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大学礼拝「ザアカイの物語」2021/5/13

カテゴリー:大学礼拝

【ルカによる福音書19章1-10節】
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 

ガリラヤから首都に向けて旅をしていたイエスの一行は、いよいよエルサレムに近づき、エリコという町に入ります。エルサレムに到着すると、宗教指導者たちとの激しい対立が予想されるという緊張した状況の中でのエリコ滞在です。このエリコは交通の要所で、経済的にみてもトップクラスの都市でした。そんな町で税金を集めるトップにいたのがザアカイでした。
当時イスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。その手先となって税金を取り立てるのが徴税人でした。税金の使い道の多くは福祉や医療などではなく、軍事費など帝国の維持のために使われており、人々の不満は大いにたまっていました。しかも徴税人は規定以上に取り立てて私服を肥やすのが常態化していました。外国の支配者のために働き、その立場を利用して不正な利益を得ていたということで、徴税人は嫌われ者でした。しかも、ザアカイはそのような徴税人の元締めでした。あのザアカイだけは許せないと人々に思われていたことでありましょう。
エリコの町にイエス一行がやってきました。イエスを取り囲むように人だかりができました。そこにやってきたのがザアカイでした。もちろん、人々はザアカイのことを知っていましたが、彼とは誰も目を合わせません。ザアカイも自分の立場がわかっていますので、誰とも目を合わせることがありません。彼には、顔と顔を合わせて話せる人、自分を見て受け入れてくれる人はいませんでした。そんなザアカイは、イエスが自分のような徴税人とも何の垣根もなく交わっていたと噂で聞き、そのイエスがどんな人かを見たいと思っていました。
ザアカイは、群衆に囲まれたイエスを見るため、大きな木に向かって走り出し、木によじ登ります。今でもそうだと思いますが、当時の社会において、大人が走り出して、木によじ登るというのは、まったく考えられない非常識な行為でした。それほどまでに、ザアカイは、自分がどう見られようとお構いなしに、イエスに会ってみたい、顔と顔を合わせて話をしてくれる人、自分を受け入れてくれる人に会いたいと思っていたわけです。
そんなザアカイを見たイエスは、木の下まで来ると、ザアカイにこう言います。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは影で悪口は叩かれることはあっても、自分を見て、面と向かって自分の名前を親しく呼んでくれる人などいませんでした。イエスが自分の名前を呼んでくれただけでも驚きだったと思います。しかも、あなたの家に泊りたい、泊まることになっている、と言ったのでした。
明日は、いよいよ、エルサレムに登るとても重要な日です。そんな大事な時にもかかわらず、よりによって徴税人の頭であるザアカイの家に泊まる、というイエスの発言に、エリコの人々はショックを受けたことでありましょう。裏切られたと思ったかもしれません。それでもイエスはあえてザアカイの家を選んだのでした。
ザアカイは、顔も見たくないと思われている自分を、「ザアカイ」という名前を持つ一人の人間として呼びかけ、その存在を認めてくださるイエス、エルサレムに向かう大切な前夜に親しい交わりをしてくださるイエスに驚き、そこに神の愛の働きを垣間見たのでした。その時、ザアカイの中に大きな変化が起きました。ザアカイは木から降りて、これまでの自分の拠り所であった財産を投げ出すのでした。

重要なポイントは、この物語の順番です。イエスは、ザアカイが財産を施すことにしたから、あるいは施すことが期待できたから、ザアカイの家に泊まることにしたのではありません。イエスは、初めからザアカイの家に泊まることになっていたのでした。ザアカイが何かするよりも前から、嫌われ者であったザアカイに親しく関わろうとしたというこの順番こそ、神の愛の働きが如何なるものかを明確に表しています。
神は、私達がなにかよいことをしたから、何か条件を達成したから、それを認めて恵みを注ぐ、というようなことはありません。そうではなく、神は私達が何をしようが何をしまいが、そもそも私達を認めている、神は初めから私たちのところに泊まることになっているわけです。

今、自分が誰からも受け入れてもらえないと感じている人、あるいは、この社会から差別され追いやられている人、また、あの日のザアカイのように、なんとかイエスを一目見たいと思っている私たちに、イエスは語りかけます。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
イエスが、そのように呼びかけてくださっていることを覚えたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


アオスジアゲハ

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