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大学礼拝「目を覚ましていなさい」2021/12/2

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書 24章36~44節】
24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

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この箇所は世の終わりがテーマになっています。どうして楽しいクリスマス前のシーズンに、こんな箇所を読むだろうと不思議に思われるかもしれません。クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日ですが、イエスの誕生と世の終わりには共通点があると教会では考えられています。その共通点とは、悲しみが喜びに変わること絶望が希望に変わることです。世の終わりがどうして喜びであり希望なのでしょう。

この箇所は、当時のユダヤ地方の政治的・宗教的な中心であったエルサレムの神殿が崩壊するということをイエスが語っている場面です。当時のユダヤの人々は神殿こそ神が住むところと考えていました。したがって、神殿が崩壊するとは、すなわち、信じていた神が消え去ってしまうこと、また、国もなくなり、自分たちの民族も終わってしまうことを意味していました。これは当時の人々の感覚としては、この世の終わりを意味するような出来事でした。したがって、神殿の崩壊などあってはならないことです。
その一方、ユダヤ地方はローマ帝国に支配されていました。そして、その圧制に苦しむユダヤの民衆とローマとは一触即発の状態でした。そんな中で、戦争が起きれば、ローマによって神殿が滅ぼされてしまうかもしれないとも思われていました。そんなこの世の終わりの時が来たら、自分たちはどうなってしまうのだろうとも考えられていました。
この世の終わりというと、恐ろしい終わりの時であり、それにびくびくしながら生きなければならない、と思うかもしれません。あるいは、どうせいつのことか分からないのだから、そんなことはできるだけ考えず、適当に日々を楽しく過ごせばよいと思うかもしれません。
しかし、イエスは、この世の終わりが近づいているのだから、「目を覚ましていなさい」と述べます。この「目を覚ましている」の原語は、「油断しない」とか「注意深くする」といったようなイメージの言葉です。それはすなわち、神から離れた生き方をしないようにする、という意味を持っています。私たちの世界は、この世の支配者を神のように思ってしまったり、あるいは、世俗社会の常識に押し流されてしまったりすることがあります。それらは神から離れた生き方と言えます。そうしたことがないように注意深く生きること、それが目を覚ましているということです。

なぜ、世の終わりに向けて注意深く生きることが求められるのでしょう。キリスト教において世の終わりとは、全てが終わってしまうということを意味していません。世の終わりとは、神の国が到来する、ということを意味しています。神の国の到来とは、神の支配が生と死を超えて完全に実現することです。そして、神の支配とは、別の表現をすれば、全てが神の愛で包まれることです。世界が神の愛で満たされるということです。したがって、世の終わりに向けて、つまり、世界が神の愛で満たされることに向けて、この世の権威や常識にとらわれずに、神の愛のもとで生きること、それが、目を覚まして生きる、ということです。

私たちの建学の精神は「愛をもって仕えよ」です。先ほどの文脈で考えれば、愛をもって他者に仕えることによって、世界が神の愛で満たされること、すなわち、この世の終わりを予め先取りして経験することでもあるということです。
この世界には、「愛をもって仕える」ことと反対の事柄で満ち溢れています。諦めたくなるような出来事が私たちの周りにも数多くあると思います。それは、イエスの時代もそうでありました。そんな中で、イエスはその生涯をかけて、十字架の死に至るまで、悲しむ人々、貧しい人々と共に住み、その涙をぬぐわれました。そのようなイエスとの出会いに、当時の人々は神の姿、神の愛の支配を見出したのでありました。イエスとの交わりは神の支配の先取りそのものでありました。

クリスマスとは、神の愛の実現の先取りとしての主イエスが到来する時です。であるからこそ、私たちも、この世界を諦めることなく、ただじっと現状に目をつぶって耐え忍ぶことなく、私たちの周りで起きている事柄に向き合って目を覚まして生きること、すなわち愛をもって仕えること、そのことを通して、来るべきクリスマスの喜びの時を待ち望みたいと思います。(チャプレン 相原太郎)


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