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カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【コロサイの信徒への手紙 3:15-16】

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。

明けましておめでとうございます。

新しい年が始まり、「気分も一新」という感じかと思います。教会でも、1/1を主イエス命名の日、1/6は顕現日、つまり3人の博士がイエスを訪れた日、そして1/8を主イエス洗礼の日というようにそれぞれ定めて、新しい一年をスタートさせています。

新年に何を期待するかはそれぞれで違うでしょうが、全世界的な視点でいえば、やはり、世界平和ということになるでしょう。難民問題等のニュースからは、他国民との共存の難しさが浮き彫りになっていますが、日本の社会ではどうでしょうか。

日本に住む外国人が200万人を超えています。地域による偏りが大きく、愛知県ではいえば、自動車工場がある地域に外国人の方が多いようです。介護福祉の仕事の担い手として、外国人の方に期待が寄せられてもいますが、そういった「役に立つ外国人」という視点よりも、地域の中で外国人と共存していけるかどうかに関心を寄せたいものです。日本の習慣に慣れない外国人を受け入れる気持ちを高めると共に、ヘイトスピーチ等で語られている情報がはたして正しいかどうかを自分自身で判断することも大切です。

いずれにしても、イエスが語った隣人愛、他人を自分のように愛する気持ちが、皆の心の中心にあってはじめて平和は実現するのだと思います。(チャプレン)


プリムラ

●次回礼拝予定:1/18(水)13:10  合同礼拝(体育館)

【コリントの信徒への手紙一3:6-7】

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

本日の聖書個所から、人の成長について考えてみます。

実習先でも気づくことでしょうが、子どもの行動は年齢相応に変化するものです。幼稚園に入ったばかりの子は、親元を離れて生活するという初体験にとまどう毎日でしょうが、年中さんになると、園生活に慣れてきて、自分勝手な面が出始めます。でも、それが年長さんになると、お兄さんお姉さんと呼ばれ、小学校に向けての心の準備も重なって、緊張感を持って生活できるようになります。中学校でも同じで、入学したての頃は、教科別に教員が変わるという学習環境に新鮮味を感じますが、2年生にもなると、いわゆる反抗期を迎えて、心が不安定になることもあります。でも、それが3年生なると、先輩と呼ばれるようになり、高校受験を控えることから、だんだんと落ち着いてくるものです。

このように人は、ある程度の決まった段階を踏んで成長するものですが、ときどき、ある特定の段階を飛び越えてしまうことがあります。いわゆる「幼児返り」の原因もそこにあると言われています。

私が中高一貫校の教員をしていた時の話ですが、職員室によく遊びに来る女子生徒がいて、それがいつの間にか、ある女性教員の膝の上に毎日座りに来るようになったのです。これが職員会でも話題になったのですが、養護教諭の方が「これは子どもの時に、親の膝の上で遊んだ経験がなかったために起こる幼児返りで、そのうち、しなくなりますよ」とアドバイスしたために、その女性教員は安心したうえ、女子生徒も一ヶ月もしないうちに、その行動を止めたのです。

また、荒れた中学校の話ですが、廊下を自転車で走り回るような中学生が、ある時、三輪車を見つけて、それを大変楽しそうに乗り回していたということです。これも「幼児返り」の事例かもしれません。

いわゆる「お受験」などという環境で育つ子どもも多い今の時代、親に甘えて育つ時期を経験できなかった子もたくさんいるでしょう。豊かな幼児体験を経験させることが親の大切な務めです。保育の仕事を目指す多くの皆さんには、親と話し合えて指導もできるような人になって欲しいと思います。(チャプレン)

ポインセチア

●次回の礼拝:クリスマス礼拝 12/21(水)16:30- (体育館)

 

○本日は、通常礼拝の直後に、本学の附属柳城幼稚園の青組さん34名による特別賛美が披露されました。

1年に1回きりの恒例行事ですが、園児さんたちは一生懸命に練習を重ねてきてくれています。そのおかげで、チャペルは実に和やかで爽やかな雰囲気に包まれました。胸に十字架を付けた子どもたちを見るたびに、短大保育科としての社会的使命を感じずにはおられない、と書くと大げさかもしれませんが、イエス・キリストが「天の国はこのような者たちのものである。(マタイ19:14)」と語る通りです。小さくて何の力もない子どもたちですが、その将来は無限に広がっています。神の見守りの中、よい保育者に囲まれて大きく成長していって欲しいですね。(加藤)
【子どもたちの詳しい様子については、名古屋柳城短期大学附属柳城幼稚園のブログページでご覧ください】

