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【マタイによる福音書21章28~32節】
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

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 イエスの話を聞いていた人たちは、神の言うことの聞く人は、当然のことながら、お兄さんのように、言われたことを実践する人だ、と考えました。
ところが、ここでイエスは、そのように答えた人たちに対して、あなたたちは、弟のように、口では「わかりました」と言っておきながら、結局は、神様の言うことを聞かないでは、と批判します。ここでイエスの話を聞いていた「あなたたち」とは、ファリサイ派や律法学者と呼ばれる、当時の社会のエリートたちでした。そのような人たちに対して、あなたがたは、神に対して「はい、わかりました」と口では言っているが、結局は何もしないではないか、と言っているわけです。

ファリサイ派とは、ユダヤ教のグループの一つで、ユダヤ教の教えにとても忠実で、真面目な人たちでした。彼らは、ユダヤ教の細かな規定を生活の隅々にまで生かしてしっかりと守り、また、それを人々にも教えていました。律法の規定を守ることこそが、ユダヤ教徒にとって、もっとも大事なことと考えていました。そして、その熱心さや実績ゆえに、自分たちこそ律法を守っている正しい者だと言うような自負がありました。
それゆえに問題だったのは、さまざまな理由でそうした規定を守ることのできない人たちに対する彼らの態度でありました。彼らは、規定を守ることができない人々を排除していました。また、そのように排除された人々の痛み、悲しみに共感することが、もはやできなくなってしまっていました。そして、自分たちこそが、他の人々に比べ、神さまに最も従っている、と思い込んでしまっていましたのでした。そして、彼らは「後で考え直す」ができませんでした。

ここで言われている「考え直す」とは何を意味するのか、と言うこと、視点を変える、あるいは、自分の生きる向きを変える、向き直す、ということです。では、どのような視点に変えるということでしょうか。
それは、言うまでもなく神の視点です。神の視点に向き直すとは、たとえば、自分を高めて、上から社会を見渡せるようなポジションにつくとか、そういうことではありません。むしろその反対に、この世界の中で、最も低い立場に追いやられている人たちの立場に自分の身を置き、そこからこの世界を見直す、ということです。そして、自分にはメリットがなくても隣の人を大切にし、愛をもって人々に仕えるような生き方へと変えられていく、ということです。

自分はそんなことはしたくない、あるいは、こんな私でいいのだろうか、と思われるかもしれません。
そこで大事なことは、そういう気持ちを隠し、押し殺して、あるいは、「私こそ、ふさわしい者だ」と勘違いして、神に対して「はい、わかりました」と優等生ぶって言う必要は全然ない、と言うことです。むしろ、正直に「いやです」「できません」という弱さを隠さない、ということです。どのみち神はすべてをご存じです。神は、私たちにそのような弱さがあるゆえにこそ、神の営まれるぶどう園で、ともに働くよう私たちを招いています。それゆえに私たちは、後からでも考え直し、視点を変え、神とともに愛をもって仕えるものとなってまいりたいと思います。その時、私たちは、働いているのが自分ではなく、神ご自身であることに気付かされるはずです。  (チャプレン相原太郎)


クリーピングタイム

【マタイによる福音書20章1~16節】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

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この話を読むと、朝から一生懸命働いた人にも、最後の1時間しか働いていない人にも、同じように1デナリオンを支払った主人のやり方に、釈然としない思いを持つかもしません。なぜそのような感覚になるかというと、それは、この物語を朝から働いていた人の立場に立って読んでいるからです。
ここで確認しておきたいことは、イエスがこのたとえ話を通して語っている天国、神の支配とはどんな状態なのか、ということです。天国というと、なんの厄介ごとも悩みもない楽しい夢の世界というようなイメージがあるかもしれません。しかしながら、イエスが語る神の国とは、そのようなイメージとは異なるものです。

たとえば、こんなエピソードがあります。イエスが人々に話をしていたところ、子どもたちが近づいてきます。弟子たちは、イエスの話が、遮られてしまって邪魔だと思い、子どもたちを排除しようとしました。するとイエスは言います。「子どものように受け入れるのでなければ神の国に入ることはできない。」これが意味するところは、神の国とは、自分たちにとっては邪魔だと思うような人たちも共にいられるところ、誰もが排除されず、自分とは異なる他者を受け入れ合うところなのだ、ということです。

