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カテゴリー:活動記録 の記事一覧

今日はマルコ通読二十ニ回が行われました。

今回心に響いた御言葉は… しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 (10:14~15)

我が子に触れていただきたいと願う人々が、子どもたちを連れイエスのもとに集まりました。しかし弟子たちはその姿を叱り、断とうとしたのです。

イエスは「これを見て憤り」(10:14)強く弟子たちの心の小ささを戒められました。

まず今回、弟子たちは何故このように親たちを叱ったのかその理由を、その当時の背景とエルサレムに向かうイエスへの弟子たちの心の模様から考えていきました。

子どもたちは2,000年前の当時、女性と同じに立場が弱く価値のない者として扱われていました。

弟子たちは、その役にたたない、物の数にも入らない子どもたちを親たちが、これから「エルサレム」に向かうイエスの前に引き連れて来たことに対し叱りつけました。

そこには「お忙しいイエスの時間を少しでも守り、その残り短い時を共に過ごしたい」という弟子としての思いあがりがあったのではないでしょうか。

イエスはそのような利己的な弟子たちの姿を猛然と憤られ、戒められました。

イエスは役にたたない者や価値のない者は一人もいないとなされています。それが神の愛であり、その愛を感受する純粋さを受け入れなければ、人は神の国に入ることはできないのだ、と述べられていると私は感じました。

私は今回のイエスの御言葉より保育者として常に忘れてはならない目線、心があることを学びました。

子どもたちはこの世の希望の光です。私たち保育者はその大切な希望を日々、お授かりいただくのです。

次回もイエスの御言葉から学びを進めていきます。


学食の天津飯

今日はマルコ通読二十一回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコによる福音書10:5~10)

ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれたイエスと弟子たちに再び群衆が集まる中、ファリサイ派の人々は、その当時意見が分かれていた離縁問題についてイエスに尋ね、試そうとしました。

その彼らの問いかけにイエスは今回「あなたたちの心が頑固なので」と単刀直入に戒められています。

当時のユダヤでは、女性の立場はたいへん弱く、妻を勝手に離縁することができうる状況にあったといいます。

イエスはその女性の側に立ち、モーセ以前の天地創造の視点から御言葉を与えられたのでした。

また「夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(10:12)と男性の罪だけでなく女性の罪も指摘するところに、革新的な理性あるイエスの御姿が浮かんできます。

次回も福音書の御言葉をとおし、イエスが私たちに求めておられる「道」を心より願い、学んでいきます。


羽化したばかりのセミ

今日はマルコ通読二十回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…

「人は皆、火で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(9:49~50)

イエスはこの直前で罪への誘惑に対する教えを厳しく話されました。
その上で「人は皆、火で塩味を付けられる」と火と塩をたとえに諭されました。

今回は「火と、塩とは何であるのか?」と、通読を深めていきましたが、その問いはとても難しく感じました。

私は火も塩も人間に必要であり火は、エネルギー源。一方塩は長い人生をおくる上で「命」を支える意味をもつ、重きものであると考えました。

結果、人間は試練(=火)により強められ、信仰は(=塩)(保存にはなくてはならないもの)人間に不可欠なものと、教えていただきました。

つまり火で塩味を付けられる…とは、試練で信仰は深められるという意味になります。

「自分自身に塩を持ちなさい。」
そう、イエスは話されます。外側からでなく自身の内に信仰を持ち続けなさいと…。

私はこの御言葉を深く知るほど、イエスの愛の本質を感じました。それはやさしいだけではない真実の愛の厳しさです。試練を恐れ嫌う人もいますが、イエスを知った人には、その試練こそが喜びとなる…。私はそう考えます。

私は今回の記事で、常に初心にかえり、今自分の「塩」はどのような味なのか内省する時が大切であると教えていただきました。

感情から理性へと。
これからもイエスの深いお導きに感謝して、バイブルタイムで学んでいきます。


クローバー

 

今日はマルコ通読十九回が行われました。

今回、心に響いた御言葉は…、

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(9:38~41)

