかもしれません。そんな時になって慌てないよう、日頃からイエスの言葉に耳を傾けておきたいですね。(加藤)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)

爽やかな秋空の恵みの中、今年も主にあって創立記念行事を無事に終えることができました。感謝です。以下、式の模様をお伝えします。

■学校法人 柳城学院  創立121周年 記念礼拝 (午前9時30分~ 短大体育館)

●開始前
座席に配布された「柳城学院百二十周年記念誌」を読む学生さんたち

●前奏(扶瀬 絵梨奈 講師)と司式者団入場
 

●聖歌 第367番「イスきみはいとうるわし」【創立者愛唱歌】

●詩編 第23編
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

●創立121周年記念の祈り

永遠にいます全能の神よ、わたしたちのすべての時はあなたのみ手の内にあります。今、この学院が創立121周年を記念する時を迎えることができましたことを感謝いたします。この歴史の中で、あなたはわたしたちのさまざまな努力を最も良いものとして受け入れ、さまざまな出来事を達成へと導いてくださいました。また、わたしたちがあなたのみに頼ることを知るようにと、さまざまな失望や失敗をも与えられました。これらすべての出来事のゆえに感謝いたします。どうか、この学院がこれからも変わることなく、あなたのいのちに満たされ、学ぶこと、見いだすこと、叡智を求めることに熱心でありますように。また、教える者と学ぶ者に共に恵みを与え、すべての真理の源であるあなたを見いだすことができますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。

●聖書 ガラテヤの信徒への手紙 第5章1節、13~14節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

●聖歌 第498番「主われを愛す」

●平和の挨拶

●主の祈り
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。 アーメン

〇諸祈祷

名古屋柳城短期大学のための祈り
附属幼稚園のための祈り

創立者及びこれまでの仕え人たちのための祈り
本学院に関わるすべての逝去者のための祈り

●式辞 理事長 ペテロ 渋澤 一郎 主教

柳城学院の歴史は、121年前にカナダ聖公会のヤング先生が保姆養成を開始したことからスタートしました。本日はヤング先生と最初に行動を共にした杉浦いねさんについて触れたいと思います。

18歳のいねさんは日本語の教師としてヤング先生に接しています。先生はいねさんに幼児教育者としての資質を見たのかも知れません。養成所の最初の生徒になるように勧めますが、いねさんには別の夢があったようです。幼児教育に関心はなく、準備も整ってない幼稚園に勤めることに不安もあったのでしょう。それでもヤング先生は熱心に説得しました。こうして、人、金、物も整わずに柳城幼稚園はスタートしました。

このエピソードは私たちに、気が進まない時でも「やってみよう」と思えば、そこに成長があることを教えてくれています。自分に与えられた道を進むことで新しい展望が開けるということです。

121年目を迎えて、四年生大学の新設、こども園への移行、新校舎建設など、柳城は新しい時代に順応した学院に変わりつつあります。今後とも、ご支援、ご協力、よろしくお願いいたします。

●式辞 学長 長縄 年延

・一人だけの保姆養成、8名の園児の柳城幼稚園。これが柳城学院の始まりでした。それ以来、子どもに寄り添い、親と共に歩む姿勢が柳城の原点です。時代が変化する今だからこそ、「子どもに学ぶ」という初心に帰りたいと思います。

・来年度から定員70名の四年制大学が開設されて、定員130名の短期大学と併設されます。私たちは身を引き締め、力を貯めて真正面から進んでいきます。相撲界で最近話題の炎鵬は168cmと小兵ながら、重心を低くして正面から相手にぶつかっていきますが、私たちもそうありたいものです。

・ミュンヘン国際音楽コンクールのチェロ部門で日本人として初めて優勝した佐藤晴真さんは、実は兄と共に柳城幼稚園の卒園生です。このニュースを知り、将来性のある子どもを預かる仕事の大切さを私は改めて感じました。そして、神から与えられた無限の可能性を秘めた子どものために、これからも初心に帰ってしっかりと前に歩みたいと思います。ご支援とご協力をどうかよろしくお願いいたします。

