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カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

【知恵の書6:12-18】
◆知恵はいかなるものか
6:12 知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、/探す人には自分を示す。
6:13 求める人には自分の方から姿を見せる。
6:14 知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに/自宅の門前で待っている知恵に出会う。
6:15 知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、/知恵を思って目を覚ましていれば、/心配もすぐに消える。
6:16 知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、/道でその人たちに優しく姿を現し、/深い思いやりの心で彼らと出会う。
6:17 教訓を真心から望むことが知恵の始まりであり、
6:18 教訓に心を配ることは知恵への愛である。この愛は知恵の命じる掟を守ることである。掟を守ることは不滅を保障し、
(6:19 不滅は人を神に近づける。)

10年程前、私が柳城短大のチャプレンに就任した春の出来事です。その当時から、「柳城の学生はしっかりと挨拶ができる」と評判でした。その評判を聴いて、私自身もその姿に見習おうと、勤務初日から登下校の際、通学路ですれ違う学生ひとり一人と挨拶を交わしていました。

そのような毎日を数日程過ごしたある日の夕方、私はいつものように下校時の学生たちと通学路ですれ違い、いつものように「さようなら!!」と声を掛けました。すると、その日は、ここ数日間とは異なる学生たちの反応が返ってきました。

ある学生は一瞬、驚いたような顔をして「さっ、さようなら…」と戸惑いながら挨拶を返しました。ある学生は怪訝そうな顔をして、そのまま無言で去っていきました。また、ある学生たちは、キョトンとした顔をしながら挨拶を返し、すれ違った後で「誰、あの人?!」、「知らないんだけどぉ~」とやり取りする声が背中から聞こえてきました。そして、ある学生たちは、同様にすれ違った後で、「誰、あの人?! ヤバくない?」と笑いながら会話をしていました。

私は、ここ数日間とは異なる学生たちの反応に違和感を覚えながらも、“チャプレンになって、まだ数日だし、私のことを知らない学生がいても当然”と思いながら歩を進め、短大の角にある交番近くまで来て、ある事実に気が付き、“ハッ”としました。

柳城短大の学生たちであれば、交番の角を曲がって姿を現わすはずなのに、先ほどから、ずっと私が声を掛け続けていた学生たちの列は桜山方面からまっすぐ続いていたのです。

なんと、私は、その日、何か特別な行事でたまたまその道を集団下校していた他大学?の学生に、一人でひたすら声を掛けていたのです。その事実に気付き、いつもとは違う学生たちの反応全てが理解できました。

顔から火が出るくらいの恥ずかしさを感じたのと同時に、大切なあることに気が付きました。私は、その学生たちの違和感のある反応に対し、“まだ私のことを知らない学生がいても当然”と勝手に解釈していましたが、実は、私自身も柳城短大の学生のことを何も知っていなかったということを痛感したのです。何も知らないからこそ、柳城短大の学生と他の大学の学生の区別も付かなかったのです。“自分自身は学生たちのことを何も知りもしないのに、そのことにも気づかず、自分自身は学生たちに知られているつもり”で挨拶をしていたのです。

そのことに気付き、チャプレンとしての私自身の学生たちとの関わり方が決まりました。私は翌日から、全ての学生たちの顔と名前を覚えるようにし、学内で可能な限り声を掛け、その会話の中で学生たちひとり一人の性格や関心、好きなことや得意なこと、学びたいことやしたいこと、そして、なぜ保育士・幼稚園教諭を目指したのかなどを知り、また、私自身のことも話すようにしました。

そのような感じで学内をウロウロしている私に対し、最初、学生たちは「チャプ~、いつもフラフラしてるね。暇なの? 礼拝以外、やることないの?!」といった反応でしたが、半年も経つと、「チャプだぁ! ちょっと、話し聴いて」、「一緒にバスケしよ~」、「また礼拝行くからね!」と関わりが大きく変わっていきました。

“自分自身は学生たちのことを何も知りもしないのに、そのことにも気づかず、自分自身は学生たちに知られているつもり”でいた私が、学生たちひとり一人のことを心から知ろうとし、自分自身も学生たちひとり一人に知ってもらおうと努力した時、そこから出逢いが始まるということに気が付きました。

お互いのことを知り合おう、学び合おうとすることから、真の出逢いが始まるのです。“学ぶことは出逢うこと、出逢うことは学ぶこと”なのです。

柳城短大が、その学内生活の中で礼拝の時間を大切にしているのは、実は、学生の皆さんひとり一人に神様のことを知り、学び、そして、神様と出逢ってほしいからなのです。では、“なぜ、神様と出逢ってほしいのか?”…。それは、神様が私たちを愛している、その愛し方、その愛し方を学び、その愛し方で、これから先、皆さんが出逢うであろう子どもたちを愛してほしいからなのです。神様と同じ愛し方で、皆さんには子どもたちを愛してほしい。だから、皆さんには神様と出逢ってほしいのです。

