*
カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

【マタイによる福音書5:1~12】
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

✝ ✝ ✝

 今、どのような人が幸いな人、恵まれた人でありましょう。一般的には、ある程度経済的に裕福である人、あるいは、社会の中でステータスのある人、活躍している人などが、そうでありましょう。それはイエスの時代でも同じでした。

一方、山に集まってイエスの話を聞いていた人達とは、様々な病気や苦しみに悩む人たち、社会の中心から外れてしまった人たち、貧しい人たちでした。幸せな人生、祝福された人生とは、縁遠い人たちでした。彼らは、神の恵み、祝福から見放された者だと思っていました。
イエスはそうした人たちにむけて、こうすればあなたたちは救われますよ、このように頑張ればあなたは恵まれた人生を歩めるでしょう、と教えることはありませんでした。そうではなく、イエスは、「心の貧しい人は、幸いである」と語り出します。すなわち、ここにいるあなたたちこそ、今、幸いなのだ、と述べます。

ここで使われている「幸い」、という言葉は、私たちが普段使っている「幸せ」とは異なります。通常の「幸せ」という言葉は、なにか自分に良いことが起きたときに変化する感情、感覚のことです。しかし、ここで使われている「幸い」とは、祝福されている、ということを意味します。神によって祝福されている、神によって大切にされ、愛されている、という状態です。それは、時間や状況によって変化する感情ではありません。自分の努力の有無によって消えたりするものでもありません。

この山上の説教は、イエスがガリラヤでの活動の最初に語られたものです。それが何を意味するかというと、この山上の説教が、イエスがこれから生涯をかけて行う生き方そのものを提示している、ということです。
イエスが、幸いだ、と宣言する、心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人とは、イエスが生涯をかけて出会った人たちのことです。イエスがそうした人々と生涯をかけて交わることによって、彼らは癒され、生きる望みを回復していきました。そして、イエス自身も、人々に寄り添う中で、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人となっていきました。心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害を受ける人、これらはイエスの生涯そのものです。イエスは、そのような生き方こそ、幸いなのであり、神によって祝福されているのだ、と言われるわけです。山上の説教とはイエス自身のことでもあるわけです。

この説教を語り終えたイエスは、実際、生涯をかけて、徹底して貧しくなり、悲しむ人とともに悲しみ、平和を実現しようとされ、義のために迫害されました。そして、十字架と復活によって、天国は義のために迫害される人のものである、ということを現実のものとされました。だからこそイエスは、受け入れがたい現実の中でも、貧しい人は幸いである、語ることができたのでありました。

この山上の説教が行われたのは、どこかの神殿の中ではありません。誰もが出入り自由な山の上です。このイエスの説教は誰にでも開かれているということです。山上の説教は、私たちの心の奥底にある悲しみ、弱さに、今も、語りかけています。心の貧しい人々は、幸いである、悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる、天の国はその人たちのものである。  (チャプレン 相原太郎)


コバノランタナ

【マタイによる福音書13章44~48節】
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

✝ ✝ ✝

 イエスは、天の国について、からし種、パン種、畑の宝、真珠、湖の中の魚と、立て続けに譬え用いて語っています。

からし種とは、直径1ミリくらいの小さな種です。しかし、成長すると、1メートルから3メートルにも伸びます。すると。茎や枝は硬くなって、小鳥の重さにも耐えられるようになります。天の国は、そんな小さな種に似ている、ということです。

パン種も小さなものです。しかも当時、「パン種」という言葉は、腐敗というニュアンスが強く、悪いイメージがありました。しかしそんなお荷物のような存在がパンを大きく膨らませます。天の国はそんなパン種に似ている、ということです。

からし種もパン種もほとんど目に見えません。小さく、とるに足りず、弱々しいものです。しかし、それが予想を超える力を発揮します。大きく、豊かな実りを生み出します。イエスは、天の国とはそのようなものだ、小さく、弱いものこそが、豊かな実りをもたらすところだ、と語るわけです。

次のたとえは、隠されていた宝を畑で見つけ、持ち物を売り払ってでも、その畑を丸ごと買う、それほどの喜びがあるものだ、というものです。当時の社会は政情が不安定であったため、財産をどこに蓄えておくかは大きな問題でした。人によってはそれを畑に隠すこともありました。ただ、畑に財産を隠した場合、持ち主がなくなると、財産をどこに隠したのか誰にも分からなくなる、ということが起きていました。それを他人が見つけるということは、ほとんど起こりえないようなことでした。ですので、たまたま畑を耕していた小作人が隠してあった財産を見つけるということは、大変な偶然です。天の国とは、そのような予想もできないような大きな喜びがある、ということです。

さらに次のたとえは、高価な真珠を見つけ出す、というものです。こちらは、偶然見つかる畑の中の財産とは異なり、自ら探して見つけるというものです。しかし、やはり持ち物を売り払ってでもそれを手に入れる、とあります。

