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カテゴリー:バイブルタイム の記事一覧

今回心に響いた御言葉は…
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコによる福音書13:32〜33)

前回に引き続き、イエスは弟子たちに終末の徴(しるし)についてお話になられました。

イエスは終末の時に備えるよう強く警告なさり、その上で、御心に従う覚悟ある者を旅に出た主人を待つ僕や門番になぞらえて「主人はいつ戻って来るのか分からないのだから、主人がいつ戻ってきてもよいように心を主人に向け、準備を怠らず日々過ごしていなさい」と諭されました。

ところでイエスが再臨する「その日、その時」とはどのような時なのでしょうか。

これを考えるヒントを、今回、私はマザー・テレサの姿から与えられました。

マザー・テレサは死を待つような弱く小さな人々の中に、常にイエスの姿を重ねて接していました。それはイエスの再臨を待つだけの受身の姿勢ではありません。弱い立場の人々をイエスだと思って、イエスのために愛の奉仕を積極的に行なうということなのでしょう。

「ひょっとすると、イエスはすでに現れているのかもしれないし、もしかしたら、昨日出会ったあの人だったのかもしれない」と思うことは、信仰を深める意味で重要ではないでしょうか。

私は真の目覚めのない信仰は自分勝手であり、虚しいものに終わってしまうのではないかと感じました。

常にイエスを感じて目を覚ましていることは、油断してすぐに怠けがちになる私たち人間には厳しい教えかもしれません。

しかし一方で、真の目覚めとは内と外よりイエスをいつも感じるアンテナであり、イエスとともに歩み続ける「喜び」の根であると感じました。

私は今回、マザー・テレサの視点から、常にイエスを感じ弱い立場の人々には愛を、自身には揺るぎない信仰の深さを求めて生きる姿勢を学びました。

イエスは今も「目を覚ましていなさい。私はいつもあなたがたと共にいる。」
そのように私たちに語られています。

次回もイエスのお姿を通して御心を学んでいきます。


出来上がった干し柿

今回心に響いた御言葉は…
そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(マルコによる福音書13:21〜23)

前回イエスは、弟子たちへ向け終末の徴(しるし)について話されました。そこでは人間同士の争いや天変地異が起こり、そして、それらの結果、数多くの人間が災難に遭い死に至るということでした。

そこでイエスは弟子たちに、これから彼らの身に起こることを預言されました。しかし、たとえ患難があろうと、信仰をもって「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13:13)との御言葉も授けられました。

また、イエスは旧約聖書のマカバイ記にある「憎むべき破壊者」という言葉をお使いになり、苦難を引き起こす破壊者の存在についてお話になりました。

今回私は、イエスのお姿を簡潔に書き記そうとするマルコには珍しく、リアルな終末の惨劇が描写されていることに注目しました。これはイエスの終末の御言葉にある「憎むべき破壊者」の存在を知らしめて、それに打ち克つ信仰の厚さを常に心に留めておきなさいという強いメッセージであると思いました。

しかし、たとえ厚い信仰心をもっていたとしても、それを揺るがす偽メシアや偽預言者が現れるとイエスは警告します。

それは現代社会の中にも存在します。甘い言葉や共感を売り物にして、個性を活かすことよりも仲間作りに励む今時の流れに惑わされないよう、私は学びをとおし、イエスの言葉だけを頼りに歩み続けたいと思います。


学食の風景

今回心に響いた御言葉は…
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」 (マルコによる福音書13:2〜3)

説教を終えられたイエスは弟子たちと共に神殿から出てこられました。神殿は当時の王が建てさせた力の象徴です。その姿は、「お上りさん」的な弟子たちにとって威厳に満ち溢れていたのでしょう。思わず弟子の一人が神殿をほめ称え、師イエスに伝えました。

ところがイエスはそんな弟子の浅い視点を「こんな派手な上辺だけの建物など、いつか簡単に壊されてしまうよ」と一蹴なさったのでした。

その通り、数十年の後にローマによって神殿は破壊されて、その預言は的中します。しかし、弟子たちに預言を話される事をイエスは重要としたのではありません。

イエスはあくまでも一般的なたとえとして「形あるもの(派手な神殿)ではなく魂(信仰)の部分を見なさいよ」と諭されました。

現代においても、私たちは莫大なお金をかけて建てられたタワーや豪華な装飾で飾られた美しい教会などに目を奪われる時があります。その見せかけの雰囲気に心が一瞬同化してしまうからです。

しかし落ち着いてよく見てみると…その姿は虚勢や人を集める事だけを目的に建てられた安易さが感じられます。私たちはよく見ることで感じ、何故そのように見せかけをとりつくろうとするのか考え、その結果、真実を知るのではないでしょうか。

イエスはその私にも語られます。

「気をつけなさい。心の目を常に研ぎ澄まし、きらびやかな物欲ではなく、確かな魂の真実を見よ」と。

次回はこの御言葉の内容が詳しく明かされます。
引く続き、心で感じながら学びます。


スイートアリッサム

今回、心に響いた御言葉は…
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコによる福音書12:43〜44)