●聖歌 第417番「あなたの平和の」

●永年勤続者表彰

●感謝の祈り
天の父よ、み子イエス・キリストは幼子を祝福し、神の国はこのような者の国であると教えてくださいました。どうかみ名によって建てられた柳城学院に恵みを下し、ここに集うわたしたちが主のみ旨に従って、心もからだも健やかに成長し、信仰の道を学び、主に仕えてみ栄を現すことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

●祝福
計り知ることのできない神の平安がキリスト・イエスにあって皆さんの心と思いを守り、ますます深く父とみ子を知り、かつ愛させてくださいますように。父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。

    

●校歌

●後奏(一同黙想)

■第2部 創立121周年記念  特別講演

「創立者~私たちのヤング先生~」
名誉教授 尾上 明子

「ヤング先生は120年前の昔の人ではありません。彼女の精神は私たちの近くに今も息づいています。それを感じていただければ、私の今日の目標は達成されたことになります。」 こう始まった今回の講演。聴衆のすべてにとって、柳城学院の原点を振り返り、自分に与えられた使命を考えるには実に良い機会だったと思います。

そして最後は、「柳城はこのヤング先生の精神を忘れずに、互いに愛し合って進んで行って欲しいと思います」と締められました。以下、この「ヤング先生の精神」に焦点を絞って、その要点を書き留めておきます。

 

・意志の強い信念の人だった。その厳格さは神に由来し、人間味溢れるものであった。

・神と人とを愛した人だった。肺の病にかかった青年を資金援助するために日本語教師として雇い、良い物を食べさせて病からの失望から救った、などという記録がいくつも残っている。

・独身であったが、後に、保姆養成所の卒業生の子どもを養子として引き取って大切に育てた。彼(清水正高氏)は後にピアニスト・オーガニストとして活躍し、ヤング先生の葬儀の際には奏楽を担当している。

・当時まだ貧しかった日本の、特に、女性と子どもに対する温かい眼差しがキンダーガルテン(幼稚園)を生み出した。

・ヤング先生の保育の中心には、「神の愛を伝える」と「フレーベルの教育思想に従う」という二つの柱があった。

・聖書の言葉として、「神は愛です。(Ⅰヨハネ4:16)」、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。(コヘ12:1)」、「心の清い人々は、幸いである。(マタ5:8)」がよく用いられた。

・「柳城幼稚園保姆養成所」は幼稚園の附属施設としての性格が強かった。すなわち、子どもと共に大人が学ぶ養成所だったということである。現在の「名古屋柳城短期大学附属○○幼稚園」という名称と比較すると「幼稚園」の位置が逆になっているところが注目される。

・幼稚園の庭から年間プログラムのすべてが導かれている。そこには「神の存在を知る」という明確な目的が示されていた。

・卒園証書には鉢植えパンジーが添えられた。

・1903年に柳城幼稚園に「母の会」が作られた。そこでは、栄養や健康の指導、料理教室、教育やしつけ、洋裁、刺しゅうなど様々な事柄が扱われた。

・決して偏愛されないこと、その博愛的な心、そして、正義心と豊かなる奉仕、また祈りの人であり、その信仰が実生活に生きていること。例えば、ご自分の意見が間違っていたと気がつかれたとき、直ちに心からその誤りをお詫びられた。その代わり、ご自分が正しく神のみ旨にかなっていると思われたときは、最後の一人となるまで、決して主張をまげられず、毅然として突進なさった。人との交わりは、決して一時的なものではなく、一度深く交わればその交わりは永遠なものでした。聖書を学ばれ、常に祈りによって、日々新たなる命の種をお受けになっておられた。先生の思想は、実に気高く聖いものでした。(ボーマン先生によるヤング先生への追悼文より)

 

■学校法人 柳城学院  創立者記念墓地礼拝
(午後1時~ 日本聖公会中部教区 共同墓地【八事霊園内】)

 

 

 

 

 

