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大学礼拝「スケープゴート ~聖と俗、義と悪~」2024/5/8

カテゴリー:大学礼拝

【レビ記16章20~22節】
16:20 こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、
16:21 アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。
16:22 雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。

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はじめに
 どうも皆さん、「いつくしみ」!
今日は、僕一人で、司式とお話の両方を担当させていただいております。後藤チャプレンは、教会関係のご用事のため、本日はお休みです。こういう日もありますのでね、ぜひとも宗教委員の学生さんたちには、積極的にご協力いただきたいと思いますし、宗教委員じゃなくても、「手伝いたい!」と思ってくれる人がいれば、遠慮なく、声をかけてくれたら嬉しいなと思っています。

5月の聖歌について
 さて、今日ははじめに、キリスト教の「聖歌」のお話をさせていただこうと思います。5月に入って、新しい聖歌を歌うようになりましたね。先月は、『いつくしみ深き』(入学式のときにも歌いましたよね)、そして『グロリア、グロリア』という二つの聖歌を、4月の月間聖歌として歌っておりましたけれども、今月は、先ほど歌いました『聖なる 聖なる』という曲と、それともう一曲(これは礼拝の最後で歌いますが)、564番の『来ませ来ませ(오소서 오소서)』という聖歌を、今月の聖歌として歌っていくことになります。
『聖なる 聖なる』のほうは、世界的にメチャクチャ有名な聖歌です。まぁ、少なくとも“我々の業界”では、おそらく、知らない人はほとんどいないと言っても過言ではないほど、超有名な聖歌なんですよね。19世紀にイギリスで作られて以降、瞬く間に世界中へと広がっていき、今や、様々な国の聖歌集・賛美歌集に収録されて、歌い継がれるようになっています。
一方で、564番の『来ませ来ませ』という聖歌に関しましては、これは恥ずかしながら、僕も知りませんでした。この聖歌集を使っている聖公会の教会の方々でも、歌ったことがない人は多いと思います。
皆さん、よかったら聖歌集を開いていただけるでしょうか。564番です。この564番の楽譜を見てみますと、日本語の歌詞の下に、英語と、そして“韓国語”の歌詞が載っていますよね。皆さん、“ハングル”読めます?僕は、ちゃんと勉強したことがないので、未だに読めないのですけれども……、学生の皆さんはね、もう、バリバリの韓国ブーム世代ですからね。ひょっとすると、読める人も何人かおられるかもしれません。
この『来ませ来ませ』という聖歌、元々のタイトルを韓国語で『오소서 오소서(オソソ オソソ)』と言うのですけれども、この聖歌は、韓国を代表する作曲家の一人、이건용(イ・ゴニョン)という人によって作られました。それを、日本語に翻訳したものが、このように日本の聖歌集の中に収録されているというわけです。
キリスト教の聖歌というのは、決して“アメリカやヨーロッパだけ”で作られてきたわけではありません。まぁ、「キリスト教」と聞きますと、つい“欧米の宗教”というようにイメージしてしまいがちだと思いますし、実際のところ、キリスト教の「聖歌」と言えば、それこそ、先ほど歌った『聖なる 聖なる』のような、西洋、英語圏で作られた歌を第一に想像してしまうものではあるのですけれども……、しかし、本当はそうじゃない。キリスト教の「聖歌」「賛美歌」の中には、実は、古今東西、いろんな時代の、あらゆる国や地域において、様々な言語や音楽的感性をもとにして作られた曲が、たくさんあるのですよね。
もちろん、日本人のクリスチャンが作った聖歌も、いっぱいありますし、そしてこのように、韓国で作られた聖歌もある――。この『日本聖公会聖歌集』には、韓国の聖歌が全部で5曲(284、324、514、534、564)、収録されています。そのほかに、アジアで生まれた聖歌だと、フィリピンのタガログ語とセブアノ語、そして中国語の曲が載っています。正直言うと、もっと、いろんな国の聖歌を採用しても良かったんじゃないかなとも思うのですが……、とにかく、キリスト教の「聖歌」というのは、一概に「これが聖歌だ」と言えるようなものではなくて、非常に多種多様なものなのだということを、ぜひ皆さん、これを機に覚えておいていただければと思います。

アジア祈祷日を覚えて
 さて、それにしましても、今回どうして、564番の『来ませ来ませ』という聖歌を“5月の聖歌”として選んだのかと言いますと、これにはちゃんと理由があります。
キリスト教の世界には、社会的な活動に取り組んでいる数多くの組織があるのですけれども、その中に「CCA(アジア・キリスト教協議会)」という、日本を含めたアジアのキリスト教のグループがあります。日本の聖公会も加盟しているのですが、そのグループが、毎年この5月頃に「アジア祈祷日」という日を覚えましょう、という呼びかけをしているのですね。
「アジア祈祷日(Asia Sunday)」というのは、アジアの様々な国や地域の現状と課題、そして、そこに住むキリスト教の仲間たちを覚えて、特別な礼拝をささげる日とされています。アメリカやヨーロッパなどの国々とは違って、アジア(特に、南アジアや東南アジア)という地域には――テレビなどでも度々取り上げられておりますように――、非常に多くの問題が山積しているのですよね。食料、飲み水、住居、仕事、医療、治安、エネルギー、ジェンダー、そして宗教……などなど。すべての人が安心して暮らせる社会とはほど遠い状況が、各地に広がっています。
殊に、宗教(キリスト教)に関して言えば、仏教やイスラームが中心的な宗教とされている中にあって、キリスト教の信者たちは、いわゆるマイノリティ(少数派)として生きることを余儀なくされています。そのため、そこではやはり、無理解とか未知に対する嫌悪感から、差別や迫害ということが行われている。それによって、アジアの少数派であるキリスト教徒たちは、常に安全が脅かされ続けているのですね。
そのような、アジアの国々の平和を祈るために、「アジア祈祷日(今年は5月12日)」という日が設けられている――。そのことを、皆さんに覚えていただきたいなと思って、それで今月は、韓国の『来ませ来ませ(오소서 오소서)』という聖歌を“月間の聖歌”として選ばせていただいたというわけなんですね。

