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大学礼拝「シロアムの池」2021/9/9

カテゴリー:大学礼拝

【ヨハネによる福音書 9章1~12節】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

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 今日の箇所は奇跡物語の一つとされています。奇跡というと、いとも簡単に病気を治したりするようなイメージがあるかもしれません。しかし、今日の箇所のイエスの行動はどうも様子が違います。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」と書かれています。
両目に土を塗るわけですが、目に塗っても土が落ちないようにするためには、粘り気のある土が必要です。そのためには相当な量の唾を土にたらさなければなりません。さらに、その唾と土を手で混ぜて泥にし、そしてようやくできたその泥を、ドロドロになった手で、必死になって、その目の見えない人の目に塗るわけです。このように具体的にイメージしてみますと、この奇跡物語は全然スマートではありません。泥だらけの、不恰好なものでした。

福音書の記者は、イエスの奇跡物語を、もっとスマートに描くこともできたはずです。例えば、「イエスが、その人の目に手をかざして祈ると、たちどころに目が見えるようになった。」このように描けばよかったわけです。それなのに、わざわざ地面に唾を吐いて泥を作ったと記しています。ここには、イエスの人々への関わりが、どのようなものであったかが表現されているように思います。イエスの関わり方とは、効率性や生産性、社会的な評価や成果とは無縁でした。イエスは、出会った人、一人一人と具体的に、必死に、全身全霊をかけて、他人からどう見られようとお構いなしに、関わっていきました。この「唾で泥を作って目に塗った」という様子は、そのことを象徴的に表現しているように感じます。

しかも、それを塗ったからといって、その場ですぐに目が見えるようになったわけではありませんでした。これも私たちがイメージする奇跡とはどうも様子が違います。イエスは、目に泥を塗った上で、今度は、「池に行って洗いなさい」と言いました。イエスが手を引いて連れていき、彼の目を洗ってあげてもよさそうです。しかし、イエスは、彼自身の力で行かせました。すると、彼は目が見えるようになって戻ってきました。
イエスの必死な振る舞いに応答して、今度はその人自身が自らの足で池に行き、自らの手で泥を洗い流したわけです。聖書に出てくる奇跡の実現のプロセスには、この見えない人自身に力が与えられ、エンパワーされることに大事なポイントがあるようです。

彼が池から帰ってくると、近所の人々や、物乞いをしていた姿の彼を知っている人たちが集まってきました。すると、口々に「彼は物乞いをしていた人なのか」「違うだろう」「似ているだけだ」と言いました。すると本人は、「わたしがそうなのです」と彼らに言ったのでした。
これまで、彼は、通りの傍らでひっそりと物乞いをし、見向きもされませんでした。当時の社会では、こうした人々は物乞いをするくらいしか生きる道はありませんでした。そして、街の人たちは、そんな彼の存在には気にも止めず、関わりを持とうともしませんでした。彼自身もまた、このような境遇に陥っているのは、自分の罪の結果だと受け止めてしまっていました。

しかし、イエスによって癒された彼は、堂々と道の真ん中を歩いて帰ってくるのでした。その彼の姿に、人々は混乱しました。彼は一体誰なのだろうかと。
彼は、そんな人々に向けて、「わたしがそうなのです」と言いました。彼のこのセリフは、次のような意味を持ちました。すなわち、「私は、みなさんがこれまで気にもとめず、関わりを持とうとしなかった者、そしてまた、それが罪の結果だと自ら思い込み、自ら社会の片隅でひっそりと暮らしていたあの人物です。あの人物こそ、今、ここに皆さんの前に立っている私なのです。」彼はこのように宣言するのでした。
この時、彼と街の人たちとの関係は大きく変わったのでした。目の見えない人自身が自らの尊厳を回復していくこと、人々との関係が変わっていくこと、それこそがこの奇跡物語のハイライトでありましょう。

このように考えていきますと、こうした物語は、私たちの現代においても、そして、私たちの身の回りにおいても、起きているのではないかと思います。
イエスの時代、社会から取り残され、一人寂しく物乞いをしていたあの彼のように、この現代においても、そうした境遇にある人たちは少なくありません。そしてまた、時に私たち自身も、社会の中で、孤独に追いやられているように思うこともあると思います。
そんなとき、イエスは、必死になって私たちのために泥まみれになって私たちにかかわってくださるのであり、そして、私たちが自分の足で歩けるように促してくださっています。

そのことを覚えながら、私たちも、この世界の中で、差別や偏見、孤独に追いやられている人々、そしてまた、保育の現場で出会う子どもたちに、具体的に愛をもって仕えることによって、そんな奇跡に出会うことを、求めてまいりたいと思います。                (チャプレン 相原太郎)

 


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