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大学礼拝「休ませてあげよう」2022/6/15

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書11:25~30節】
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

✝ ✝ ✝

軛とは、牛や馬の首にひっかけて、台車などを引かせるための道具です。聖書に登場する軛は、牛や馬が二頭、一緒になって、引っ張って歩くような仕掛けになっているものです。
この文脈で軛が示しているのは、当時の社会で守らなければならないユダヤ教の律法、あるいは、その律法の守り方でありました。当時、ユダヤ教の律法は守らなければならない厳しいものが多く、それが人々の生活、とりわけ貧しい人たちにとっては、生きていく上で大きな妨げ、負担になっていました。そのような重い負担のあるユダヤ教の律法が、軛と表現されています。しかも、律法とは、単なる日常の法律ではありません。神の前で正しい者と認められるために守るべきものでありました。したがって、律法を守れない人は、神から見放されたものと、位置付けられていました。

そして、疲れた者、重荷を負う者とは、具体的には、律法の教えに押しつぶされた人々のことでありました。律法の規定を守ることを優先するあまり、そこからこぼれ落ちる人、たとえば、重い病気の人など、律法を守りたくても守ることができない人々のことでありました。そして、社会から、さらには神からも、見放された、とされた人たちでありました。

これに対して、イエスは、そのような重くのしかかる軛とは違って、自分の軛は、負いやすくて、軽いと述べます。この「軽い」という言葉は、柔らかいという意味があります。柔らかい軛、すなわち自分たちが首にかけても痛くない、フィットしている、馴染んでいる、私たち人間のためにカスタマイズされている、というようなことです。イエスの軛は、律法のための律法、指導者のための律法ではなく、人間のため律法なのだ、ということです。
さらに、イエスは、自分は柔和で謙遜な者だ、と述べます。柔和というのは、他者の痛みを知っている、というような意味、謙遜とは、低い立場に置かれている、というようなニュアンスの言葉です。

そう考えていきますと、今日の箇所は、次のような意味にとることができます。

この社会で負いきれない重荷を負わされ、本来しなくていいはずの苦労を強いられている人たちは、私のもとに来なさい。あなたはもう、そのような無理な重荷、不条理な苦労を背負う必要はない。もう、ここでおろしていいのだ。わたしも貧しく、身分が低い者だ。私は、あなたがたの痛みを知っている。律法とは、本来、人間のためのものであるはずだ。だから、一緒にそれを担っていこうではないか。イエスは、このように呼びかけられたのでした。

このイエスの言葉は、今日、ここに集まっている私たちに対する言葉でもあります。私たちそれぞれも、この社会にあって、様々な不安や痛み、重荷を、かかえながら生活しています。そうした私たち一人ひとりに、イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけてくださっています。その重荷は、その苦労は、本当は、あなた一人で、負わなくていいはずだと。
そして、イエスは、この社会から押し付けらえた重い軛ではなく、「わたしの軛を負いなさい」と言います。イエスの軛とは一人ひとりの命と尊厳を大切にする、一人ひとりを愛するものです。そして、先ほど申しましたように、当時の軛とは、牛や馬が一頭ではなく、複数が一緒になって、車を引っ張って歩くものでした。
つまり、イエスが、軛を負いなさい、というとき、それを一人で負いなさい、担いなさい、ということではない、ということです。わたしたちと一緒に担う人がいる、ということです。それは、他でもなく、イエスご自身でありましょう。私たちの負う軛は、私たちが自分一人で担っているかのように見えて、実は、他でもないイエスが、横にいて、すでに担っておられるということです。
私たちの柳城の建学の精神は、「愛をもって仕えよ」です。イエスは、私たちに向かって、自分一人で、隣人を愛せ、愛をもって仕えよと、命令しているのではありません。他ならぬイエスご自身が、私たちの横にいて、すでにそれを実践しておられるということです。イエスは、私たち一人ひとりを大切に愛され、一緒に歩んでいてくださる、ということです。だからこそ、私たちは、イエスによって、安らぎが与えられ、そこに身を委ね、そして、そうすることを通じて、今度は、隣びとに愛をもって仕える者として歩んでいくことができるのだと思います。    (チャプレン相原太郎)


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