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【ルカによる福音書 6章20~23節】
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 

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 富んでいる人、満腹な人、笑っている人が幸せ、というのが世界の常識でありましょう。でも、イエスは、ここで、それとまったく逆のことを言っています。
イエスが、「貧しい人々は、幸いである」と、語った場所は、ガリラヤ湖の近くです。この地域は、死海周辺と同様に世界で最も標高が低い場所の一つで、海抜マイナス200メートルに位置しています。
イエスは、社会的にもそして地理的にも最も低いこの場所に降りていき、貧しい民衆たちを、そしてこの社会を、この世界を、見上げながら語りかけました。イエスは、上から目線で、上から教えを述べたのではなく、低いところから叫ぶように、こう言ったのでありました。「貧しい人々は、幸いである。」
聖書の中で貧しい人とは、文字通り、食べる物や寝る場所など基本的な衣食住に事欠く人たちです。あるいは、病気の人たちや外国人など、当時の社会から排除された人たちも、貧しい人たちということができます。人々から無視され、軽んじられている人たちが貧しい人たちでありました。

そのような人たちがイエスのもとに集まっていました。イエスは、そんな彼らに対して、貧しく小さくされてしまった皆さんこそ幸いなのだ、と語りました。
彼らは貧しいゆえに、なんの拠り所もありませんでした。頼りになるお金はもちろんのこと、社会的な地位も名誉も、何もありませんでした。そんな彼らは当時の社会から、そして宗教から、罪人というレッテルを貼られ、神からも見放された人々と考えられていました。

しかし、イエスは言います。そうではないのだと。皆さんは、社会から見放されてしまっているかもしれない、しかし、神は、そうした皆さんのところにこそ、共におられるのだと、断言するのでした。
イエスは、貧しい田舎の肉体労働者の息子として生まれ、持たざる者として成長しました。そして、そこから自分だけが助かろう、逃げようなどとはせず、貧しい者、社会から見放された者、罪人とされた人たちと共に生き、あなたがたは罪人などではないのだと、人々を慰め、癒す活動をしました。そしてそのために十字架で処刑されました。
そのようなイエスであるからこそ、神は貧しい者とともにおられる、ということを心底理解し、そのことを確信していたのでありました。
あなた方、貧しい者こそ幸いだ、あなた方にこそ神はともにおられるのだ、というイエスの発言は、自分がどうなろうとも、私はいつもあなたがたと一緒にいる、という決定的な愛による覚悟と決意の表れでもありました。
イエスは、抽象的に、幸福について解説したのではありません。目の前にいる人たち、日々の生活に苦しむ人たち、社会で困難な中にあり、決死の思いでイエスのもとに集まってきた人たち、その一人一人を目の前にして、あなたこそ幸いなのだ、神は決してあなたを見捨てることはないのだと語り、人生をかけて、そのことを生き方として示したのでありました。

イエスが自らの身を挺して発したこのメッセージは、私たちにも向けられています。
今、不安の中にある人、悲しみの中にある人、辛い思いをしている人に、イエスは言います。あなたがたは幸いだ、神の国はあなたがたのものだ、と。イエスは、その生涯を通して、人々の悲しみ、痛み、苦しみを自ら経験されました。そして、自ら悲しむ者、痛み苦しむ者としてのイエスが、今、神は必ずあなたとともにおられると、語ってくださいます。

大学生活の中で、またそれぞれの生活において、そしてまたコロナ禍という中で、さまざまな不安、疎外感、孤独に苛まれることがあると思います。イエスは、そうした、一人一人の具体的な苦しみの中に、自ら低くなって、身をしずめ、身を挺して、ともにおられ、幸いだ、神はあなたとともにおられるのだ、とメッセージを発しておられることを覚えて、歩んでいくことができればと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ポーチュラカ

 

【マルコによる福音書 4章35-41節】
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36  そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37  激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39  イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。  
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。 

✝ ✝ ✝

 この物語を譬え話として捉えると、次のようになります。物語には、「船」、「向こう岸」、「嵐」が登場します。「船」とは教会、キリスト教に連なる私たちのことを表します。「向こう岸」とは、異教の地、異国の土地、外国のことを意味します。「嵐」は困難を表しています。とすると、この物語はどういうことかというと、私たちが、自分たちが慣れ親しんだ場所を離れ、新たな場所、異国の地、外国などへと向かう際に、さまざまな嵐、困難が襲いかかるであろうということ、しかしながら、イエスが共にいることによって、その困難を乗り越えることができる、というものです。

