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【ヨハネによる福音書9章35~41節】
9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

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 「議論が煮詰まる」という言葉を聴いたら、みなさんはどんな状況を思い浮かべますか。
文化庁によって行われている「国語に関する世論調査」では、40代を境目にして、まったく正反対の意味に理解しているという結果が出ています。
もともとは「議論が煮詰まる」は、「議論や意見が十分に出尽くして、もう結論が出る状態になること」を意味しているのですが、世論調査の結果に寄れば、みなさんは「議論が煮詰まる」を「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になること」と理解しているのでしょうね?

わたしたちは、育った環境や生まれる時代、生まれる地域によって、また属している集団によって様々な偏りを身につけながら、成長し生きています。所変われば品変わるというように、わたしたちの身につけている「常識」は、どこまでも相対的なものでしかありません。その相対的な偏りである、偏見を持って、わたしたちは人と出会うのです。偏見を持っていない人はいません。わたしたちは、物事を見るときに、自分の視点からしか物事を見ることが出来ません。

また、わたしたち人間は、間違いを犯す動物です。どんなに経験が豊富な人でも、どんなに頭が良く聡明な人であっても、どんなに配慮が出来る人であっても、間違えずに人生を送ることの出来る人などありません。わたしたちは、そもそも間違えながら、成長してゆくのです。さらに言えばどんな人にも欠けがあり、その短所がその人の味にもなり、その人を謙虚にもさせるのです。社会生活を送りながら、わたしたちは自分が「完璧な人間などではない」ことを思い知らされています。「自分は偏っていて、間違えることもある」という自覚を、わたしたちが頭のどこかに置いておくことが大切です。

ヨハネ福音書の9章は目が見えなかった盲人が見えるようになる出来事ですが、41節まである9章で、このいやしの出来事は12節でだけ記され、その他のほとんどがイエスさまとファリサイ派との問答です。今日の聖書は、見えなかった人が見えるようになる出来事から、わたしたち人間の思い違いに気づくように語りかけているのです。

盲人の目が開かれた日は安息日でした。律法を守らない人たちを攻撃するファリサイ派の人々は、働いてはならない安息日に盲人の目が開かれたことを問題にして「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない(9:16)」とイエスさまを非難しました。イエスさまが神から遣わされたとファイサイ派は信じられませんが、見えなかった人が見えるようになった事実を否定も出来ません。ファリサイ派に問いただされ、盲人であった人は、自分を見えるようにしてくれたイエスさまが「預言者(9:17)」だと信仰告白をするのですが、この告白が問題を引き起こします。
安息日に働いて、目を見えるようにしたイエスさまの罪を認めよと迫りますが、目の見えなかった人は「32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。(9:32,33)」と応え、主張を曲げなかったため、ファリサイ派は目の見えなかった人を外に追い出したのです。

今日の福音書はその続きです。ファリサイ派の人々は、イエスさまの当時イスラエルの指導者だった人たちです。人々から尊敬されていましたが、同じ人間です。欠けているところや限界が当然あります。知らないこともあるのも当然です。にもかかわらず、認識できない、気づくことが出来ない事が山ほどあるにもかかわらず、「見える」と言い張っていることが、罪だと指摘されています。
ファリサイ派の人は自分を正しいとすることでそもそも間違っています。神さまの前でさえ自分が正しいと言い張っているのです(ルカ18:9-14)。ですが、このような思い違いは誰にでもあるのです。「自己中心」「自己絶対化」という思い違いです。自分を偉い人間だと思い違いしてしまうのです。このような神さまに代わって、人を審くという誘惑にわたしたちはいつもさらされています。みんなすくなからず思い違いをしていますが、地位や権威を持つと思い違いをし易くなると聖書は注意を促すのです。見えていなくても見えているふりをしたり、「正しいこと」を言っている人に自分の方が正しいと主張し、さらには力で押さえ込もうとするのです。
また反対に自分は「見えないと思い込む」ことも、わたしたちがする思い違いです。人と比較して、自分は出来ない、自分はダメであると卑下して、希望を失ってしまうのです。すべての人が貴い存在です、人と比較をする必要などそもそも無いのです。人と比較することからの解放が、目が見えていなかった盲人に起こった喜びの出来事だったのです。
どこかで人と自分を比較して、思い違いをしているわたしたちにイエスさまは生き方を変えるように語りかけてくださいます。「一億総評論家」の日本社会では、思い違いしている人が山ほどいます。実はわたしたち皆がそうなのです。自己絶対化という鎧をまとい、力、権力、暴言、暴力という剣をふるって、偉そうに振る舞うことです。そのようなわたしたちをイエスさまは、新しい生き方へと導いてくださるのです。