今日のたとえも同様です。最初からいた者から見れば、後から来た者は邪魔だと思ったかもしれません。しかし、そのように後から来た者も一緒に生きるべきなのだということです。これは逆に言えば、自分が他の人から厄介な人だと排除されたり、この社会に居場所を失ってしまっていたりしているとすれば、まさにそうした人たちこそが、神の国に真っ先に受け入れられる、ということです。

主人の言葉に、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というものがあります。「支払う」と訳されている言葉は、「与える」「プレゼントする」という意味の言葉です。私は、最後の者にも、生きるために必要なものを与えたい、プレゼントしたいのだ、ということです。

このように、神の恵みとは、これをしたから得られる、というような、労働の対価のようなものではありません。一方的に与えられる、プレゼントである、ということです。ぶどう園の主人が、出会った人全てに、その人に必要なものをプレゼントしたように、神は、私たちに、無条件に、私たちに必要な恵みを与えてくださいます。         (チャプレン相原太郎)


香るネメシア

【マタイによる福音書 22章34~40節】
22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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 隣人を愛しなさい、というのは、ごく当たり前の教えのように思うかもしれません。しかしながら、これは当時の宗教指導者たちに対するイエスの激しい怒りの現れでもありました。
この言葉は、イエスが首都エルサレムに入った時に語られたものです。それは、イエスが、エルサレムの神殿に行った時のことです。エルサレムの神殿は、当時の宗教的・政治的な中心でありました。そして、イエスは、そこにいた宗教指導者たちと大きな論争になりました。そこで飛び出したのが「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉でありました。

イエスと論争する指導者たちは、イエスにこう質問します。「あなたは、律法の中で、どの掟が最も重要だと考えるのですか。」
するとイエスは、まず、こう答えます。「『心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」
この掟は、当時のユダヤ人が毎日の朝夕に祈りの中で唱える言葉そのものでした。ユダヤ人にとって間違いなく最も大切な掟です。つまり、イエスがこれを口にした時、誰もが、そんなことは誰でも知っている、それは当然だ、と思った、ということです。

イエスは、続いてもう一つ言葉を重ねます。

「隣人を自分のように愛しなさい。」

これが、先ほどの掟と同じように重要だ、とイエスは語ります。神を愛することと、隣人を愛することとは、切り離すことができないということです。このイエスの隣人愛の発言こそ、宗教指導者たちへの、大変厳しい批判でありました。
隣人を愛するというのは、それ自体、普通のことのようにも思えます。そしてそれは、当時もそうでありました。では、なぜそのことが、指導者たちへの批判となるのでありましょうか。一般的に言われている隣人愛と、イエスが言っている隣人愛とは何が違うのでしょうか。

ユダヤ教の社会において、隣人を愛するという時の、隣人とは、同胞、同じ民族を意味していました。仲間内ということです。隣人愛とは、同じ仲間、身内を助ける、同胞を大事にする、というようなことを意味していました。
一方、イエスの言う隣人愛は、それとは全く異なるものでした。そのことをわかりやすく語っているのが、イエスの譬え話の中でも最も有名なたとえの一つ、良きサマリア人です。

ある旅人が、一人、寂しい山道で強盗に襲われ、瀕死の状態になりました。そこを、ユダヤ教の偉い指導者たちが通りかかりますが、避けるように行ってしまいます。その後、ユダヤ人ではなく、一人のサマリア人が通りかかります。彼は、ユダヤ人の旅人がうずくまっているのを見つけると、すぐに近寄って、介抱し、街に連れて行って手当をします。