今日の福音の冒頭で、イエスは「向こう岸に渡ろう」と述べます。向こう岸とはどういう土地でありましょう。イエスがこのように発言した時、イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖のほとりにいました。そして、その反対側というのは外国人の土地のことでありました。当時、ユダヤ人にとって、外国人と接触するということは、今と違って、社会的にも宗教的に極めて強い抵抗感がありました。しかしイエスは、そうしたユダヤ人の常識や慣習を打ち破り、接触してはならないとされていた外国の人々と、親しく交わりを持とうとしました。

もちろん弟子たちにとっては簡単なことではありませんでした。ユダヤ教の枠の中で、ユダヤ人とだけ接して、その世界の中に生きていれば楽です。そうした中で、イエスと行動を共にする、ということは、例えば、病気の人や貧しい人、外国人など、ユダヤ教の枠組みによって、排除された人々、隅に追いやられた人々と交流する、ということになります。それはすなわち、ユダヤの社会をいわば敵に回すということです。あるいは、ユダヤ社会から自分たちもつまみ出される、ということです。人々から不審な目で見られることもあったことでしょう。自分たち自身の慣れ親しんだ価値観を壊さなければなりませんので、楽なことではなかったでありましょう。それでも、弟子たちは、イエスに導かれて船を出し、向こう岸に向かいました。

ところが嵐にあって、船は転覆しかけます。このことは明らかに弟子たちの動揺、心の揺れの現れです。向こう岸に向かう、と言うことは、つまり古い生き方を捨てる、ということでもあります。ですので、弟子たちは大きな不安に陥っているわけです。

その時、寝ていたイエスは、起こされます。
「イエスが起き上がって」と書かれていいますが、この起き上がるとは、復活を意味する言葉です。つまり、弟子たちは不安に陥ったが、しかしそれを救うべく、イエスは神によって復活させられた、と捉えることができます。
イエスは弟子たちに言います。
「なぜ怖がるのか。」
復活のイエスは弟子たちに、怖がる必要などないのだ語りかけます。そのようにして、弟子たちの不安は消え去り、向こう岸、新たな地へと、向かっていくのでありました。

私たちも人生の中で様々な不安と困難があります。皆様にとって、人生の嵐とは、どのような時でしょうか。大学に入学したとき、就職活動をする時などは、人生の大きな転換期ですが、本当にこれでいいのだろうかと思う時があるかもしれません。これまで自分が当たり前だと思ってきたことが崩れていく中で、自分がどこに向かえばいいのか、また、他の人との関係をどう築いていったらいいのか、わからなくなってしまうこともあるかもしれません。
あるいはまた、この日本の地で、キリストが教えられた愛をもって仕える、ということを大切にしていく、ということは、決して楽なことでもありません。面倒だと思うこともあるかもしれません。人から不思議な目で見られるかもしれません。

しかしながら、そんな時に、復活のイエス、十字架の死から起こされたキリストが、私たちの間におられ、「なぜ怖がるのか」と呼びかけられます。大丈夫、安心して歩みなさいと言われます。そのようにして、私たちを、新たな地、新しい命に生きる道へと、神が招いてくださっていることを覚えたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ハーブの乾燥

【創世記 1章26~28節】
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 

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マスクを着用するようになってから約1年半が経過しました。今日は、コロナ禍について少し振り返ってみたいと思います。