【マルコによる福音書1章16節より】
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

始める前に、今回の「黙想と祈りの集い」が生まれた経緯がスライドを使って説明されました(こちらがその参考になります)。

「祈り」の中身については次のファイルをご参照ください。
025R【導かれる】人間をとる漁師にしよう

また、礼拝後に簡単なアンケートを実施しました。その中で「ちょっとあやしい」と感じたという回答もありましたが(決して怪しくはありません‼ 念のため(笑))、次のように、今日の礼拝の意義をしっかりと理解した学生さんもいたことをご紹介しておきます。
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「私の天職は愛」、「自分自身を甘やかしておきながら、子どもたちを教え導こうなどという傲慢さは、子どもたちに対して失礼」「子どもたちに対して恥ずかしくない人生を歩むための努力」という言葉がとても心に残りました。最近、中だるみで寝坊が多かったので、今日の礼拝を機に心新たに頑張るつもりです。
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主に感謝。

 

 

 

 

保育経験40年という榎戸裕子先生のお話は、あふれる実務体験がよどみなく流れ出るといった感じで、聞いていて心地良かったです。そして、その確かな実績には説得力がありました。だから、お話の最後に出てきた「私は愛をもって仕えます!」という言葉が完璧に耳に残りました‼ このような感覚はまったく新鮮でした。

以前、オープンキャンパスで出会った高校生の母親が「結局、By Love Serveなんですよね‼」って、ご自分の母校である柳城を誇らしく語ってくれたことが思い出されます。

榎戸先生のお話の内容は、後日、「ちゃぺるにゅーす」でご紹介しますので、お楽しみに(^^♪ 今回はひとまず、建学の精神が柳城にとっては何よりの宝であることを改めて感じさせてくださった先生について、感謝の気持ちを込めてご報告しました。「By Love Serve」を宗教などという枠に押し込めないで、日常会話でもっと使えるように訓練したいものです。それこそが本学の社会的役割だと確信するからです。(K)

今年で5回目を迎えたAHI巡回報告会。年にたった一度の機会ですが、毎回、中身の濃いお話を頂き、ほんとうに感謝です‼

今回はカンボジア国籍でクリスチャンのチャン・レイさんをお招きしました。通訳はいつものようにAHIスタッフの中島隆宏さんです。

チャンさんはFIDR国際開発救援財団の職員で、現在は、カンボジア事務所に勤務しています。栄養改善のため、州・郡の保健課職員の能力育成とともに、母親グループづくりによって5歳児未満の子どもたちの栄養改善活動に取り組んでいるとのことです。

その現状と、ここまでに至る彼女の道のりとが、礼拝の奨励と礼拝後の「柳城タイム」の中で熱く語られました。それらの要点を以下に箇条書きします。テーマの根底を支える聖書の言葉は、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:13)」

なお、詳しくは「ちゃぺるにゅーす」にて後日ご報告します。

✝ ✝ ✝

①高校卒業後から働いてきた中国資本の工場を辞めて、キリスト教会の英語の教師になったことで給料が大きく下がったが、教会に通う中で、私は人々への奉仕の仕事が自分にとって一番大切なことだと気づいた。

②看護大学在籍中、インターンでの経験から、病気の人々の命を救いたければ、治療よりも予防の方が優先事項であることを学んだ。

③失業中、私は多くのことに悩まされ、「神様、あなたの次のご計画は何か?」、「どうすれば私はそれを実現できるのか?」という問いかけをした。そして「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:13)」とのみ言葉が与えられた。私は待つことを学び、神のご計画の中にあることを知って、心穏やかになった。

④私はカンボジア保健省と協力してファシリテーターとして働き、母親と子どもの健康を改善するために、母親対象に健康と栄養に関する知識を伝え、意識を変える活動をしている。ところが、親の半数以上が乾季になると州外に出稼ぎに行ってしまう。残された子どもの面倒を見るのは祖父母であるが、彼/彼女らは、あの過酷だったポル・ポト政権時代の世代なので、教育や保健衛生の分野における知識が乏しい傾向にある。私は祖父母らの子育てをもサポートしようと努力しているが、読み書きができない人もいて、その道のりは大変険しい。でも、私は決してあきらめるつもりはない。ひたすら忍耐強く取り組むのみである。

⑤今回、AHIの研修に参加することで多くの経験と新しい知識を得たが、私が最も強いインスピレーションを持ったのは広島から学んだ「平和への構築」だった。被ばくしても生き続ける木や残された建物が私に大きな希望を与えてくれた。私は身近なところから平和を求め、家族や職場に広げたいと思う。