畑の宝も真珠も、それが偶然の発見であれ、頑張って見つけたものであれ、今まで持っていたものを売り払っても構わないほどのことだ、ということです。つまり、天の国を見出す、ということは、それは言い換えれば、天の国とは、今まで自分が持っていたもの、自分が頼りにしていたものを、全部手放しても構わないというようなものだ、ということです。これまで自分を支えてきた日常、あるいは縛られてきた価値観から、解放され、自由になる、とも言いうることです。

ここまで見てきたように、イエスは、天の国のたとえを、人々を取り巻く生活の出来事の中から選んでいます。しかも、小さなからし種、目に見えないパン種、畑の中に隠されていた宝、めずらしい真珠、あるいは、海や川の中の魚といったものです。

これが意味するところは、天の国とは、どこか聖なる空間にではなく、ありふれた日常の中にある、ということです。天の国は、私たちの身の回りにある。そして、それは、とっても小さく、目に見えないかもしれない。だけれども、すでにこの世界の中に、確実に隠されているものです。

では、身の回りの生活の中で天の国を見出すとは、具体的にはどのようなことでしょうか。それは、イエスの生涯を通して私たちに示されています。

例えば、重い皮膚病を患い、生きる場を失い、神からも見捨てられたと思っていた人が、イエスと交わり、癒やされた、ということです。あるいは、誰からも嫌われていた徴税人のマタイが、イエスと出会い、一緒に食卓を囲むことで、生きる望みを回復した、ということです。

そのような奇跡のような交わりの中に、天の国が見出される、ということです。そのような愛によって仕える生き方においてこそ、それがたとえ小さなものであったとしても、天の国のしるしを見出すことができる、ということです。もちろん、最終的な天の国の実現は、この世の終わりの時かもしれません。しかしながら、今、私たちが生きるこの現実の中に、一人一人の日常の中に、愛によって仕える働きがあり、そこにこそ天の国のしるしは確実に存在し、神の国は実現し始めています。     (チャプレン 相原太郎)

 

【ヨハネによる福音書20章24-29節】
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

✝ ✝ ✝

 イエスが十字架で処刑された後、弟子たちは恐ろしくなって家に閉じこもっていました。それから3日後、復活したイエスが、弟子たちの前に現れます。その際に不在であった弟子の一人のトマスは、しばらく経って、弟子たちに合流します。イエスに出会った弟子たちは、その場にいなかったトマスに、「わたしたちは主を見た」と言います。しかし、トマスは疑います。「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

1週間後のことです。弟子たちは再び家に閉じこもっていました。今度はトマスも一緒でした。そこにイエスが現れ、トマスに「あなたの手を伸ばして、このわき腹に入れなさい」と言います。すると、トマスは、それまで誰も言わなかった一言をイエスに告白します。

「わたしの主、わたしの神よ。」

これまでも、様々な人たちが、イエスへの信仰、信頼を表してきました。たとえばマルタは「あなたこそ、神の子、メシアです」と言いました。しかし、このトマスによる「わたしの神よ」という信仰の告白は、全く次元の異なるものと言えます。疑うトマスにこそ大いなる気づきが与えられたわけです。

トマスは、復活のイエスに出会ったと語る弟子たちに対して、「わたしは決して信じない」と疑いの気持ちを素直に認めました。しかしそれでもなお弟子たちと一緒にいました。多くの場合、疑いを持っても黙っているのではと思います。あるいは、一緒に居づらくなって、そこから離れてしまうかもしれません。しかし、トマスは疑いの気持ちを弟子たちに率直に語りました。そして、疑ってもなお、弟子たちから離れることはありませんでした。

この箇所が示しているように、私たちは、疑いを持つことが許されています。疑いを持っていることを隠す必要もありません。神は、私たちが疑いを持つ程度のことで、怒ったり、離れたりするようなことはありません。むしろ、疑いは信仰において重要な気づきを与える大切な要素ともなるわけです。

私たちの大学・短大は、キリスト教主義であるからこそ、あらゆる常識や定説、噂や評判について、本当にそうなのだろうかと、自由に思い巡らし、語り合う場所でありたいと思います。そのようにして、真理を求めてまいりたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


タマスダレ

【出エジプト記3章11~15節】
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。

✝ ✝ ✝

 只今朗読していただいた聖書は「モーセという人が神さまのために働く人として神さまから呼ばれる場面」の中心となるところです。まず、皆さんはモーセという名前を聞いたことがありますか? モーセという人はユダヤ教・キリスト教・イスラム教さらにはバハイ教などで、重要な預言者の一人とされている人です。実際にはそうではありませんが、伝統的には旧約聖書のモーセ五書の著者であるとされて、尊敬もされている人物です。
今日の聖書の箇所では、当時エジプトで奴隷とされていたヘブライ人を解放するように、エジプトの王、ファラオに言いに行けと神さまから言われたモーセが、そんな役割を担わされる「自分が何ものなのか」と神さまに質問をし、それへの答えが内容になっています。