人類はこれまで経験したことのない新型コロナウイルスの前に、恐れと不安を抱きました。恐れと不安の対象である新型コロナウイルスとは一体何ものなのか、そしてそれはどこで発生し、どのように伝わってきたのだろうか、そのような中で、ウイルスそのものへの解明だけでなく、ウイルスの原因の究明やその責任の追及も始まりました。
マスク着用の有効性が指摘され始めると、たちまち市場のマスクは品薄状態になりました。一箱何千円のマスクを買うようになりました。皆がマスクを着用するようになると、マスクの着用の仕方も問題になりました。あの人は鼻出しマスク、あの人は顎マスク、あの人はマスクをしていない……マスクの素材についても問題になりました。
コロナの大きな要因として空気感染が指摘され始めると、手洗いの励行、三密を避けること、そして何よりもステイホームが奨励され、冷凍食品を始め、多くの食料品が店から消え始めました。いわゆるおうち時間が始まりました。お取り寄せもブームとなりました。デリバリーの人や宅急便の人が忙しくなりました。ステイホームの時間が増えてくると、昼夜を問わず、外を出歩く人に対する視線も厳しくなりました。私たちはこうして家で我慢しているのに…
もちろん、家に留まりたくても留まることのできない人びとの存在を忘れていたわけではありません。生活を支えるエッセンシャルワーカーと言われている人たちのことです。医師・看護師などの医療従事者、運送・配送に携わるドライバーの方々、保健所に勤める保健師の方々、生活相談や介護・福祉等の分野で働く方々、スーパー等の食料品店で働く店員の方々等々、そして私たちに一番なじみのある保育者たちの存在もそうです。
そうこうしているうちに、新型コロナウイルスに対するワクチンの開発が世界中で驚くほどのスピードで進み、今ではこの日本でもワクチン接種が始まりました。コロナの新たな変異株も生じてきていますが、それでもコロナ感染を防止する方向へと動いていることはたしかです。

コロナと共に生活したきた皆さんは、今私が話したようなことを、鮮明な記憶とともに、非常に身近に感じているのではないかと思います。ところで、皆さんは、十年後のあるいは二十年後の社会に対して、今起こっているコロナ禍についてどのように伝えていこうと考えているでしょうか。
テレビの映像や写真は、すべての人が当たり前のようにマスクを着用している姿を映し出すかもしれません。けれども、どの人もマスクを着けて外見は似たように見えるかもしれませんが、そのマスクの下で、一人一人は不安と不便を感じながらも、それぞれに自らの将来への夢や希望を抱いて日々の生活を送っていたこと、そのような姿をこそ伝えたいと考えるのではないでしょうか。

今日朗読したのは、「創世記」1章26~28節ですが、ここには何が描かれているでしょうか。神さまはこの世界を六日間かけて創造します。すでに太陽や月や星が造られ、空や海や陸に多くの生き物が誕生し、そして最後に人間が六日目に誕生します。この最後に登場した人間に対して、神さまは命じます。これまで造られた生き物を支配するように、と。支配すると言うと、とても厳しい言葉のように響くかもしれませんが、神さまは、それぞれの生き物がますます増えていき、いっしょに生きていくことができるような世界を、わたしたち人間に託しているのです。それが今日の聖書の場面です。
ちなみに、ここに言われていることは、たとえば、今日、あちこちで耳にするようになってきたSDGs(持続可能な開発目標)の精神、何一つとして取り残されることのない世界を目指そうという精神にも通ずるものがあります。

さて改めて、この聖書の言葉は、コロナ禍のなかにある、私たち一人一人にも投げかけられている言葉であります。
私たちは、コロナ禍の中で、ともすると、ひとのことよりも自分のことを優先してしまっていることを経験してきました。また、自分はこんなにしているのに、という思いで、ついつい相手を見てしまっていることも経験してきました。また、コロナ感染に歯止めをかけているかどうかということで善し悪しを決めてしまうという、いわば身についた習慣のために、時として、この人は善い人、この人は善くない人、と他人をついつい裁いてしまうことも経験してきました。たしかに、人間にはさまざまな弱さがあります。そしてその弱さゆえに、人を遠ざけてしまったり、裁いてしまったりすることもしてしまうのですが、それでも、私たちは、次の世代に対して、今のコロナ禍のなかで、さまざまな人びとといっしょに生きようとしていたことを、将来への夢を持ちながら生活している自分たちの姿とともに、伝えていけるようになりたいものです。

この聖書の箇所は、単に、人間のことだけでなく、すべての生き物を含めた、とても広大なことが描かれています。神さまは、人間が、すべての生き物といっしょに生きている有様を、先ほど朗読した聖書の箇所の少し後で次のように述べています。「神さまはお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて善かった」と。