私は学生の皆さんのことを今は何も知りませんし、学生の皆さんも私のことを今は何も知りません。これからは、色々な関わりの中で、お互いのことを知り合い、学び合い、そして、出逢っていきたいと思います。そうすれば、再び、私が間違えて他の大学の学生に声を掛けることもありません。

そして、何よりも、私との関わりの中でも、少しでも皆さんが神様と出逢うことができればと願っています。(名古屋聖マタイ教会 司祭 下原太介)

 

「ルカによる福音書23:26-47」
23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。
23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

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キリスト教の教会では屋根や玄関、礼拝堂の正面などに十字架が設置されています。また祭壇の上に安置されているところもあります。屋根の十字架などは「ここが教会です」という目印になっています。韓国に行くと、その十字架の多いことに驚かされます。それだけたくさん教会があり、クリスチャンがいるということです。日本は100人に1人、韓国では3~4人に1人がクリスチャンです。

十字架はキリスト教のシンボル、教会のシンボルです。十字架は神ではありませんからそれを拝むことはしません。十字架は言うまでもなく、イエスさまがエルサレム郊外のゴルゴタの丘(されこうべの場所)ではりつけの刑に処せられた出来事に起源を持ちます。十字架を仰ぎ見るたびにわたしたちはその出来事を思い起こします。それは、罪のない神の子であるイエスさまが、死ななければならない者に代わって死んでくださった2000年前の歴史的な出来事です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と、死を前にして弟子たちにお話しになったイエスさまは、そのとおりの生き方をなさいました。そこに神の愛がはっきりと示されました。ですから、十字架は神の愛のシンボルとされるのです。

ローマ教皇、枢機卿、修道士、修道女、わたしたちの聖公会の主教などは、胸に大きな十字架をかけています。神の愛のシンボルである十字架をかけることによって、十字架を背負い、イエスさまに従って生きていく決意を日々新たにするのです。

わたしたちの周りでも多くの人が十字架のネックレスやイヤリングを「かっこいい!」と言って身につけています。もともと十字架はかっこいいものではありません。とても見るに忍びない、むごたらしいものでした。それがかっこいいものになるためには、それを身につける人が、十字架の持つ本来の意味を十分理解して用いることが必要です。

十字架の縦の線は英語の大文字のI (わたし)です。横の線はI(わたし)を切ること、すなわち、kill(殺す)こと、切ること(cutすること)を意味します。自分を殺して(自分に死んで)、他者を生かすこと、ここに十字架の持つ本来の意味があります。十字架の縦の線は神とわたしの関係を、横の線は人間関係(人のつながり)を表します。その縦横の線の接点が神とわたしたち人間が出会う接点であり、十字架の意味が鮮やかに示されるところです。

イエスさまの十字架によって示された神の愛を、生涯の歩みの中で実践していった弟子たちのうちで、十字架にかけられて殉教したと伝えられている人がいます。バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に葬られているペトロがその一人です。彼は逆さ十字架につけられました。また、アンデレは斜めの十字架にかけられました。このXの十字架をアンデレクロスと言います。アンデレクロスはスコットランドの国旗や、山梨県清里高原にある聖アンデレ教会に近い清泉寮の正面玄関にも見ることができます。

ちなみに今年2019年は4月19 日(金)が聖金曜日(受苦日)と言って、イエス・キリストが十字架におかかりになった日、3日後の4月21 日(日)が復活祭(復活日)、イエス・キリストがおよみがえりなった日で教会の最大の祝日です。(チャプレン大西 修 )


クリムソン・クローバー

【コヘレトの言葉11:9,12:1】
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。
12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。

柳城では毎年、その年の聖句(聖書のことば)を決めて、建学の精神「愛をもって仕えなさい」を一層具体化していく指標にしています。

今年は「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」という旧約聖書「コへレトの言葉」(11:9,12:1).からとりました。

コへレトとは招集する(ヘブル語のカーハール)者、集会で語る者、伝道する者(伝道者)の訳です。コへレトの言葉の著者はイスラエルの初代ダビデ王の息子のソロモン王(紀元前10世紀末)と言われ、コへレトがソロモンとされています。しかし実際にこれが書かれたのは紀元前2世紀末と言われています。

「コへレトの言葉」は人生の虚無と無常を強調する点では、聖書の中でも異色な存在とされています。「コへレトの言葉」の中には「空しい」という言葉がたくさん出てきます。普通「空しい」という言葉から受ける印象は「意味がない、無意味だ、空虚だ」と言ったものですが、「コへレトの言葉」では「若さも青春も空しい」(11:10)いうとき、「若さも青春も過ぎ去りやすい、移ろいやすい、あてにならない」と言った意味合いが深いと思われます。それではどうすればいいのでしょうか。

