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大学礼拝「わたしはぶどうの木」2021/6/17

カテゴリー:大学礼拝

【ヨハネによる福音書15章1-10節】
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 

キリストと私たちがぶどうの幹とその枝のようにつながっているというたとえですが、この「つながっている」と訳されている単語は、「留まる」とか「宿る」といったニュアンスを持つ言葉です。そこから考えますと、私たちと神がつながっている、というのは、私たちが神に留まっている、神の中に宿っている、というイメージです。あるいは、神が私たちに留まっている、神が私たちの中に宿っている、ということです。言い換えれば、私たちが神の働きの中に生かされている、あるいは神自身が私たちの間に宿って、働いておられるということです。

では、ここでイメージされている神の働きとは具体的にどのようなものでしょうか。このぶどうの木のたとえを話す直前のイエス自身の行動が、そのことを端的に示しています。それが、イエスが弟子の足を洗う、という出来事です。
その出来事は、イエスが十字架で処刑される直前の「最後の晩餐」の時のことだったのですが、イエスは、これまで一緒に過ごしてきた弟子たちの足を洗い始めます。当時、他人の足を洗うという行為を実際にしていたのは奴隷たちでした。今でも、他人の足を洗うということは、なかなか起こりえないことだと思いますが、当時としては、さらに屈辱的な行為でした。
イエスの時代、舗装などありません。どこに行くにも歩きでしたし、もちろんスニーカーもありません。素足にサンダルですので、当然、足はかなり汚れていました。そんな汚れた足を差し出すのは、弟子たちもかなりのためらいがあったようです。しかし、イエスは、半ば強引に弟子たちの足を洗ったのでした。そして、弟子たちに、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と告げます。
この足を洗うという行為でイエスが示したのは、単に足を洗うことによって謙遜とかへりくだりを示すということではありません。そうではなく、自分の立場やプライド、損得勘定を手放して相手と向き合う、ということです。相手に対して自分の弱いところや欠点、見せたくないところを隠さず、あるがまま差し出すということです。弱い自分を隠すのではなく差し出すこと何かを握るのではなく手を離して委ねることです。それは相手への信頼なしにはできません。そのようにして、お互いを大切にする、愛し合うこと、それこそが神の働きの具体的な中身です

私たちは、自分の立場やプライドを守ったり、他人を支配しようとしたりしてしまうことがあると思います。あるいは逆に卑屈になったり、自分をただただマイナスに捉えたりしてしまうこともあると思います。
そのような自分の嫌な部分、汚い部分も含め、イエスは、私たち自身を丸ごとそのまま、受け止めてくださいます。イエスに自分をよく見せる必要もありません。そしてイエスは、私たちにも他者の足を洗うこと、すなわち、隣人を損得勘定や偏見なく、丸ごと受け止めることを求めておられます。
そのようにして、私たちは、ぶどうの木として、豊かにぶどうの実を実らせることに招かれています。この柳城学院が、豊かなぶどうの木へと成長していけるよう、互いに愛をもって仕えてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


グミ

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