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大学礼拝「学ぶことは出逢うこと、出逢うことは学ぶこと」2019/4/23

カテゴリー:大学礼拝

【知恵の書6:12-18】
◆知恵はいかなるものか
6:12 知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、/探す人には自分を示す。
6:13 求める人には自分の方から姿を見せる。
6:14 知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに/自宅の門前で待っている知恵に出会う。
6:15 知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、/知恵を思って目を覚ましていれば、/心配もすぐに消える。
6:16 知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、/道でその人たちに優しく姿を現し、/深い思いやりの心で彼らと出会う。
6:17 教訓を真心から望むことが知恵の始まりであり、
6:18 教訓に心を配ることは知恵への愛である。この愛は知恵の命じる掟を守ることである。掟を守ることは不滅を保障し、
(6:19 不滅は人を神に近づける。)

10年程前、私が柳城短大のチャプレンに就任した春の出来事です。その当時から、「柳城の学生はしっかりと挨拶ができる」と評判でした。その評判を聴いて、私自身もその姿に見習おうと、勤務初日から登下校の際、通学路ですれ違う学生ひとり一人と挨拶を交わしていました。

そのような毎日を数日程過ごしたある日の夕方、私はいつものように下校時の学生たちと通学路ですれ違い、いつものように「さようなら!!」と声を掛けました。すると、その日は、ここ数日間とは異なる学生たちの反応が返ってきました。

ある学生は一瞬、驚いたような顔をして「さっ、さようなら…」と戸惑いながら挨拶を返しました。ある学生は怪訝そうな顔をして、そのまま無言で去っていきました。また、ある学生たちは、キョトンとした顔をしながら挨拶を返し、すれ違った後で「誰、あの人?!」、「知らないんだけどぉ~」とやり取りする声が背中から聞こえてきました。そして、ある学生たちは、同様にすれ違った後で、「誰、あの人?! ヤバくない?」と笑いながら会話をしていました。

私は、ここ数日間とは異なる学生たちの反応に違和感を覚えながらも、“チャプレンになって、まだ数日だし、私のことを知らない学生がいても当然”と思いながら歩を進め、短大の角にある交番近くまで来て、ある事実に気が付き、“ハッ”としました。

柳城短大の学生たちであれば、交番の角を曲がって姿を現わすはずなのに、先ほどから、ずっと私が声を掛け続けていた学生たちの列は桜山方面からまっすぐ続いていたのです。

なんと、私は、その日、何か特別な行事でたまたまその道を集団下校していた他大学?の学生に、一人でひたすら声を掛けていたのです。その事実に気付き、いつもとは違う学生たちの反応全てが理解できました。

顔から火が出るくらいの恥ずかしさを感じたのと同時に、大切なあることに気が付きました。私は、その学生たちの違和感のある反応に対し、“まだ私のことを知らない学生がいても当然”と勝手に解釈していましたが、実は、私自身も柳城短大の学生のことを何も知っていなかったということを痛感したのです。何も知らないからこそ、柳城短大の学生と他の大学の学生の区別も付かなかったのです。“自分自身は学生たちのことを何も知りもしないのに、そのことにも気づかず、自分自身は学生たちに知られているつもり”で挨拶をしていたのです。

そのことに気付き、チャプレンとしての私自身の学生たちとの関わり方が決まりました。私は翌日から、全ての学生たちの顔と名前を覚えるようにし、学内で可能な限り声を掛け、その会話の中で学生たちひとり一人の性格や関心、好きなことや得意なこと、学びたいことやしたいこと、そして、なぜ保育士・幼稚園教諭を目指したのかなどを知り、また、私自身のことも話すようにしました。

そのような感じで学内をウロウロしている私に対し、最初、学生たちは「チャプ~、いつもフラフラしてるね。暇なの? 礼拝以外、やることないの?!」といった反応でしたが、半年も経つと、「チャプだぁ! ちょっと、話し聴いて」、「一緒にバスケしよ~」、「また礼拝行くからね!」と関わりが大きく変わっていきました。

“自分自身は学生たちのことを何も知りもしないのに、そのことにも気づかず、自分自身は学生たちに知られているつもり”でいた私が、学生たちひとり一人のことを心から知ろうとし、自分自身も学生たちひとり一人に知ってもらおうと努力した時、そこから出逢いが始まるということに気が付きました。

お互いのことを知り合おう、学び合おうとすることから、真の出逢いが始まるのです。“学ぶことは出逢うこと、出逢うことは学ぶこと”なのです。

柳城短大が、その学内生活の中で礼拝の時間を大切にしているのは、実は、学生の皆さんひとり一人に神様のことを知り、学び、そして、神様と出逢ってほしいからなのです。では、“なぜ、神様と出逢ってほしいのか?”…。それは、神様が私たちを愛している、その愛し方、その愛し方を学び、その愛し方で、これから先、皆さんが出逢うであろう子どもたちを愛してほしいからなのです。神様と同じ愛し方で、皆さんには子どもたちを愛してほしい。だから、皆さんには神様と出逢ってほしいのです。

私は学生の皆さんのことを今は何も知りませんし、学生の皆さんも私のことを今は何も知りません。これからは、色々な関わりの中で、お互いのことを知り合い、学び合い、そして、出逢っていきたいと思います。そうすれば、再び、私が間違えて他の大学の学生に声を掛けることもありません。

そして、何よりも、私との関わりの中でも、少しでも皆さんが神様と出逢うことができればと願っています。(名古屋聖マタイ教会 司祭 下原太介)

 

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