「わたしは何ものなのか(11節)」というモーセの質問は、自分のような取るに足りない人間が、エジプトの王様ファラオに物申すとは、恐れ多いと恐縮しているニュアンスがあります。しかし本当の問いは、エジプトの王女さまの息子として育てられたが、本当はエジプト人ではなく、奴隷として働かされているヘブライ人が同朋である自分が、そもそも何ものであるのかでした。やはりヘブライ人なのか、育てられたとおりエジプト人なのか、それとも今暮らしを共にするミディアン人なのか。奴隷なのか、王子なのか、羊飼いなのか。モーセは悩みながら生きて来たのでした。

この悩みは在日外国人とくに在日コリアンの人たちの悩みと通じるでしょう。皆さんの中にも在日の方がいらっしゃるかもしれませんが、日本が朝鮮半島を植民地としていた時代に、様々な理由で韓国・朝鮮から日本に来ざるを得なかったの人たちが、帰るに帰れなくなり日本で暮らしているのです。「わたしは何ものなのか」という問いは、そのような在日の人たちにとっても切実な問題です。日本に住み、税金を納めて暮らしているのにもかかわらず、選挙権はなく、日本語を母語として話すのに、日本人ではないと言われ、韓国に行けば行ったで「どうして韓国語が話せないのか?」と言われ、馬鹿にされることもあるのです。

わたしのアイデンティティは日本人ですが、わたしの父方の高祖父はロシア人です。わたしは、16分の一は、ロシア人の血が流れていますので、ロシアに対する親近感は強くあります。ですからロシア語を話せないことは残念だと思いますし、現在のウクライナに仕掛けたロシアの戦争は、本当に悲しい出来事で、早く終わって欲しいと願う気持ちは、ちょっと日本の皆さんとは違っているように感じます。
また、トランス女性ですので、生物学的には男性として生まれており、ずっと「わたしは何ものなのか」が切実な、自分の中での問いでありました。

モーセが神さまに、「わたしは何ものなのか」と問い掛けているのは、ただ恐縮をしているだけではありません。自分が「何ものか」悩まざるを得なかった、辛い経緯に心を寄せてくれるように、モーセは神さまに訴えているのです。
ヘブライ人であることを示そうとエジプト人の行いを咎めることで、誤ってエジプト人を殺してしまい、ヘブライ人からもエジプト人からも排除されているこの自分に、エジプトでの奴隷状態からヘブライ人を救い出す役割を押しつけられるのは耐えられないのだと言っているのです。「わたしは何ものなのか」という問いに、モーセ自身は「妻の民族であるミディアン人の羊飼いとして生涯暮らして行くつもりなのだと」と決断をしていたようです。

モーセの訴えに、神さまは「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と答えられます。モーセをファラオのもとへと派遣するための励ましの言葉です(12節)。

神さまは励まし「わたしはある、あなたと共に」に、モーセは慰められます。モーセの「わたしは何ものなのか」という質問に、神さまは答えてはいません。この時点で神さまにとっては、モーセが何者であるのか、ヘブライ人なのか、エジプト人なのか、ミディアン人なのかは関係がありません。なぜならモーセが、神さまから愛を伝える働きに遣わされる中で、神さまが誰といっしょにいて、どこで働かれるのかを思い知り、その中でモーセは、自分が誰と共に、何のために生きるのかをどうしても考えなければならなくなるからです。

「わたしはある、あなたと共に」という神さまの言葉には力がありました。モーセは神さまからの命令を受け入れるのですが、エジプト人の王子として育てられたモーセは神さまの名前を知りませんでした。
聖書の神さまの名前は「ヤハウェ」です。新共同訳聖書では「主」と訳されています。ヤハウェとは「成らしめる」という意味で、世界の創り主である神さまの性質や、救いの出来事を引き起こす神さまの性質をよく表しています。
しかし人間の生き方・あり方はまったく問われません。ですから「わたしはある/成る(エフイェ)」という神さまの名前が、「成らしめる」に対する批判的応答として記されています(14節)。ヤハウェと同じ動詞ですが、三人称ではなく一人称であり、使役ではなく通常の形です。
この神さまの名前は12節の「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と語呂合わせになっています。

わたしたちの柳城の建学の精神は、「愛をもって仕えよ(ガラテヤ5:13)」です。神さまからの呼びかけが、わたしたち人間の生き方を導いてくれます。「愛をもって仕えてくださる神さま」に招かれたわたしたちも「愛をもって仕える」わたしになりなさいと呼びかけてくださっているのです。わたしたちが「何になろうとしているのか?」その意思を強く持つことの勧めが、ここで語られているのです。
神さまは自由なお方です。成りたいものになられる方です。同じように、わたしたち人間もこうあるべきという枠組みや、お仕着せに抗って、自由になりたいものを目指すべきです。その歩みが神さまに委ねる、従う歩みです。モーセの「わたしは何ものなのか(11節)」という問いもその歩みの中で答えを与えられるのです。何者であるかは自分らしい歩みの中で、自ずと与えられるのだからです。

神さまがモーセに名前を教えたのは、神とはどのような方なのか、神さまを信じている人はどのように生きるべきかを教えるためでした。

わたしたちも、自由な神さまに押し出されて、わたしが何ものかを見つける歩みを、自分らしい自由な歩みを始めて参りましょう。  (チャプレン 後藤香織)

南門の秋

【ヨハネによる福音書9章35~41節】
9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

✝ ✝ ✝

 「議論が煮詰まる」という言葉を聴いたら、みなさんはどんな状況を思い浮かべますか。
文化庁によって行われている「国語に関する世論調査」では、40代を境目にして、まったく正反対の意味に理解しているという結果が出ています。
もともとは「議論が煮詰まる」は、「議論や意見が十分に出尽くして、もう結論が出る状態になること」を意味しているのですが、世論調査の結果に寄れば、みなさんは「議論が煮詰まる」を「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になること」と理解しているのでしょうね?