ワクチンの接種により、少しずつ、新たな兆しが見え始めてきていると言えますが、しかしながら、コロナ禍のなかで、どうしても相手に対する非難や裁きが出てくることも少なくありません。ただ、そのような困難のなかにあっても、少しでも多くの人びとといっしょに乗り越えていくことこそが、次の世代に伝えていくべき大切なことであり、極めて善いことだということを、このコロナ禍のなかで、いのちを落とした方々のことを祈りつつ、皆さんと共有することができれば嬉しく思います。  (学長  菊地 伸二)


ツマグロヒョウモン

 

【ルカによる福音書 11章1~4節】
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 

✝ ✝ ✝

イエスは、当時の宗教指導者たちの祈りを強く批判していました。彼らが、これみよがしに長々と祈っていることについて指摘し、それが結局は自分のため、自分中心の祈りでしかなく、神を中心とした祈りになっていないということでした。そこで、イエスの弟子たちは、「どう祈ったらいいのでしょう」とイエスに質問します。その答えが、主の祈りでした
祈りの冒頭に「父よ」という呼びかけがあります。これは、もちろん神に対する呼びかけです。そして、もしかしたら、この主の祈りの最大の特徴がここにあるかもしれません。というのも、神のことを「父」と呼ぶことは、当時のユダヤ社会においては、強烈なインパクトがありました。そもそもユダヤ教では、神の名前をみだりに唱えることが禁止されていました。そして神に呼びかける時には、湾曲的な表現を用いたり、多くの宗教的な称号を付けたりしていました。このことは、神は人間から遠い存在であり、宗教的に権威のある人たちのみが神に接近できることを意味していました。
ところが、イエスは端的に「父よ」と呼びました。それは、「父ちゃん」とか「オヤジ」というような、子どもが父親を呼ぶようなニュアンスです。イエスは、神を誰もが直接親しく呼びかけることのできる存在として捉えたのでした。

そのような神に、「御名が崇められますように。御国が来ますよう」と祈ります。神様の愛で私たちを満たしてください、と言うような意味を持っています。

次に出てくるのが「必要な糧を毎日与えてください」という祈りです。ユダヤ教の伝統的な祈りとは異なり、この祈りはイエスの独創的なものです。毎日の食事というのは、人間が生きていくための基本ですが、イエスの生きていた現場では、毎日食事が食べられるかどうかは、切実な課題でありました。今、ここにいる私たちにとっては切実でないかもしれません。しかし、私たちがこの祈りを祈る時、これからも安心して食べられますように、と願うだけでなく、切実な現場で生きていたイエスの祈りに導かれながら、必要な糧が世界中に届けられますように、毎日きちんと配分されますように、という願いを込めるのが、本来的な意味でありましょう。

そして、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人をみな赦しますから」と祈ります。当時、人々が罪を犯し、それを神に赦してもらうためには、神殿に行って生贄を捧げ、祭司に頼んで祈祷をしてもらう必要がありました。しかし、イエスは、そのような神殿での生贄は不要であり、人々は神に直接祈ることができるのだと理解しました。そして、当時の宗教体制による複雑なシステムによる神への祈りを激しくシンプルにして、誰にでもアクセスできるようにしたのでした。

イエスは、こんな風に、神に直接、簡潔に祈ればいいのだ、ということを言われたわけです。この祈りの箇所の後、有名なイエスの言葉があります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」です。これらの言葉も、イエスが示された祈りと関連づけて考えるべきでありましょう。「求めなさい」とは、金銭や権力なども、求めれば与えられる、ということではありません。「探しなさい」とは、自分だけが食べられる極上の美味しいものも探せば見つかる、ということではありません。そうではなく、神の国、すなわち、神の愛が世界に充満すること、たとえば、みんなが等しくご飯を食べられること、そうしたことは、求めれば与えられるのだと、イエスは人々を勇気づけたのでありました。

私たちは、この社会の中で、競争に勝ち抜かなければ生きられないと感じたり、あるいは自分のことに精一杯で、他の人のことまで考える余裕がないと思ったりすることがあると思います。私たちはそのような社会を生きざるを得ないわけですが、私たちは、それでもなお、私たちの世界が、そのような世界ではなく、御国が来ること、神の愛が充満することを求めたいと思います。自分だけが勝ち抜けようとする誘惑に溺れることなく、人々と神の愛を分かち合うことを求め、イエスと共に、主の祈りを祈ってまいりたいと思います。
(チャプレン・相原太郎)