⑥すべての子どもは白い紙のように純粋なものとして生まれるが、中には暴力を受けたり親から離されたりして、十分なケアを受けられないケースもある。一緒に種をまこう。そうすれば将来に実りがあり、あなたの社会は愛で包まれるはずだ。愛と平和をあなたの周りの子どもたちと分かち合おう。そして、平和の作り手となろう。

✝ ✝ ✝

●最後にAHIのサイトに掲載されている記事をご紹介しておきます。こちらへ。

 

 

 

【コリントの信徒への手紙一 13:1-7】
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

「結婚の準備」って、あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、「結婚式の準備」と言えばすぐいろいろなことが浮かんできます。when(いつ)、where(どこで)、誰とは当然決まっていますが、どのような結婚式をするのか~結婚式の形式(キリスト教式、神式、仏式、人前式等々)、女性ならウエディングドレスにするのか白無垢の和装にするかで迷います。結婚指輪は? そして披露宴はどうするのか、だれを招待するのか、引き出物は何にするのか、さらに新婚旅行はどうするのか、もし行くとしたらどこへ行くのか、そのようなことが「結婚式の準備」に付随するものです。もっと大切なことは住まいの問題、どこに住むかということがあります。これらは具体的な目に見える結婚式に関連する諸準備と言ってもいいかもしれません。

わたしが今ここで「結婚の準備」としてお話しする重要な点は、結婚する二人のこれからの結婚生活に備えての「心と体の準備」の話と言ってもいいと思います。

牧師としてこれまで50年間に、たくさんの結婚式の司式をしました。「結婚式をしてください」と言って飛び込んできた二人に、「いいですよ」と言って、無責任に式をすることはありません。結婚式を挙げる条件として、リハーサルを含めて最低3回、二人で揃って準備に来ていただくことを守ってもらいました。それは、浮ついた気持ちではなく、結婚するってどういうことなのか、わたしたちはなぜ結婚するのか、二人は本当に結婚するのにふさわしいパーソナリティーを備えているか、「愛してるよ」って簡単に言うけれども、「愛する」ってどういうことなのか、二人は本当に愛し合っているのだろうかといったことを、結婚前に冷静にしっかり見つめ直してみること、そして夫婦生活において重要なセックスについての問題などについても話し合う時間を持ちました。

結婚式の中では、次の「誓約」いわゆる「誓い」が交わされます。「神の定めに従って、わたしはあなたを妻(夫)とします。今から後、幸いなときも災いのときも、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病気のときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、あなたとともに生涯を送ります。今、これを約束します。」

この誓約の根底には神の愛があります。神の愛を信じ、それに基づいて誓約がなされるのです。最初に読まれたコリントの信徒への手紙1 13章の「愛」についてのパウロの言葉は、イエス・キリストが具体的に見せてくださった神の愛が語られています。

わたしたちには無い豊かな神の愛をしっかり見つめ、それを信じて生きていく時、わたしたちの中に、神の愛のしずくが注がれるのです。そして誓約の言葉が単なるお題目ではなく、リアリティーを持ったものとして二人の心と体に満ち溢れます。

今でも忘れられない思い出の結婚式があります。披露宴が終わり、出口で新郎新婦が皆さんをお送りした後、新郎の友人たちが新郎を胴上げしました。しかし勢い余って新郎を床に落としてしまったのです。大腿骨骨折で即入院となり、ヨーロッパへの新婚旅行はお預け、スーツケースを持ったまま、3週間の入院生活(新婚生活)を余儀なくされました。しかし、無事退院した後、二人はわたしのところにやって来て、「とても良い結婚準備をしていただき、その上、結婚式の中で交わした誓約どおり、本当の愛とは何かを身をもって体験できた、何ものにも代えがたいこの度の出来事でした。神の愛に守られて、これからも精一杯二人で愛を育てていきたいと思います。ありがとうございました。」と語ってくれました。現在、この二人は子どもたちにも恵まれ、幸せな家庭を築いています。

「わたしたちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙Ⅰ 4:19)

(チャプレン大西 修)


サザンクロス

【マルコによる福音書4:1-9】
◆「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスさまのこのたとえ話が「たねくんとよいはたけ」という紙芝居になっています。今からその紙芝居をしますので、皆さんは幼児(園児)になったつもりで見てください。