今朝も通勤してくる途中、たくさんの新中学生、新高校生、新大学生を見ました。

みんな、とても新鮮で、明るく、生き生きとした表情で歩いていて、その姿を見て心が躍るような気持ちになりました。

わたしが中高大学生になった50 年以上前の4月、一体どんな気持ちだったのかなーと振り返ってみました。不安と期待と緊張にドキドキしながら入学したばかりの日々を送っていたように思います。

若さを謳歌し、青春時代を楽しく過ごすこと、こんな素晴らしいことはありません。それには良き友に出会うこと、良き友を見つけることが大切です。一人でいては若さを謳歌し、青春時代を楽しく過ごすことはできません。

皆さんはあまり慣れていないかもしれませんが、じっくり考え、話し合って行動することは良き友を得て、長く付き合っていくために重要なことです。

人々との関わりを通して、人間としての豊かさとは何かを考えていくことに学ぶことの大切な一面があるからです。そのために、信頼できる友だち、話し合える友だちが必要です。「友達は話を聞いてくれる、友達は優しくしてくれる、生き詰まった時、相談に乗ってくれる。友だちは対等だからよい。時には嫌なことも言ってくれる。腐っているときに励ましてくれる。友だちは信頼できるライバルだ。友だちは宝だ。わたしも誰かの友だちになろう。」(山野上素充「ヤマさんのひとこと」)

私も誰かの友だちになることは、想像以上に大きな学びを与えてもらえる機会となります。

わたしは高校大学時代から付き合っている親友がいます。彼は現在、パーキンソン病のため、言動の面で不自由な生活を余儀なくされていますが、お連れ合いの献身的な介護によって、何とか自宅でベッド生活を送っています。長野市に住んでいますが年に1~2回お見舞いに行っています。その彼が「ホジキンリンパ腫」を発症し、とても苦しんでいた大学2年の時、彼の下宿で幾晩も一緒に過ごし、彼の心の痛みを共有した経験は彼との関係を深いものにしました。1月にお見舞いした時、「俺が死んだ時は、大西に弔辞を読んでもらう」と言って、微笑んでいました。

「人間は考える葦である」(パスカル)、「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)など、有名な哲学者の言葉がありますが、人間は他者との関わりの中で、考える存在として、他の動物とは一線を画したものとして造られているということです。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」とは、少し難しく言えば、「あなたは何者なのか」「あなたはなぜ生きているのか」「あなたが今、生きている意味は何か」このようなことを考えるのが、青春の日々にはとても大切だと言われているのです。

中高生時代は知的能力(知識)が第1とされ、教えられたことを記憶することが中心だったかもしれません。それも大切ですが、学問は問うことを学び、問うことによって学ぶことです。「なぜ?どうして?」と問う姿勢が大切であり、今後そのような姿勢を授業などを通して養い育てていってほしいと思います。

言葉を大切さにすること。言葉は人を生かしもするし、殺しもします。「人間の口から出る言葉というものは、心から出るものです。この心から出ることを忘れて言葉を語るのは、ナンセンスです。貧しい心からは貧しい言葉しか出てきません。豊かな言葉は豊かな心から出てきます。実に簡単明快なこの一事をわたしたちは忘れていたような気がします。」(三浦綾子「藍色の便箋」)

「おそらく、これから死ぬまでの間に、私はまだまだ多くの人の言葉に励まされ、教えられて生きていくに違いない。私を強めてくれるこれらの言葉は、私にとって何ものにも代えがたい宝なのだ。」(同上 「忘れえぬ言葉」)

真心をもって人と向き合い、話す相手があなたの言葉によってやる気を起こし、あなた自身もよかったなーと感じられる、そんな言葉を使うようにしたいものです。(チャプレン 大西 修)


学生ラウンジにて

 

本年2019年に創立121周年を迎える本学は、「愛をもって仕えよ」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)の聖句を建学の精神として掲げ、事あるごとにこの聖句に立ち返って歩んできました。私たちが一番恐れることは、この聖句を知ってはいても、その精神が時の経過とともに形骸化してきているのではないかという点です。

「愛をもって仕え」るとは、具体的に何をどのようにすることなのでしょうか。

1895(明治28)年、マーガレット・ヤング初代校長が40歳で勇躍、海を越えてカナダから日本に来られた背景には、この聖句があったに違いありません。キリストに愛されている一人の人間として、その愛を人々に伝えたい、とりわけ、日本の女性たち、幼子たちに伝えたいという熱い信仰が、彼女を具体的な行動へと駆り立てたのです。

本来、仕えるとは、神を愛し、神に仕えること、神を大切にし、大事にすることです。神に造られたこの世の人々を愛し、大切にし、大事にすること、人々に仕えるとは神を愛することに他ならないのです。

現在、柳城での日々を過ごすわたしたちが、愛をもって仕えるために何が出来るのでしょうか。誰にでも出来ることがあります。

 第一は笑顔(スマイル)をいつも絶やさないこと。笑顔は人々の心に安らぎを与えます。

以前お話ししましたが、わたしが今は無き付属御器所幼稚園児の時に教えてもらった英語の朝の挨拶の歌“Such Happy Day”は今でも覚えています。

Such a happy day,  lalala  such a happy day,  lalala  I smile you.  You smile me.

such a happy day.  good morning.  good morning.