わたしたちは、育った環境や生まれる時代、生まれる地域によって、また属している集団によって様々な偏りを身につけながら、成長し生きています。所変われば品変わるというように、わたしたちの身につけている「常識」は、どこまでも相対的なものでしかありません。その相対的な偏りである、偏見を持って、わたしたちは人と出会うのです。偏見を持っていない人はいません。わたしたちは、物事を見るときに、自分の視点からしか物事を見ることが出来ません。

また、わたしたち人間は、間違いを犯す動物です。どんなに経験が豊富な人でも、どんなに頭が良く聡明な人であっても、どんなに配慮が出来る人であっても、間違えずに人生を送ることの出来る人などありません。わたしたちは、そもそも間違えながら、成長してゆくのです。さらに言えばどんな人にも欠けがあり、その短所がその人の味にもなり、その人を謙虚にもさせるのです。社会生活を送りながら、わたしたちは自分が「完璧な人間などではない」ことを思い知らされています。「自分は偏っていて、間違えることもある」という自覚を、わたしたちが頭のどこかに置いておくことが大切です。

ヨハネ福音書の9章は目が見えなかった盲人が見えるようになる出来事ですが、41節まである9章で、このいやしの出来事は12節でだけ記され、その他のほとんどがイエスさまとファリサイ派との問答です。今日の聖書は、見えなかった人が見えるようになる出来事から、わたしたち人間の思い違いに気づくように語りかけているのです。

盲人の目が開かれた日は安息日でした。律法を守らない人たちを攻撃するファリサイ派の人々は、働いてはならない安息日に盲人の目が開かれたことを問題にして「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない(9:16)」とイエスさまを非難しました。イエスさまが神から遣わされたとファイサイ派は信じられませんが、見えなかった人が見えるようになった事実を否定も出来ません。ファリサイ派に問いただされ、盲人であった人は、自分を見えるようにしてくれたイエスさまが「預言者(9:17)」だと信仰告白をするのですが、この告白が問題を引き起こします。
安息日に働いて、目を見えるようにしたイエスさまの罪を認めよと迫りますが、目の見えなかった人は「32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。(9:32,33)」と応え、主張を曲げなかったため、ファリサイ派は目の見えなかった人を外に追い出したのです。

今日の福音書はその続きです。ファリサイ派の人々は、イエスさまの当時イスラエルの指導者だった人たちです。人々から尊敬されていましたが、同じ人間です。欠けているところや限界が当然あります。知らないこともあるのも当然です。にもかかわらず、認識できない、気づくことが出来ない事が山ほどあるにもかかわらず、「見える」と言い張っていることが、罪だと指摘されています。
ファリサイ派の人は自分を正しいとすることでそもそも間違っています。神さまの前でさえ自分が正しいと言い張っているのです(ルカ18:9-14)。ですが、このような思い違いは誰にでもあるのです。「自己中心」「自己絶対化」という思い違いです。自分を偉い人間だと思い違いしてしまうのです。このような神さまに代わって、人を審くという誘惑にわたしたちはいつもさらされています。みんなすくなからず思い違いをしていますが、地位や権威を持つと思い違いをし易くなると聖書は注意を促すのです。見えていなくても見えているふりをしたり、「正しいこと」を言っている人に自分の方が正しいと主張し、さらには力で押さえ込もうとするのです。
また反対に自分は「見えないと思い込む」ことも、わたしたちがする思い違いです。人と比較して、自分は出来ない、自分はダメであると卑下して、希望を失ってしまうのです。すべての人が貴い存在です、人と比較をする必要などそもそも無いのです。人と比較することからの解放が、目が見えていなかった盲人に起こった喜びの出来事だったのです。
どこかで人と自分を比較して、思い違いをしているわたしたちにイエスさまは生き方を変えるように語りかけてくださいます。「一億総評論家」の日本社会では、思い違いしている人が山ほどいます。実はわたしたち皆がそうなのです。自己絶対化という鎧をまとい、力、権力、暴言、暴力という剣をふるって、偉そうに振る舞うことです。そのようなわたしたちをイエスさまは、新しい生き方へと導いてくださるのです。

