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大学礼拝「男も女もありません」2024/4/10

カテゴリー:大学礼拝

【ガラテヤの信徒への手紙 3章28節】
3:28  そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

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皆さんは、将来何になりたくて、この柳城学院で学んでいらっしゃいますでしょうか?もちろん幼稚園の教諭や保育士として働こうと考えて柳城にいらっしゃった人は多いのでしょうね。しかし、わたしたちの人生の歩みには、いろいろな顔があります。大学生として過ごす顔、

わたしは、名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学のチャプレンですが、附属幼稚園である、三好丘聖マーガレット幼稚園のチャプレンもしています。柳城の附属幼稚園のチャプレンは、皆さんが生まれる前、1997年からしていますが、その間、保育園の園長をしたりしているのでずっと続けてチャプレンではないのですが、幼児教育には牧師になる学校を、終えた1987年からずっと携わり続けてきています。でも、これはわたしが大学生になったときに思い描いていた、わたし自身の将来像とは大きく違うものです。

わたしは1984年に大学に入学をしたのですが、教会の皆さんからの牧師になったらという期待には応えずに、父親の後を継いで、政治家に、代議士になるために大学での学びを始めました。学問を修めるというよりも、将来へのコネづくりで大学生活を送っていたように思います。ですから、学校には顔を出しますが、講義への出席よりも、サークル活動や友人づくりに精を出していました。学校にいないときには、自由民主党という政治団体の学生部に所属して、当時わたしは法務大臣の私設秘書として、派閥の地方議員の選挙運動や、今問題になっている、政治資金を集めるためのパーティを開催しながら、毎日を送っていました。
自分で望んでそのような毎日を送っていたのかというと、そういうわけではありません。わたしはトランス女性ですが、当時は男性として生活をしていました。本当の自分は隠し続けて、死ぬまで男性として、政治家として人生を送らなければならないのだと、あきらめていたのですね。

今日聴きました聖書の箇所は、ガラテヤの信徒の手紙3章28節の箇所でした。この箇所は、最初期のキリスト教会で使われていた、「洗礼を受けるときの信仰表明」、つまりわたしはこれこれこういうことを信じて、そのような世界を実現するために働いて行きますよという決意表明の文章からの引用の部分だと言われています。
パウロという人がこの手紙を書いていますが(50年代中頃)、ガラテヤにある幾つかの教会に回覧板のようにして書き送った手紙をまとめたものです。イエスさまを信じることで、当時のこう生きなければならないとユダヤ人が信じていた、とても厳しい規則「律法」から解かれて、わたしらしく命を光り輝かせて生きて良いのだということを確認するために、28節で言われていたように、ユダヤ人もギリシア人もなく(人種差別、民族差別の否定)、奴隷も自由な身分の者もなく(民族差別の否定)、男と女もありません(性差別の否定)と、語られているのです。それは、当時のキリスト教会が自分たちの集まりの特徴をあげて、他のグループとの違いを明確にするための決意表明だったのです。引用されたこの決意表明は、もともとは

「あなたがたは皆、神の子たちです。なぜなら、キリストの中へと洗礼を受けた人たちは皆、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。なぜならあなたがたは皆、一人だからです。(ガラ3:26-28) 」

というような内容だったようです。
イエスさまが宣べ伝えた神さまを信じて生きる生き方は、民族や身分、性別の違いを問題にすることはなく、様々な違いを超えて平等で公正な集まりを造っていこうとするものでした。様々なしがらみや、こうあるべきと云う押しつけから自由になっていて、自立した一人の人として、自分の人生の選択をして、決断をして歩んで行って良いのだと、神さまから召された、招かれているのです。だからわたしはこう生きなければいけないという決めつけを跳ね返して、頂いている命を光り輝かせて、互いに愛し合いながら、わたしはどう生きてこの世界が正義と平和に満ちた世界になって行くように生きてゆくことが大切なのだと言われている箇所なのです。わたしたちの可能性は閉じられているのではなく、開かれているのだと励ましてくれているのです。
ですからこの言葉は、民族・身分・性別などの違いによって差別され、生き方を抑圧されていることに痛みや憤りを感じ、その世の中に抗って生きようとする人々にとって、大きな支えと励ましになったので、当時のキリスト教に人々が集まり、次第に多くの人に影響を与える集まりになって行ったのです。

実はわたしたちが読んでいる新共同訳聖書では、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」と訳されています。最初の二つは確かにユダヤ人も、と訳すのですが、三つ目の「男も女も」は、正確には「男と女もありません」と訳すべきなので、実はあまり正確な訳ではありません。2018年に「聖書協会共同訳聖書」という新しい翻訳が出ましたが、その訳では「男と女もありません」と正確に訳されています。では、「男も女もありません」と「男と女もありません」ではどういう意味の違いがあるのでしょうか?

ここで注目したいのは「男と女もありません」の「男と女」は、一般的に使われる「男性(アネールνηρ)」「女性(グネーγυνή)」という言葉ではないことです。ここでは、創世記の創造物語「神は人を男と女に創造された」(創1:27)で使われたのと同じ、「オス(アルセーンρσεν)」「メス(セールスθλυ·)」という言葉が使われています。つかり、女性差別や男女の格差を解消よりさらに踏みこんで、「男(オス)と女(メス)」で「一対」という概念も乗り越えて一人一人の大切さが宣言されているのです。
これは、「男と女」で「一対」として生きる抑圧に縛られずに、女は結婚して子どもを産まなければというプレッシャーから解放される福音だったのです。子どもを産めない・産まないことで、「女」である自分を後ろめたく思う必要もありません。
この宣言は、女はこうあるべき、男はこうあるべき、というジェンダー規範で縛られて生きにくくされていた、同性に魅かれる人々や、トランスジェンダーの人々などにとっては、まさに大きな自己肯定として響いたのでしょうょう。様々な社会・文化規範に順応出来ない、したくない人々にとって励ましの宣言だったのです。

当時のキリスト教会はとても小さな集まりでした。その小さな集まりが、世界に拡がる集まりになっていったのは、「こうでなければいけない」と思い込み、命を光り輝かせることが出来ずにいた人々に、そうでなくても良いのだという励ましを与えて、命を光り輝かせて歩む力になったからだったのだと思います。わたしたち一人一人が自分の人生を縛られることなく自由に選び取って行くことで、それは素晴らしい多様な世界が実現していくのだと宣言をした集まりだったからこそ、多くの人たちが集まってきたのでしょう。残念ながら、今、キリスト教会は「こうでなければいけない」と語る集まりになってしまっていますが…。

皆さんがこの柳城学院での学びを深めてゆくときに、「こうでなければならない」と思い込んでいるしがらみを越えて、わたしたちがどうしたらお互いに仕え合って、助け合って、愛し合って、この世界を平和で正義に満ちた世界へと変えて行けるのかを、今日の聖書から聞いて参りましょう。ご一緒にしがらみから解放されて命を光り輝かせて歩み始めましょう。           (チャプレン 後藤香織)

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