先生方、実習生が笑顔で一緒に歌っていた姿が今も瞼に焼き付いています。

笑顔で「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」の挨拶を交わすことは、誰にでも出来ます。水曜礼拝の中での「平和のあいさつ」も大切にしていきたいと思います。心から笑顔で挨拶するときに、周囲が変わっていきます。教職員・学生間は勿論のこと、学内に来られる方々に笑顔で挨拶してください。構内をいつもお掃除してくださっている方々に「ご苦労様です」と笑顔で挨拶してください。数年前のNHKの朝ドラ「花子とアン」(ミッションスクールの東洋英和女学校がモデル)で、「ごきげんよう、さようなら」の挨拶がいつも交わされていたことに心和ませるものがありました。

第二は感謝の思いを言葉を態度で表すこと。なかなか素直に「ありがとう」と言えないわたしたちですが、「ありがとうございます」「ありがとう」と言うことです。そのひと言が出会う人を大事にし、大切にすること、愛することになります。ほんのちょっとしたことにも、感謝の意を表すことは相手への細やかな思いやりを感じさせますし、挨拶された人が一番嬉しい思いを持つのではないでしょうか。

 第三は人が避けたい、関わりたくない、嫌だなと思うことを進んですること。出来れば喜んでそのことをすることが、愛をもって仕える本当の生き方ではないかと思います。

神社仏閣がいつもきれいに掃除されていて、ゴミひとつないことには心打たれます。天理市にある天理教本殿は玄関で履物を脱ぎ、素足で神殿に入ります。廊下の床などはピカピカに磨かれており、トイレ(手洗い)も素足のままで使用します。信者によって驚くほどきれいに清掃されており、床を手で触れても全く汚れません。誰もが嫌がり、避けることを率先して行うことは、他の人を大事にし、大切にし、愛することにほかなりません。母親・父親は幼子のおむつを替えることを厭いません。幼子が大事であり、幼子を愛しているからです。校内をきれいにすること、ゴミなどが落ちていたら率先して拾うこと、トイレなどをきれいに使うこと、汚れていたら避けて通るのではなく、次に使う人のことを考えて、きれいにしておくことは、嫌なことかもしれませんが、愛をもって仕える一番簡単で大切なことです。次に使う人の笑顔を思い描きながら・・・・。

121 周年を迎える柳城が、建学の精神「愛をもって仕えよ」を、一丸となって日々の生活の中で実現していけますよう、共に励んでまいりましょう。

2019.4.3(1年生礼拝での教話~オリエンテーションの中で。2017.12  チャペルニュース原稿 巻頭言より転載)

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今回の礼拝オリエンテーションでは、「解説しながら礼拝を進める」という方式にチャレンジしてみました。キリスト教の礼拝を生まれて初めて経験する、ほとんどの新入生の皆さんにとっては優しいやり方だったと思います。大西チャプレンも楽しそうでした!(^^)!

入学式 2019

カテゴリー:入学式

2019年度入学式の模様をお届けします。
(式全体の流れは昨年度と同じですので、こちらをご覧ください。

●学長式辞

・ご入学おめでとうございます。

・保育科新入生のみなさん、入学おめでとうございます。保育専攻科に進学された皆さん、進学おめでとうございます。今日は、保育専攻科2年生、保育科2年生も全員参加、私たち教職員ほか関係者一同、学校挙げて新入生の皆さんを歓迎いたします。ちょうど庭の花壇にも春の花が咲きそろい、皆さんを歓迎・祝福しています。

・ある本の中で、5歳の子どものこんな質問が目に留まりました。「人間は何のために生きているの?」 なかなかむずかしい質問です。すぐには答えられません。答えは、人間は他の動物と違って、誰でも自分自身で目的や目標を持つことができる。そしてその目的や目標を達成しようと生きることで、生きる意味が生まれてくるというのです。皆さんもこの柳城でその答えを見つけていくことになります。一人ひとりがオンリーワンの人生に向かって、一歩一歩、意味のある自分自身の人生のドラマを作っていってください。

・名古屋柳城短期大学は1898年、カナダ聖公会の宣教師マーガレット・ヤング先生によって創設されました。本当に小さな保姆養成所からスタートしました。ヤング先生は、ドイツのフレーベルという教育者を尊敬しておられ、キンダーガルテン、「子どもの園」という意味ですが、子どものパラダイスであり、天国の園で遊ぶ子どもたちとともに大人も一緒に学び成長すると考えておられました。そして、新約聖書の「ガラテヤの信徒への手紙」から「愛によってたがいに仕えなさい」(By Love Serve)ということばを建学の精神とされました。