これがサマリア人の譬えです。
この物語のポイントの一つは、なぜ隣人を大事していたはずのユダヤ教の指導者たちが助けなかったのか、ということです。彼らは、悪人というわけではありません。むしろ、様々なユダヤ教の教えをしっかりと守り、人々から尊敬される人たちでありました。そんな彼らが、なぜ瀕死の重症の人を見過ごしにしてしまったのでありましょうか。
その一つの理解は、襲われた旅人が、半殺しにあっていて、場合によっては死んでしまっているかもしれない、ということです。
ユダヤ教には、当時、600以上の掟がありました。そして、その一つに、祭司たちは、血や死体に触れてはならない、触れると穢れる、というものがありました。
このことが理由で、彼ら指導者たちは、血だらけの旅人に近づかなかった、近づけなかった、ということが考えられます。その意味で、彼らは、律法に忠実であったわけです。
この旅人は、ユダヤ人であったかもしれません。本来は、彼らの言う隣人、仲間であったかもしれません。しかし、彼が血だらけですでに死んでいるかもしれない、という理由で、その旅人を、隣人として助けることができず、見過ごしてしまったわけです。

一方、サマリア人は、ユダヤ教の律法の外で生きていた人たちでした。ユダヤ教の社会において、サマリア人はユダヤ人の隣人ではありませんでした。むしろユダヤ社会から差別され、隣人という同胞愛のネットワークから排除されていた人たちでした。しかしながら、だからこそ、律法の枠に縛られず、困難の中にある旅人に近づくことができました。
イエスの言う隣人愛とは、このように、隣人愛の枠組みを予め決めて、その中にいる人を愛する、というのではなく、仲間内、既存の隣人を超えて、困っていれば近づき、寄り添う、ということに他なりません。

イエスは、その生涯をかけて、律法から外れた、罪人とされた人たち、言い換えれば、神さまから愛されていないと、みなされていた人たちを、ことのほか、大切にされました。
イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と指導者たちに語った時、イエスは具体的な人々の顔を思い起こしていたに違いありません。それは、ユダヤ社会において、隣人ではないとされていた人々です。例えば、貧しい人、重い病にある人、外国人など、のことです。
イエスは、あの彼ら彼女たちも、むしろ、彼ら彼女たちこそ、神によって造られた大切な存在なのであり、私たちは、その隣人となっていくべきなのだ、と告げているわけです。
であるからこそ、イエスは、宗教指導者たちが、この人は隣人、この人は隣人ではないと、隣人に枠をはめ、その愛から除外しようとすることに憤りを覚え、「隣人を自分のように愛しなさい」との言葉を発したのでありました。

神は、すべての人を愛されます。そこには、一人の例外もいません。神が、あの人は隣人ではない、だから放っておいても仕方ないなどと分け隔てすることはありません。
だからこそ、神ご自身が、一人の例外もなく、すべての人を大切にしておられるように、そして、あのサマリア人が、困難な状況にある人を隣人として自分のように愛したように、私たちも、仲間内の枠を超えて、すべての人を大切にできる者となれるように求めてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


柳城の紅葉

【マタイによる福音書2章1~12節】
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

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 イエスが生まれたとき、3人の博士たちが、新しい王が現れることを知らせる大きな星を頼りに長い旅をしました。ユダヤ地方に着いた博士たちは、新しい王に会うために、まずその地方の王の宮殿にいきました。

博士たちは、そこに住むヘロデ王に「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにいますか」と尋ねます。王に向かって「新しい王はどこですか」と聞いたわけです。ヘロデ王は、自分が築いてきた王としての立場が奪われるかもしれないと、不安になります。

そこでヘロデ王はユダヤの学者たちを集め、新しい王なる人物はどこで生まれると言われているのかと尋ねます。学者たちは、聖書にはベツレヘムで生まれると書かれています、と答えます。

そこでヘロデ王は博士たちをベツレヘムに送り出しました。新しい王がいかなる人物なのか、いわば偵察に出したわけです。後にヘロデ王はその地方の幼な子たちを皆殺しすることになりますので、博士が新しい王なるものを見つけ出したら、直ちに殺そうと思っていたわけです。

ベツレヘムに着いた博士たちには、意外な光景が待ち受けていました。そこはヘロデ王がいるような王の宮殿ではなく、貧しい寒村の小さな家でした。そして中に入ってみると、そこにいたのは若き母マリアと父ヨセフ、そして幼子イエスでした。

