*
個別記事ページ

大学礼拝「自分の十字架を背負って」2021/10/14

カテゴリー:大学礼拝

【ルカによる福音書 9章18~24節】
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

✝ ✝ ✝

イエスがガリラヤで活動を開始すると、その噂は一気に広まっていきました。多くの病人を癒やし、新たな教えを語るイエスについて行きたいと思う民衆たちが、どんどん集まるようになっていきました。イエスが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と発言したのは、イエスについて行きたい人たちが爆発的に増えた時期でした。
人々は、イエスに大きな期待を持っていました。それは、彼こそが救世主であると思ったからです。その当時、イスラエル地方は、ローマ帝国に支配され、様々な自由が奪われていました。人々は、そのような支配から脱するためにヒーローが現れ、ローマを追い出してくれることを待ち望んでいました。そして、そのようなリーダーこそが救世主でありました。

しかし、イエスは、自分がそのような意味での救世主、ヒーローになるとは考えていませんでした。そこで、イエスは、もし私について来るのであれば、日々、十字架を背負いなさい、と言われました。
十字架を背負う、というと、一般的には、おそらく、何か、自分が犯した罪の意識をしっかりと自分で受け止めて生きる、といったニュアンスだと思います。しかし、本来、十字架を背負うとは、罪意識を持って生きる、というような程度の意味ではありません。
十字架を背負うというのは、十字架の印をギュッと押される、という意味合いの言葉です。それは、言い換えるならば、この世の中の常識と対峙してでも、ブレずに、神に従う、というような意味で理解していいと思います。そして、神に従う、ということは、例えば、この世の中の価値観に埋没し、他者を切り捨て、自分だけが満足する、そのような生き方から離れる、ということです。十字架の印を押されて神に従うこととは、十字架に至るイエスの生き方が示しているように、痛みが伴っても、リスクがあっても、出会う人、一人ひとりを大切にして生きる、愛に生きる、ということです。

しかも、「日々、自分の十字架を背負って」です。「日々」ですので、何か、特殊な条件の時だけに背負うのではなく、毎日ということです。愛に生きるとは、特別な時だけでなく日常においてです。日々、自分の十字架を背負うとは、イエスがそうであったように、他者のため、他者に支える者として、日々の暮らしを生きていくということでありましょう。
イエスは、一人一人が、自分の暮らしの中で、様々なリスクを伴っても、愛をもって仕えることを実践してほしい、それこそが、わたしについて来ることそのものなのだ、と語られたのでありました。

イエスは、今日の箇所の最初の方で、弟子のペトロに次のように問いかけています。「あなたがたは私を何者だというのか。」他の人たちは、自分をメシアだと理解しているようだが、あなたは、あなた自身は、私を何者だと思うのか。これは、今、イエスに連なる私たち一人一人に対する、イエスからの問いかけでもあります。私たちは、イエスに連なる者として、世間的な常識や価値観に流されることなく、日々、十字架を背負って、日々、愛に生きることを通して、イエスが示された道を追い求め続けるものでありたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


オオスカシバの幼虫

このページの先頭へ