わたしの持っている力は、隣人に仕えるためのものです。「愛をもって仕えよ(ガラテヤ5:13)」というわたしたち柳城学院の建学の精神にも示されているとおりです。
キリスト教では、イエスさまを十字架に付けて殺したのは、わたしたちの思い違いだと受けとめるのです。それは「自己中心」の罪の重大さを教えるための十字架であり、同時にその罪を赦すための十字架だと信じているのです。自分が思い違いをしていると気づくことで、わたしたちはイエスさまの呼びかけに応えて、誰をも犠牲にしない生き方を歩み始めることが出来ます。
ですが、わたしたちはなかなか自分の思い違いには気がつけませんので、チヤホヤされたりすると自分は偉い人間だと思い違いをし、反対に誰からも認められないと虚勢を張って偉い人間を装ったり、自分を卑下したりするのです。イエスさまは、マタイ福音書にある山上の説教の中で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか(7:3)」と語っておられるように、見えると思う人は見えておらず、見えないと思っている人が見えるようになるのです。

わたしたちは気づいていないのですが、思い込みの偏見に覆われていて、実は見えてなどいないのだということを、心にとめて、「愛をもって仕え」る歩みを始めて参りましょう。(チャプレン 後藤香織)


メランポジューム

【マタイによる福音書9:9-13】
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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今日の箇所は、イエスがマタイを弟子として迎える場面です。

マタイは徴税人でした。当時、イエスが暮らしていたユダヤ地方は、ローマ帝国によって支配されていました。人々は、ローマに税金を納めなければなりませんでしたが、それを一手に引き受けていたのが、この徴税人たちでした。徴税人自身は同じユダヤ人でしたが、人々から帝国への税金を取り立てる仕事をしていました。彼ら徴税人たちは、ローマ帝国から、これだけの税金を集めなさいという指示を受け、そして、その定められた金額以上の税金を徴収し、その差額を自分たちの収入としていました。
当時、自分たちと異なる神を信じる外国に仕えることは、その人が汚れる、ということを意味しました。また、ローマの支配とその税金は人々を苦しめるものでもありました。そんなことで、徴税人たちは憎まれ、軽蔑され、罪人と見做されていました。マタイもそのような徴税人であったわけです。

今日の箇所に、イエスが、「通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」と書かれています。イエスの弟子たちは、このように、イエスのほうから声をかけて、従った人たちばかりでした。逆ではありません。すなわち、イエスの弟子になりたいと思った人が、イエスに近づいて「弟子にしてください」と願い出た、ということではない、ということです。むしろ、このマタイのように、自分では思ってもみなかった人がイエスに声をかけられて、弟子となっていきました。