わたしの持っている力は、隣人に仕えるためのものです。「愛をもって仕えよ(ガラテヤ5:13)」というわたしたち柳城学院の建学の精神にも示されているとおりです。
キリスト教では、イエスさまを十字架に付けて殺したのは、わたしたちの思い違いだと受けとめるのです。それは「自己中心」の罪の重大さを教えるための十字架であり、同時にその罪を赦すための十字架だと信じているのです。自分が思い違いをしていると気づくことで、わたしたちはイエスさまの呼びかけに応えて、誰をも犠牲にしない生き方を歩み始めることが出来ます。
ですが、わたしたちはなかなか自分の思い違いには気がつけませんので、チヤホヤされたりすると自分は偉い人間だと思い違いをし、反対に誰からも認められないと虚勢を張って偉い人間を装ったり、自分を卑下したりするのです。イエスさまは、マタイ福音書にある山上の説教の中で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか(7:3)」と語っておられるように、見えると思う人は見えておらず、見えないと思っている人が見えるようになるのです。

わたしたちは気づいていないのですが、思い込みの偏見に覆われていて、実は見えてなどいないのだということを、心にとめて、「愛をもって仕え」る歩みを始めて参りましょう。(チャプレン 後藤香織)


メランポジューム

【マタイによる福音書9:9-13】
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

✝ ✝ ✝

今日の箇所は、イエスがマタイを弟子として迎える場面です。

マタイは徴税人でした。当時、イエスが暮らしていたユダヤ地方は、ローマ帝国によって支配されていました。人々は、ローマに税金を納めなければなりませんでしたが、それを一手に引き受けていたのが、この徴税人たちでした。徴税人自身は同じユダヤ人でしたが、人々から帝国への税金を取り立てる仕事をしていました。彼ら徴税人たちは、ローマ帝国から、これだけの税金を集めなさいという指示を受け、そして、その定められた金額以上の税金を徴収し、その差額を自分たちの収入としていました。
当時、自分たちと異なる神を信じる外国に仕えることは、その人が汚れる、ということを意味しました。また、ローマの支配とその税金は人々を苦しめるものでもありました。そんなことで、徴税人たちは憎まれ、軽蔑され、罪人と見做されていました。マタイもそのような徴税人であったわけです。

今日の箇所に、イエスが、「通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」と書かれています。イエスの弟子たちは、このように、イエスのほうから声をかけて、従った人たちばかりでした。逆ではありません。すなわち、イエスの弟子になりたいと思った人が、イエスに近づいて「弟子にしてください」と願い出た、ということではない、ということです。むしろ、このマタイのように、自分では思ってもみなかった人がイエスに声をかけられて、弟子となっていきました。

そんなイエスが、マタイなど、徴税人や罪人とされた人たちと一緒に食事をしていました。すると宗教指導者たちは、「なぜそのような人たちと一緒に食事をするのか」と非難します。
当時のユダヤ社会においては、一緒に食事をする、というのは、宗教的に大切な意味を持っていました。また、親しさの表れでもありました。ですので、罪人と一緒に食事をする、などということは、避けるべきタブーでした。イエスが罪人たち親しく接し、一緒に食事をする、というのは当時としては大きなスキャンダルであったわけです。
それでもなお、イエスは、あえて、そのような罪人たちと一緒に食事をしました。それは、罪人と食事をすることで、その人たちを正しい道に導いてあげようとか、可哀想な人たちに手を差し伸べて、救い出してあげようとか、そういうことではありません。もし、イエスが、そういう動機であるとしたら、イエスが、当時の社会で罪人とされている人を、イエスとしても、その人たちは問題のある罪人だと認定していることになってしまいます。
イエスは、罪人を更生させようとしたのではなく、罪人とされた人たちに対して、一緒に食事をすることを通して、あなたはそのままでいいのだと、神はそのままのあなたを愛しておられるのだ、ということを示されたのでした。

イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語ります。

イエスが食卓に招いているのは、正しい人、すなわち、正しいと思い込んでいる、あるいは、自分は正しい者だと思い上がっている人ではなく、罪人とされ、神の前に正しい者ではないと理解している人でありました。
イエスは、罪を頭ごなしに否定したりしません。ダメな部分、弱い部分、病んでいる部分を治したりするよりも、むしろ、そうした部分を抱えて生きているその人自身を、そのまま愛し、受け入れようとされました。そのようにして人々を愛し、それは十字架の死に至るまで、変わることはありませんでした。

今日、この場に集まっている私たちにも、それぞれ、弱い部分、病んでいる部分、あるいは隠したい部分などがあると思います。そんな私たちにイエスは語りかけます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
何か、特別な地位にいる人たちだとか、教会で働いている人たちだとか、そういうことではなく、マタイを招いたように、ここにいる私たち一人ひとりを、招いておられる、ということです。
イエスは、周囲から軽蔑されたり、仲間はずれにされたりしている人、孤独の中にある人、そんな人たちのところに出向き、「わたしに従いなさい」と話しかけられました。そして、イエスは、今日ここにいる私たちにも語りかけ、神の愛の交わりへと、招いてくださっています。         (チャプレン 相原太郎)

【ミカ書4章1-3節】
4:1 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
4:2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

✝ ✝ ✝

みなさん、今日は何の日かご存じでしょうか? 9月21日は、1981年の国連総会でコスタリカの発案によって制定された、国際平和デーという日です。世界の停戦と非暴力を祈る日になっています。(International Day of Peace)
2002年から、この日は「世界の停戦と非暴力の日」として、この日一日は敵対行為を停止するよう全ての国、全ての人々に呼び掛けている日です。

