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大学礼拝「3人の博士」2022/12/28

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書2章1~12節】
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

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 イエスが生まれたとき、3人の博士たちが、新しい王が現れることを知らせる大きな星を頼りに長い旅をしました。ユダヤ地方に着いた博士たちは、新しい王に会うために、まずその地方の王の宮殿にいきました。

博士たちは、そこに住むヘロデ王に「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにいますか」と尋ねます。王に向かって「新しい王はどこですか」と聞いたわけです。ヘロデ王は、自分が築いてきた王としての立場が奪われるかもしれないと、不安になります。

そこでヘロデ王はユダヤの学者たちを集め、新しい王なる人物はどこで生まれると言われているのかと尋ねます。学者たちは、聖書にはベツレヘムで生まれると書かれています、と答えます。

そこでヘロデ王は博士たちをベツレヘムに送り出しました。新しい王がいかなる人物なのか、いわば偵察に出したわけです。後にヘロデ王はその地方の幼な子たちを皆殺しすることになりますので、博士が新しい王なるものを見つけ出したら、直ちに殺そうと思っていたわけです。

ベツレヘムに着いた博士たちには、意外な光景が待ち受けていました。そこはヘロデ王がいるような王の宮殿ではなく、貧しい寒村の小さな家でした。そして中に入ってみると、そこにいたのは若き母マリアと父ヨセフ、そして幼子イエスでした。

博士たちはその地方の権力の頂点にいるヘロデ王から送り出されてベツレヘムに向かいました。博士たちはユダヤの王の姿がどういうものか、実際に会って理解しているわけです。そして、そのヘロデ王を超えるような、王の登場を想定したわけです。

ところが、そこにあったのはただの家でありました。そして、中に入ってみると、若い母親と父親、そして幼子がいるだけでした。普通に考えれば、これが本当に王なのかと思うかもしれません。馬小屋で、貧しい若夫婦の横で粗末な布にくるまって、ただ寝ているこの幼子が新しい王なのだろうか、と思いそうなところです。

しかしながら、博士たちはそのような貧しく無力な幼な子との出会いを大いに喜びました。そして、その幼子に彼らの宝物である黄金、乳香、没薬を贈り物として差し出したのでした。これらの宝物は、単に高価なものというだけでなく、彼らの商売道具でもありました。生活の糧を差し出すということは、幼子に出会ったことによって、それまでの生き方を根本的に転換した、ということを意味します。

博士たちは星を頼りに、言い換えれば、神の呼びかけに応えて、新しい王を探し求めてこの遠い地までやってきました。しかし、そこで出会ったのはこの世の頂点に立つ権力者ではなく、何もできない貧しい幼な子でした。博士たちは、このような意外な出会いを通して、それまで持っていた価値観が崩れ去り、彼らの生き方に大きな方向転換が起こったのでした。

博士たちは、当初、新しい王と接近することによって、何か自分にとって利益になること、あるいは、何らかの見返りのようなものを期待していたのではないかと思います。新たな救い主に近づくことによって、社会でのポジションを高めようと思っていたかもしれません。

しかし、博士たちの前に現れた救い主は、強さも豊さもない、無力な者でありました。期待とはあまりにも異なる救い主との出会いに、博士たちは、救い主に対して自分中心の見返りを求めることが根本的に間違っていることに気がされたのでありましょう。だからこそ博士たちは最も大切にしてきたものを、幼子への贈り物として手放すことができました。

私たちは、人と接するとき、どうしても自分の期待に沿って相手が何かしてくれることを期待しています。あるいは、自分へのメリットや何らかの見返りのようなものを期待して、人と近づこうとしてしまいがちなところがあると思います。それは、神に対しても同様かもしれません。神に対して何らかの見返りを期待してお祈りしていることもあると思います。しかしそのような見返りとは、大抵自分だけのため、あるいは自分中心だったりします。

博士たちの物語が私たちに教えてくれることは、私たちが自分への見返り、自分へのメリットだけを求めることを超えていくことにこそ本当の喜びがあるということです。そして、そのようなところにこそ、神様の愛の働きがある、ということでありましょう。       (チャプレン 相原太郎)


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