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大学礼拝「愚かな者になる」2020/9/3

カテゴリー:大学礼拝

【コリントの信徒への手紙一3:18】
3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

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後期が始まりました。残念ながら対面での授業ができない状態で後期を迎えることになってしまいました。まだまだ大変困難な時期が続きますが、この秋、全ての学生が実りある学びのときを送ることができますことをお祈りいたします。

私たちは、毎週、大学礼拝でこのように祈っています。

「共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができますように。」

私たちの学びとは、知識を深めて、真理を悟ることによって、愛をもって互いに仕える者となっていくことにあります。遠隔授業におきましても、そのような学びのときが、切れ目なく続けばと思います。

さて、先ほどお読みしました聖書には、ちょっと妙なことが書かれています。

「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

これは書いたのはキリスト教初期の大宣教者パウロです。

大学の先生方にとっては、あまり気持ちの良いフレーズではないかもしれません。この世の知恵は愚かだ、と断言するパウロは、私たちが日夜努力しているような大学での学び、知恵など、いらないと、否定しているのでしょうか。それは、真理にとって邪魔だ、ということでしょうか。もちろんそんなことはありません。

この言葉は、パウロによって書かれたコリントの信徒への手紙という文書にあるものです。

コリントとは、ギリシャの首都アテネから80キロほどの場所にある地方都市です。パウロも一時期そのコリントに滞在し、仕事をしながらイエスの教えを広めていました。ところが、パウロがコリントを去った後、彼らは、いくつものグループに分かれてしまいました。自分たちはパウロにつく、いやいや私たちはペトロだ、私はキリストだと、互いに自分の正当性、優位性を主張するようになりました。そして、自分の持つ知恵や経験を誇り、他者を見下すようになっていました。「自分こそ、知恵ある者だ」と。パウロは、そうしたこと自体が間違いなのだと、コリントの信徒への手紙で指摘しているわけです。

パウロが批判したのは、知識を得るということそれ自体ではありません。そうではなく、自分たちの知識や考え方、何らかの主義主張を絶対視する、ということです。それは、ひいては、神以外の何かを絶対視してしまうこと、神以外のものを神としてしまうことになりかねません。パウロが問題にしたのは、そういうことでありました。

このことは、キリスト教大学である私たちにとっても、大切な軸となるものを教えてくれています。すなわち、私たちは、神以外の何かを絶対視することを徹底して避けること、あらゆる定説や常識を相対化してみること、つまり神以外のものを神としないこと。これらが私たちにとって決してぶれてはいけない軸であると思うのです。

神以外のものを神としないのですから、それは一方で、この世界のあらゆる価値観、規範、常識、トレンド、ニーズなどから、私たちは自由になることができます。むしろ、私たちはそれらから自由になって真理を求め続けることが求められているわけです。

学校教育においては、どうしても、現在の経済社会が求める人材像に合うように、学生のスペックをカスタマイズしなければならない、という考えに押されてしまいがちなところがあります。しかし、学校はロボット工場ではないわけですから、そうした要請はいったんカッコに入れる必要があると思います。

私たちが目指している人材ということであれば、それは、真理を求め続け、愛をもって互いに仕える人、ということになります。愛をもって仕えること、それは必ずしもこの世の価値観と噛み合うとはかぎりません。イエスは、その過激なまでの深い愛のわざゆえに、当時の社会によって十字架で抹殺されてしまいました。そのように、真理を求め、愛をもって仕えようとすることによって、社会から愚か者という烙印を押されてしまうかもしれません。しかし、それでもなお、真理を探求すること、そして互いに愛することをあきらめないこと、それこそが私たちに求められていることでありましょう。

パウロは言いいます。「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

私たちは愚か者と言われることを恐れずに、真理を探求するものでありたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


6号館の花壇

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