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カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【コヘレトの言葉3:1-8】
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

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1号館南のサクラ

【コロサイの信徒への手紙 第3章12節‐14節】
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

今年度の年間聖句は、「愛は、すべてを完成させるきずな」です。

絆とは、どんな関係でしょうか。例えば、この人との関係は自分の将来に役立ちそう、だから大事にしておこう、みたいなことを考えることがあるとします。あるいは逆に、この人との関係は自分にメリットがなさそう、自分の立場にマイナスになりそう、だからこの際、自分に都合のいい人に取り替えてしまおうと考えるとします。これだと、その相手との関係は、あくまでも自分の利益、自分自身のためにあります。これでは、その関係は、「絆」とは、言えません。

「絆」とは、こういう考え方とは正反対です。たとえ自分にとって都合の悪いことがあったり、あるいは、自分の中の何かを変えざるをえなくなったとしても、その相手を機械の部品のようにではなく、取り替えることのできない人として、関わりを持つこと、言い換えれば、自分の生活を、自分の立場を、自分自身を賭けて、その人と関わること、それが、「絆」、ということだと思います。

そしてこのように、人間一人一人を、取り替えの効かない人、かけがえのない人として、自らの存在を賭けて関わること。こうした「絆」の関係こそ、キリスト教が大切にしている、愛ということでありましょう。

保育とは、子どもたちの命を守り、養うのが、その仕事の根底にあります。そしてそれは、何よりもまず自分自身をかけて関わるということが、その基礎にあるように思います。こんな話をすると、いやいやそんな、自分を賭けて関わるなんて、とても私にはできませんと思われるかもしれません。あるいはどこか遠くの、特別な話のように聞こえるかもしれません。

しかしそうではありません。自分自身を賭けて関わるとは、何よりもまず、目の前にいる具体的な一人一人の子ども、一人一人異なった名前を持ち、異なったパーソナリティを持つ子どもを、かけがえのないもの、取り替えの効かないものと理解して接する、ということです。

保育の現場では、この子がいるとちょっと面倒だなあと思ってしまうことがあるかもしれません。しかしそこで、その相手を切り捨てることなく関わりを持ち続けること、また、その相手をロボットのように自分の言いなりにさせるのではなく、自分と異なる一人の他者として向き合っていくこと、こうしたことこそ、自分自身を賭けて関わるということであり、それが、「絆」ということになっていくと思います。

親子の関係を考えてみると分かりやすいかもしれません。我が子を取り替えてしまおうと考える親は、まずいないと思います。そして、我が子のために自分の生活を賭ける、その賭けるというのは、瞬間的、一時的なものではなく、いわば生涯にわたるものになるわけですが、自分の生活を、自分の立場を、自分自身を賭けて関わるということは、そんなに遠くの話ではないと思います。

このような「絆」の関係を大切にしたいと思いますが、そこでぜひ覚えたいことがあります。それは、聖書が語っている神の姿です。聖書が語る神の姿は、まず神こそが、その全存在を賭けて私たちに関わっているということ、いわば、究極の「絆」の関係にある、ということです。主イエスは、自分の立場、自分の命がどうなろうとも、この世の誰からも見向きもされない人の味方になり、徹底して一人一人を大切にされました。そのように、神は世界のあらゆる人を、そして、ここにいる一人一人を、機械のパーツのように取り替えることなく、かけがえのない人として大切にされているということです。

そのような神からの愛を受けている私たちであるからこそ、私たちもまた、その存在を賭けて出会う人、一人一人を大切にする、愛する、そのような絆を求めていきたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)


1号館南のサクラ

【ガラテヤの信徒への手紙 5:13‐14】
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

柳城での学生生活は、どのようなものでありましたでしょうか。さまざまな期待と不安を胸に、柳城に入学し、それ以来、みなさんは、たくさんのことを学び、経験されたことと思います。
一方で、昨年の4月以降、学生生活の締めくくりとしては、あまりにも予想外の出来事が起こりました。「ステイホーム」、「ソーシャル・ディスタンス」と言われる中での学生生活は、本当に大変だったと思います。また、いろいろと心残りのこともきっとあろうかと思います。

さて、この1年の間、私たちがこれまで耳にすることがなかった言葉で、急速に注目された概念に「エッセンシャル・ワーカー」がありました。私たちの日常生活を営む上で、欠かせない仕事に従事している人々のことです。例えば、健康や生命を担う医療・福祉の従事者、生活必需品を販売するスーパーやドラッグストアの店員さん、人や物の移動に関係するバスやトラックの運転手、私たちが出すゴミを回収する清掃局の方々のことです。私たちが、ステイホームやオンラインの暮らしができるのは、こうしたエッセンシャルワーカーがいるからに他なりません。これまで、こうした形で省みられることがなかったエッセンシャルワーカーの大切さ、重要性を、この1年を通じて認識させられたわけです。

