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大学礼拝 2017/6/14 『忙しいわたしたち』

カテゴリー:大学礼拝

【ルカによる福音書10:38-42】
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

「お忙しいですね、お忙しそうですね、ご多忙中、申し訳けございませんが」などと言われると、わたしたちは悪い気はしません。むしろ何となくいい気持になるのではないでしょうか。 「暇そうですね、暇なら手伝ってよ」などと言われると、あまりいい気持はしません。わたしたちは、いつの間にか「忙しいこと」は良いことで、「暇なこと」はあまり良いことではないという先入観にとらわれてしまっているのではないでしょうか。

忙しい」という漢字は忙、りっしん偏に亡(ぼう)~なくなる、失う、滅びる~と書きます。りっしん偏は心を表しますから、忙しいとは、心を失うこと、心を滅ぼすことを意味しています。ですから本来の意味からすると、忙しいことは必ずしも良いことではありません。「多忙・忙殺・繁忙」はたくさん心を失うことであり、たくさん心を滅ぼしてしまう、心を殺してしまうことにもなりかねないことに注意する必要があります。

今読んでいただいた聖書の箇所(マルタとマリアの話)から、少し考えてみましょう。

マルタはおいで下さったイエス様をおもてなしし、喜んでいただくために、あれこれと心遣いをしながら、きびきびとした立ち居振る舞いをしています。とても素晴らしいことです。マリアはといえば、お話してくださるイエス様の真ん前に座りこみ、身動きもせず、一心にイエス様の話を聞こうとしています。

マルタがそんなマリアを見て、いらいらし、黙っていられなくなり、イエス様に不平不満をぶつけます。「こんなに忙しく立ち働いているわたしに気づきもせずに、マリアが座っていることを何ともお思いになりませんか?マリアにも私の手伝いをするようにおっしゃってください。」 それに対して「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を取り乱している。必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」こうマルタにイエス様は優しく言われました。

確かにマルタはとても忙しかったことでしょう。そこで彼女はどうしたのでしょうか。自分の忙しさを何とかカバーしてもらうために、マリアを利用しようとしたのです。自分の思いを実現するために、他人を自分の枠の中に引き込もうとしたのです。マリアが座り込んでイエス様の話を聞いていることが許せなかったのです。マルタは自分の忙しさのために、大切な心を失っていました。忙しさは人を自分のことしか考えられないような状況に追い込みます。マルタがそうでした。マリアの思い、その人格を無視し、マルタは自分の思うがままに相手を動かすことに意を用いたのです。マルタはイエス様を心からお迎えし、おもてなしすることに大きな喜びと幸せを感じていました。そのことは間違いないことでした。しかし、ほかの人も自分と同じように行動することを望んだところに問題がありました。

マルタに「もし、そんなことを言うならば、あなたもマリアと同じように、じっと座っていてイエス様の話を聞いたらどうですか?」と言ったならば、彼女にはそれは難しいことになるでしょう。忙しさを人の所為(せい)にしたり、また忙しさのために自分を見失ってしまうことのないようにしましょう。

マルタもマリアもそれぞれに神様から与えられた賜物(素晴らしい人格、個性、かけがえのないもの)をもっています。

わたしたちも同様に、個々に無くてはならない賜物が与えられています。その賜物をしっかり見つめ、それを活かしていきましょう。(チャプレン 大西 修 主教)

植えつけられた夏の花たち

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