この記事を読み、「集団」を盾にする、かたくなな弟子たちの姿に私は違和感を持ちました。

師イエスは「わたしたちに逆らわないものは、わたしたちの味方なのである」とはっきり、ヨハネら弟子たちに対し布教における心がまえをお伝えになられました。

集団を作ることで自分たちだけのルールを重んじ許容範囲を狭くし、異なるものを受けいれることなく排除しようとした弟子たちを戒められたのです。

今回、「逆らわない者」とは、中立な人々もその中に含まれることを知りました。従わずとも敵対しない人はイエスの「味方」なのです。

私はそこにイエスの御心の深さ、赦しの大きさを感じ、血の通ったイエスのあたたかさに嬉しくなりました。

私たちは十字架に向かわれるイエスの道のりを福音書により知ることが出来ます。私はこれからも通読により、ヨハネをはじめとする弟子たちの心がどのように戸惑い葛藤し、変化していくのか、その過程も学んでいきたいです。


六角形の折り紙作品

今日はマルコ通読十八回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコによる福音書9:36~37)

「誰が一番えらいのか。」 そう論じあっていた弟子たちに、イエスは厳しい言葉で戒めをお与えになられました。

今回の御言葉でイエスは人に仕えるということはどういうことなのか、つづけて弟子たちにお伝えになられています。イエスは小さな子どもを抱き上げ、彼らの真ん中、彼らの目の前で直に導かれました。その姿は神々しく一方では、とても人間的な御姿であられたと思います。

今回の通読では「子ども」とは価値のない者の意と教えていただきました。もちろん、2000年前のユダヤではそのように思われていたということです。イエスは、そのように価値のない者を受け入れることを弟子たちに求められました。また、そうすることで、不完全な私たち人間は神に受け入れられるのだと話されました。

さらにイエスは「わたしの名のために受け入れよ」と語ります。

イエスのお名前から、彼のご生涯すべてが思い起こされますから、そのお名前を辱しめないよう、私はイエスに向かって歩みたいと思いました。

イエスのご命令は現代において見事に実現し、私たちは子どもを価値ある者として尊ぶ時代に生きています。

今回の記事を通し、小さき者に仕える保育者として、日々どうあるべきか…私は主に頼り、問い続けていきたいと思います。


収穫したミニトマトとゴーヤ

今日はマルコ通読十七回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が、走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

高い山に登られたイエスを待つ群衆には様々な人間がいました。汚れた霊をもつ子どもの父親もイエスを待ち望む人間の一人でした。

山腹に残された弟子たちには、この子どもの悪魔払いができません。それに目をつけた律法学者らは彼らに難癖をつけていたことでしょう。しかしイエスが急にお帰りになられたので、皆は大変驚きます。

弟子たちの不甲斐なさを見たためでしょうか。この父親は「できれば…」という言い回しでイエスに霊を出してくれるよう頼むのでした。ここに人間の不信仰を見ることが出来ます。

イエスは信仰の乏しいその言葉を決して見逃しはしませんでした。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

このイエスの言葉に我にかえった父親は叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と。この父親の叫びは真の心から湧き出た祈りです。

人は時として不信仰な存在であることをこの父親と同じように、隠しとおすことが出来ない場面に遭遇します。しかし、イエスはそんな人間の浅ましい心を知ったうえで、父親の悔い改めと子どもへの思いに愛をもって応えられ、悪魔をお叱りになられました。

私たちはイエスの限りない愛を、福音書をとおし学ぶことが出来ます。

「信じる者には、何でも出来る。」
このイエスの御言葉を忘れることなく、私は一歩一歩学んでいきたいと思います。


カフェ棟の花壇

今日はマルコ通読十六回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱しめを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(マルコによる福音書9:12~13)

イエスはぺトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちを選び、共に高い山に登られました。そこでは、弟子たちが想像し得ない光景が展開します。すなわち、イエス、エリヤ、モーセの三人が目映いばかりの光の中で会話をするのでした。

その中でもイエスの御姿は言葉ではあらわせないほどの輝きに包まれ、光に満ち溢れていました。「これは私の愛する子、これに聞け。(9:7)」
神はイエスに使命をお示しになり祝福を与えられました。

そしてイエスは、弟子たちに洗礼者ヨハネをエリヤになぞられ、人間たちが行ったヨハネに対する迫害の道のりを示されました。また、その後に続くイエスご自身の十字架へのかん難もお伝えになられました。