博士たちはその地方の権力の頂点にいるヘロデ王から送り出されてベツレヘムに向かいました。博士たちはユダヤの王の姿がどういうものか、実際に会って理解しているわけです。そして、そのヘロデ王を超えるような、王の登場を想定したわけです。

ところが、そこにあったのはただの家でありました。そして、中に入ってみると、若い母親と父親、そして幼子がいるだけでした。普通に考えれば、これが本当に王なのかと思うかもしれません。馬小屋で、貧しい若夫婦の横で粗末な布にくるまって、ただ寝ているこの幼子が新しい王なのだろうか、と思いそうなところです。

しかしながら、博士たちはそのような貧しく無力な幼な子との出会いを大いに喜びました。そして、その幼子に彼らの宝物である黄金、乳香、没薬を贈り物として差し出したのでした。これらの宝物は、単に高価なものというだけでなく、彼らの商売道具でもありました。生活の糧を差し出すということは、幼子に出会ったことによって、それまでの生き方を根本的に転換した、ということを意味します。

博士たちは星を頼りに、言い換えれば、神の呼びかけに応えて、新しい王を探し求めてこの遠い地までやってきました。しかし、そこで出会ったのはこの世の頂点に立つ権力者ではなく、何もできない貧しい幼な子でした。博士たちは、このような意外な出会いを通して、それまで持っていた価値観が崩れ去り、彼らの生き方に大きな方向転換が起こったのでした。

博士たちは、当初、新しい王と接近することによって、何か自分にとって利益になること、あるいは、何らかの見返りのようなものを期待していたのではないかと思います。新たな救い主に近づくことによって、社会でのポジションを高めようと思っていたかもしれません。

しかし、博士たちの前に現れた救い主は、強さも豊さもない、無力な者でありました。期待とはあまりにも異なる救い主との出会いに、博士たちは、救い主に対して自分中心の見返りを求めることが根本的に間違っていることに気がされたのでありましょう。だからこそ博士たちは最も大切にしてきたものを、幼子への贈り物として手放すことができました。

私たちは、人と接するとき、どうしても自分の期待に沿って相手が何かしてくれることを期待しています。あるいは、自分へのメリットや何らかの見返りのようなものを期待して、人と近づこうとしてしまいがちなところがあると思います。それは、神に対しても同様かもしれません。神に対して何らかの見返りを期待してお祈りしていることもあると思います。しかしそのような見返りとは、大抵自分だけのため、あるいは自分中心だったりします。

博士たちの物語が私たちに教えてくれることは、私たちが自分への見返り、自分へのメリットだけを求めることを超えていくことにこそ本当の喜びがあるということです。そして、そのようなところにこそ、神様の愛の働きがある、ということでありましょう。       (チャプレン 相原太郎)


柳城カフェテラス

2022年のクリスマスプレゼントは、ピンクが大変かわいいランチバッグです‼

愛知県セルプセンターの仲介で、愛知県長久手市にある、障害福祉サービス事業所 たかぎ作業所さんに製作していただきました。

以下、たかぎ作業所さんのホームページから一部引用しながら、同作業所をご紹介します。

「初代所長 髙木武士さんが、自宅に数名の障がい者を受け入れ、里親・職親として生活を共にし、縫製の作業を教え、地域に送り出していました。

1978年(昭和53年4月)、彼は土地と資金を提供し、当作業所を長久手の地に開所しました。
(1978年は本学の附属豊田幼稚園が開園した年)

「まわりの人々から愛され大切にされて、障がい者が地域の中で生活をおくることが大事」という、髙木武士さんが掲げた理念のもと、今日に至っています。

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ランチバッグには、柳城のモットーである「By Love Serve(愛をもって仕える)」の文字を刺繍してもらいました。このプレゼントが、障がい者に愛をもって仕えた高木武士さんを知る機会になるとともに、柳城に集う意味を考える良いチャンスになればいいなあ~と思います。(K)

【ヨハネによる福音書 第1章1節~9節】
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

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初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。(ヨハネによる福音書1章1−5節)

今、この社会は物事が本当に早く進んでいるように思います。情報は文字通り、光の速さで私たちの周りを飛び交っています。私たちは、スマホやネットを使って、物事を早く終わらせるはずでした。ところが、私たちは前よりもずっと忙しくなっているように感じます。頭の中は、いつも「時間がない」、「忙しい」の言葉でいっぱいです。忙しくなると、失ってしまうものは何でしょうか。