そんなイエスが、マタイなど、徴税人や罪人とされた人たちと一緒に食事をしていました。すると宗教指導者たちは、「なぜそのような人たちと一緒に食事をするのか」と非難します。
当時のユダヤ社会においては、一緒に食事をする、というのは、宗教的に大切な意味を持っていました。また、親しさの表れでもありました。ですので、罪人と一緒に食事をする、などということは、避けるべきタブーでした。イエスが罪人たち親しく接し、一緒に食事をする、というのは当時としては大きなスキャンダルであったわけです。
それでもなお、イエスは、あえて、そのような罪人たちと一緒に食事をしました。それは、罪人と食事をすることで、その人たちを正しい道に導いてあげようとか、可哀想な人たちに手を差し伸べて、救い出してあげようとか、そういうことではありません。もし、イエスが、そういう動機であるとしたら、イエスが、当時の社会で罪人とされている人を、イエスとしても、その人たちは問題のある罪人だと認定していることになってしまいます。
イエスは、罪人を更生させようとしたのではなく、罪人とされた人たちに対して、一緒に食事をすることを通して、あなたはそのままでいいのだと、神はそのままのあなたを愛しておられるのだ、ということを示されたのでした。

イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語ります。

イエスが食卓に招いているのは、正しい人、すなわち、正しいと思い込んでいる、あるいは、自分は正しい者だと思い上がっている人ではなく、罪人とされ、神の前に正しい者ではないと理解している人でありました。
イエスは、罪を頭ごなしに否定したりしません。ダメな部分、弱い部分、病んでいる部分を治したりするよりも、むしろ、そうした部分を抱えて生きているその人自身を、そのまま愛し、受け入れようとされました。そのようにして人々を愛し、それは十字架の死に至るまで、変わることはありませんでした。

今日、この場に集まっている私たちにも、それぞれ、弱い部分、病んでいる部分、あるいは隠したい部分などがあると思います。そんな私たちにイエスは語りかけます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
何か、特別な地位にいる人たちだとか、教会で働いている人たちだとか、そういうことではなく、マタイを招いたように、ここにいる私たち一人ひとりを、招いておられる、ということです。
イエスは、周囲から軽蔑されたり、仲間はずれにされたりしている人、孤独の中にある人、そんな人たちのところに出向き、「わたしに従いなさい」と話しかけられました。そして、イエスは、今日ここにいる私たちにも語りかけ、神の愛の交わりへと、招いてくださっています。         (チャプレン 相原太郎)

【ミカ書4章1-3節】
4:1 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
4:2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

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みなさん、今日は何の日かご存じでしょうか? 9月21日は、1981年の国連総会でコスタリカの発案によって制定された、国際平和デーという日です。世界の停戦と非暴力を祈る日になっています。(International Day of Peace)
2002年から、この日は「世界の停戦と非暴力の日」として、この日一日は敵対行為を停止するよう全ての国、全ての人々に呼び掛けている日です。

2022年2月24日、ロシアがウクライナへの本格的な軍事侵攻を開始して、すでに7ヶ月の間戦争が継続しています。日本は、この戦争の直接の被害は受けていませんが、もちろん戦争に無関係ではありません。隣の国ではミサイルの発射実験が行なわれ、わたしたちが大切にしてきた平和憲法の「改正」が議論されているこの時代です。それぞれの国の権力者が、自己の利権のため様々に企みを巡らせているこの時代に、力のないわたしたちは平和実現のために、あまりにも力が無いことを思いしらされるばかりです。

しかし、聖書はわたしたちにも、世界の平和のために出来ることがあると、希望を示してくれます。剣や槍という戦いの道具はかならず、鋤や鎌という農耕具に打ち直され、平和をつくりだすのです。
今日の聖書箇所は旧約聖書のミカ書4章1-3節です。預言者ミカは紀元前8世紀頃の預言者です。イスラエルがアッシリアとの戦いに敗れた、そのすぐ後の時代の人です。ミカは、イスラエルの人にとって思いもよらなかった預言をします。なんと神さまがイスラエルの罪ゆえに、わざわざ敵を立てて、イスラエルを攻撃させるというのです。とうぜん神さまは自分たちイスラエルを守ってくれる存在であると思っていたのに、預言者ミカは、イスラエルが罪を犯せば、神さまは敵を仕立ててイスラエルに攻撃をしかけるというのです。

