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大学礼拝「迷い出た羊のたとえ」2018/11/14

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書18:10-14】
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

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いよいよ来週から、1年生は初めての教育実習、2年生は2度目の保育実習が始まります。

教育実習法、保育実習指導の授業も受けて、実習に入る準備は多分出来ていることと思います。とは言っても初めての実習の現場ですし、何が起こるかわからない要素もたくさんあります。ですから心配があって当然です。わたしも大学4年次に高校での3週間の教育実習、神学校の3年次には東京築地にある聖公会の聖ルカ国際病院で1ケ月の実習を経験しました。今でもその時のことを思い出すと冷や汗が出てきます。不安だらけで何一つ思った通りにいかなかったからです。

「礼拝への出席は、あなたの実習をきっと素晴らしいものにするでしょう!」と今回の礼拝案内の掲示に書きましたが、「あなたの実習が成功することを保証します、約束します」とは書きませんでした。そんなことをもし書いたとしたら、万一、結果があまり芳しくなかった場合、「チャプレン、嘘言った、あれは過大案内だ」と言われかねません。「礼拝に出席すれば必ずご利益があります」と言えば、皆さん出席しますか。ご利益を求めて礼拝に出席するのではありません。「休まずきちんと授業に出席すれば単位を認定します。」と言われれば、授業に出席しますか。考えてみてください。確かに出席するでしょう。しかし、単位を取る目的で授業に出席しているのでしょうか。そうではなく、卒業し社会に出て、現場に立って働くとき、きっと授業を通して身につき学んだことが、役立つと信じているからだと思います。もしそう考えていない人がいたら、今からでも遅くはありませんので、その考えを直してください。

さて、イエスさまはいつも子どもたちや、その当時小さな者とされていた社会的に弱い立場に追いやられていた人々(やもめ~未亡人~や寄留の外国人)、無視され、蔑まれていた人々に対して殊の外、思いを寄せられ、積極的に関わりを持たれました。

「このような小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(18:10)と言われ、「迷い出た羊」のたとえを話されました。ある人が100匹の羊を所有しており、その中の1匹が迷子になったとしたら、99匹を残しておいて、その1匹を探しに行くのが当然だというのです。そしてその1匹の羊が見つかったなら、99匹の迷わずに残しておいた羊のことよりもはるかに喜びは大きい。このようなたとえです。

イエスさまの価値観はわたしたちの価値観と明らかに違います。天国、神さまのお考えがイエスさまの価値観にそのまま反映しているのです。わたしたちは数、数量に関心があります。99匹と1匹を比較し、1匹のために99匹が犠牲になることなど考えられない。それより1匹だけが犠牲になるほうがいいのではないか、と数、数量の多い方を優先し、それを大切だと考えます。しかしイエスさまは数量ではなく、目につきにくい質量(弱さ、小ささ)を大切にされます。見落としてしまいがちな、忘れられてしまいそうな人(たった1匹の羊)を、とことん大切にされ、最後まで面倒を見られるのです。

実習の現場に立った時、あなたに寄り添い、駆け寄って来て、まとわりつく元気な子どもがいれば嬉しくなり、一緒に遊ぶことが楽しくなります。その子どもと、ずっと関わっていたい気持ちになるでしょう。でもそんな時、注意深く周囲を見回してください。部屋の片隅でひとりだけでうつむいている子ども、園庭に独りぼっちで寂しそうにしている子どもがいるかもしれません。そのような子どもに積極的に近づいて行って、優しく声をかけることができれば最高です。とても素晴らしいと思います。どのような声掛けをするのがふさわしいかは、十分考えてみる必要があります。あなたの声掛けによって、その子どもは一層固い自分の殻の中に入ってしまうかもしれませんから。声をかけないで、そっと傍らにいることがひょっとしたら正解かもしれません。

イエスさまはわたしたちに注意深く物事を見で、小さなことも見逃さないようにと願っておられます。わたしたちの注意力は人に対してだけでなく、周りの環境に対しても注がれるようにしたいものです。庭の草花一つ、石ころ一つ、ゴミ一つに対してどのように関わり、それに対処するかは、あなたがたひとりひとりの感性によるところが大きいかもしれません。感性は磨かれる必要があります。磨かれることによってますます豊かになります。嫌なこと、やりたくないことは誰にもあります。でも、それをすることによってあなたは成長し、人々の喜ぶ顔を見ることができるようになり、その喜びを分かち合うことができるようになるのです。

イエスさまは一人一人をこよなく愛され、大切になさいました。このわたしもその中の一人です。このわたしが覚えてもらっている、覚えられていること、こんな嬉しいことはありません。「どうせ、わたしなんか、もうだめだ」とヤケクソの気持ちになったことはありませんか。そんな時、このわたしに一番近くいてくださる方、みんなから無視され、仲間はずれにされ、もうダメかもしれないと諦めかけているわたしに、優しく声をかけ、大丈夫だよ、いつも一緒にいてあげるからと言ってくださる方がおられるのです。それを信じることができる時、子どもたちの前に勇気をもって立つ力が与えられるのです。

自分を静かに見つめる時こそ、祈りの時と言えるでしょう。夜寝る前のひと時、朝起きて顔を洗うとき、学校へ向かう電車の中、また実習に出かける途中でその時が持つことが出来ます。その時を持つことによって、あなたの1日を、あなたの実習を素晴らしいものに違いありません。これがご利益であると言えば、言えるのかもしれません。

皆さんの来週からの実習が実り豊かなものになりますように、覚えてお祈りしています。(チャプレン 大西 修)


押し花作り

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