・・・・・・・・・・・

さて、皆さんは今、見終わってどんな感想を持ちましたか。

皆さんは種を蒔くことを一度や二度は経験していますね。草花の種や野菜の種にしても、麦や稲の種にしても、種を蒔く人が先ず最初に良い種を選別し、それを蒔きます。最初から発芽しないような悪い種は蒔きません。このたとえ話の中で、種を蒔く人とは神さま(イエスさま)を指しています。そして、種は神さま(イエスさま)のみ言葉、みこころを表わしています。神さまは素晴らしい種(み言葉、みこころ)をこの地上にお播きになり、人々がそれによって豊かな実りを得られるようにと望んでおられるのです。

この紙芝居では、蒔かれた土地(道端、石地、茨の中、良く耕された良い地)に視点が当てられています。いろいろな土地として、私たち人間の心の在り方が示されています。

固い道端のようでとりつく島もないような心、ゴロゴロしていて渇いた石のような心、やせこけて成長が不足している心、その場の状況を見て、しっかりそれを受け入れることのできる心を持っている人々のことです。

それと共に、種を蒔く人(神さま、イエスさま)の生き方に視点が当てられています。種を蒔く人はどんな土地(人間)であっても、同じ素晴らしい種(み言葉、御心)を蒔きます。必ず豊かな収穫があることを信じ、希望をもって種を蒔きます。種を蒔く人の良い種は必ず実ることが約束されているからです。私たちひとりひとりは、皆同じ人間でありながら、違う人格、性格、個性をもって生きています。人間の目で見れば、あまり好ましいとは思われない人であっても、神さまは平等に、溢れるような愛をその人に注いでくださるのです。長い目で見ると、神さまのみ言葉はどんな人であっても、そのみ言葉を受け入れるならば、必ず素晴らしい恵みが与えられることを伝えています。

「一粒の麦は、地において死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12:24)と言われたイエスさまのみ言葉は、死んでしまったと思われた種が、本当は生きていることを語っています。「もうだめだ、何の希望がない」と思っている私たちに、「そうではないよ、あなたたちの中でわたしは生きているよ」とイエスさまは語りかけておられるのです。種を蒔く人のたとえは、どんな人でもみ言葉を受け入れる人には、神さまは豊かな恵みを与えてくださることを語っています。


学食北側のヘデラ

【マタイによる福音書19:13-15】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

毎朝8時40分~50分の10分間、「キッチンはらぺこ」で朝の礼拝をしています。その礼拝の中で聖歌を歌い、主の祈りを唱え、そして次の祈りを時々することがあります。

「子供たちを愛する私たち」
主よ、今朝も柳城に集えることを感謝します。
柳城はフレーベルの思想を大切に、保育を価値あるものとして120年もの道を歩んで来ました。
あなたのご計画に驚くばかりです。
創設者マーガレット・ヤング宣教師の思いが、いつまでも私たちと共にありますように。
イエス・キリストは言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と。
フレーベルはこの言葉から、子どもの生命(いのち)の偉大さを、子どもに自由な成長が保証されることを学んでいます。
子どもたちを教え、かわいがる対象としてだけではなく、愛し、敬意を払う対象にできるように、主よ、どうか私たちを成長させてください。
フレーベルは語りかけます。「子どもたちから、学ぼうではないか。」と。
主よ、この謙虚さ、誠実さ、信仰心を私たちにも与えてください。
私たちを高いレベルに導いてください。
この祈り、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン

子どもたちと長い時間を一緒に過ごしたことがある人ならだれでも、子どもたちが素晴らしい天使のような存在ではないことをよく知ってます。走り回って物をひっくり返したり、壊したり、親の会話の邪魔をしたり、面倒で厄介な質問をしてきたりします。イエスの時代も同じだったでしょう。多分いろんな性格や気質の子どもたちがいっぱいいて、中にはやんちゃな子もいれば、内気な子、好奇心いっぱいの子、わがままな子もいたことでしょう。実に多種多様な子どもたちでしたが、イエスに惹きつけられたのです。そんな子どもたちをすべてイエスは喜んで受け入れられました。子どもが最も弱く、小さな存在とされていた当時の文化の中で、イエスはご自分が子どもたちを祝福できるよう、子どもたちがそばに来ることを歓迎なさいました。