では、イスラエルの罪とは、何であったのでしょう。力を持つものが、富んでいる者が、貧しい人々、力のない人々をないがしろにしていたことでした。貧しい人々、力のない人々は、困難な生活を強いられていたのです。通りに、イスラエルはアッシリアに敗れます。その時になって、やっとイスラエルの人々は、自分たちが敗れたのは、神さまの教えを無視し、貧しい人々、力を持たない人々をないがしろにしたからだと思い知ったのです。隣人の困難に心を寄せず、その苦しみ、痛みを無視するようなわたしたちの生き方が、争いを起こすことを、聖書は指摘し、神さまはその過ちを悟らせるために敵対して立たれるのだと、聖書は語るのです。神さまは滅ぼすためではなく、再び命を光り輝かせるために、裁きを与えられるのです。

しかし、ミカは預言を続けます。わたしたちが悔い改めれば、神さまはふたたび顧みてくださり、二度と剣を取って戦うこと学ばず、鋤に打ちなおして平和を学ぶようになるというのです。なぜならば戦いに敗れ、イスラエルの裕福な、力を持つ人々も土地を奪われ、すべてのイスラエルの人々が力をなくし、貧しくなり、その痛みを知る者となるからなのです。聖書が語る平和を作り出すための道は、わたしたちが隣人の痛みを知るようになることです。独占があるところでは争いがあり戦いがあります。分かち合うところでは、共に命が生かされ、「平和」を作り出すための道が開かれるのです。

預言者ミカは平和の君、救い主がベツレヘムから出ると預言しました。わたしたちのもとに、お生まれくださるイエスさまのもとでは、誰もが乏しくはなく、すべての人が満ち足りる平和が実現しるのです。どうかこの世界に、本当の平和が実現しますように、そのためにわたしたちが、あきらめることなく、分かち合いの歩みを始めてゆくことが出来ますように。
(チャプレン 後藤香織)

【マタイによる福音書18章15~20節】
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

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 「教会」という言葉は、本来、呼び出された者たち、というようなことを意味します。教会とは、建物のことではなく、人の集まり、呼び出された者たちの集まりです。そして、この18章全体を読むと、イエスによって呼び出された者たちが、どんな人たちであったのかが、浮かび上がってきます。

18章の冒頭に、イエスが、子どもを、弟子たちの真ん中に呼び寄せる場面が出てきます。
イエスは、言います。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子どもを受けいれる者は、わたしを受け入れるのである。」

イエスによって呼び出された者とは、まずは、子どもたち、そして、子どもを受け入れる者たちだ、ということです。子どもを受け入れるとは、単に子どもを、可愛がる、ということではありません。子どもこそ、自分たちの社会の中心に置いて、自分たちのモデル、自分たちの導き手とすべきなのだ、ということです。これは、私たちにとって大きなチャレンジです。

次に出てくるイエスの言葉は次のとおりです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼に首を懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
これはつまり、小さな者こそ、受け入れなさい、ということです。小さな者とはどういう人たちかというと、子どもはもちろんのこと、この社会の中で弱くされた者、悲しみや痛みの中にある者たちのことです。そのような小さな者、小さくされてしまった者たちを受け入れる者こそ、呼び出された者たちだ、ということです。

これらの言葉の後に、有名な「迷い出た羊のたとえ」が登場します。ある人が100匹の羊を飼っていて、1匹がいなくなりました。その人は、1匹のために、99匹を山に残して、その1匹を探しに行く、という物語です。囲いから、はみ出た1匹こそ、神は大切にする、ということのたとえとなっています。

この迷い出た羊のたとえの後に登場するのが、「二人または三人が」という箇所です。
つまり、神は、子どもたち、また、この世界で弱く、小さくされた人たち、あるいは、迷い出た一匹のたとえのように、囲いからはみ出てしまった人たち、囲いの外に追いやられた困難の中にある人たちを招き、呼び出され、大切にされるということです。