そして、卒業される皆様の多くは、子どもたちの保育・幼児教育に携わることになると思いますが、その働きも、いうまでもなく、このエッセンシャルワークの重要な働きの一つに他なりません。
このエッセンシャルワーカーにとって大切なことはなんでしょう。
それは、接する相手によって、サービスの提供をしたりしなかったりする、ということがあってはならない、ということです。誰に対しても、拒否せずに、サービスを提供しなければならない、ということです。
例えば、お医者さんが、目の前にいる患者さんによって、この人は治療するけれど、この人は治療しない、ということがあってはなりません。スーパーの店員さんが、人を区別して、食料品を売ったり売らなかったする、などということがあってはなりません。
これは、保育の世界でも同様です。この子は優秀だから大事にしようとか、この子は先生の言うことをよく聞かない子どもだから、置き去りになってもしょうがない、などということがあってはなりません。皆さまは、コロナ禍の中で、このエッセンシャルワークの重要性・特質を、体験的・感覚的に学ばれました。

名古屋柳城短期大学の建学の精神は、「愛をもって仕えよ」という聖書の言葉です。隣人を愛することは、キリスト教の中心的メッセージですが、誤解される言葉でもあります。
隣人を愛することとは、仲間を大事にするということではありません。自分の隣にいてくれる人だけを愛するということではありません。自分の言うことを聞いてくれる人、自分にとって都合のいい人だけを愛するというのであれば、それは、キリスト教の愛とは関係ありません。
キリスト教の愛とは、むしろ、そういった自分の損得勘定を超えて、人を大切に愛していくこと、また、この社会の中で隅に追いやられている人を、たとえ自分の立場が危うくなったとしても、かけがえのない人として大事にすることです。

そして、このことは、先ほどお話ししました、エッセンシャルワーカーにとって、なくてはならないことでもあります。
今後、皆様が働かれる場におきましても、保育の平等や質ということと、組織・事業の効率性を天秤にかけ、この子の面倒は見切れない、など、そういった場面に、出くわすこともあるかもしれません。そんな時に、いやいや、この子こそ、大切にされなければならない、と主張するのは、なかなか言い出しにくいかもしれません。保育以外の道に進まれる方もいらっしゃると思いますが、こうしたことは人間の組織であれば、どこでも起きうることです。
そんな時に、ぜひ思い出していただきたいのが、自分の損得を超えて人々を分け隔てなく大切するということ、また、社会の隅に追いやられてしまう人こそ大切にされなければならないということこそ、エッセンシャルワーカーの特質であり、柳城で学んだ愛の精神である、ということです。そして、何よりも、神様が、誰一人排除することなく、全ての人たちを、ここにいるお一人お一人を、愛し、大切にしておられるということです。

忘れようとしても忘れることのできないコロナ禍での、この卒業の時。そのことを、むしろ深く思い巡らしながら、これからを歩まれることを願っております。 (チャプレン 相原太郎)

 

 

【コリントの信徒への手紙一 13:13】
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

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【マルコによる福音書4:30-32】
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

✝ ✝ ✝

私ごとですが、それまで「柳城」のことは何も知らず、せいぜい、伝統ある保育者養成校という認識しか持たないで、昨年の4月に本学に赴任いたしました。新入学生と同じように、それ以来、「愛をもって仕えよ」「人々とともに生き、人々のために仕える」という学院の建学の精神の言葉が、重く私の心に入り込んできました。初めて聞く言葉です。

「愛をもって仕える」とは、どういう行動をすること?、どのような愛をもって? 「仕える」って、どういうこと? という問いが自分の中で何度も行き来しています。私は聖書のことも何にもわかりませんので、礼拝にもなるべく出るようにしてみました。また、4月早々から私の流儀で「にわか勉強」を始め、図書館で「柳城短期大学紀要」を片っ端から読んでみたり、本学院の歴史資料室にある「記念誌」なども手あたり次第、読んでみました。その中で、最も心を動かされたものがあります。それは、「種蒔き」というマーガレット・ヤング先生の詩であります。皆さんは、もう、十分にご存じです。

      種蒔き           M/ヤング作

翼ひろげた天使が
愛と真理と光明との
種子をひと粒 手にもって
飛ぶのを止めて考えた。
「これが大きくなったなら、すばらしい実がなるように
どこに蒔いたらよいのだろう」