失うものの中でもとりわけ大きいのは、周りの人との関わり合いです。忙しい、後で。時間がない、また今度。それは、もちろん保育の現場でも起きていることです。柳城の建学の精神は「愛によって仕える」です。しかし、忙しさの中で私たちはそこからどんどん離れているような気がします。

現代の私たちがイメージする「光」とは、速さであり、効率性かもしれません。しかし、今から、2000年前、この世界に、もう一つの光がもたらされました。それがイエス・キリストです。イエスは、悲しんでいる人を慰め、病気の人を癒し、飢えている人を満たし、貧しい人に希望をもたらす、光となっていきました。イエスによってもたらされた光は、決して速いものではありませんでした。イエスは、速さや力で世界を一気に変えることはありませんでした。むしろ、出会った人と、ゆっくりと関わっていきました。

今日、この点灯式で灯される光は、小さく、遅く、ゆっくりしたものかもしれません。でも、そのような光こそ、私たちが忘れている、人と人との関わりを思い出させてくれます。今日そのような光を灯し、私たちも、この社会の闇をゆっくりと照らし続ける光となれるよう、祈りたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)

【マタイによる福音書5:1~12】
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

✝ ✝ ✝

 今、どのような人が幸いな人、恵まれた人でありましょう。一般的には、ある程度経済的に裕福である人、あるいは、社会の中でステータスのある人、活躍している人などが、そうでありましょう。それはイエスの時代でも同じでした。

一方、山に集まってイエスの話を聞いていた人達とは、様々な病気や苦しみに悩む人たち、社会の中心から外れてしまった人たち、貧しい人たちでした。幸せな人生、祝福された人生とは、縁遠い人たちでした。彼らは、神の恵み、祝福から見放された者だと思っていました。
イエスはそうした人たちにむけて、こうすればあなたたちは救われますよ、このように頑張ればあなたは恵まれた人生を歩めるでしょう、と教えることはありませんでした。そうではなく、イエスは、「心の貧しい人は、幸いである」と語り出します。すなわち、ここにいるあなたたちこそ、今、幸いなのだ、と述べます。

ここで使われている「幸い」、という言葉は、私たちが普段使っている「幸せ」とは異なります。通常の「幸せ」という言葉は、なにか自分に良いことが起きたときに変化する感情、感覚のことです。しかし、ここで使われている「幸い」とは、祝福されている、ということを意味します。神によって祝福されている、神によって大切にされ、愛されている、という状態です。それは、時間や状況によって変化する感情ではありません。自分の努力の有無によって消えたりするものでもありません。

この山上の説教は、イエスがガリラヤでの活動の最初に語られたものです。それが何を意味するかというと、この山上の説教が、イエスがこれから生涯をかけて行う生き方そのものを提示している、ということです。
イエスが、幸いだ、と宣言する、心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人とは、イエスが生涯をかけて出会った人たちのことです。イエスがそうした人々と生涯をかけて交わることによって、彼らは癒され、生きる望みを回復していきました。そして、イエス自身も、人々に寄り添う中で、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人となっていきました。心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害を受ける人、これらはイエスの生涯そのものです。イエスは、そのような生き方こそ、幸いなのであり、神によって祝福されているのだ、と言われるわけです。山上の説教とはイエス自身のことでもあるわけです。

この説教を語り終えたイエスは、実際、生涯をかけて、徹底して貧しくなり、悲しむ人とともに悲しみ、平和を実現しようとされ、義のために迫害されました。そして、十字架と復活によって、天国は義のために迫害される人のものである、ということを現実のものとされました。だからこそイエスは、受け入れがたい現実の中でも、貧しい人は幸いである、語ることができたのでありました。

この山上の説教が行われたのは、どこかの神殿の中ではありません。誰もが出入り自由な山の上です。このイエスの説教は誰にでも開かれているということです。山上の説教は、私たちの心の奥底にある悲しみ、弱さに、今も、語りかけています。心の貧しい人々は、幸いである、悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる、天の国はその人たちのものである。  (チャプレン 相原太郎)