イエスは賽銭箱の前に座り、人々がお金を入れているのを見ておられました。その賽銭箱はラッパ状で、お金を入れるたびに大きな響きが回廊に轟き、それが裕福さをあらわす一つのステイタスとなっていました。

次々に身なりの良い人々が沢山のお金を投げ入れる中、イエスは1人のやもめの姿に目を止められたのです。

やもめが捧げたお金は、当時のユダヤの最小通貨であった1レプトン銀貨2枚。1日の労働賃金分と言われる1デナリオンの64分の1というわずかな額でした。

やもめを食いものしていた律法学者とは対照的なその姿は、世間では「少数で弱い立場」そのものです。しかし彼女には世間の人々が持つことが出来ないものを持っていました。それは、ただひたすらに神を頼りに生きる彼女の信仰の厚さです。そこにイエスは目を止められ、彼女の神への献身、献げる感謝の思いを感じたのです。

1人のやもめは痛いまでに神への献身をあらわしました。

見せかけの祈り、身なり、行動をしていた律法学者たちはイエスの御言葉をどうように聞いたでしょう。

いつもイエスは「見かけ」ではなく「心」を問題にされます。そこには信仰と愛に繋がる献身の思いが頂点にあるのです。そのイエスを、神を、ただひとつ拠り所として生きる。それは失ったものを知っている人間が得られる賜物だと私は思います。イエスはその弱い立場の人間の思いを知っておられます。

次回も学びは続きます。
これからも与えていただけることに感謝し、続けていきます!


ワイルドフラワー

今日はマルコ通読二十九回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『 主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。 (マルコによるよる福音書12:35〜38)

大群衆が見ている中、イエスは詩編110章で記されているダビデの言葉を使って律法学者たちを厳しくとっちめました。

律法学者や当時の人々によってメシア化されたダビデ本人が『主は、わたしの主にお告げになった』と記しているのに、なぜ、お前たちは「メシアはダビデの子だ」と言っているのかと。

私はこのダビデの言う二つの「主」が誰にあたるのか、すぐには理解できませんでした。しかし主を崇めるダビデの目線で読むというヒントを頂くうち、最初の「主」が神であり、後の方は「メシア(救い主」であると分かりました。

ダビデ自身が「主(神)は、わたしの主(メシア)にお告げになった」と言って、自分の子以外の何者かをメシアと呼んでいるのです。従って「メシアがダビデの子である」はずはなくなります。

律法学者たちはこの理路整然としたイエスの御言葉に、ぐうの音も出ません。

当時、事細かな律法や決まりを守れない民衆は罪人呼ばわりされて蔑まれていた時代です。イエスの御言葉に何も言い返すことが出来ない律法学者たちの様子を見た民衆たちは、きっと「イエスよ!よく言ってくれた!律法学者たちよ、聞け!」と、日頃から虐げられてきた胸の内がスッとなり大喜びしたことでしょう。

イエスは常に今でも、弱い立場の人間の味方です。

次回のイエスの道のりも楽しみです。


干し柿

今回心に響いた御言葉は…

イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。(マルコによる福音書12:24~27)

イエスは出エジプト記3:6の言葉をお使いになり、かたくなに復活はないと考えていたサドカイ派の人々を論破されました。その言葉を有する「モーセ五書」のみを信条とするサドカイ派を、「聖書も神の力も知らないから」とバッサリ切り捨てられたのです。

それは「あなたたちは、この世の道理にこだわり過ぎるあまり、神の国を見失っている」と警告を与えるイエスの真の愛である、と私は感じました。

今回私は「モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」という箇所を読み解く上で、とても腑に落ちる解釈を与えていただきました。それはイエスの思考と同じく斬新で単純明快でした😊✨

死んで影も形も無いものに対して「~の」という言葉は使わない。つまり「私はアブラハムの神である」という言い方は、アブラハムは神の国で復活して生き続けていること示している。だから、イエスは次に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と、同じ意味のことを繰り返された…。

私はその解釈を聞き旧約聖書を隅から隅まで熟読されたイエスの御姿が重なり、はっきり浮かび上がった思いがしました。イエスは常に理性と深い見識より、この世のことでなく、永遠の命を手にできる神の国の話をされています。

次回もイエスの御姿より、その道につながることの意味、喜びを学んでいきます。


柳城祭とヒマワリ

今回心に響いた御言葉は…
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコによる福音書12:17)

本来なら敵対しあう者同士であったファリサイ派とヘロデ派が、イエスを殺すという合致のもとに集まりました。彼らはイエスを褒めあげ気持ちよくさせておき、その後に油断ならない質問をふっかけるという人の心理をうまく突く手段を使っています。しかしイエスには、そのような人間の狡猾さは全く通じません。すべてを見抜き会話を長引かせることを断つイエスの戦略に、人間は立ちうちできるはずがないのです。

「税金を納めるべきか?」 その問いかけは、Yes/Noのどちらを答えてもイエスを窮地に陥れるように計られていました。しかしイエスはそのような謀略に対して、さらりと「皇帝のものは皇帝に返せばよいではないか」と答えるのです。

