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大学礼拝「平和を与える」2020/10/29

カテゴリー:大学礼拝

【ヨハネによる福音書14章27節】
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

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「平和」という言葉でどんなことをイメージされますでしょうか。一般には戦争のない状態、ということが言えると思います。そうしますと、日本は、1945年以降、平和だ、ということになります。

しかし、本当に平和だと自信を持って言えない、ということも、皆様の実感としてあるのではないかと思います。世界では、いつもどこかで戦争がおきています。そして日本も間接的にかもしれませんが様々な形で戦争にかかわってきています。

また、戦争という直接的暴力に関係するものに加えて、私たちの暮らしの中には、差別や偏見、格差や貧困などの問題があります。こうした事柄を平和学では構造的暴力と呼んでいるそうで、直接的暴力である戦争と同様に、いずれも暴力であるとして問題提起しています。

そう考えますと、私たちの身の回りは、平和どころか、暴力にあふれていると言えます。

先ほどお読みしました聖書で、イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と語っています。この言葉をイエスが語ったのが、イエス自身が逮捕されて十字架で処刑される直前のことでした。イエスは、自分自身がまさに平和とは反対の、残酷な暴力行為に受けるという緊張状態の中で、この発言をしたわけです。

暴力を受ける中でイエスが語った「平和を残す」とは、いかなる意味でしょうか。

イエスは、この言葉に続いて、次のように言っています。「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。

イエスが実現されようとする平和とは、世間一般に考えられている平和とは、まったく違うのだ、というわけです。

イエス時代、その地域は、強大なローマ帝国によって社会の秩序が保たれていました。それを、ローマによる平和と呼ばれていましたが、それは端的に言いまして、力によって押さえつけられたカッコつきの平和でした。イエスの暮らしていた地方も含めて、ローマ帝国内には、差別や貧困など、先程申しましたような構造的暴力が溢れかえっていました。こうした問題を、いわば、強い力によって抑え込むのが、ローマの平和でした。

これに対して、イエスはどのような平和を求めたのでありましょう。その大きなヒントが、今日イエスが話をしている直前に起きた出来事の記録です。それは、イエスが、最後の晩餐の直前に弟子たちの足を洗った、という出来事です。この出来事は、愛をもって仕えるということについて、イエスが示したシンボリックな行為でありました。

弟子たちの足とは、どんな足だったでありましょうか。イエスの時代、舗装などありません。言うまでもなく車などはなく、どこに行くにも歩きでした。また、スニーカーもありません。サンダルのようなもので道を歩いていましたし、様々な作業も同様ですので、足は常にかなり汚れていたはずです。したがって汚れた足を差し出すのは、弟子たちもかなりのためらいがあったようです。こんな汚い足を差し出したらイエスに嫌われてしまうのではないか、と心配したのかもしれません。しかし、イエスは弟子たちに強く願って、彼らの汚れた足を洗いました。

イエスがこのことを通して伝えたかったこととは、イエス自身のへりくだった姿勢を示すということよりも、弟子たちが、自分の弱いところ、欠点、見せたくないところを隠さず、あるがまま差し出すことを促すことにあったように思います。弱い自分を隠すのではなく、差し出すこと、何かを握るのではなく、、手を離して委ねることそれは相手への信頼なしにはできません。

戦争という直接的な暴力も構造的な暴力も、何らかの強さを前提としたものです。そこにおいては、自分の財産や名誉、地位といった強さを守ること、それが平和だとみなされます。しかしながら、イエスの平和とは、こうした強さを前提とした平和とは真逆で、弱さを前提としたものです。自分の弱さを認め、またそれを隠さず、お互いにその弱さを補いながら生きること、つまり互いに愛をもって仕えること、それこそが、イエスが与える平和でありました。

お互いの弱さを補い合い、仕え合うことを通して平和を求めてまいりたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


アベリアとヤマトシジミ

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