○なお、教話の内容は以下の通りです。

【マタイによる福音書3:1-6】

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

12月最初の礼拝です。キリスト教の暦では降臨節という期間に入っていて、教会はクリスマスの準備の真最中です。世間でもクリスマスに向けてお祭りムードですが、キリスト教の信徒は、イエス・キリストの誕生のお祝いに向けて心の準備をしています。どういった準備かというと、それは、今日の福音書の箇所から読み取れます。

洗礼者ヨハネは、荒れ野でらくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていました。つまり、町を離れ、貧しい姿で質素な生活をしていたということです。当時の人々は、このヨハネの姿に魅了されたということでしょうが、今の私たちにはとても真似はできません。それでも、日々の慌ただしい生活や色々な欲望から少し距離を置いて、自分自身を振り返り、何か特別なことに集中することで、心を研ぎ澄ますことはできるでしょう。仏教でいうところの座禅の境地といいましょうか、邪念から離れるといった感じです。

そもそも教会とは神と向き合って自分自身を振り返る場所です。クリスマスに向けて、皆さんが心を研ぎ澄ます、その助けとなるような教会でありたいと願います。(チャプレン)

●次回の大学礼拝 12/14(水)13:10~(体育館)
【学生生活員会による特別企画が礼拝後に用意されています】

【ローマの信徒への手紙5:1-4】
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

聖公会の暦では、12月25日のクリスマス直前の4週間、すなわち今年でいうと11月27日から12月24日までを降臨節と呼んでいます。イエス・キリストの誕生を祝う日を迎えるために、この期間、皆で心の準備をしましょうということです。世間ではクリスマスの飾り付けが盛んですが、救い主であるイエス・キリストを迎え入れるに相応しいかどうかを自分自身に問うことが本来の目的で、悪い考えから遠ざかる努力をするとか、信仰を深めたりすることが大切になります。国によっては、この間、断食をしたり、肉だけを絶ったりすることもあるようで、欲望を絶つという点では意味のある行為かもしれませんし、少し断食をしただけでも集中力が増して、心と体のバランスが整うといいます。

さて、皆さんは来週から実習が始まります。期間中、普段の生活のリズムが大きく変わるので、ギリギリまで寝ていて、授業は受身状態、というような日常から離れて、今から早起きをし、朝一番から意欲的に行動できるようにしておくとよいでしょう。

園長をした経験から言うと、実習の成果は現場経験の活かし方、特に、失敗の経験にどう対処したかに左右されます。もちろん、失敗などしたくはないでしょうが、もし失敗したとしても、それは決して悪いことではありません。それを次に活かせればよいのです。指導する側もそう考えています。だから、実習日誌には、失敗したことを正直に書いて、それを自分自身で評価し、次にどう対処するかなどをキチンと記録するとよいでしょう。私も大学時代に教育実習を受けましたが、「話をする際に、語尾が聞き取りにくい」と指導されたことを今でも覚えています。

二週間の実習期間、失敗を恐れずに、普段やりたいと思っていることがあれば積極的にトライしてみてください。頑張ってください。(チャプレン)

●次回の大学礼拝 12/7(水)13:10~
【名古屋柳城短期大学附属 柳城幼稚園の園児さんらによるキャロリングが披露されます】

ランタナ

 

【ヘブライ人への手紙12:11】
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

柳城祭が終わりました。今日は文化祭について考えてみます。

柳城祭に備えて色々と練習を重ねた人も多いと思いますが、練習中はうまくいかないこともあってつまらないし、飽きてくることもあります。鍛練というのはそういうもので、その分、結果が良いと喜びも大きいと、今日の聖書も語っている通りです。

幼稚園や保育園の文化祭といえば作品展ということになりますが、これは子どもの文化的成長を知る上で大切な行事です。大体は4月から準備に入り、日頃の作品をためておいたりするものです。クレヨンやクレパスから始まり、次第に絵具や鉛筆が使えるようになる。特に版画は幼児にはレベルが高い分野ですが、出来た時の仕上がりには素晴らしいものがあります。

さて、幼児の作品を展示する段になると、どうしても上手/下手が目立ちますが、ここで大切なのは、出来の悪い作品でも、それを子どもの個性として捉えて評価できるかどうかです。展示する工夫も必要です。たとえば、上手/下手が入り混じっても全体が整うよう、背景とかレイアウトを考えたりすることもあります。紅葉は樹木全体としては美しいですが、一枚一枚の葉はそれぞれが個性的で、中には汚いものも混ざっています。これと同じ理屈です。

子どもの個性を幅広く受け入れるためには、大人側の感性を豊かにしておく必要があります。色々なことに関心をもって視野を広げておくのも手です。その際に鍛練が必要となることもありますが、子どもの違いが分かる人になって欲しいと思います。(チャプレン)