救い主さま、それを聞いて
にっこり笑って おっしゃった
「私のために その種子を
子どもの心に 蒔いておくれ」

私は、大学入学以来、幼児教育をやってまいりましたが、ヤング先生の詩に触れ、改めて、フレーベルが幼稚園に「庭」を大事にし、教師は「園丁のしごと」であり「子どもの心に愛と真理と光明との一粒の種を蒔き、育てるしごと」だといったことを深く考えました。

種子をまくという作業は、まず、土地の耕しから始めます、そして、腰をかがめて一粒ずつ、丁寧にまいていきます。蒔いたあとは、水やりや、雑草抜きや、害虫に襲われないように用心もします。太陽の光もなくてはなりません。考えてみますと、これは一人でもできそうな仕事ですが、よく考えてみると、決して自分一人でできる仕事ではありません。まず、水をやるといいましても、その水は誰かが水道を引いてくださったものであり、じょうろだって私が作ったものではありません、誰かほかの人によって作られたものです。

そうなんだ、「一粒の種を蒔く」ということは、「私一人でできる」ことではない、私以外の目に見える人、誰かわからない人たちの多くの知恵や工夫に支えられて初めてできることなのだ、ということに気づいたわけです。
こうして、柳城のことがまったく「わからなかった」「知らなかった」ことが少しだけ、「自分流儀で」わかったような気持ちにたどり着きつつあります。
11月には八事のヤング先生のお墓にも、一人で行ってきました。秋の晴天のもと、墓石の前で、名古屋の空を眺めておりますと、「ヤング先生も、この同じ空を眺められたであろう」「ヤング先生も、名古屋のこの空気をお吸いになったであろう」という思いがわいてきます。何だか、背中を温かく後押しされたような気持ちです。

柳城には、「一粒の種を蒔く仕事」に携わっていらっしゃる方が多くおられます。教員だけでなく、事務の方々、また、それ以外の方々、そういう人たちと一緒に「種を蒔く仕事」ができるということは、なんと心強く、うれしいことでしょう。自分だけの仕事ではない、多くの方々とつながりあって種蒔きを続けられるという幸せ、こんなことを感じながら、新しい年の一歩を踏み出していきたいと、思うとことです。学生の皆さんにも、一粒の種を蒔くという仕事を大事に励んでいただきたいと願っています。
(副学長 豊田和子)

【マタイによる福音書2章9-11節】
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

✝ ✝ ✝

 イエスがユダヤ地方の小さな村、ベツレヘムで生まれた時のことです。東の国の博士たちが、新しい王の誕生を告げるとされる星を見つけ、その星を頼りにユダヤ地方にやってきました。この時点では、博士たちは、救い主がどんな姿で、この地上に現れたのか、全く知りません。
博士たちはまず、当時その地方を支配していたヘロデ王のところに行きます。ヘロデ王に挨拶をした後、ベツレヘムに向かうわけですが、そこで博士たちを待ち受けていたのは、実に意外な光景でありました。救い主の誕生の場所を知らせる星が、ついに一つの場所に止まります。しかし、その星が示したのは、ただの「家」でありました。
博士たちは、ユダヤ王国の権力の頂点にいるヘロデ王の宮殿からベツレヘムに向かいましたので、ユダヤの王の姿がどういうものか、実際に会って理解しているわけです。そして、そのヘロデ王を超えるような王の姿を想定していたことでしょう。ところが、星が示したのは、ヘロデ王がいたような大きな宮殿ではなく、貧しい村の民家でした。しかも、中に入ってみたら、若い母親、そして、飼い葉桶に寝かされていた幼子がいるだけです。
普通に考えれば、博士たちは、こんな幼子は救い主のはずがない、と思いそうです。しかし、博士たちは疑問に思うどころか、その幼子の前に、ひれ伏して拝んだのでした。そして、最も大事にし、また仕事道具でもあった宝、黄金・乳香・没薬を差し出したのでした。
博士たちが見た幼子はそこにただ寝ていただけかもしれません。泣いていただけかもしれません。ただの幼子としてこの世に生まれ、マリアに頼らなければ何もできないイエス。博士たちは、星が示した、すなわち、神が示された救い主が、この幼子なのだ、という知らせを目の当たりにします。それによって、博士たちに、決定的な価値観の転換が起こったのでした。

すなわち、救い主とは、この世の権力の頂点、たとえば、ヘロデ王のように政治力や軍事力をもって人々を導くような存在ではない、ということです。むしろ、本当の救い主とは、他の貧しい人たちと同じように、小さく弱いものとして、私たちの間に来られる、ということです。神は、貧しい人々の間に入って、人々と共に泣き、共に喜ぶような存在、上から支配するような存在ではなく、愛をもって仕え合う存在なのだということ、そのことに、博士たちは気付かされたのでありました。