私は今回の通読中、このイエスの感覚が、初めはすんなり理解出来ず考えに考えてしまい…😊✨ 迷路に陥ってしまいました。すると「落とし物があったらどのようにしますか?」とのヒントをもらいました。「その持ち主に返しますが…」と答えた瞬間、物事を子どもの様に単純明快に考えるイエスの現実的な理性と、彼の爽やかな本質に触れることが出来た(‼)と私は感じました。イエスはYes/Noで答えることを避けて、ファリサイ派とヘロデ派の企みをものの見事に一蹴されたのです。

そして加えて、富は天に積めという意味で、イエスは「神のものは神に返しなさい」と彼らを諭されました。物質的なものと魂のものとを区別し、私たちが向かい求めるべき道を指し示してくださったのです。

今回の『皇帝への税金』と題されたイエスの御言葉はとても有名な記事です。「知っている」と思っていることと「御言葉を深く心に刻む」ということは意識レベルでは全く異なるのだと、私は通読をとおし体感しました。

次回もイエスの御言葉からイエスを感じ、その御姿を学び、自身の喜びとしていきます(^o^)/


押し花を使った栞作り

今日はマルコ通読二十六回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。 (マルコによる福音書12:1〜11)

エルサレム入城後、神殿を歩いておられたイエスに、権力者である祭司長、律法学者、長老たちは「権威についての問答」を仕掛けてきました。しかしイエスの決然とした神の理論に何も言葉を発することが出来ず、彼らは立ち去りました。その後イエスはこの「ぶどう園の農夫のたとえ」をお話になられたのです。

私は今回、旧約時代からの流れの中で誕生されたイエスの使命を、改めて理解することが出来ました。

旧約の時代、ネヘミヤ記9:26に記されていた民の「大罪」、すなわち預言者を排斥する行為はイエスの時代に頂点に達します。神は忍耐強く、その愚かな人間たちを救うために満を持して愛する息子イエスをこの世に送られたのですが、結局、たとえ話にある通り、イエスを十字架上にかけて殺してしまったからです。

また、このたとえ話において、主=神、農夫=イスラエルの民、僕=預言者という背景から、繰り返し自分たちの利害のみで悪に囚われ行動する民の身勝手さ、愚かさの極みを知ることとなりました。

そして私はただ、このたとえ話では人間の愚かさに焦点を当てるだけでなく、勝算がなくとも神のご計画にひたすら突き進まれたイエスの御心と、愛する息子をこの世に送られた神の愛に目を注ぎ、その愛を心で感じることが大切であると思いました。

気づくことの無い律法学者をはじめとする権力者は、神の愛をハートで理解することが出来なかった…。

イエスのこの世における誕生。
それこそが聖書そのものの歴史を学ぶということであると感じました。

エルサレムにおけるイエスの存在は権力者にとって益々大きくなっていきます。
次回もそのイエスの道を辿ることで学びを進めていきます。(Y)


秋咲ヒマワリ

 

今日はマルコ通読二十五回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。(マルコ11:15~18)

今回の記事は「宮清め」と言われる有名な場面です。エルサレムに入られたイエスは激しく憤られました。それは神に祈りを捧げる神殿という「祈りの家」が、宗教指導者が民から金を搾取するための不誠実な「強盗の巣」となっていたからです。

イエスはその不誠実な人間たちに向けて決然と、神殿が本来どうあるべきなのか、宮清めのお姿によって真理をお伝えになられました。

私は今回、イエスが語られた「祈りの家」がイザヤ書56:7、「強盗の巣」はエレミヤ書7:11に記載されていることも知りました。そのようにイエスは常に聖書に基づいて神の真理をお伝えになり、神のご計画の道を歩まれていたのです。

反面、私はイエスの時代同様、現代でも、自身を中心に考え他人を動かす権力者には、神の真理は奥深く身を焦がす痛烈な怒りと痛みとなるのではないかと考えました。

イエスの宮清めに歓喜したであろう民の姿を見た宗教指導者たちは、イエスを殺す計画を心に固めることになります。

そうなることを承知で、神に祈りを捧げ「宮清め」を実行なさったイエス…。

次回もそのイエスの歩まれた道を、知識だけでなしに、心に深く刻んで学んでいきたいと思います。


腹話術ショー

今日はマルコ通読二十四回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(11:1~7)

イエスはエルサレム入城にあたり「子ろば」を準備なさっていました。

『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。(11:3)

この記事の「主」は所有者の意味で、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節に従い事前に子ろばを用意されたイエスを指しているとも考えられるそうです。

また、そのようにしてエルサレムに入城なさったイエスに民衆は歓喜し、律法学者をはじめ国の権力者はその姿を見て、イエスを捕まえるのをためらったことも知りました。

用意周到とも思えるイエスの行動ですが、私はこれこそが神のご計画であり、私たち人間にはいかに計り知れないものであるのか、今回胸がふさがれるほど強く心に響きました。

そのご計画とは、苦しみを超越したもので、あまりにも大きく澄みわたった御心であると感じ、私自身の喜びにつながったからだと思います。

エルサレム入城を果たしたイエスは淡々と十字架へと向かわれます。

次回も御言葉をとおしてイエスの道のりをたどり、学びを進めていきます。

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