・赤ちゃんから幼児の時期が、人間としての基本的な性格が形成される、人間にとって最も大切な時期です。みなさんは日々成長している子どもたちの最も大切な時期に保育者としてかかわることになります。現在、4年制大学併設に向けて魅力的なキャンパスづくりを進めています。私たち名古屋柳城短期大学の教職員一同は皆さんの夢の実現を応援します。夢と希望をもって楽しい柳城生活を始めてください。

●理事長祝辞

ご入学おめでとうございます。

柳城での学びが始まります。短大は忙しいには違いありませんが、それがまさに人生勉強となりますので、一日一日をどうか大切にしてください。今年121年目を迎える本学院も一日一日の小さな結果を積み重ねてここまで歩んできました。その歴史を皆さんが受け継ぐことになります。創設者ヤング先生の厚い思いと信仰が今もここには流れています。『愛をもって仕えなさい』という建学の精神のひとつの表現として、小さな存在かもしれない子どもたちの命を大切にすることが挙げられます。そういった精神を学ぶためにも、どうか大学礼拝に出席してください。

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●前奏と司式者団入場

●聖書  ガラテヤの信徒への手紙 第5章1、13~14節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

●新入生認証(保育科、専攻科保育専攻)

●歓迎のことば/誓いのことば

●平和の挨拶

 

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貴重な2年間です。
柳城短大にいる間でしか体験できないことを最優先にして、子ども達のために、高いものを求めて成長していって欲しいですね(^^♪ (加藤)

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカによる福音書10:41-42)

柳城キャンパスニュースでもご覧いただけます】

【ヨハネによる福音書4章14節】
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」 

昨年のクリスマスに皆さんにお渡しした「ちゃぺるにゅーす」の巻頭言に、「オアシスの原点」というタイトルで、短いメッセージを載せましたが、読んでくださいましたか?

「オアシス」とは広大な砂漠の中に水が湧き出て、樹木が生えている緑地のことです。転じて「慰めと安らぎを与えるところ」という意味にもなります。

創設者マーガレット・ヤング先生は、柳城がオアシスとして名古屋の地でその役割を果たすことを、切望しておられたに違いありません。ここでいう柳城とは地理的な場所や建物を言うのではなく、柳城の働きに関わるすべての人々、幼子はもとより、教師、保育者、職員、学生とその親たち、卒業生、そして教会の信者さんたちなどを指します。

旧約聖書の詩編23編の中で、イスラエルの偉大な王であったダビデは「主は羊飼い、・・・主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と歌っています。

柳城は今年創立121周年を迎えますが、現在オアシスとしての役割を果たしているでしょうか。羊飼いである神さまに導かれ、その呼びかけに答え、その愛に育まれた信仰を携えてカナダからはるばる来日されたヤング先生は、神さまが与えてくださる愛の水(命の水)が湧き、緑豊かな木々の息吹きが、多くの人々に清らかで暖かな心を与えるような柳城の成長を願い、30余年間を名古屋の柳城で全身全霊を注いで働かれました。

一昨年末亡くなられたノートルダム清心学院理事長の渡辺和子シスターは、オアシスの頭文字をとって次のように言っています。「オ」は「おはようございます」の「オ」、「ア」は「ありがとうございます」の「ア」、「シ」は「失礼します」の「シ」、「ス」は「すみません」の「ス」です。「おはようございます」、「ありがとうございます」、「失礼します」、「すみません」は、この砂漠のような時代に、人が人として生きていく上で基本的な挨拶の言葉です。

柳城がオアシスとしてその役割を担っていくためには、「おはようございます」、「ありがとうございます」、「失礼します」、「すみません」が、誰の口からもごく自然に出てくるような、そんな心があふれていることが大切です。そのためには、まず皆さんがそれぞれの家庭の中で、このオアシスの言葉が日々交わされるように、皆さんから率先して始めてみてください。そして柳城の中でも改めて今日から始めましょう。皆さんが笑顔をもって、明日のオープン・キャンパスに訪れる人々に、そして4月2日の入学式の日に新入生に進んで声を懸けましょう。それを何か照れくさいと思ったり、仰々しいと思う人がいたとしたら、多分その人は日ごろからオアシスを習慣にしていないのではないでしょうか。今年も幼稚園、保育園、こども園、児童養護施設、養護老人ホーム、障碍(がい)者支援施設などに実習に行きます。その時、忘れず率先してオアシスを使ってみてください。勿論、一年後、卒業し社会人として働くことになるどのような職場にあっても同じです。オアシスは目上、目下の区別なく、誰に対しても大切なものだからです。

慰め、安らぎ、憩いを与えるオアシスとして、わたしたち(柳城)が人々と関わる時、そこに一人一人を大切にし、生かしてくださるイエス・キリストの愛が、目に見える形で「愛をもって仕える」具体的な姿として実現しているのです。