クリスマスとは、神自身が、愛によって人々に仕えるために、その独り子を幼子として、この世に差し出された出来事です。神は、持っているたくさんのものの中から、ほんのごく一部を分けたのではありません。神は、身を挺して、神自身を、最も弱い姿でこの世に差し出されました。このような神の行為に気がついたからこそ、博士たちに決定的な価値転換が起こり、それまで最も大事にしていたものを差し出し、新たな道へと踏み出すことが可能となったのでした。

神が、独り子を幼子としてこの世に遣わされたことを覚え、遠く東の国から旅をしてきた博士たちと共に、愛をもって仕えるという新たな道へと旅立つ2021年でありたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


新年早々の中庭

【ルカによる福音書第2章1-7節】
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

✝ ✝ ✝

 このルカによる福音書のイエスの誕生の場面には、現代のようなクリスマスのイルミネーションも豪華なご馳走もありません。それどころか、彼らには寝泊まりする場所すらありませんでした。
旅先のベツレヘムで、家畜と一緒にいる部屋で、マリアはイエスを出産します。「飼い葉桶に寝かせた」と書かれています。
その飼い葉桶ですが、飼い葉桶と言うと、木製の可愛らしいものを想像するかもしれません。しかし、当時のパレスチナ地方の飼い葉桶は、桶と言っても木製ではなく、石をくり抜いて作られたものが一般的だったそうです。生まれたばかりの神の子イエスが最初に置かれた場所は、豪華な部屋の、ふかふかのベビーベッドはありませんでした。
この世に生まれ出た神の子であるイエスには、泊まる場所すらありませんでした。しかも、イエスが寝かされたのは、石でできた飼い葉桶、冷たい石の上であったかもしれません。このように、誕生のときから、徹底して無力な姿で私たちの間に宿られ、この社会にまともな居場所も与えられず、冷たく拒絶されていたわけです。

その出来事から30年後、イエスは、ローマ帝国の片隅のガリラヤ地方で、この世での居場所が奪われた人達と共に悲しみ、共に喜び、また病気を癒やしたりする働きを行います。そして、その行動ゆえに、首都エルサレムで、ローマ帝国とその傀儡政権によって十字架で処刑され、当時の社会から抹殺されることになります。
そして、イエスが十字架から降ろされて、葬られることになる場所もまた、処刑場から近い、暗い洞窟の中の石の上でありました。

つまり、イエスは、その生涯の最初から最後まで、この社会で居場所を与えられることはありませんでした。そして、その初めも、そしてまたその最後も、全くの無力な状態とされ、硬く冷たい石の上に寝かされたのでした。
神の子イエスは、冷たい石の上で、無力な姿でこの地上で肉体をとり、最後にまた、石の上で、無力なままに埋葬されます。しかし、それゆえにこそ、再び神によって新しい命へと起こされ、イエスの弟子たちに現れ、希望を告げ知らせるのでした。
この逆説的な出来事こそ、この社会で居場所のない人たち、無力とされ、生きがいを失った人たち、そしてすべての命にとって、本物の、生きる希望となるわけです。

クリスマスとは、このように、それまでの世界の常識がひっくりかえるような形で、神の救いが開始される、そのことを記念する日です。新しい希望が見いだされる日、それがクリスマスです。
もうすぐクリスマスです。皆様一人ひとりの中に、そんな希望の喜びが訪れることをお祈りいたします。