スケープゴート
 2024年という今の時代、この日本という国は、アジアという地域にあって、中国や韓国とともにアジア全体の経済をリードする、そういう重要な立ち位置にあります。また、アジアの多くの国々からは、たくさんの若い方々が、仕事を求めて日本へとやって来られて、今や、じつに様々なシーンで、ベトナムやフィリピンを中心とした外国人労働者たちの方々の働きをお見かけするようになりました。逆に、日本のほうも、あらゆる企業が、たとえば、タイやシンガポールなどといったアジアの国々に進出しています。それは、人件費削減のために海外工場を建てるという“一昔前の考え方”に基づくものではなくて、経済成長が進むアジアの国々を舞台に勝負をしていく――、つまり、それぞれの国のマーケットを開拓していく――という方針を掲げて、アジア進出が行われているということなんですね。僕は経済の専門家ではないので、これ以上のことは分かりませんけれども、しかし、これから先も、日本とその他のアジアの国々が、互いに協力し合いながら、共存共栄を目指していくべきだ……というのは、言うに及ばない、当然のことであろうと思います。

しかし、その上で、この日本という国に住む僕らが、絶対に心に留めておかなければならないことがあります。それは、日本にはかつて、アジアのあらゆる国に対して侵略行為をおこない、そこに住む大勢の人々の尊厳を踏みにじってきた過去がある、ということです。今回は時間の都合上、詳しくは触れませんけれども、僕らのこの国は、中国や朝鮮半島、さらには、先ほど名前を挙げたような東南アジアの国々にまで軍事侵攻を行い、各地で、様々な形での人権侵害を公然と行なってきたわけです。しかもそれらの行為を「アジア解放」と銘打って、「悪いのはアメリカだ、あるいは共産主義者だ」と喧伝しながら、自らを正当化していたのですよね。のような日本の手法は、まさに「スケープゴート」と言えるだろうと思います。

「スケープゴート」というのは、簡単に言えば、誰かを“悪役”に仕立て上げて(つまり誰かに責任を転嫁して)その人を断罪し、自分たちの正当性を保つことを言います。実は、今日の聖書の箇所として選んできた、旧約聖書の内容に由来しているのですよね。レビ記16章20〜22節。ここには、雄の山羊の頭に、すべての人の“罪”を移して、その山羊を町の外、何もない荒れ野へと追放する――という、古代の(呪術的な)儀式のことが書かれていましたけれども、古代の人々は、その儀式を行うことで、一年に一度、自分たちの“罪”をすべて無かったことにできると考えたらしいのですね。その山羊にすべての罪の責任転嫁をすることによって……です。日本でもよく聞く「スケープゴート」という言葉には、このお話から生まれたものなのですね。

おわりに
 かつての日本は、アメリカや共産主義者、また、日本政府の意にそぐわない者たちを、まさに「スケープゴート」として断罪しながら、主にアジアへの侵略戦争を続けてきました。そのことを、僕らは多少なりとも、学校で勉強したりして知識としては知っています。けれども、実はどこかで、過去のこと……、あるいは「昔の日本がやったこと」というように、今の自分たちとは関係ないこととして理解している部分があるのではないでしょうか。それはもしかすると、僕ら自身もまた、「過去の日本」を「スケープゴート」として自分たちから切り離して、それで歴史を清算したつもりになっていると言えるかもしれません。でも、それでは良くないと僕は思うのですね。今回の聖書のお話を読んで、「山羊の頭に罪を移したところで、罪がなくなるわけないじゃん」と、皆さん思われただろうと想像しますけれども、それと同じように、この現実の世界においても、人々の間から“罪”を簡単に消すことはできないんだよ、ということを、心に留めておきたいと思います。

このあと歌う、564番『来ませ来ませ』という韓国の聖歌。その歌詞には、「(神よ、私たちを)ひとつのからだに してください」というメッセージが込められています。日本と韓国、また、日本とアジアの国々が「ひとつのからだ」になるためにはどうすれば良いのか。歴史を真摯に見つめ、反省すべきことを反省し、愚かな行いを繰り返さないこと。そして、愛をもって異なる存在同士、助け合い、支え合うこと。そのような関係を続けていくことで、少しずつ、また少しずつ、国と国、人と人とが「ひとつのからだ」を作り上げていくことができるのではないかと僕は願っています。

……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。    (チャプレン 柳川 真太郎 )

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