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終業礼拝2「愛はすべてを完成させるきずな」2022/1/12

カテゴリー:大学礼拝

【コロサイの信徒への手紙 3:12~14】
3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

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 本学の今年の聖句は、「愛は、すべてを完成させるきずな」でありました。この「きずな」という言葉を聞くと、何かその人と仲良くなる、あるいはその人のことを好きになる、というようなイメージを持つかもしれません。
しかし、「きずな」あるいは「愛する」というのは、好き嫌いといったことではなくて、相手の存在を大切にするということです。逆に、「きずな」、「愛する」の反対語とは、嫌いになる、ということではなくて、関わりを持たないこと、無視すること、無関心でいること、無責任であること、ということであると思います。

私たちは、人と出会うとき、この人は自分には関係ない、あの人は部外者だ、と判断してしまうことがよくあると思います。そして、自分に直接関係がある人、あるいは自分に役立ちそうと思う人、そんな人ばかりを大事にしてしまいます。だとすると、結局、人との関係は自分中心であり、自分の中に閉じているということであり、自分のためでしかなくなってしまいます。相手に関心を持っているようで、実は関心は自分にあり、相手そのものには無関心であったりします。そのような関係は「きずな」とは言えません。
「きずな」とは、自分に利益があろうがなかろうが、出会った人のこと、あるいは隣人に、損得勘定抜きに、関心を持つことだと思います。そして、好き嫌いとは無関係に、一人一人を、かけがえのない人として理解すること。そうした中での関係こそが、「きずな」であり、柳城が大切にしている、「愛」ということでありましょう。

聖書で示される神が、まさにそのような方です。神は、その存在全てをかけて、損得勘定抜きに、私たちに関わってくださいます。
神の子であるイエスは、自分の立場が、そして自分の命そのものがどうなろうとも、この世の誰からも見向きもされない人に常に寄り添い、徹底して大切にされました。そして、最後には、十字架によって命を落とされ、神の子でありながら、苦しみと死を経験されました。

そのようにして、神は、世界のあらゆる人を一人残らず、部外者にすることなく、かけがえのない人として大切にしておられます。そのような、神からの愛を受けている者として私たちは、出会う人、隣にいる人、一人一人を、損得勘定抜きに、関心を持ち、大切にし、愛すること。そのようにして、きずなを深めていくことができたらと思います。  (チャプレン 相原太郎)


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