コバノランタナ

【マタイによる福音書13章44~48節】
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

✝ ✝ ✝

 イエスは、天の国について、からし種、パン種、畑の宝、真珠、湖の中の魚と、立て続けに譬え用いて語っています。

からし種とは、直径1ミリくらいの小さな種です。しかし、成長すると、1メートルから3メートルにも伸びます。すると。茎や枝は硬くなって、小鳥の重さにも耐えられるようになります。天の国は、そんな小さな種に似ている、ということです。

パン種も小さなものです。しかも当時、「パン種」という言葉は、腐敗というニュアンスが強く、悪いイメージがありました。しかしそんなお荷物のような存在がパンを大きく膨らませます。天の国はそんなパン種に似ている、ということです。

からし種もパン種もほとんど目に見えません。小さく、とるに足りず、弱々しいものです。しかし、それが予想を超える力を発揮します。大きく、豊かな実りを生み出します。イエスは、天の国とはそのようなものだ、小さく、弱いものこそが、豊かな実りをもたらすところだ、と語るわけです。

次のたとえは、隠されていた宝を畑で見つけ、持ち物を売り払ってでも、その畑を丸ごと買う、それほどの喜びがあるものだ、というものです。当時の社会は政情が不安定であったため、財産をどこに蓄えておくかは大きな問題でした。人によってはそれを畑に隠すこともありました。ただ、畑に財産を隠した場合、持ち主がなくなると、財産をどこに隠したのか誰にも分からなくなる、ということが起きていました。それを他人が見つけるということは、ほとんど起こりえないようなことでした。ですので、たまたま畑を耕していた小作人が隠してあった財産を見つけるということは、大変な偶然です。天の国とは、そのような予想もできないような大きな喜びがある、ということです。

さらに次のたとえは、高価な真珠を見つけ出す、というものです。こちらは、偶然見つかる畑の中の財産とは異なり、自ら探して見つけるというものです。しかし、やはり持ち物を売り払ってでもそれを手に入れる、とあります。

畑の宝も真珠も、それが偶然の発見であれ、頑張って見つけたものであれ、今まで持っていたものを売り払っても構わないほどのことだ、ということです。つまり、天の国を見出す、ということは、それは言い換えれば、天の国とは、今まで自分が持っていたもの、自分が頼りにしていたものを、全部手放しても構わないというようなものだ、ということです。これまで自分を支えてきた日常、あるいは縛られてきた価値観から、解放され、自由になる、とも言いうることです。

ここまで見てきたように、イエスは、天の国のたとえを、人々を取り巻く生活の出来事の中から選んでいます。しかも、小さなからし種、目に見えないパン種、畑の中に隠されていた宝、めずらしい真珠、あるいは、海や川の中の魚といったものです。

これが意味するところは、天の国とは、どこか聖なる空間にではなく、ありふれた日常の中にある、ということです。天の国は、私たちの身の回りにある。そして、それは、とっても小さく、目に見えないかもしれない。だけれども、すでにこの世界の中に、確実に隠されているものです。

では、身の回りの生活の中で天の国を見出すとは、具体的にはどのようなことでしょうか。それは、イエスの生涯を通して私たちに示されています。

例えば、重い皮膚病を患い、生きる場を失い、神からも見捨てられたと思っていた人が、イエスと交わり、癒やされた、ということです。あるいは、誰からも嫌われていた徴税人のマタイが、イエスと出会い、一緒に食卓を囲むことで、生きる望みを回復した、ということです。

そのような奇跡のような交わりの中に、天の国が見出される、ということです。そのような愛によって仕える生き方においてこそ、それがたとえ小さなものであったとしても、天の国のしるしを見出すことができる、ということです。もちろん、最終的な天の国の実現は、この世の終わりの時かもしれません。しかしながら、今、私たちが生きるこの現実の中に、一人一人の日常の中に、愛によって仕える働きがあり、そこにこそ天の国のしるしは確実に存在し、神の国は実現し始めています。     (チャプレン 相原太郎)

 