このように、イエスに呼び出された者たちのイメージとは、社会的に正しい人たち、道徳的に優れた人たち、あるいは特別な一つの同じ使命を持つ人たちによる、閉じられた集まりのようなものではありません。むしろ、その逆です。イエスが呼び出されるのは、社会の囲いからはみ出てしまった人たちです。脆さを持った人たちです。傷ついた人たちです。子どもたちです。助けを必要とし、相互に依存せざるを得ない人たちです。

イエスは、そのような二人または三人の集まりにこそ、私もいるのだ、と言っているわけです。
悲しんでいる人、貧しい人、病気で苦しんでいる人、孤独な人、自信を失っている人、そして、この社会の囲いからはみ出してしまった人、そうした人たちを、イエスは、今日も呼びだしておられます。そして、イエスは、わたしもその中にいるのだ、十字架にかけられた私自身も、その中の一人なのだ、と語りかけてくださいます。

ここにいる私たちの多くも、この社会の中で傷ついています。そんな私たちが呼び出され、学び合い、語り合う中に、イエスが共にいてくだることを覚えたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)

【マタイによる福音書 5章38-42節】
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

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今年もまた9月11日が廻ってきます。「911」と聞いて皆さんは、どんな出来事を思いおこしますか? 皆さんが生まれる少し前、2001年9月11日(火)朝に、テロ組織のメンバーが4機の航空機をハイジャックして、ニューヨークのワールド・トレード・センターや国防総省(ペンタゴン)の建物に、航空機を体当たりさせて3000人近い人が犠牲になった出来事です。ワールド・トレード・センターはニューヨークのマンハッタンにあります。マンハッタンは超高層ビルが林立する地域で、アメリカの富と力の象徴のような場所です。超高層ビルの中でもワールド・トレード・センターはひときわ高いツインタワーでした。そこにハイジャックされた航空機が突っ込んだのです。
そしてアメリカ国内では、テロの実行犯がイスラム教徒だったことで、アメリカのイスラム教徒やアラブ系の人々に対するヘイトクライムが急増します。アラブ系の人びとが嫌がらせをされ、職を失い、暴力を振るわれたのです。この報復の連鎖は、いまだ治まらず、世界は今日も苦悩しているのです。

ただいま聴きました新約聖書マタイによる福音書第5章38~42節は、旧約聖書の出エジプト記21:22-25(E)、レビ記24:17-20(P)、申19:19-21(D)にある「目には目、歯には歯」の教えを解釈している箇所です。「目には目を」という「同害復讐法」はバビロニアの『ハンムラピ法典』に同じような規定があります。良く「目には目を」の意味を、報復を煽る「やられたら、やり返せ」という意味で受けとめている人いますが、「目には目を」は際限なく繰り返されていく報復、仕返しを止めるための法律です。歯を一本折られたら、歯を一本折り返すことでお終いにするようにという言葉であり、仕返しを繰り返さない、復讐の連鎖を断ち切ることが目的です。受けた被害と同じ害を、一度だけ相手に仕返すことで終わりにするのです。

しかし、イエスさまは「『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と語り、一度の仕返しも放棄するように教えられるのです。わたしたちの世界が平和に至るためには、復讐の連鎖は断ち切られなければなりません。にもかかわらず、わたしたちはこのたった一度も仕返しをしないようにというイエスさまの言葉に、同意することが出来ません。そして驚くべきことにイエスさまはさらに「左の頬をも向けなさい」と、報復をしないどころか、被害をさらに被ることまで受け容れよと語られるのです。到底、イエスさまの教えを受け容れることなど出来ません。