学生食堂

【マタイによる福音書 第12章12節】
人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」

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【ルカによる福音書6章46-49節】
6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
6:49   しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

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イエスの最も有名な教えの一つは、「貧しい人々は幸いである」という言葉から始まる、「山上の説教」と呼ばれているものでありましょう。「貧しい人は幸いだ」「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」「人を裁くな」など、有名な教えがいくつも語られます。その締めくくりが今日の箇所で、それまで語った教えをただ聞くだけではなく行うことが大事なのだということです。
行うことが大事と言われますと、確かにそうだと思う一方で、そんなことはなかなかできない、無理だ、とも思うかもしれません。また、行うことが強調されますと、成果が大事、結果が全てと言われているようで、責められているように感じるかもしれません。しかし、この箇所は、単に、具体的に実践しなければ意味がない、結果を出せなどと言っているわけではありません。むしろ、結果を出せない人のための福音とさえ言えるかもしれません。
イエスは、愛の教えを行うことについて、家と土台を譬えに用いて説明します。ここで土台が意味するのは、イエスの言葉を聞いて行うということです。それによって人生の中で襲ってくる洪水にも耐えられる、ということになります。
では、イエスの言葉を聞いて行うこととは、どんなことでしょうか。この譬えは、「貧しい人は幸いだ」、「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」といった説教のまとめです。つまり、こうしたことを行うことが人生の土台となるのだというわけです。敵を愛し、頬を打たれたらもう一方の頬を向けることで、私たちの人生は、嵐のような試練、洪水のような難題が降りかかっても、神に支えられ、倒れることなく歩んでいけるのだ、ということになります。
もちろん、こうしたことを実際に行うのは難しい、ハードルが高い、と思われると思います。そして、実行できない自分は土台も持てず、人生の洪水にも嵐に耐えられないと考えるかもしれません。しかし、イエスは、実行しなければ、あなたは人生の洪水が来たときに流されてしまう、という警告を発しているわけではありません。

イエス自身の行動を振り返ってみれば、そのことは明らかです。イエスが関わりを持っていた人たちというのは、このような実践を積極的に行う活動的な人たち、何があっても倒れないような人生を歩んでいる人たちというわけではありませんでした。むしろ、無力感に苛まれ、人生に絶望し、傷つき、倒れてしまっている人たちでありました。
イエスの弟子にしてもそうです。今日の箇所は、弟子たちに対して、行いの重要性を強調しているわけですが、実際、イエスの弟子たちがどうだったか、というと、弟子たちは最後の最後まで、イエスの言うことを行うどころか、イエスの言うこと自体を誤解する有様でした。さらには、イエスの逮捕時には、行動を起こすどころか、とうとうイエスから逃げ出してしまいます。つまり、イエスの弟子たちも、イエスの言ったことをしっかりと実行する集団などではなく、むしろ、イエスの言うことを理解することもできない人たちだったのありました。
そんな弟子たちに対するイエスのアドバイスとは、聞くことと行うことを切り離さないように、ということでした。イエスが言った言葉だけでなく、イエスが具体的に何をしたのかを合わせて理解することが大切だということになります。

イエスが具体的に何をしたかというと、それは人に会うということ、一緒に食事をするということでありました。とりわけ、貧しい人、困難の中にある人、差別を受けている人、病気で苦しんでいる人、そして子どもたちと出会い、一緒に食事をすることでした。イエスは、力強く生きている人たちよりも、むしろ、無力な人たち、絶望の中にいる人たち、人生に倒れてしまっている人たちに向き合い、その尊厳を大事にし、一緒に涙し、一緒に喜び、一緒に傷つきながら歩まれました。それを言葉として表現したのが、「貧しい人は幸いだ」「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」「人を裁くな」ということでありました。

イエスは、私たちに、人生に倒れないように強く生きろ、そのために実践せよ、と言っているのではありません。もし私たちが自分の力だけ全てを成し遂げようとすると、結局、自分の行動の立派さこそ大事だということになり、それでは自分自身を土台とすることになってしまいます。