イエス・キリストがおられるところがオアシスです。クリスマスのお話では、社会の片隅で貧しく、卑しい人間として蔑まれていた羊飼いたち、そして異邦人でありながら、遠路はるばる救い主を訪ねてやって来た占星術の学者たち、その人たちにとって辿り着いたイエスさまがお生まれになったベツレヘムの家畜小屋こそオアシスでした。

クリスマスの出来事は、わたしたちは勿論のこと、全世界中の人々にオアシスの素晴らしさを告げ知らせます。オアシスの原点こそ、神さまであり、その神さまがわたしたちにお送りくださったイエスさまなのです。わたしたちに慰めと安らぎと憩いを与えてくださるイエスさまは、悲しむ人、多くの悩みを持っている人、貧しい人、愛に飢え渇いている人、心と体に病を負っている人のオアシスとして、この世界に来られたのです。

昨日、マリナーズのイチロー選手が28年間にわたるプロ野球選手への引退表明をしました。連続10年間、200本安打、最終安打数4,367本という大記録はたぶん誰も抜くことはできないだろうと言われています。彼がインタビューに答えた言葉は素晴らしいものでした。「何の後悔もありません。ほかの人と比べることはできませんが、自分として精一杯頑張ってやってきましたから。」

わたしたちもこの1年間、オアシスの働きの一端を担う者として、人と比べるのではなく、自分として精一杯努力して、与えられた道を進んでいきましょう。 (チャプレン 主教 大西 修)


チューリップ

卒業式 2018

カテゴリー:卒業式

3/16(土)に行なわれた卒業式についてお伝えします。
式の流れは昨年とほぼ同じなので、こちらをご覧ください。

今年の主な内容をご紹介します。

●式辞:名古屋柳城短期大学 学長 長縄 年延

・「チコちゃんに叱られる」というテレビ番組で「大人になるとあっという間に一年が過ぎるのはなぜ?」というテーマが扱われていました。答えは「人生にトキメキがなくなったから」。確かに、子どもは毎日をときめいて過ごしています。特に幼稚園の時期の子は様々な事柄に関心を持ち疑問を抱くものです。毎日が成長の連続なので、大人に較べると一年が長く感じられるのも確かでしょう。保育の道に進まれる多くの皆さんには、ぜひ、子どもたちと一緒になってトキメキの人生を歩んで欲しいのもです。

・これからの長い人生、色々な人と出会い、結婚をして自分の子を育て、保育などの仕事をしていく中で、苦しいこともありましょう。でも『愛をもって仕えなさい』という建学の精神を思い出しながら、一人ひとりがオンリーワンの人生である様に祈っています。本学も「新しい歴史への創造と愛」をテーマに、未来に向かって前進を続けてまいります。

●祝辞:学校法人 柳城学院 理事長 主教 ペテロ 渋澤 一郎

社会に巣立つ皆さんに向けて、二つの事をお伝えしたいと思います。

①建学の精神である『愛をもって仕えなさい』を職場や家庭の中で思い出してください。「愛をもって仕えようとしているのか」と自分自身に問いかけることによって、私たちは人格を高める方向に自身を変えていけるのです。

②イエス・キリストは言われました、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイ10:16)」。「蛇」はキチンと考えて良い知恵を働かせることの象徴です。時には、真実でも言わない方が良いこともあるでしょう。「鳩」は誠実に物事を受け入れる心のあり方を表わします。先ずは受け入れるという素直さが愛を生み出すのです。この「蛇」と「鳩」とを両方兼ね備えることで、私たちはバランスの取れた人間として歩んでいけるのです。

●後援会会長挨拶 川口 貴美

・保育現場では仲良く助け合う関係作りが大切です。子どもたちはそれを見て優しい子に育っていきます。幼稚園や保育園に子どもが喜んで行く姿を見て、親は安心しますし信頼も寄せてくれます。そうなれば親は園に協力的になってくれます。

・建学の精神『愛をもって仕えなさい』を忘れずに、子ども、同僚、親御さんを思いやる心を大切にしてください。保育現場で子どもが虐待されるというニュースが時々出ますが、その場に思いやりのある人がいれば、問題が起こるようなことは決してありません。愛をもって働くことで、世の中は良くなるし、暴言を吐く人もいなくなります。

●同窓会会長挨拶 加藤 久美子(監査役)

・社会に出たらスマイルを忘れずに! そして頭を使い続けていれば、年をとっても元気でいられますよ。

・皆さんには4つのHを心がけて欲しいと思います。頭(Head)でしっかり考え、優しさと思いやりの心(Heart)で人に接し、健康(Health)に気を配り、そして幸せ(Happy)を感じて生きること。

・今日からは皆さんは柳城のぞみの会の仲間ですよ。幸せをお祈りしています。

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●入場する司式者団

●卒業証書・修了証書・学位記 授与

 
 

●送辞

 

●答辞

 

●記念品贈呈

 

●表彰
①社団法人全国保育士養成協議会 会長表彰

②社団法人日本介護福祉士養成施設協会 会長表彰

●教職員による聖歌 476番「暗闇行くときには」

●卒業生・修了生による聖歌 417番「あなたの平和の」

●平和の挨拶

●卒業パーティー

 
 