今回の通読では、マラキ書、マタイによる福音書の記事も合わせ理解を進めることが出来ました。今回の箇所はマルコによる福音書の中でも、イエスの救世主としての御姿を決定的にあらわす場面であると感じます。

バイブルタイムでは、記事を多面的に学ぶことが出来ます。その度に私はイエスが旧約聖書を熟知なさっていたことや、その理解の深さにただ驚くばかりです。

三人の弟子たちは神からの使命を与えられたイエスの光、真実の御姿をどれくらい理解出来ていたのでしょうか。山を下られたイエスは再び群衆の中に入られます。

次回のバイブルタイムでも御言葉をとおし、イエスの十字架への御姿を学んでいきたいと思います。


ミニトマト

今日はマルコ通読十五回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコによる福音書8:33~35)

イエスがお伝えになられた十字架への道のりに対し、ぺトロは情に流された言葉を返してしまいます。イエスはそんなペトロの姿を、激しく戒められたのでした。

私はこの記事をとおして、イエスの十字架の意味、またその十字架を背負い生きることの覚悟を改めて考える機会をいただきました。

誰しも「まさか私がイエスと同じ痛みを背負って生きて行くことは難しいし、到底できない…」と普通は考えるのではないしょうか。

今回のバイブルタイムでは、「私たちがイエスと同じ痛みを負うことは難しいかもしれない。しかしイエスの御姿を理解することで、少しでも十字架に近づきたいと願うことは出来るのではないか。」と私は感じました。

そして進歩し続ける努力をして行くことで、限りがある「わたし」を捨てることが出来るのではないかとも思いました。

イエスは常に私たちに十字架を背負い生きることの覚悟を問われています。
「私に従いなさい。」
そうイエスは、ただ一つの決然とした真実を諭されます。

それは理屈を越えた確信であると感じます。「わたし」を捨て、イエスにただひたすら頼り生きて行くその喜びは、私の心を子どものように澄まし、安らかにしてくれます。

決然とした真実を与えていただいた私を、いかにこの世に差し出し生きて行くのか…。
福音書の御言葉をとおし、学びの日々は続いていきます。


ローズマリーの開花

今日はマルコ通読十四回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。(マルコによる福音書8:17~18)

舟の中で、パンを持ってこなかったことを論じ続けていた弟子たちをイエスは厳しく戒められました。

「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(8:15)

イエスは慎重に良いパン種(=信仰)を選び続けることの大切さを諭されました。しかし弟子たちはこの言葉の意味が理解できず、目の前の状況に捕らわれ続けるのでした。

その様子をご覧になり、イエスは
「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。(8:17)」と弟子たちに向かって再度投げかけられています。

これらイエスの御言葉は、物に固執するあまり真理や心の問題に関心が薄れがちな私たちへの警告ではないでしょうか。

私は今回の御言葉をとおし学んだ教えを再び刻み、私たちに与えられている道を、自身で選び取る真実を、日々主に感謝して過ごしていきたいと思います。


ラベンダーの収穫

今日はマルコ通読十三回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…

ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。(マルコによる福音書8:11~13)

ファリサイ派の人々は、またしてもイエスを試そうと議論をしかけます。そんな姿に深く嘆かれながらもイエスは「はっきり言っておく」(8:12)と宣言され、強く「しるし」について説かれました。

彼らの言う「しるし」とは、人を畏れさせるほどの迫力を持った、目に見える奇跡のことでしょうが、イエスが語ろうとされた「しるし」は、信仰によってしか捉えることができない恵み、すなわち喜びではないでしょうか。

たとえば、場合によっては美しい花一輪にだけでも、人は神の臨在を感じることができます。信仰の曇ったファリサイ派の人々には、理解し難い世界でしょうが…。

安易にしるしを求めるファリサイ派の人々に対するイエスの姿は冷静で鋭く、まさしく人間・イエスの崇高な姿であると思うのです。

一方、その光に反し、彼らは益々イエスの存在に脅威を持つようになっていきます。

次回も現代の私たちに、お与えになられるイエスのお姿や御言葉から、様々な「しるし」を「喜び」としていきます。

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