イエス自身、十字架にかけられ、決定的に無力な者となりました。イエスは、傷づいた者、弱い者として、十字架上で絶叫し、倒れ、死んでいったのでした。そのように、人間の絶望の中に倒れたイエスであるからこそ、復活のイエスは私たちの土台となり、私たちのことを心底理解してくださいます。イエスが、なかなか理解しようとしない弟子たちと生涯向き合ったように、私たちをすぐに倒れてしまいそうになる者として受け止めてくださいます。イエスは、私たちに言います。倒れてもいいのだと。むしろ、そのように弱く、傷つき、倒れてしまうあなたを大事にしたいのだと。

イエスが人生をかけて伝えたことは、揺らいでも、倒れても、貧しくても、他人から否定されていても、私は必ずあなたと共にいるのだ、ということでした。弱さや揺らぎの中にある私たちであるからこそ、イエスは一緒におられます。
そして、そんなイエスであるからこそ、私たちに、困難の中にある人々と共に生きてほしい、敵を愛し、赦しあう生き方をしてほしい、と呼びかけていることを覚えたいと思います。 (チャプレン・相原太郎)


シャスタデージー

【マタイによる福音書 5章43-45節】
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 

新約聖書の時代、因果応報、すなわち、神は正しいことをした者には良いものを与え、正しくないことをした者には罰を与える、という考え方は現代よりもはるかに強く、常識的なものでした。そして、当時のユダヤ教のルールに従って生きていること、これが、正しい者と呼ばれる人たちの姿でした。そのようにしていれば神様は祝福してくださるのであり、当時の宗教指導者たちは、正しく律法にしたがって生きることを庶民に強く求めていました。
一方、例えば、不治の病にかかった人、障害を持つ人などは、律法を守ることもできず、そのような境遇になったのはその人の罪の結果であるとされていました。そして、神から見放された者であるみなされ、社会から排除されていました。

しかし、イエスは「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言います。それはすなわち、律法に従って生活する正しいと言われる人も、その律法を守れない、正しく生きることができないが故に罪人と呼ばれる人も、神は大切にされるのだということです。この発言は聞き方によっては、律法を守っても守らなくても神から見ればそんなものは関係ない、ということになります。これは、律法を守ることによって成り立っていた当時の社会秩序を崩壊させる発言に思われました。イエスの言動は、社会の安定を守る立場の人から見れば大変に不穏当なものであったわけです。

一方、貧しい民衆たち、社会の底辺にいる人たちは、このように発言をするイエスを支持し始めていました。そこで、当時の宗教的政治的指導者たちは、あのイエスをなんかしないと、まずいことになると考え、結果的にイエスは逮捕され、最終的には処刑されるに至ります。
しかしイエスは、そのような結末を迎えることを察しながらも、その言葉と行いを徹底しました。因果応報の考えが強く浸透した社会にあって、当時の宗教指導者たちから正しくないとされた人、罪人とされた人に、イエスは、あなたは罪人ではない、あなたは悪くない、あなたは神さまから愛されている、と寄り添っていかれたのでした。例えば、重い病にある人々などは、自分が悪いことをしたから、自分の努力が足りないから、こんな状態に陥ってしまったと、応報思想を内面化していました。イエスは、そうした人たちに対して、例えば「あなたの信仰が足りない」とか「正しく生きなさい」などと言うことは決してありませんでした。そうではなく、その反対に、あなたたちはそのままで幸いだ、あなたたちこそ神さまから愛されているのだ、ということを、イエスはその言動で表現していきました。
このように、当時の社会の宗教的・倫理的な正しさを満たすことができない人、いわば、天国への資格・アクセス権が与えられないと思われていた人をこそイエスは大事にされました。そうした人々との交わりこそが神の愛の働きであると教えられたのでした。

現代に生きる私たちも、因果応報的な感覚が内面化されているところがあります。ですので、この社会にあって、社会が設定した要請に従って正しく生きることが、宗教的にも優れた人であると思いがちなことがあります。しかし、神の愛は徹底して無条件です。激しいほど平等です。神は、正しい者にも正しくないとされる者にも雨を降らせてくださいます。ですので、そのような愛を受けている私たちは、その応答として、私たちが接する人、例えば子どもたち、あるいは、さまざまな病にある人、この社会において隅に追いやられて生きざるをえない人たちをこそ、無条件に愛する、大切にする、そんな関わり方をしていきたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


イトバハルシャギク

【コリント人への手紙 第一 15章10節】
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

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