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2017/9/13 大学礼拝 「ぶどう園の労働者」のたとえ

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書第20:1~16】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

聖マタイによる福音書だけに記されている「ぶどう園の労働者」のたとえですが、イエスはこれを通して、神の支配されている世界とはどのようなところか、神が持っておられるお考え、価値観とはどのようなものか、すなわち「天の国」「神の国」についてお教えになりました。

季節はちょうど夏の終わりの今頃です。パレスチナではぶどうの収穫がまっ盛りで、猫の手も借りたいほど多忙な時期です。ぶどう園の雇い主(主人)は朝早くから寄せ場(広場)に出て行って働き手(労働者)を呼び集めます。ぶどう園の主人は人出が足りなかったのか、さらに9時、12時、3時ごろにも、出かけて行って同じようにしました。さらにまた、日暮れ時の5時ごろに行ってみると、まだ立っている人たちを見つけ、「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか?」と聞くと、彼らは「誰も自分たちを雇ってくれないからです。」と答えます。主人は「あなたたちもぶどう園に行きない。」と言って彼らを送り込みました。

さて、このたとえ話の興味深いところは、最後の日暮れ時の5時ごろに来て僅か1時間しか働かなかった人たちにも1デナリオンが渡されたことです。さらには、最後に賃金が支払われたのは、早朝から来て暑い昼(ひる)日中(ひなか)を1日中働いた人たちというおまけつきで「こんな不公平はない、理屈に合わない、おかしい」と彼らは主人に抗議しますが、主人は彼らに「わたしは何も不当なことはしていないし、約束も破ってはいない。わたしがしたいようにしてどうしていけないのだ。わたしの気前の良さを妬ましく思うのか」と答えたというのです。

5時ごろの人たちは1日ぶらぶら遊んでいたわけではありません。働きたくても仕事がない、どこへ行けばいいのか、今夜何を食べ、どのように過ごしたらいいだろう、日暮れ近く、そのような厳しい状況の中にいる人びとの思いを知って、主人は声をかけて招いたのです。この主人こそ、神を指し示しているのではないかと思います。彼らは主人に何を期待したでしょう。ほとんど何も期待していなかったのではないでしょうか。予想すらしていなかった、考えてもいなかった無価値と思われる者への呼びかけと1デナリオンの支払いに、ただただ驚くばかりだったのではないでしょうか。

主人は自分の考えとして「最後の者にも、最初の者と同じように支払ってやりたいのだ」と言います。それが主人の考え方であり、世界を見る目であり、主人の価値観、すなわち「天の国」でのものの見方、考え方、価値観なのです。神の平等はこの世の平等とは明らかに違うこと、そこに、計り知ることのできない神の絶大な恵みがあることをいつも心にとめていたいと思います。

働きたくても様々な要因(身体的、精神的、社会的、その他物理的な要因)で働くことのできない人もいます。「働かざる者は食うべからず」の格言はぶどう園のたとえにはあてはまりません。この格言でいう「働かざる者」とは「働くことが出来るにも関わらず、怠けて働かない者」を指しているからです。

残念ながら、わたしたちは5時ごろ雇われた人の気持ちにはなかなかなれません。何もしないで1日中不安と焦燥の中で立ったまま待っている辛さ、苦しさ、半ば諦めかけて日暮れ時を迎えようとしている人の思いを、わたしたちはどこまで、共有することが出来るのでしょうか。

東日本大震災のために愛する人を失い、傷つき倒れ、住居をはじめ多くの財産を失い、追い打ちをかけるように放射能汚染の恐怖の中に曝され、今なお不安の中で生きている人々、地震・大雨・洪水などにより、多大な被害の中にある世界各国の被災地にいる人々は、まさに5時ごろの人びとと言っていいのではないでしょうか 。

わたしたちは神と共に一緒に歩く者として、いや、神がわたしたちと共に一緒に歩いてくださっていることを信じる時、実は私たち自身が5時に雇われた者ではないかと気付かされるのではないでしょうか。

そのことに気づく時、はじめてこのようなわたしでも、無条件に、何の見返りも無しに愛し、受け入れてくださる神に感謝の思いをもって歩むことができ、苦難の中にいる人と共に一緒に生きていくことが出来るのではないかと思います。(チャプレン大西 修 主教)

ペチュニア

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