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大学礼拝「人を裁く権利?」2022/6/22

カテゴリー:大学礼拝

【新約聖書・ヨハネによる福音書第8章3~11節】
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

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今日の聖書の場面には、「姦通の現場で捕らえられた女」が登場しています。旧約聖書の申命記22章22-24節には、結婚している女性との性交渉をした男女は、ともに死刑にという規定があります。旧約聖書の律法(法律)は、性差別や障がい者差別の内容を含んでいますので、そのまま肯定することは出来ません。しかし、男女ともに死刑に処せられるという規定違犯であるにもかかわらず、ここでの問題は連れて来られたのが女性だけということです(3節)。いったい相手の男性はどこに行ってしまったのでしょうか?

律法学者やファリサイ派というユダヤの指導者たちは、この女性をイエスさまを十字架に追い遣る口実をつくるために、連れてきたのです。イエスさまが「女性には罪がない」と言えば、律法に違反していますので、それをもってイエスさまを十字架に追い遣ることが出来ます。「女性は罪を犯したのだから、石打の刑に」と言っても、すくなくとも女性を尊重し、民衆の側に立っていたイエスさまの人気を落とすことが出来ます。いずれの対応でも、窮してしまう状況に追い込まれたのでした。しかし、イエスさまはそのような状況にも関わらず、かがんで地面に何かを書いています(6節)。イエスさまは何をしているのでしょうか? 屈み込む姿勢は、人に仕える姿勢です。仕えられるためではなく、人に仕えるために来られた、イエスさまの謙遜さが、この屈み込む姿に表されています。自分を陥れるために、道具とされ、犠牲にされる女性をどうやって助けようかと、イエスさまは考えを廻らせていたのでしょう。

そんなイエスさまが口にされたのが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)という言葉でした。ふしだらな女に石を投げつけて殺してやろうと意気込んで集まってきていた人々は、握りしめていた石を投げつけることが出来なくなりました。イエスさまの言葉を聞きながら、女性に石を投げつければ、神さまの前に罪を犯したことがないという意思表示になってしまいます。それはあまりにも不信仰な態度です。誰もが、握っていた石を棄てて、その場を立ち去って行きました。
去って行った人たちは、自分の行いを反省をした訳ではありませんでした。律法学者やファリサイ派たちユダヤの指導者は、この出来事によってまずますイエスさまへの憎悪を募らせ、イエスさまを十字架につけて死刑にするために、邁進して行くのです。

わたしたちの日本という国は、いまだに死刑制度を存置し、積極的に死刑執行を進める野蛮で残念な国の一つです。死刑制度は、残虐で野蛮な制度ですので、国連の自由権規約委員会は、この死刑制度を廃止するという国際的な潮流に逆行し続ける日本の慇懃無礼な態度に対して、死刑制度の廃止を検討するか、少なくとも死刑の対象となる犯罪を最も重大な犯罪にのみ制限するようにという厳しい勧告を出し続けているのですが、残念ながら日本政府はその勧告を拒否し続けています。その他にも、死刑囚の処遇についても、問題が多くあって、改善するように勧告されていますが、日本政府は聞く耳を持っていません。
国連の194の加盟国のうち170の国で、法律上あるいは事実上、死刑制度が廃止されています。ですから経済先進国中、死刑を廃止していないアメリカと日本は、繰り返し野蛮な行為を止めるように、各国から批判されています。アメリカでは死刑執行に積極的だった、トランプ大統領に代わって、アメリカ連邦政府の死刑制度を廃止して、各州に追随を促すことを選挙公約にしていたバイデン大統領が就任しましたので、死刑廃止への期待がわずかですが見えてきたように思えます。
また歴史的に、日本という国は非常に早い時期、平安時代の818年に嵯峨天皇の決断によって、1156年までの347年間、一度死刑制度を廃止している、文化的に成熟した国でした。残念ながら、武士の時代になって死刑が再開されるのですが、歴史的に、本当に早くから死刑制度を廃止していた名誉はどこへやらです。このままですと、野蛮な国の汚名は返上できずに、世界でもっとも野蛮な国争い参加し続ける状況になってしまうのです。
生きている人間の命を奪うという刑罰は、非人道的であり、一度執行してしまうと、間違いがあとで発覚しても二度と取り返しがつきません。ですから国際的には、犯罪への対応として、死刑に頼らない政策が積極的に採用される傾向が年々強まっています。とりわけ先進国では、死刑廃止の潮流は揺るぎないものとなっているのです。
日弁連は、冤罪での死刑執行により、人の命が奪われてしまうことがあってはならないとして、死刑廃止を呼びかけています。しかし、わたしは今日この福音書のイエスさまの言葉を心して聞きたいと思います。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)

明らかに殺人という罪を犯していて、その制度を残している野蛮な国日本で、死刑判決を受けている人であっても、その人の命が奪われることがあってはならないのです。
なぜならば、何か理由があれば、人の命は奪われても仕方がないという考え方こそが、人の命を蔑ろにする考え方だからです。戦争が起こって人の命が蹂躙されることがあってなはらないのと同様に、死刑という制度によって人の命が奪われることはあってはならないのです。
死刑制度が、犯罪の抑止力にはならないことは、すでに死刑を廃止してる国での犯罪発生率調査統計から明らかになっています。むしろ、昨今の日本での凶悪犯罪をみると、自らが死刑になるために、多くの人の命を奪うというような事件が多発している状況を鑑みるときに、わたしたち日本の国も、人の命を本当に大切にする歩みを始めるようにと、イエスさまが語りかけてくださっているのではないでしょうか。
死刑囚という低みにまで屈み込まれ、わたしたちの生命を尊重してくださいました。誰かに死刑の判決を出すことが出来る人など誰もいません。人間が人間を罪に定めることは出来ないのです(10-11節)。
イエスさまの赦しを、その愛を豊かに受けながら、互いに愛をもって仕える歩みをこの礼拝から始めて参りたいと思います。  (チャプレン 後藤香織)


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