 

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卒業する皆さん全員が柳城の精神を忘れず、こだわりの人生を歩まれるよう、神のお導きを心からお祈りします。(加藤)

「わたしは道であり、真理であり、命である。」
(ヨハネによる福音書14:6)

柳城キャンパスニュースもご覧ください】

【コリントの信徒への手紙第10章13節】
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

まず初めに皆さんと共に、8年前の2011年3月11日、午後2時46分、東北地方を襲った東日本大震災による地震、津波、福島第1原子力発電所の放射能汚染事故による多くの死者/行方不明者/関連死者合わせて22,131人、また今尚、プレハブの仮設住宅での生活を余儀なくされている3,100人、そして各地で避難生活をされている52,000人の方々を覚えて祈りましょう。(しばらく黙祷)

改めて、皆さん、卒業・修了、終業おめでとうございます。

柳城での2年間、3年間、4年間の学生生活を振り返ってみて、今どんな思いでここに集まっていますか。皆さんひとりひとりが、それぞれ違った思いをもって、この時を迎えていることでしょう。入学した時のことを思い出してみてください。何を考え、どんな夢を描いていましたか。そして、今卒業していこうとするこの時、皆さんの思いは、入学した時に持っていた思いと比べてみてどうでしょうか。同じですか、変わりましたか? 多分、だいぶ変わったのではないかと思います。こんなはずじゃなかった、現実は思っていたほど甘くはなかった。正直なところ、そんな心境でいるのではないでしょうか。

そして4月から始まろうとしている新しい職場での日々を想像するだけで緊張して、夢や希望や期待よりも、未知への生活への不安や心配のほうが、はるかに大きく心をとらえているのではないかと思います。

さて「艱難汝を玉にす」ということわざがあります。(Adversity makes a man wise.)

聞いたことがありますよね。人は、困難や苦労など大変なこと、すなわち試練を乗り越えることによって、大きく成長していく。逆境や試練は人を賢くするという意味のことわざです。

柳城の創設者(柳城保姆養成所初代校長)マーガレット・ヤング先生の85年間にわたるご生涯を顧みる時、まさにこのことわざが当てはまります。

1895(明治28)年、40歳で来日、1922(大正11)年、67歳で病状悪化のため10数年帰国、その後再来日され、約30年間働かれ1940(昭和15)年に名古屋で亡くなられました。ヤング先生は病弱で物静かな方でしたが、一面ではとても芯の強い方でした。それは神さまの愛に包まれていることを固く信じて絶えず生きてこられたからです。その当時40 歳で単身カナダから日本に来るということは、想像を絶する大きな決断だったと思われますが、彼女は神さまの愛を信じて、それを決行しました。そのままカナダにいれば、社会的にも経済的にも安定した生活と地位が保証されましたがそれを投げ打って、今で言うならば、阪神淡路大震災、東日本大震災に匹敵する濃尾大地震(1891、明治24年)の中で、家や親を失った子どもたちへの援助の手を差し伸べるために、イエスさまが自らの命を投げ出されて示された愛のお姿に従って来日されたのです。今のわたしたちには想像も及ばないような、困難や苦労、試練を体験し、それを乗り越えることによって、素晴らしい愛の実践者、名古屋における保育者の母となることを、神さまはお許しになりました。

最初に読まれた聖書のみ言葉「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」が、きっと彼女の中にいつも生きていたのではないかと思います。

柳城の見学の精神を表わす「愛をもって仕えよ」のみ言葉を実行しようとする時には、常に試練が伴い、困難、苦労が付きまといます。でも、そこには必ず神さまがあなたと共にいてくださり、あなたを支え、守り、励ましてくださることを信じてください。それを信じることができるなら、どんな試練にも困難、苦労にも正面から向き合っていくことができます。

3月は柳城の初代校長のヤング先生(3/29 85歳)、そのあとを継がれた2代目校長のボーマン先生(3/24 87歳1965年・昭和40年)、そして第3 代短大学長西原新一先生(3/15 89歳 1992年・平成4年)がお亡くなりになった月です。

2代目校長のボーマン先生もカナダで小学校教師、さらに大学で学び、宣教師としてアフリカでの学校教師を目指し、病院で看護の研修も積んだが、医師から体質的にアフリカでは3年は持たないと言われ、さらにインド、中国を志願したがそれもかないませんでした。そんな時、期せずして日本で働く道が開かれた。ボーマン先生がカナダから日本に旅立つ時、ある牧師が先生に送った聖書のみ言葉は「主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、あなたの救い主。」(イザヤ43:1~3)でした 先生はこのみ言葉に大いに励まされたそうです。1ケ月半の長い船旅で来日、その後、日本語を学びながら東京、岐阜、大阪、松本、豊橋で働かれ、そしてヤング先生の最適の後任校長として1922(大正11)年から1941 (昭和16)年まで19年間、本学のために尽くされました。着任早々、44歳の時、幼稚園教師の免許を取得するためカナダ・トロントの師範学校で学ばれ卒業されています。

