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大学礼拝「貧しい人は幸い」2023/10/18

カテゴリー:大学礼拝

【ルカによる福音書 第6章20~26節】
6:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
6:21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
6:22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
6:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
6:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
6:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
6:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

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「貧しい人々は幸い」というのは、普通に考えれば、とても受け入れ難い教えです。貧困は、やはり克服すべき事柄です。飢えている人には、食べ物が与えられなければなりません。泣いている人の涙は、ぬぐわれなければなりません。
そして、貧しい人ではなく富んでいる人、飢えている人ではなく満足に食べることのできる人、泣いている人ではなく笑っている人、そういう人たちこそが幸福だ、と思うのが自然であると思います。

聖書の中で貧しい人とは、文字通り衣食住に事欠く人たちでした。イエスの周りに集まってきた人たちは、貧しく、あるいは社会の隅に追いやられ、神様からも見放されたと考えられていたような人たちでありました。そんな彼らに対して、皆さんこそが幸いなのだ、皆さんのところにこそ神が共におられるのだ、と語ったわけです。

イエス自身も、貧しい大工の息子として生まれます。そして、自ら持たざる者として育ち、貧しい者、社会から見放された者、罪人とされた人たちと共に暮らしました。そのようなイエスが、決死の思いでイエスのもとに集まってきた貧しい人たち、困難の中にある人たちを目の前にして、あなた方こそ幸いなのだ、神は決して見捨てることはないのだ、神の国はあなたがたのものだ、あなたがたのものにならなければならないのだ、と宣言したのでありました。
そして、イエスは、その言葉通り、彼らと共に生涯を送り、人生をかけて、生き方として、そのことを示したのでありました。「貧しい人々は幸い」というイエスの発言は、自分がどうなろうとも、あなたがたといつも一緒だ、という決定的な覚悟と決意の表れでもありました。

そもそも、すべての人間は、本来ひとりで生きることはできません。助けを求めなければ暮らしが成りません。とりわけ困難の中にある人は、そのことを、その弱さを、身にしみて理解しています。貧しさゆえに、自分が不完全であることを、弱い存在であることを、お互いに頼って生きる必要があることを、知っています。イエスのいう「幸い」とは、そのような人と人のつながり、愛をもって仕える関係の中にこそ、神様はいてくださる、ということであると思います。

このイエスのメッセージは、私たちにも向けられています。イエスは、その生涯を通して、自ら痛み、苦しんだ者として、私たちの悲しみ、不安、弱さ、不完全さを知っておられます。神様は決して見捨てることはない、神は必ずあなたとともにおられると語っておられます。
今、それぞれの生活において、さまざまな不安、悲しみ、疎外感、孤独に苛まれることがある方もいらっしゃるかもしれません。イエスは、そうした、一人一人の具体的な苦しみの中に、自ら低くなって、身を挺して、一緒にいてくださいます。神様が、共におられることを覚え、人と人との愛のつながりの中で歩んでいくことができればと思います。(チャプレン相原太郎)


ヒガンバナ

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