イエスは私たちに対しても同じまなざしで見ておられます。私たちがすべてを持っていなくても、完璧なふるまいをしなくても気になさいません。そんなことを期待しておられるのではなく、いつも私たちのそばにおいでになりたいのです。イエスは私たちが人々から歓迎され、大事にされ、仲間にしてもらいたいという願望を持っていることをご存じです。イエスにとっての理想像(私たちが勝手に考えた)など問題になさいません。ただ、私たちがイエスのもとに来ることだけを望んでおられるのです。

イエスのもとに連れてこられた多種多様な子どもたちに、深い愛情と忍耐力を示され、子どもたち全体と、個々の子どもたちとのやり取りを通して、イエスはあふれるばかりの愛と喜びを与えられました。

私たちに対しても、イエスは子どもたちに対すると同様に手を差し伸べてくださいます。イエスは私たちの良いところと悪いところすべてをご存じの上で、そのままの私たちを受け入れてくださり、良いところはさらに伸ばしてくださるのです。イエスを信じてイエスのもとに行く時、子どもたちのようにイエスに近づけるようになれることを、保育者を目指す私たちも覚えたいものです。(チャプレン大西 修)


ポーチュラカの実

【マタイによる福音書23:25-28】
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

わたしたちは見えないところをきれいにすることをあまり得意としていません。ですから掃除をする時も、見えるところ、例えば部屋の真ん中をまるく掃いてきれいにしますが、それでは隅の方はきれいになりません。隅の方からきれいにすれば、真ん中のほうは自然にきれいになっていきます。

小学校の家庭訪問で担任の先生がおいでになり、お母さんと話しをしていた時、子供が入って来て、いつもおもちゃが入れてある押入れを開けた途端、中からお母さんが投げ込んでいたいろんな物が転がり落ちてきて恥ずかしい思いをしたというた話を聞いたことがあります。コーヒーを飲もうとしてカップを手に取ろうとした時、外側はきれいに見えますが、きれいに洗われていないため、内側にはコーヒーの滓と汚れが付着しており、期待していたようなきれいなコーヒーカップではないことに気づきます。メッキは当初きれいでもやがて剥げます。わたしたちは外側をきれいにすることにどれだけ神経を使い、労力を使い、たくさんのお金を使っていることでしょうか。着るもの、化粧品、アクセサリーなどはまさにその代表的なものと言っていいでしょう。外見は美しくても、心の内側はどうでしょうか。

スッピンの顔は恥ずかしくて見せられないと言います。それならば、スッピンの心は比較にならないほど恥ずかしくて、とても見せられないのではないでしょうか。

律法学者たちとファリサイ派の人々とは、イエスさまの時代、社会の中で人々から敬われていたユダヤ教の宗教的指導者たちでした。イエスさまは彼らとしばしば論争されました。彼らの外側の態度や行動はきれいに見えても、心の内側は見るに堪えない偽善に満ち溢れていたため、そのことをはっきり指摘し、悔い改めを迫りました。しかし、彼らはその指摘を素直に受け入れようとはせず、本当のことを言われたことに憤りを感じ、挙句の果てにイエスさまを無き者にすることによって、偽善者と呼ばれた屈辱を晴らし、自分たちの社会的な立場を固守しようとしたのです。彼らは見栄のため、人に見せようとして律法を形だけ表面的に守り、その精神をないがしろにし、人々に天国への道を示すどころか、閉ざしてしました。それは、最も重要な正義、慈悲の心、誠実な思いを無にしていたからにほかなりません。

わたしたちも内側をきれいにする必要があるのではないでしょうか。一見素晴らく思われることも、それを誤った態度や気分ですることがあるのです。たとえば、ホームレス支援活動で貧しい人々に奉仕している時、この人々はなぜこのように底辺まで落ちてしまったのだろう。きっと何か悪いことをして、こうなってしまったのではないだろうかと、その人々を裁いてしまっていることがあるかもしれません。また、友人が自分にはとても真似のできない勇気ある行動をした時、「すごいなー、立派だなー」と素直な思いを表わせないで、あの人はお金があり、余裕もあるからそれが出来たんだと決めつけてしまうような、醜く狭い心の自分に気づかされることがあります。そのような自分の心の内側が、いかに薄汚く、暗く、傲慢や偽善に満ちているかを思い知らされ、気づかされることは重要です。

