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大学礼拝「新しい掟」2022/4/6

カテゴリー:大学礼拝

【ヨハネによる福音書13:31-35】
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

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柳城では、さまざまな場面で、愛という言葉が、繰り返し登場します。そして、愛という言葉は、聖書の中でも、最も重要なキーワードだと思います。しかし、その一方で、この言葉は、誤解を生みやすい言葉でもあります。
例えば、「人を愛しましょう」という言葉は、誰にとっても特に違和感がないと思えます。しかし、聖書の中で描かれるイエスの愛は、私たちが思い描くような、誰にでも受け入れられるようなものではありませんでした。むしろ、社会を混乱させるようなものとも言えました。

具体的にどのようなものだったのか、一つの例を紹介します。それは、ベトザタの池というところで、イエスが病人を癒やした、という出来事です。
イエスが、池のほとりを歩いていると、長い間、病気で苦しんでいる人が、そこに横たわっているのを見つけます。イエスは彼に近づき、その病人を癒やされます。このイエスの癒しの行為が、当時の宗教指導者たちの間で、大きな問題となりました。というのも、イエスがその人を癒した日が、安息日という日であったからでした。安息日とは、ユダヤ教の規定に基づいて、仕事をしてはならない日として厳しく決められている日でした。安息日にできることは限られていました。イエスによる癒しの行為も、安息日にしてはならないことの一つとみなされました。しかし、イエスは、その病人を放置することができず、その人を癒やされました。
この安息日の癒しの行為は一つの例ですが、イエスは、当時の社会の価値観や常識を超えて、出会った人、一人一人を愛し、大切にされたのでした。しかしそれは当時の支配層、指導者たちにとっては問題でありました。社会の安定や秩序を崩す、不穏当なものであったからです。このイエスがこの病人を癒やされた後に、何が起きたかについて、聖書は次にように記録しています。
「このために、ユダヤ人たちは、ますます、イエスを殺そうと、ねらうようになった。」

池のほとりでの病人の癒しの出来事は、イエスが、十字架で処刑されるにいたる、その引き金となった事件とも言えます。十字架とは、政府の転覆を企てようとした人などに対する処刑方法です。このように、イエスは、自分の立場が危うくなるかもしれない、命が狙われるかもしれない、それでもなお、出会ってしまった一人ひとりを大事にしていかれました。これがイエスの語る愛でありました。それは、この世的な評価、自分にとってのメリット、といったことを抜きにして、具体的に出会った人を、心底大切にしていく、ということでした。こうした愛こそが、イエスの教えに連なる私たちの学びの基礎にある、ということを、改めて覚えたいと思います。

そのためにも、まずは、イエス自身が私たちのことを愛してくださっている、ということを心にとめていきたいと思います。イエスは言います。
「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」
ここでイエスが述べている「あなたがた」とは、今、ここにいる私たちも含まれています。イエスは、他ならぬ私たち一人ひとりを、愛してくださっている。十字架で苦しめられてもなお、大切にしてくださっている、ということです。そのような私たちであるからこそ、たとえ、自分にメリットがなくても、世間から評価されないことがあっても、イエスの言われた「互いに愛し合いなさい」に、こだわってまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


柳城のサクラ

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