2022年2月24日、ロシアがウクライナへの本格的な軍事侵攻を開始して、すでに7ヶ月の間戦争が継続しています。日本は、この戦争の直接の被害は受けていませんが、もちろん戦争に無関係ではありません。隣の国ではミサイルの発射実験が行なわれ、わたしたちが大切にしてきた平和憲法の「改正」が議論されているこの時代です。それぞれの国の権力者が、自己の利権のため様々に企みを巡らせているこの時代に、力のないわたしたちは平和実現のために、あまりにも力が無いことを思いしらされるばかりです。

しかし、聖書はわたしたちにも、世界の平和のために出来ることがあると、希望を示してくれます。剣や槍という戦いの道具はかならず、鋤や鎌という農耕具に打ち直され、平和をつくりだすのです。
今日の聖書箇所は旧約聖書のミカ書4章1-3節です。預言者ミカは紀元前8世紀頃の預言者です。イスラエルがアッシリアとの戦いに敗れた、そのすぐ後の時代の人です。ミカは、イスラエルの人にとって思いもよらなかった預言をします。なんと神さまがイスラエルの罪ゆえに、わざわざ敵を立てて、イスラエルを攻撃させるというのです。とうぜん神さまは自分たちイスラエルを守ってくれる存在であると思っていたのに、預言者ミカは、イスラエルが罪を犯せば、神さまは敵を仕立ててイスラエルに攻撃をしかけるというのです。

では、イスラエルの罪とは、何であったのでしょう。力を持つものが、富んでいる者が、貧しい人々、力のない人々をないがしろにしていたことでした。貧しい人々、力のない人々は、困難な生活を強いられていたのです。通りに、イスラエルはアッシリアに敗れます。その時になって、やっとイスラエルの人々は、自分たちが敗れたのは、神さまの教えを無視し、貧しい人々、力を持たない人々をないがしろにしたからだと思い知ったのです。隣人の困難に心を寄せず、その苦しみ、痛みを無視するようなわたしたちの生き方が、争いを起こすことを、聖書は指摘し、神さまはその過ちを悟らせるために敵対して立たれるのだと、聖書は語るのです。神さまは滅ぼすためではなく、再び命を光り輝かせるために、裁きを与えられるのです。

しかし、ミカは預言を続けます。わたしたちが悔い改めれば、神さまはふたたび顧みてくださり、二度と剣を取って戦うこと学ばず、鋤に打ちなおして平和を学ぶようになるというのです。なぜならば戦いに敗れ、イスラエルの裕福な、力を持つ人々も土地を奪われ、すべてのイスラエルの人々が力をなくし、貧しくなり、その痛みを知る者となるからなのです。聖書が語る平和を作り出すための道は、わたしたちが隣人の痛みを知るようになることです。独占があるところでは争いがあり戦いがあります。分かち合うところでは、共に命が生かされ、「平和」を作り出すための道が開かれるのです。

預言者ミカは平和の君、救い主がベツレヘムから出ると預言しました。わたしたちのもとに、お生まれくださるイエスさまのもとでは、誰もが乏しくはなく、すべての人が満ち足りる平和が実現しるのです。どうかこの世界に、本当の平和が実現しますように、そのためにわたしたちが、あきらめることなく、分かち合いの歩みを始めてゆくことが出来ますように。
(チャプレン 後藤香織)

【マタイによる福音書18章15~20節】
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

✝ ✝ ✝

 「教会」という言葉は、本来、呼び出された者たち、というようなことを意味します。教会とは、建物のことではなく、人の集まり、呼び出された者たちの集まりです。そして、この18章全体を読むと、イエスによって呼び出された者たちが、どんな人たちであったのかが、浮かび上がってきます。

18章の冒頭に、イエスが、子どもを、弟子たちの真ん中に呼び寄せる場面が出てきます。
イエスは、言います。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子どもを受けいれる者は、わたしを受け入れるのである。」

イエスによって呼び出された者とは、まずは、子どもたち、そして、子どもを受け入れる者たちだ、ということです。子どもを受け入れるとは、単に子どもを、可愛がる、ということではありません。子どもこそ、自分たちの社会の中心に置いて、自分たちのモデル、自分たちの導き手とすべきなのだ、ということです。これは、私たちにとって大きなチャレンジです。

次に出てくるイエスの言葉は次のとおりです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼に首を懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
これはつまり、小さな者こそ、受け入れなさい、ということです。小さな者とはどういう人たちかというと、子どもはもちろんのこと、この社会の中で弱くされた者、悲しみや痛みの中にある者たちのことです。そのような小さな者、小さくされてしまった者たちを受け入れる者こそ、呼び出された者たちだ、ということです。

これらの言葉の後に、有名な「迷い出た羊のたとえ」が登場します。ある人が100匹の羊を飼っていて、1匹がいなくなりました。その人は、1匹のために、99匹を山に残して、その1匹を探しに行く、という物語です。囲いから、はみ出た1匹こそ、神は大切にする、ということのたとえとなっています。