●次回の大学礼拝 11/16(水)13:10~ 田中チャプレン(司式・説教)

ペチュニア

【ローマの信徒への手紙 12:6-7】
わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。

前回の礼拝で、キリスト教の洗礼式についてお話ししました。水に中に浸かるとは、いったん「死ぬ」こと、つまり、今までの自分の生き方を変えて、キリスト教の教えに従った新しい人生を歩むことでした。洗礼には無関係な皆さんかもしれませんが、自分自身が変わっていく、自分を変えていくことは大切です。

小学校から大学へと進む中で交際範囲はだんだんと広がるものですが、多彩な人と接することは自分を変える大きなきっかけになります。私自身、大学に入った時、個性的な人々に出会い、自分がつまらない人間だと感じたものです。文科系のくせにアインシュタインの相対性理論を計算してみせたり、24時間で映画を11本観たとか、カミュの『異邦人』の日本語を全部暗記してから原文のフランス語で読み返したりと、本当に刺激的でした。

皆さんのほとんどは、将来、幼児教育か介護福祉の道に進むでしょうが、相手をする人は社会的に弱い立場の人たちです。それらの声をきちんと受け止められるかどうかで仕事の充実度が決まってきます。最初からできなくても、自分を変える柔軟性を持っていれば、そのうちにうまく対応できるようになるでしょう。仕事上の知識や技術と共に、それぞれの個性を活かし切って仕事をしなくてはなりません。そのためにも自分を変えていく姿勢が常に求められます。(チャプレン)

カリブラコア

 

この日は、宗教主事の菊地伸二先生の司式による体育館での合同礼拝に続いて、東日本大震災復興支援ボランティアの活動を行っている学生たちの活動報告会が開かれました。2011年の大震災から毎年、学生ボランティアによる被災地支援活動が続けられています。この日の報告会では、今年度実施されている3つの活動が紹介されました。

夏休み期間の8月末に福島県と宮城県の沿岸部を訪れた「現地活動」では、大型の台風が東北地方に迫り、途中で日程を切り上げなければならないような状況で、仮設住宅でのレクチャーや被災地巡礼、公民館での茶話会や幼稚園での保育参加など、さまざまな活動をした様子がスライドとともに語られました。

学生が語った報告全体を通して心に残ったことを紹介しましょう。茶話会ではハンドマッサージや歌などを通じてご高齢の方々との間に親密な交流が生まれたこと。幼稚園では学生の大型ペープサート上演と子どもたちの歌のプレゼントによる交歓を通して、時が経過しても距離が離れていてもこの幼稚園と柳城とが繋がっていることが実感できたこと。被災地では、復興に向けた歩みが進められていますが、そのような時期になったからこそ被災地の方々はこれまで口にされなかった震災の体験を深く語ってくださったこと。

そして、名古屋と東北で、場所は離れていても、被災地の方々と繋がり続けるために、柳城のキャンパスで行われている2つの活動が報告されました。被災地の公民館で行われている茶話会に、毎月ケーキを焼いて送る活動をしている「チーム・パティシエ」の学生たち、そして、被災地の幼稚園や小学校にちなむヒマワリの種を育てて、花を咲かせてきた山本聡子先生のゼミの学生たち。それぞれの活動が、被災地のご高齢の方々、子どもたち、先生方や現地の支援センタースタッフの方々とそれぞれに繋がり続ける活動となっています。

この小さな短大に、被災地支援の種が播かれ、育てられていく中で、私たち自身に大きな恵みがもたらされていることを感じる報告会となりました。(村田)

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
【ローマの信徒への手紙12:15 本年度、年間聖句】

 

【ルカによる福音書 3:21-22】
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

今日は、先ず、洗礼についてお話しします。洗礼とはキリスト教の信者になるための儀式ですが、聖書には、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと記されています。水の中にいったん沈んで、そこから出てくる。今の教会でも、このような洗礼の方式を守っているところがあります。水に入ることで、今までの生き方に別れを告げることを宣言し、そして、水から出ることで、キリスト教の教えに従った新しい人生を歩むという決意を示すのです。白装束で洗礼を受けることが多いのも、そういった意識の表れです。

一方、洗礼式の際には、よく、ノアの洪水やモーセが海を渡る場面を記した聖書箇所が読まれます。不信仰な者たちは洪水に流され、キリスト教に敵対するものは海水に飲み込まれる。つまり、これらはキリスト教に従う者だけが生き残ることを象徴していて、洗礼の意味を語るには都合がいいわけです。

