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大学礼拝「私の❝たからもの❞」2022/1/6

カテゴリー:大学礼拝

【コリントの信徒への手紙一 12章4~11節】
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

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私は柳城に勤めた最初の年に東日本大震災の話しをさせてもらい、今日はこうして、柳城での最後の年に話す機会が与えられました。このような配慮を有難く思います。

さて、最近思っていることですが、こうして年を重ねてくると、自分の時間とか人生に関する感覚というか考え方が変化していることを感じます。例えば、時間の経過が加速度的に速く感じたり、人生のゴールを想定してゴールから物事を考えたりするとかです。また、「年寄りの繰り言」と言われる通り、年を取ると、同じ話や昔話を何度も繰り返すようになるのですが、それは死というものを意識するような年齢になると自分の人生の意味を考えるからだと心理学的に説明されていて、ごく自然なことなんだと自分でも納得しています。ちなみにエリクソンはこの現象を「老年期における自我の統合」という言葉で表現しています。さらに、人には「レミニッセンス・バンプ」とか「記憶のこぶ」といって、強く記憶に残っている時期があります。もちろん最近のことは誰でも良く覚えていますが、10代後半から20代の思春期・青年期の頃を特に良く思い出すようです。たとえば、認知症の方でも自分が輝いていたこの時代に戻ることがあります。

ということで、私自身も今日の話しのテーマを「私のたからもの」にして、自分を振り返ってみたいと思った次第です。

私は子どもの頃から「人は使命を持って生まれてくる。では、自分の使命は何だろう、どう生きたらいいのだろう」と考えるようになり、信念とか使命という言葉に憧れていました。そんな思いで自分の道を長年探しながら、私は多くの人と出会い、豊かな時間をいただきました。というのも、私は、たまたまですが、色々な学校で学び、いくつかの町に住み、多様な職場、特に看護・保健・介護の分野、つまり対人援助職という分野で働く過程で、多くの人と出会い、様々な方の人生に触れながら豊かな時間を過ごすことができたのです。これが私のたからものだと今では思っています。

そういう中で、私は自分の使命として看護の道を最初に求めましたが、看護学生になっても自分の道に確信が持てなくて悩んで別の道を探したこともあります。それでも、看護の最初の実習が始まり、その時出会った忘れられない患者さんがいます。血液内科に再生不良性貧血で入院していた若い重症患者さんです。廊下側のベッドにいて、私たちにさわやかな笑顔を見せ冗談も飛ばすような方でしたが、突然次の日にそのベッドが空いていたのです。10代後半で、それまで死に向きあったことのない私には非常にショックでした。また、その実習で、必修ではない解剖にも立ち会ったのですが、解剖室に横たわっている人は私には蝋人形にしか見えず、うまく言えませんが、解剖の最中は悲しいなどといった感情がわいてこない状態でした。でも、解剖が終わったときに、実習のメンバーの一人が泣き出し、それがきっかけになって、私にも一気に感情が戻ってきて、解剖されたのは亡くなった人だったんだとやっと感じることができて、涙が出ました。

その後も、人の生とか死について答えのない問いが私の心に残りましたが、看護の実習を重ねるうちに、体育教師になるのが夢だった白血病の中学生とか、1型糖尿病で幼少期からおやつを我慢してきた若い女性とかに出会いながら、この道でよかったんだなと自然に思えるようになりました。ただ、私には病院よりも地域で働きたいという思いが強かったので、保健師の資格を取ったりもしました。ここにいる皆さんも対人援助職に就こうとしているわけで、これから色々な人に出会うと思います。私も次の場所でどんな人と出会えるのかが楽しみです。

最後に皆さんへお伝えしたいのは、無力感に陥ったり、理不尽だなと思うような時の対応についてです。そんなケースに出会った時には、そのままを受け入れて耐えていくことも時には必要だと、私は最近感じるようになりました。自分の道がこれでよかったと思えるなら、耐える力も生まれるということでしょうか。実は、この力には名前がついていることを私は数年前に知りました。それはネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える力)という言葉です。本日は、この言葉でもってお話を終わりたいと思います。

(名古屋柳城短期大学 教授 芝田郁子)

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