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大学礼拝「人から出て来るものこそ、人を汚す」2021/6/10

カテゴリー:大学礼拝

【マルコによる福音書7章14-23節】
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
聞く耳のある者は聞きなさい。
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

今読んだ7章の冒頭に、イエスと、当時の宗教指導者であったファリサイ派との激論が出てきます。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の教えを人々が日常生活の中で極めて厳格に守ることを求めていた宗教指導者たちのことです。
そのファリサイ派が、イエスに対して、あなたたちのやっていることは問題だ、と指摘します。何が問題かというと、イエスの弟子たちが手も洗わずに食事をしているということでした。これは単に食べる前には手を洗いましょう、という衛生上の事柄ではありません。そんなことだったら激論にはなりません。これの何が問題かというと、ユダヤ教において食事の前に手を洗うことは、宗教的な意味での汚れを防ぐためでありました。
例えば神社に行くと参拝の前に水で手を清める習慣があります。水で手を清めることが宗教的な意味を帯びている、という点では似ていますが、これをしなかったからといって神主さんの逆鱗に触れるようなことはないと思います。しかし、ファリサイ派にとって、食事の前に手を水で清めるというものは、大変に重要な宗教的な意味を帯びていました。
ところが、イエスの弟子たちの中には、それをせずに食べていた人たちがいました。そこで、ファリサイ派の指導者たちは、そのことを批判したのでした。

しかしイエスは、そのように指摘するファリサイ派を偽善者だと批判します。ファリサイ派の人々は、さまざまな規則をきちんと守ることによって、汚れから身を守ることができると考えていました。そして、汚れから身を守る人間と身を守ることができない人間、言い換えれば、清い者と清くない者、正しい人と、正しくない罪人、というふうに、人間を線引きしていました。ファリサイ派は、そのように人間を分離することによって、自分たちが清い存在、特別な存在、いわば神に近い存在になろうとしていました。
こうした考え方から、ファリサイ派は、自分たちがいつも清さを保つために努力している一方、イエスの弟子たちは汚らわしい人たちだと捉えます。そして、そのような汚れた人たちが、民衆から人気を得ていることを問題視し、自分たちの優越性を守りたい思いから、弟子たちを見下した発言をしたのでありました。

イエスは、そのように人間を区別し、優越感を保ち、差別するようなファリサイ派の振る舞いを批判したのでありました。というのも、イエスの神理解、宗教理解はファリサイ派とはかけ離れているものでした。すなわち、神は、そのように人間の振る舞いに基づいて、人間の種類を清い者と汚れた者に分類したりすることは決してない、ということです。全ての人々は神の子であり、神は全ての人を愛されている、ということです。

「人の中から出てくるものが、人を汚すのである」という言葉は、「群衆に対して語った」と書かれています。この言葉はファリサイ派に対して語ったものではなく、ファリサイ派とイエスの激論を周りで見ていたガリラヤ湖畔の人たちへのメッセージとして語られたものです。
ガリラヤ湖畔でイエスの周りに集まっていた人々は、貧しさや不治の病に苦しんでいた民衆たちでした。ファリサイ派から見れば、宗教的な清さから遠い人々、弟子たちと同様、「汚れた人々」とされた人々でした。その人々は、ファリサイ派が主張していた宗教的な清さを保つための様々な戒めを守ることもできず、自分たちは汚れている、自分たちは神から見放された者だと思っていました。

イエスはそんな民衆たちに、断じてそれは違う、と宣言します。それが、「外から人の中に入るもので、人を汚すことができるものは何もない」ということです。

あなたたちは様々な要因で汚れてしまったと思っているかもしれない。自分はダメな人間だと思っているかもしれない。例えば、貧しさによって、病によって。しかし、そうしたことでみなさんが汚れることはないのだ、すなわち、神から見放されることはないのだ、ということです。あなたは汚れていない、あなたは神から愛されている。このように民衆たちを祝福されるのでした。このガリラヤ湖畔の民衆たちへのメッセージは、私たちに対するメッセージでもあります。
日々の生活の中で、あるいはこの複雑な社会の中で、自分は生きている価値がないと感じたり、自分は役に立たない、ダメな人間だ、と思ってしまったりすることもあるかもしれません。人間関係に疲れ、どうせ自分なんてロクなものではない、と思ってしまうことがあるかもしれません。
そんな私たちに、イエスは言われます。「外から人の中に入るもので、人を汚すことができるものは何もない」。あなたは汚れてなんかいない、なんびとも、あなたを汚すことなどできない。誰が何と言おうと、あなたはそのままで神から愛されている。

私たちは、このようにしてイエスによって祝福されていることを覚えたいと思います。そして、私たちも、隣人を社会の価値基準や世間の目に基づいて判断したりせず、その人をそのまま丸ごと受け入れ、豊かな交わりを求めていきたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


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