わたしたちは誰一人として、自分の心の中に入ってくる思いをすべて制御出来ないことをイエスさまはよくご存じです。しかし、わたしたちにも何かできることがあります。それは自分の態度が間違っていると気づいたときに、迷わずすぐに立ち止まって、イスさまに赦しを願うことです。イエスさまは憐れみ深く、あなたが人を裁こうとしたり、批判したり、怒りの思いに誘われたりするときには助けてくださいます。その瞬間にもイエスさまはあなたの心に、その人に対する愛を溢れさせてくださるかもしれません。

あなたは心の内側も外側もきれいになることができます。イエスさまに目を注ぎ、あなたの心をもっとイエスさまの御心に近いものに変えてくださいと、信頼しお願いすることです。(チャプレン大西 修)


ワイルドフラワーとポーチュラカ

 

 

【ルカによる福音書12:54-57】
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

「時」を表わす言葉としてギリシャ語にはクロノス(Chronos)とカイロス(Kairos)があります。

クロノスは過去から現在、未来へと決まった速度・決まった方向で機械的に流れる連続した時間を表わします。1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日といった時刻としての時間。時が刻む客観的な時間のことをいいます。クロノスからクロック(時計)という語が生まれてきました。

もう一つのカイロスは、人間が受けとめる主観的、心理的な時間を表わします。受けとめ方や感じ方で長かったり短かったり、止まったり逆流したりする、内面的な時間です。ギリシャ語で「チャンス」(機会)の意味も持っています。嫌いな授業を1時間受けている場合の1時間と、恋人との楽しいデートの1時間はクロノスでは同じ1時間ですが、カイロスでは、嫌いな授業は数時間にも長く感じられ、楽しいデートは「うそ~、もう1時間過ぎちゃったの」と思うくらい短く感じられるのです。1回限りで、独自で質的な時、大切な時、決定的な時がカイロスという時です。

聖書に出て来るカイロスは独自で質的な時、大切な時、決定的な時としての意味を持っています。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)~神の新たな支配が始まる時が来たとのイエスさまのメッセージです。 その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたにはわからないからである。」~ここで言われているその時とは、終末の時、最後の審判がなされる時です。(同 13:32~33) 時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(同 14:41~42)~ここでの時はイエスさまが十字架にかけられる重大な時を表わしています。また恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いに日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ救いの日。(コリントの信徒への手紙Ⅱ6:2)といわれている時も、神さまの支配がこの地上に開始された、何ものにも代えがたい大切で決定的な時を表わすカイロスです。

そのほかにも、イエス誕生が天使によって羊飼いたちに知らされた今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」 (ルカ2:11) の今日今日、救いがこの家に訪れた。」(ルカ19:9)と徴税人ザアカイの悔い改めを喜ばれたイエスさまの言葉の今日は、何月何日の今日ではありません。特別な今日、かけがえのない2つとない価値ある今日、そうです、今なのです。

イエスさまは言われます。あなたがたは時間的経過の中で時を見分けることはできます。気象上では雲や風の様子、日照時間、潮の満ち引き、月の満ち欠けなどによって、また自然界では、季節の変化を虫の音、動物の移動や植物の色彩の移り変わりなどによって時を見分けているけれども、今の時を見分けることができないと指摘されます。

今の時を見分けるとは、今の時を吟味すること、解釈すること、与えられているしるし(兆候)を通して見分け、見極め、洞察することです。今はどんな時なのか、何をどう考え、どのように行動していけばよいのかを賢く判断し、実行することが求められているのです。

今でしょ!とは、あなたがたにとって、二度とない大切なこの時のことを言っています。皆さんにとってかけがえのない大学生時代、後期が始まった今日、わたしは今、何をどのように見つめ、吟味し、新たなステップへと進んでいけばよいのかの決断を迫られているのです。決して遅くはありません。毎日、祈りをもって(自分自身をしっかり見つめることも大切な祈りです。)歩んで行きましょう。(チャプレン大西 修)


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