【ヨハネによる福音書20章24-29節】
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

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 イエスが十字架で処刑された後、弟子たちは恐ろしくなって家に閉じこもっていました。それから3日後、復活したイエスが、弟子たちの前に現れます。その際に不在であった弟子の一人のトマスは、しばらく経って、弟子たちに合流します。イエスに出会った弟子たちは、その場にいなかったトマスに、「わたしたちは主を見た」と言います。しかし、トマスは疑います。「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

1週間後のことです。弟子たちは再び家に閉じこもっていました。今度はトマスも一緒でした。そこにイエスが現れ、トマスに「あなたの手を伸ばして、このわき腹に入れなさい」と言います。すると、トマスは、それまで誰も言わなかった一言をイエスに告白します。

「わたしの主、わたしの神よ。」

これまでも、様々な人たちが、イエスへの信仰、信頼を表してきました。たとえばマルタは「あなたこそ、神の子、メシアです」と言いました。しかし、このトマスによる「わたしの神よ」という信仰の告白は、全く次元の異なるものと言えます。疑うトマスにこそ大いなる気づきが与えられたわけです。

トマスは、復活のイエスに出会ったと語る弟子たちに対して、「わたしは決して信じない」と疑いの気持ちを素直に認めました。しかしそれでもなお弟子たちと一緒にいました。多くの場合、疑いを持っても黙っているのではと思います。あるいは、一緒に居づらくなって、そこから離れてしまうかもしれません。しかし、トマスは疑いの気持ちを弟子たちに率直に語りました。そして、疑ってもなお、弟子たちから離れることはありませんでした。

この箇所が示しているように、私たちは、疑いを持つことが許されています。疑いを持っていることを隠す必要もありません。神は、私たちが疑いを持つ程度のことで、怒ったり、離れたりするようなことはありません。むしろ、疑いは信仰において重要な気づきを与える大切な要素ともなるわけです。

私たちの大学・短大は、キリスト教主義であるからこそ、あらゆる常識や定説、噂や評判について、本当にそうなのだろうかと、自由に思い巡らし、語り合う場所でありたいと思います。そのようにして、真理を求めてまいりたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


タマスダレ

【出エジプト記3章11~15節】
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。

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 只今朗読していただいた聖書は「モーセという人が神さまのために働く人として神さまから呼ばれる場面」の中心となるところです。まず、皆さんはモーセという名前を聞いたことがありますか? モーセという人はユダヤ教・キリスト教・イスラム教さらにはバハイ教などで、重要な預言者の一人とされている人です。実際にはそうではありませんが、伝統的には旧約聖書のモーセ五書の著者であるとされて、尊敬もされている人物です。
今日の聖書の箇所では、当時エジプトで奴隷とされていたヘブライ人を解放するように、エジプトの王、ファラオに言いに行けと神さまから言われたモーセが、そんな役割を担わされる「自分が何ものなのか」と神さまに質問をし、それへの答えが内容になっています。

「わたしは何ものなのか(11節)」というモーセの質問は、自分のような取るに足りない人間が、エジプトの王様ファラオに物申すとは、恐れ多いと恐縮しているニュアンスがあります。しかし本当の問いは、エジプトの王女さまの息子として育てられたが、本当はエジプト人ではなく、奴隷として働かされているヘブライ人が同朋である自分が、そもそも何ものであるのかでした。やはりヘブライ人なのか、育てられたとおりエジプト人なのか、それとも今暮らしを共にするミディアン人なのか。奴隷なのか、王子なのか、羊飼いなのか。モーセは悩みながら生きて来たのでした。

この悩みは在日外国人とくに在日コリアンの人たちの悩みと通じるでしょう。皆さんの中にも在日の方がいらっしゃるかもしれませんが、日本が朝鮮半島を植民地としていた時代に、様々な理由で韓国・朝鮮から日本に来ざるを得なかったの人たちが、帰るに帰れなくなり日本で暮らしているのです。「わたしは何ものなのか」という問いは、そのような在日の人たちにとっても切実な問題です。日本に住み、税金を納めて暮らしているのにもかかわらず、選挙権はなく、日本語を母語として話すのに、日本人ではないと言われ、韓国に行けば行ったで「どうして韓国語が話せないのか?」と言われ、馬鹿にされることもあるのです。