しかし考えてみましょう。わたしたちの世界は、報復の連鎖の中にあります。仕返しが仕返しを呼び、憎しみは憎しみを生んで増幅し、とどまるところを知りません。
アメリカは、同時多発テロの後非常事態宣言を出し、アフガニスタンのタリバーン政府にビンラディンの引き渡しを要求し、アフガニスタンを攻撃し、タリバーン政権は崩壊します。さらにアメリカはイラクに対し、大量破壊兵器を隠し持っているとして、テロイラク戦争を開始し、サダム・フセイン独裁政権を倒すなどの蛮行に出ます。イラク戦争からその後のアメリカ軍のイラク駐留の期間に実に多くの無辜の市民の血が流れ、イラクの人のみならずアラブ諸国の人びとのアメリカに対する怒り・憎悪は増幅されました。
この同時多発テロを始めとした、世界の争いに目を留めるとき、わたしたち人間は互いに憎みあうことしか出来ないのかと悲しい気持ちになります。しかし、イエスさまは今日わたしたちに報復の連鎖を止めるために、まずわたしたちが仕返しをしない生き方を選び取るようにと呼びかけてくださっているのです。

今日の「復讐しない」のすぐ後に、有名な「あなたの敵を愛しなさい」という教えが続いていて、一つのまとまりになっています。敵を愛することの具体な例として、仕返しをしない生き方の例として、今日の福音書は語られているのです。

わたしたちは、報復を連等させるのではなく、希望と愛を連鎖させる歩みを、イエスさまに励まされて、今日から始めてまいりましょう。  (チャプレン 後藤香織)

【マタイによる福音書22:15~22】
22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

✝ ✝ ✝

 イエスのいたイスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。住民は、ローマ帝国に税金を払わなければなりませんでした。多くの人が、この税金に反感を持っていました。そんな中で、ファリサイ派とヘロデ派、と呼ばれる2つのグループの人たちが、イエスに、このローマに対する税金を払うべきかどうかについて質問します。

ファリサイ派の人々は、ローマ帝国の支配に反対していました。ですので、もしイエスが、ローマに税金を支払うべき、と答えれば、ローマの支配を肯定することを意味します。ローマの支配からの解放を願っていた一般の多くの人々は、これを聴いたら、民衆の裏切り者だと思うはずです。逆にヘロデ派は、ローマの支配の現状を肯定する人たちでした。したがって、もしイエスが、ローマへの税金は拒絶すべきだ、と答えれば、支配者であるローマに対する反逆者とみなされてしまいます。

そんなことを問われたイエスは、デナリオン銀貨を出して答えます。デナリオン銀貨とは、当時、ローマが支配していた地域で広く流通していたローマの貨幣です。ローマ帝国の支配を強く印象づけるものでしたので、よい印象を持たれていませんでした。さらに、この銀貨には、ローマ皇帝が神のごとく刻印されていました。ですので、神以外のものを神としてはならないとする、ユダヤ教の教えに抵触するものでもありました。

そのようなデナリオン銀貨を見て、イエスは言います。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」このイエスの答えは何を意味しているのでしょう。

ローマ皇帝が神のごとく刻まれていたローマの貨幣は、エルサレムの神殿での使用が許されていませんでした。そこで神殿の境内には、ローマの貨幣を、神殿で使用可能な貨幣に交換する両替商がありました。ところが、実は、この神殿で用いる貨幣、そしてそれは結局神殿の収入となるわけですが、それがまた問題でありました。
イエス時代、ローマの支配は、人々の生活を苦しめるものでしたが、苦しめたのはそれだけではありません。実は、神殿そのものも、人々の生活を苦しめるものでありました。住民は、神殿税を払わなければなりませんでした。年収の10分の一を神殿に献げ、さらにはお祭りの時や、人生の節目のときなどには、神殿に献げ物を出さなければなりませんでした。

ここから考えますと、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉は、人々が手にしている貨幣は、皇帝の貨幣でも、神殿の貨幣でも、結局取られてしまうものだ、とも読み取れます。イエスの言葉は、税金をとるローマ、献げ物を求める神殿を告発する面もあったかもしれません。

しかし、この言葉の意味はそれにとどまらないと思います。
イエスは、ローマの銀貨を見て、そこに刻まれているのは、誰の肖像かと尋ねました。そこには、皇帝の姿が神であるかのように刻まれていました。
さて、ユダヤ教におきまして、本来、神の姿が刻まれているのは、どこでしょう。旧約聖書の創世記によれば、神は、神の姿に似せて私たち人間を創造されました。つまり、本来、神の姿が刻まれているのは、実は私たち自身であるということです。私たちは、そもそも神の形に似せて作られているのであり、全ての人に、神の姿が確かに刻み込まれている、というのが聖書の人間理解です。