この迷い出た羊のたとえの後に登場するのが、「二人または三人が」という箇所です。
つまり、神は、子どもたち、また、この世界で弱く、小さくされた人たち、あるいは、迷い出た一匹のたとえのように、囲いからはみ出てしまった人たち、囲いの外に追いやられた困難の中にある人たちを招き、呼び出され、大切にされるということです。

このように、イエスに呼び出された者たちのイメージとは、社会的に正しい人たち、道徳的に優れた人たち、あるいは特別な一つの同じ使命を持つ人たちによる、閉じられた集まりのようなものではありません。むしろ、その逆です。イエスが呼び出されるのは、社会の囲いからはみ出てしまった人たちです。脆さを持った人たちです。傷ついた人たちです。子どもたちです。助けを必要とし、相互に依存せざるを得ない人たちです。

イエスは、そのような二人または三人の集まりにこそ、私もいるのだ、と言っているわけです。
悲しんでいる人、貧しい人、病気で苦しんでいる人、孤独な人、自信を失っている人、そして、この社会の囲いからはみ出してしまった人、そうした人たちを、イエスは、今日も呼びだしておられます。そして、イエスは、わたしもその中にいるのだ、十字架にかけられた私自身も、その中の一人なのだ、と語りかけてくださいます。

ここにいる私たちの多くも、この社会の中で傷ついています。そんな私たちが呼び出され、学び合い、語り合う中に、イエスが共にいてくだることを覚えたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)

【マタイによる福音書 5章38-42節】
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

✝ ✝ ✝

今年もまた9月11日が廻ってきます。「911」と聞いて皆さんは、どんな出来事を思いおこしますか? 皆さんが生まれる少し前、2001年9月11日(火)朝に、テロ組織のメンバーが4機の航空機をハイジャックして、ニューヨークのワールド・トレード・センターや国防総省(ペンタゴン)の建物に、航空機を体当たりさせて3000人近い人が犠牲になった出来事です。ワールド・トレード・センターはニューヨークのマンハッタンにあります。マンハッタンは超高層ビルが林立する地域で、アメリカの富と力の象徴のような場所です。超高層ビルの中でもワールド・トレード・センターはひときわ高いツインタワーでした。そこにハイジャックされた航空機が突っ込んだのです。
そしてアメリカ国内では、テロの実行犯がイスラム教徒だったことで、アメリカのイスラム教徒やアラブ系の人々に対するヘイトクライムが急増します。アラブ系の人びとが嫌がらせをされ、職を失い、暴力を振るわれたのです。この報復の連鎖は、いまだ治まらず、世界は今日も苦悩しているのです。

ただいま聴きました新約聖書マタイによる福音書第5章38~42節は、旧約聖書の出エジプト記21:22-25(E)、レビ記24:17-20(P)、申19:19-21(D)にある「目には目、歯には歯」の教えを解釈している箇所です。「目には目を」という「同害復讐法」はバビロニアの『ハンムラピ法典』に同じような規定があります。良く「目には目を」の意味を、報復を煽る「やられたら、やり返せ」という意味で受けとめている人いますが、「目には目を」は際限なく繰り返されていく報復、仕返しを止めるための法律です。歯を一本折られたら、歯を一本折り返すことでお終いにするようにという言葉であり、仕返しを繰り返さない、復讐の連鎖を断ち切ることが目的です。受けた被害と同じ害を、一度だけ相手に仕返すことで終わりにするのです。

しかし、イエスさまは「『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と語り、一度の仕返しも放棄するように教えられるのです。わたしたちの世界が平和に至るためには、復讐の連鎖は断ち切られなければなりません。にもかかわらず、わたしたちはこのたった一度も仕返しをしないようにというイエスさまの言葉に、同意することが出来ません。そして驚くべきことにイエスさまはさらに「左の頬をも向けなさい」と、報復をしないどころか、被害をさらに被ることまで受け容れよと語られるのです。到底、イエスさまの教えを受け容れることなど出来ません。

しかし考えてみましょう。わたしたちの世界は、報復の連鎖の中にあります。仕返しが仕返しを呼び、憎しみは憎しみを生んで増幅し、とどまるところを知りません。
アメリカは、同時多発テロの後非常事態宣言を出し、アフガニスタンのタリバーン政府にビンラディンの引き渡しを要求し、アフガニスタンを攻撃し、タリバーン政権は崩壊します。さらにアメリカはイラクに対し、大量破壊兵器を隠し持っているとして、テロイラク戦争を開始し、サダム・フセイン独裁政権を倒すなどの蛮行に出ます。イラク戦争からその後のアメリカ軍のイラク駐留の期間に実に多くの無辜の市民の血が流れ、イラクの人のみならずアラブ諸国の人びとのアメリカに対する怒り・憎悪は増幅されました。
この同時多発テロを始めとした、世界の争いに目を留めるとき、わたしたち人間は互いに憎みあうことしか出来ないのかと悲しい気持ちになります。しかし、イエスさまは今日わたしたちに報復の連鎖を止めるために、まずわたしたちが仕返しをしない生き方を選び取るようにと呼びかけてくださっているのです。