伐採前の樹木

【マタイによる福音書第1章18‐21節】
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

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 ヨセフとマリアは婚約していました。ところが、結婚前に、マリアに子どもができます。しかも、結婚前にヨセフとマリアは関係を持っていませんでした。ヨセフにとっては大変なショックでありましょう。ヨセフから見れば、婚約者ではない、誰か別の人とマリアが関係を持ち、その人との子どもが、婚約者であるマリアのお腹の中にいるわけです。裏切られたと思ったことでありましょう。
しかし、ヨセフとしては、まずもって心配になったのは、マリアの命です。マリアのお腹にいる子どもが婚外子であることが表沙汰になれば、マリアは律法に違反した者として、晒し者になって、石打ちの刑に処せられるかもしれません。結婚相手の愛するマリアがそのようなことになることは耐え難い苦痛に他なりません。また、仮に処刑されなかったとしても、母子ともに、これからずっと様々な差別を受けることになります。
また、ヨセフは、マリアのお腹にいる子の、自分ではない本当の父親について思い巡らします。他人の子どもを自分の子どもすることは、その人の父親としての権利を奪うことにもなってしまいます。そこで、ヨセフは、マリアが恥をかくことがないように、内密にマリアとの婚約関係を解消し、その本当の父親とマリアが結婚することを望んだようです。
しかし、聖書によれば、マリアは聖霊によってみごもったのであり、ヨセフも天使によって、そのことを知らされます。天使はヨセフに言います。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
この言葉を聞いたヨセフは、すべてを受け入れるのでした。
それから、イエスが生まれるに至るまで、マリアもヨセフも、世間から白い目で見られていたかもしれません。当時としては、世間的、この世的、常識的に考えれば、マイナスだらけ、傷だらけのカップルだったかもしれません。しかしながら、マリアもヨセフも、神が自分たちと共におられることを信じ、そして「恐れるな」と神から告げられたことに寄り頼んで、そうした周りからの目をはねのけるようにして、ついに男の子を出産し、その子にイエスと名付けました。
このように、クリスマスとは、世間から見放されたり、傷つけられたり、白い目で見られたりする、そのような人々の中で、救い主が生まれる、という出来事です。マイナスだらけ、傷だらけに見えるものの中に神の恵みがあるという、この世の常識を突破する出来事です。
クリスマスがまもなくやってきます。今、傷つけられたり、人から見放されたりしている人々に、そして今、ここにいる私たちに、天使が告げたように、「恐れるな」と、神様が勇気づけられておられることを覚え、クリスマスを待ち望みたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


押し花

【マタイによる福音書第1章19節】
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

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【ルカによる福音書1章39-42節】
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。

✝ ✝ ✝

 マリアとエリサベトという二人の人物が登場します。子ども宿している二人の女性が会って、喜びを分かち合った、というものです。マリアとエリサベトが子どもを宿したことを分かち合う喜びは、極めて特別なもの、特殊な事情があってのことでした。
まずはイエスの母、マリアです。マリアには、ヨセフという、いいなづけがいました。しかし、妊娠が判明したのは結婚する前で、ヨセフとは関係を持っていませんでした。結婚する前に、婚約相手ではない男性との間で子どもを宿す、ということは、あってはならないことでした。マリアが神によって身ごもったということを、当時、誰も信じるはずがありません。夫となるヨセフもそうでした。このことが明るみに出れば、石打の刑になります。幸せな結婚生活を楽しみにしていたマリアはどん底に突き落とされます。
仮に処刑されなくても、ヨセフと離縁してシングルマザーとなることは、当時の社会においては、厳しい生活を送ることを意味します。さらに、この地域は当時、ローマ帝国に支配されていました。その中で、少なくない女性たちが、ローマ兵の性暴力の被害に遭ったとみられています。性暴力は、今以上に、被害女性とその子どもに対して差別の目が向けられ、マリアとその子どもも、そのように見られて侮辱される可能性が多分にありました。
このように、イエスの母マリアは、大変な不安と怖れ、緊張、苦悩の中に置かれていたわけです。そこで、マリアは一人で旅に出るのでした。当時、このような形で女性が一人で旅をすること自体、異常な逸脱行為でありました。マリアの苦悩の大きさをうかがい知ることができます。
そのようにしてたどり着いたのが、山里でひっそりと暮らすエリサベトでした。
エリサベトはこの時、子ども宿していましたが、それまで子どもがなく、高齢を迎えていました。当時のユダヤ社会では、子どもを産まないと、その女性はもちろんのこと、彼女を産み育てた家までも、厳しく非難されていました。そのような状況の中で、長い間エリサベトは辛い生活を送ってきました。
結婚前にいいなづけの男性との関係を持たないまま子を宿したマリア、そして高齢になって子を宿したエリサベト。この二人の女性が山里の家で出会い、お互いの苦悩と喜びを分かち合います。そして、そのような厳しい状況の中でも、神からの呼びかけを聴き、自分たちは、たしかに生きていていいのだ、ということを確認し合うのでした。これこそが、二人の女性の特別な喜びであったわけです。
まもなくやってくるクリスマスの喜びとは、このように、世間から侮辱されている人、辛い思いを強いられている人々に、あなたたちは確かに生きていていいのだ、あなたの人生はどんなことがあろうと神から祝福されているのだ、かけがえのない存在なのだ、ということが明らかにされる出来事です。

このクリスマスのときが、皆様一人ひとりにとりまして、喜びの時となりますことを、お祈りしております。
(チャプレン 相原太郎)


最後のミッション?

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