したがって、「神のものは神に返しなさい」とは、神の姿が刻まれている私たち自身は、皇帝ではなく、そしてまた神殿でもなく、神に返されなければならない、ということです。

私たち人間に、神の姿が刻まれているとは、どういうことでしょう。たとえば、私たちは、自分のためだけに、自分勝手に生きることもできるのに、苦しんでいる人を見れば放っておけません。何か悩みを抱えている人がいれば、なんとか力になれないだろうか、と考えます。そうしたことの中に、私たちに刻まれた神の姿、神の刻印を見ることができると思います。

コロナ禍の中、私たちは、人との接触をなるべく避け、必要な人と、必要な時間を限定して会うことが求められてきました。このことは、効率重視の社会にとっては、好ましいことかもしれません。たとえば、たまたま隣にいる人が実はこういったことで困っている、ということが分かり、そのことで自分の時間を犠牲にすることなったら、ある意味で非効率で、時間の無駄になってしまいます。しかしながら、イエスがされていたように、自分のため、ということを横において、たまたま隣にいる他者のために自分の時間を犠牲にする、というような行為にこそ、本来の人間の姿、つまり神の似姿を見ることができると思います。そして、そのような行為こそが、私たちの学校の建学の精神である「愛をもって仕える」ということでもあります。                                                                                                                              (チャプレン 相原太郎)


ブラックベリー

【「コヘレトの言葉」3.1~8】
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

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一昨年にコロナの感染が日本中でまん延し始めてから、これまで大学では、皆さん一人一人をコロナ感染からどのように守っていくかということに、重きを置きながら歩み続けてきた。今もコロナ感染の第七波が押し寄せていると言われているが、今後は、そのような中にありながらも、皆さんの学業を、皆さんの学生生活を、より積極的に、より前向きに進めていく、そんな「とき」がきていることを強く感じている。

今日読まれた聖書の箇所では、人生には、また、世の中のさまざまなものや出来事には、それぞれの「とき」というものがあって、しかも、それがとても相応しい仕方で定められているということが語られている。コロナのことを例にとっても、それにひたすら耐える「とき」、がまんしながら少しずつ新たな準備をする「とき」、用心しながらも前に向かって動き出す「とき」、そのようなさまざまな「とき」があるように思われる。

保育・幼児教育への道を歩み始めている皆さんにとっても、学生時代の今というこの「とき」だからできること、今だからこそしておいたほうがよいこともあるのではないだろうか。

さて、わたしがこの大学と関わりをもつようになったのは、もう今から30年ほど前のことである。個人的なことを言うと、それはちょうどわたしの長女が誕生してまだ三ヶ月くらいのころであった。キリスト教の授業を担当するということで、この大学と新たに関わることになったが、わたし自身はそれまで幼児教育の勉強はほとんどしたことがなかったが、ちょうど子育てをする時期と重なったということもあり、自分なりにいろいろと保育のことを学んだように思う。すてきな絵本や童話、またすてきな言葉ともいろいろと出会ったのもそのころであったと思う。そしてそのような作品のなかのひとつに、ロバート・フルガムというアメリカ人の書いたエッセイがある。タイトルは、『人生で大切なことはすべて幼稚園の砂場で学んだ』というもので、今日はそれをぜひ皆さんに紹介したいと思っている。


人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのでなく、幼稚園の砂場に埋まっていたのである。

 わたしはそこで何を学んだだろうか

 何でもみんなと分け合うこと
ずるをしないこと
人をぶたないこと
使ったものはかならずもとのところに戻すこと
ちらかしたら自分で片づけをすること
人のものに手を出さないこと
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと
食事の前には手を洗うこと
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと
(焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい)
釣り合いの取れた生活をすること―毎日、少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして少し働くこと
毎日かならず昼寝をすること
おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないようにすること
不思議だな、と思う気持ちを大切にすること