第3 代短大学長西原新一先生は1971(昭和46)年から1992(平成4)年までの20年間本学最初の男性の学長として働かれ、短大の新たな改革に積極的に取り組まれ、定員増も2回されました。また海外、特にアジアからの留学生の受け入れにも尽力されました。

皆さんが柳城で聴いた「愛をもって仕えよ」のみ言葉、ヤング先生やボーマン先生、西原先生が神さまの愛に生かされ歩まれた80年を超えるご生涯を、これから先、何か困難なことがあり、悩みに出会った時、ちょっと立ち止まって思い出してみてください。きっと大きな励ましを受けることでしょう。そこで皆さんが柳城で学んだ、目に見えない大きな収穫が、得られるものと信じます。

皆さんのこれからの日々が、神さまの愛に包まれて心身共に健やかに過ごせますよう、いつも祈りのうちに覚えます。主の平和が皆さんと共にありますように。(チャプレン 大西 修 主教)

【マルコによる福音書12:41-44】
12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

明けましておめでとうございます。

皆さんは初もうでに行きましたか。行った人、何人くらいいますか?

お参りしてお賽銭を出しますよね。いくらしましたか。良いご縁がありますようにと縁起を担いで、5円を投げ入れる人がいたかもしれません。それで何をお願いしましたか。神さまは寛大で、優しい方だから、痛くも痒くもない 5円でわたしたちの願いを聞いてくださるのでしょうか。5円と交換に、何か素晴らしい物を獲得しようと思っているならば、全く虫のいい話です。どちらでもいい、ちょっとした気休めならばともかく…。

お賽銭(教会では献金といいますが)は、神さまに何かをお願いするために出すものではありません。お賽銭、献金は本来、神さまへの感謝の気持ちとして捧げるものです。ですから神さまを信じ、神さまへの感謝の気持ちを込めて捧げなければ意味がありません。返礼を求めるものではありません。

今日の聖書のお話は、エルサレムのやもめの話です。やもめは2000年前も、現代も同じように、極端に弱い立場、弱い状況に置かれていました。その当時、やもめ暮らしは、女性自身がもたらしたものとみなされることが多かったため、恥なことと考えられていました。やもめは多くの場合、日々、食べるものにも事欠き、社会の隅に追いやられていました。エルサレムのやもめは、わずか銅貨2枚(約80円)しか持っていませんでしたが、それをすべて捧げました。彼女は目の前で裕福な人々が大金を賽銭箱に入れるのを見て、自分の貧しさを痛感します。こんな少しばかりの献金にどんな意味があるのだろうか、何の役に立つのだろうかと一瞬躊躇したかもしれません。

人生には、わたしたちの能力をはるかに超えているようで、躊躇し気後れしてしまうような試練が多くあります。わたしたちは自問自答します。「わたしのささやかな贈り物にどんな価値があるだろうか? わたしの限られた能力に何の価値があるのだろうか?」と。

パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントⅡ 12:9)というキリストから声を聞きました。

わたしたちがリスクを負っているとき、わたしたちが行うわずかな贈り物や善意を、他の人々やわたしたちすべてにとっての祝福に変えてくださる方が神さまです。

そのような状況でわたしたちに求められているのは、勇気と自分の能力の限界と弱さに気づかされる時、その弱さを支え、力を示してくださるお方がいることを信じ、その方に信頼を寄せて、出来ることをやってみることです。

このやもめは何も出し惜しみをしませんでした。彼女は貧しい中から、自分の持っているものをすべて与えることによって、祝福を受けたのです。

祈りとは自分たちの安全や恐れから一歩踏み出し、これから示される神さまの大きな目的の中にわたしたちの身を委ねることです。勇気と希望と信頼を持って行えば、予想もしない祝福の道が開かれます。惜しみなく与えることで、わたしたちの贈り物はより豊かなものにされるのです。

「イエスさまは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」と記されています。神様は黙ってわたしたちの様子を見ておられます。それは外見ではなく、心の中を見ておられるのです。

今、柳城での学生生活を送っている皆さんが、日々の様々な状況の中で、このやもめが示したような勇気を持って、行動していくことができるようにと願っています。(チャプレン 大西 修)


学食の掲示板

昨年採用された「この一年の写真」に引き続き、今年も中庭花壇の写真がクリスマスカードに選ばれました。カードに記された説明書きは以下の通りです。

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写真は、本学の総務課と学生ボランティアさんによって管理されている花壇です。昨年の入賞に引き続き、今年も日本園芸協会主催の全国ガーデニングコンテストで入選を果たしました。主に栄光! 「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。(ルカ12:28)」 こう語るイエス・キリストは私たちに清貧を要求します。聖夜の意味をこういうところに感じるのも大切でしょうね。

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