今日の「復讐しない」のすぐ後に、有名な「あなたの敵を愛しなさい」という教えが続いていて、一つのまとまりになっています。敵を愛することの具体な例として、仕返しをしない生き方の例として、今日の福音書は語られているのです。

わたしたちは、報復を連等させるのではなく、希望と愛を連鎖させる歩みを、イエスさまに励まされて、今日から始めてまいりましょう。  (チャプレン 後藤香織)

【マタイによる福音書22:15~22】
22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

✝ ✝ ✝

 イエスのいたイスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。住民は、ローマ帝国に税金を払わなければなりませんでした。多くの人が、この税金に反感を持っていました。そんな中で、ファリサイ派とヘロデ派、と呼ばれる2つのグループの人たちが、イエスに、このローマに対する税金を払うべきかどうかについて質問します。

ファリサイ派の人々は、ローマ帝国の支配に反対していました。ですので、もしイエスが、ローマに税金を支払うべき、と答えれば、ローマの支配を肯定することを意味します。ローマの支配からの解放を願っていた一般の多くの人々は、これを聴いたら、民衆の裏切り者だと思うはずです。逆にヘロデ派は、ローマの支配の現状を肯定する人たちでした。したがって、もしイエスが、ローマへの税金は拒絶すべきだ、と答えれば、支配者であるローマに対する反逆者とみなされてしまいます。

そんなことを問われたイエスは、デナリオン銀貨を出して答えます。デナリオン銀貨とは、当時、ローマが支配していた地域で広く流通していたローマの貨幣です。ローマ帝国の支配を強く印象づけるものでしたので、よい印象を持たれていませんでした。さらに、この銀貨には、ローマ皇帝が神のごとく刻印されていました。ですので、神以外のものを神としてはならないとする、ユダヤ教の教えに抵触するものでもありました。

そのようなデナリオン銀貨を見て、イエスは言います。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」このイエスの答えは何を意味しているのでしょう。

ローマ皇帝が神のごとく刻まれていたローマの貨幣は、エルサレムの神殿での使用が許されていませんでした。そこで神殿の境内には、ローマの貨幣を、神殿で使用可能な貨幣に交換する両替商がありました。ところが、実は、この神殿で用いる貨幣、そしてそれは結局神殿の収入となるわけですが、それがまた問題でありました。
イエス時代、ローマの支配は、人々の生活を苦しめるものでしたが、苦しめたのはそれだけではありません。実は、神殿そのものも、人々の生活を苦しめるものでありました。住民は、神殿税を払わなければなりませんでした。年収の10分の一を神殿に献げ、さらにはお祭りの時や、人生の節目のときなどには、神殿に献げ物を出さなければなりませんでした。

ここから考えますと、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉は、人々が手にしている貨幣は、皇帝の貨幣でも、神殿の貨幣でも、結局取られてしまうものだ、とも読み取れます。イエスの言葉は、税金をとるローマ、献げ物を求める神殿を告発する面もあったかもしれません。

しかし、この言葉の意味はそれにとどまらないと思います。
イエスは、ローマの銀貨を見て、そこに刻まれているのは、誰の肖像かと尋ねました。そこには、皇帝の姿が神であるかのように刻まれていました。
さて、ユダヤ教におきまして、本来、神の姿が刻まれているのは、どこでしょう。旧約聖書の創世記によれば、神は、神の姿に似せて私たち人間を創造されました。つまり、本来、神の姿が刻まれているのは、実は私たち自身であるということです。私たちは、そもそも神の形に似せて作られているのであり、全ての人に、神の姿が確かに刻み込まれている、というのが聖書の人間理解です。

したがって、「神のものは神に返しなさい」とは、神の姿が刻まれている私たち自身は、皇帝ではなく、そしてまた神殿でもなく、神に返されなければならない、ということです。

私たち人間に、神の姿が刻まれているとは、どういうことでしょう。たとえば、私たちは、自分のためだけに、自分勝手に生きることもできるのに、苦しんでいる人を見れば放っておけません。何か悩みを抱えている人がいれば、なんとか力になれないだろうか、と考えます。そうしたことの中に、私たちに刻まれた神の姿、神の刻印を見ることができると思います。

コロナ禍の中、私たちは、人との接触をなるべく避け、必要な人と、必要な時間を限定して会うことが求められてきました。このことは、効率重視の社会にとっては、好ましいことかもしれません。たとえば、たまたま隣にいる人が実はこういったことで困っている、ということが分かり、そのことで自分の時間を犠牲にすることなったら、ある意味で非効率で、時間の無駄になってしまいます。しかしながら、イエスがされていたように、自分のため、ということを横において、たまたま隣にいる他者のために自分の時間を犠牲にする、というような行為にこそ、本来の人間の姿、つまり神の似姿を見ることができると思います。そして、そのような行為こそが、私たちの学校の建学の精神である「愛をもって仕える」ということでもあります。                                                                                                                              (チャプレン 相原太郎)


ブラックベリー

このページの先頭へ