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大学礼拝「新しい掟」2021/5/27

カテゴリー:大学礼拝

【ヨハネによる福音書 13章31-35節】
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

互いに愛し合いなさい」という新しい掟の新しさとはなんでしょうか。ヨハネ福音書の文脈においてそれは、その補足の部分にあります。「わたしが、あなたがたを愛したように」というこの部分にこそ新しさの鍵があります。そして、それゆえにこの掟は今もなお新しいと言うことができます。
「わたしがあなたがたを愛したように」ということの新しさとは、イエスの愛し方に他なりません。イエスの愛し方とは、十字架で処刑されるほどまでに徹底して出会った相手を大事にする、大切するというものでした。十字架で処刑されるほどまでに人を大事にするとはどういうことでしょう。
ヨハネによる福音書を読み返してみますと、イエスが十字架で処刑される引き金となった事件の記事があります。それはベトザタの池というところでイエスが病人を癒やした出来事です。
ベトザタの池でのイエスによる病人の癒やしは、安息日、すなわち、当時の律法の規定に基づいて、仕事をしてはならない日に行われました。イエスは、この病人とはもともと面識がなく、その日、たまたま歩いていて見かけた病人に過ぎません。しかし、その人が38年もの間、病気で苦しんでいることを知ったイエスは、安息日の掟を守ることをよりも病人を癒すことを優先しました。イエスがこの病人を癒やした直後の様子が、ヨハネ福音書に次にように記録されています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」
イエスがどのように人を大切にしたかというと、この記録が示しているように、自分が社会の中で危うい立場に追い込まれたとしても、社会の常識やルールを打ち破ってでも、出会ってしまった一人ひとりを大事にするというものでありました。そして、このようなイエスの個別具体的で突発的なイエスの愛は、現代に生きる私たちにとっても、新しさをもっています。
キリスト教に連なる学校や福祉施設、あるいは教会は、愛ということをテーマとしつつも、この社会において活動をする上で、さまざまな計画を立てて、社会のルールに従って行動しています。しかしながらイエスは、なにか事前に計画を立てて人を癒していったのではありません。彼はたまたまベトザタの池で病人に出会い、そして彼を癒されました。
たとえば、イエスが一人でも多くの人を癒すことを目的としていたら、もしかしたら、この日には何もしなかったかもしれません。その日は、安息日の規定を守り、あらためて別の日に計画に基づいて行った方が多くの人を癒すこともでき、世間的な活動の評価も上がったかもしれません。しかし、イエスはそうした数値や評価に関心をもった形跡が全くありません。むしろ、ルールを破ってその癒しを行ったことで、十字架という結末をもたらしました。十字架刑とは、いわば当時の社会における最悪の評価です。イエスの愛し方とは、そうしたこの世的な評価や自分のメリットとはまったく関係なく、具体的に出会った人との間で、いわば偶然の出来事として起きてくる行為でした。

もちろん、私たちは、社会生活がありますので、世の中的な数値や評価をまったく無視することは難しいかもしれません。
しかし、イエス自身の愛し方が、当時の掟を超えて、たまたま出会った一人の人物に徹底してかかわっていくという方法であったということ、そのことが、イエスの教えに連なる私たちの活動の基礎にあるということを改めて確認しておきたいと思います。そして、自らの生活の中で、また仕事の中で、この新しい掟にこだわってまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ヤマアジサイ

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