さて、今までの生き方に別れを告げると言いましたが、そのためには自分自身の個性を知る必要があります。個性といっても、たいていは他人と自分を比べることで分かることが多く、従って相対的なものになりがちです。たとえば動作が遅いという性格は、見方によっては、セッカチでなくてユッタリしているというプラスの面で評価されることもあるわけで、何が良いか悪いかは一概には決められません。しかし、一般的には人は自分を悪く思いがちです。

私も自分自身を振り返ってみて、10代20代の頃に比べてずいぶん変わったなと思います。皆さんも社会に出る前に自身を振り返り、できるだけ自分を高めておいて欲しいと思います。(チャプレン)

ポーチュラカ

 

【コリントの信徒への手紙一 12:20-27】
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。


AHI(アジア保健研修所)
と本学キリスト教センターとの共同企画という形で、合同礼拝&AHI巡回報告会が開催されました。本学では、昨年に引き続き2回目の報告会(1回目はこちら)となりますが、今回は、フィリピンでは少数派であるムスリム(イスラム教徒)の女性であるエメリン・バヒン・ジャラル(以下エミー)さんをお招きし、合同礼拝では、AHIの中島隆宏さんにメッセージを、続く報告会では、エミーさんに「最果ての島で健康を守る―フィリピン・スールー諸島での取り組み」と題するお話をしていただきました。

中島さんは、いわばエミーさんの報告の導入役と自らを位置づけながら、彼女が、フィリピンの中でも政情が安定せず、住民の生活や健康が脅かされる少数派のイスラム教徒の住んでいる地区で、病院院長兼保健局長という立場から、住民の健康を守るために取り組んでいることを紹介するとともに、AHIが、エミーさんの活動を支援することの意味を、「もっとも大切と思われていない兄弟の友人、隣人となること」「アジアと日本、また、ムスリムとクリスチャンとの和解・対話」のうちに求め、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(一コリ12.26)という聖書の言葉にあるように、誰かを犠牲にした平和ではなく、いっしょに喜べる平和を、健康づくりを通して行いたいと話されました。

エミーさん(中島さんが通訳を務める)は、フィリピンの最南端にあるスールー諸島の離島であるパゴタランで病院長兼保健局長を務める中で、とくに、力を入れて取り組んでこられたことを、スライドを使ってわかりやすく説明してくださいました。たとえば、妊娠のことも、母親だけでなく父親にも理解を求めて家族の問題として捉えてもらうこと、保健に関わる諸問題も、ひとつの家族だけでなく地域全体のものとするために、その地域の長やキャプテンに働きかけること、また、次世代を担う子どもたちに早期から保健に関わる知識を伝えていくこと、さらに、ラジオや劇を通してそれを浸透させていくこと等々、その活動は実に広範にわたるものでした。社会を変えるためには、一人ひとりが変わっていくことが大切だからです。このような弛まない活動を続けてこられたのは、貧しい人びとの喜びにまさるものはないから、とも語るエミーさん、キリスト教の礼拝を守るわたしたちには、ひとに仕え、神に仕えることを神様は喜んでくださる、とあたたかく語ってくださいました。(菊地)

 

【ルカによる福音書 14:12-14】
また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

今日は人の平等について考えます。

先ほど読まれた聖書には「宴会をする時は、親しい者ではなく、むしろ不自由な人を呼びなさい」と記されています。普通では考えられない教えです。もちろん当時にあっては、障がいを持った人々は「招かれざる客」であったわけですから、余計に現実離れしています。

現代にあっては、先日のリオのパラリンピックで見られたように、障がいを持った人々が差別されるような時代ではありません。公平さを保つために、障がいの程度の応じて同じ競技種目が複数に分類されているくらいです。「どこかに障がいがあるから全部だめ」ではなく、「機能している他の面を最大限に活かす」という発想です。パラリンピックは、差別観がなくなったことを実証しているのです。

一方、健常者の間でも平等の意識が高まりつつあります。たとえば、年齢別スポーツ大会。100メートル走の世界記録保持者は90歳を超えた日本人だそうです。

スポーツを通して自分の能力を発揮できる人の話が続きましたが、では、スポーツのできない人はダメなのか。日常生活すら自分で営めない方々はどうなのか。どこまで人は平等と言えるのか。もっともっと考えるべき問題です。

たとえば、いくら健常者でも、その一生の中で人の世話にならないと生きていけない時期が必ずあります。赤ん坊の時期と介護を必要とする時期です。赤ん坊は泣くこと以外で文句を言わないですが、高齢者は好き嫌いが激しくて扱いが難しくなります。高齢者介護の職場では、もちろん使命感が必要でしょうが、あまりに高すぎると、長続きしません。

人の世話になるのが嫌で自殺する人もいるそうですが、人が人の世話になることは当たり前のことと自覚したいものです。その感覚が平等の精神を育むのです。(チャプレン)


ニチニチソウ

 

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