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大学礼拝「隣人を自分のように愛しなさい」2021/11/25

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書 22章34~40節】

22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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 「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは当時のユダヤ教徒が毎日の朝夕に祈りの中で唱える言葉でした。ユダヤ教徒にとって間違いなく最も大切な掟です。つまり、イエスがこれを口にした時、誰もがそれは当然だと思ったということです。
しかしイエスは、続いて「隣人を自分のように愛しなさい」と述べ、これが最初の掟と同じように重要だと語ります。神を愛することと隣人を愛することは切り離せないというわけです。これこそがイエスの発言の最も特徴的なところです。そして、このことは当時のユダヤ教の指導者たちにとって大変厳しい批判となるものでもありました。

当時、ユダヤ教の律法には600以上の細かな掟があり、彼ら指導者たちはそれに従って生活をしていました。そして、彼らは、律法を守っているという自負がありました。それ故に、その裏返しとして、律法を守ることのできない人たちを軽蔑し、神から見放された者として、その人たちと交わることすらしませんでした。というのも、神が人間に対して要求していることは、律法の個々の掟を一つずつ忠実に守ることだと考えていたからです。だから律法を守らない人、守れない人は、神から離れた罪人だとしたわけです。宗教指導者たちは、いわば自分が神から愛されるために、律法の文言を頑なに守ろうとしました。また、隣人の範囲を自分たちと同じ価値観を持つ人たちに限定しました。

これと対照的なのがイエスでした。イエスは、律法から外れた罪人とされた人たち、つまり、神から愛されていないとみなされていた人たちに寄り添いました。イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と指導者たちに語った時、イエスは具体的な人々の顔を思い起こしていたに違いありません。それは、イエスが、ガリラヤで伝道を始めて以降、出会ってきた人たち、すなわち罪人としてユダヤ社会における「隣人」という枠組みから排除された人たちのことです。イエスは、そうした人たちの顔を思い浮かべながら、あの彼ら彼女たちこそが私たちの隣人なのだ、神を愛することとは、彼ら彼女たちを隣人として、神から愛されているかけがえのない人として大切にすることにほかならないのだ、と語っているわけです。

イエスは、十字架の死に至るまで、ガリラヤで出会った人々の苦しみや悲しみを放っておくことは決してされませんでした。だからこそ、イエスは、宗教的政治的指導者のいる中心地であるエルサレムで、彼らと対決せざるをえませんでした。それは、ひとえに、イエスが彼らを隣人として自分のように愛したからにほかなりませんでした。そのようにして、神がすべての人を愛しておられることを示されました。

神はすべての人を愛され、悲しみにある人、悩みの中にある人を決してそのままにすることはありません。全ての人ですので、もちろん、今ここにいる私たちも、含まれます。ですので、私たちは、隣人を自分のように愛そうとするその基礎として、自分自身が神に愛されているということを今日確認したいと思います。そして、イエスが当時の社会から排除されていた人たちを隣人として大切にしていかれたように、私たちも、誰一人排除することなく、隣人を自分のように愛する働きを、ご一緒に担っていければと思います。
(チャプレン 相原太郎)


フレーベルの折り紙

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