わたしのアイデンティティは日本人ですが、わたしの父方の高祖父はロシア人です。わたしは、16分の一は、ロシア人の血が流れていますので、ロシアに対する親近感は強くあります。ですからロシア語を話せないことは残念だと思いますし、現在のウクライナに仕掛けたロシアの戦争は、本当に悲しい出来事で、早く終わって欲しいと願う気持ちは、ちょっと日本の皆さんとは違っているように感じます。
また、トランス女性ですので、生物学的には男性として生まれており、ずっと「わたしは何ものなのか」が切実な、自分の中での問いでありました。

モーセが神さまに、「わたしは何ものなのか」と問い掛けているのは、ただ恐縮をしているだけではありません。自分が「何ものか」悩まざるを得なかった、辛い経緯に心を寄せてくれるように、モーセは神さまに訴えているのです。
ヘブライ人であることを示そうとエジプト人の行いを咎めることで、誤ってエジプト人を殺してしまい、ヘブライ人からもエジプト人からも排除されているこの自分に、エジプトでの奴隷状態からヘブライ人を救い出す役割を押しつけられるのは耐えられないのだと言っているのです。「わたしは何ものなのか」という問いに、モーセ自身は「妻の民族であるミディアン人の羊飼いとして生涯暮らして行くつもりなのだと」と決断をしていたようです。

モーセの訴えに、神さまは「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と答えられます。モーセをファラオのもとへと派遣するための励ましの言葉です(12節)。

神さまは励まし「わたしはある、あなたと共に」に、モーセは慰められます。モーセの「わたしは何ものなのか」という質問に、神さまは答えてはいません。この時点で神さまにとっては、モーセが何者であるのか、ヘブライ人なのか、エジプト人なのか、ミディアン人なのかは関係がありません。なぜならモーセが、神さまから愛を伝える働きに遣わされる中で、神さまが誰といっしょにいて、どこで働かれるのかを思い知り、その中でモーセは、自分が誰と共に、何のために生きるのかをどうしても考えなければならなくなるからです。

「わたしはある、あなたと共に」という神さまの言葉には力がありました。モーセは神さまからの命令を受け入れるのですが、エジプト人の王子として育てられたモーセは神さまの名前を知りませんでした。
聖書の神さまの名前は「ヤハウェ」です。新共同訳聖書では「主」と訳されています。ヤハウェとは「成らしめる」という意味で、世界の創り主である神さまの性質や、救いの出来事を引き起こす神さまの性質をよく表しています。
しかし人間の生き方・あり方はまったく問われません。ですから「わたしはある/成る(エフイェ)」という神さまの名前が、「成らしめる」に対する批判的応答として記されています(14節)。ヤハウェと同じ動詞ですが、三人称ではなく一人称であり、使役ではなく通常の形です。
この神さまの名前は12節の「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と語呂合わせになっています。

わたしたちの柳城の建学の精神は、「愛をもって仕えよ(ガラテヤ5:13)」です。神さまからの呼びかけが、わたしたち人間の生き方を導いてくれます。「愛をもって仕えてくださる神さま」に招かれたわたしたちも「愛をもって仕える」わたしになりなさいと呼びかけてくださっているのです。わたしたちが「何になろうとしているのか?」その意思を強く持つことの勧めが、ここで語られているのです。
神さまは自由なお方です。成りたいものになられる方です。同じように、わたしたち人間もこうあるべきという枠組みや、お仕着せに抗って、自由になりたいものを目指すべきです。その歩みが神さまに委ねる、従う歩みです。モーセの「わたしは何ものなのか(11節)」という問いもその歩みの中で答えを与えられるのです。何者であるかは自分らしい歩みの中で、自ずと与えられるのだからです。

神さまがモーセに名前を教えたのは、神とはどのような方なのか、神さまを信じている人はどのように生きるべきかを教えるためでした。

わたしたちも、自由な神さまに押し出されて、わたしが何ものかを見つける歩みを、自分らしい自由な歩みを始めて参りましょう。  (チャプレン 後藤香織)

南門の秋

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