 

大学院を出てから、まだそんなに時間も経っていないころだったので、この文章と出会ったときは、まさしく大学院という山のてっぺんから転げ落ちるような気分でもあった。
自分が長らく当たり前だと思っていた、たくさんのこと、それがどこに由来するものであるかをほとんど考えていなかったようなことが、じつは、幼稚園に由来するものであることが、とても簡潔に見事に表現されていると思った。幼児教育に関わるというのは、人間の根幹に関わる何かとてもスゴイことであると感じた瞬間でもあったし、この柳城に入学し、そして卒業していく学生たちは、これほど大切なことを伝えることに関わっている、とても尊い存在であると感じた瞬間でもあった。(とてもこの文が気に入って、会議で、昼寝の時間を取り入れませんか、と提案したことがありましたが、即、否決されました。)

幼稚園や保育園の時代の先生にあこがれたのがきっかけで、保育者を目指したということを入学試験の面接でよく耳にすることがあるが、わたしは、皆さんにも、是非とも、あこがれの対象となるような存在になってほしいと思っている。
あこがれるという言葉は、あくがるという言葉が語源となっているようで、その意味するところは、心が身体から離れる、心がさまよい歩くということに由来しているらしい。
何かに夢中になっているとき、人の心は身体から離れたようになる。絵本に集中しているとき、子どもの心は、その場を離れて、絵本の世界へと旅をしている。
そんなあこがれのポケットをたくさんもった保育者になってほしいと思っている。
そのためには、保育者を目指す皆さん自身が、たくさんのあこがれの体験をしてほしい!と願ってもいる。

フルガムさんが、「不思議だな、と思う気持ちを大切にすること」と語っているように、
不思議なことに心を踊らせてほしいし、美しいものに心を魅せられてほしい。ワクワク、ドキドキするようなことをたくさん経験してほしい。学生である今のうちに、と思っている。そして、そのような体験の積み重ねこそが、卒業後の、幼稚園や保育園やこども園でのこどもとの出会いを生き生きとしたものにすると思って歩んでいただきたい。

また、幼いときにしか身につけることのできない大切なことはどのようなことかを、ときどきは考えることもしてほしいし、そのようなことを考える習慣を持つことは、きっと皆さんの今の生活をも豊かにしてくれると思っている。

今、きっと目の前に試験やレポートもあるが、その少し先には夏休みを控えているので、今日はついこんなことを伝えたくなり、お話をさせていただいた。 (学長 菊地伸二)

【ヨハネによる福音書9:1~12】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

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 弟子たちはイエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」と尋ねます。
この時代、こうした病気や障害などの原因は、何か悪い霊に取り憑かれたから、あるいは、罪を犯した罰、と考えられていました。

イエスは、こうした考えを二つの点で否定します。一つは、誰かが罪を犯したからではない、ということです。もう一つは、そもそも、目が見えないということをマイナスに捉える必要はない、ということです。そのことをイエスは、こう表現しました。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
イエスは、そう語ると、その人の目に土を塗り、そして、シロアムの池というところ行って、洗いなさい、と告げます。その通りにすると、その人は、目が見えるようになって戻ってきました。

彼が池から帰ってくると、近所の人々や、物乞いをしていた姿の彼をなんとなく知っている人たちが集まってきます。すると、口々に「彼は物乞いをしていた人なのか」「違うだろう」「似ているだけだ」などと言いいました。すると本人は、「わたしがそうなのです」と彼らに言ったのでした。
これまで、彼は、通りの傍らでひっそりと物乞いをし、見向きもされませんでした。当時の社会では、こうした人々は、物乞いをするくらいしか生きる道はありませんでした。街の人たちは、そんな彼の存在を気にも止めず、関わりを持とうとしませんでした。

ところが、イエスによって癒された彼は、堂々と道の真ん中を歩いて帰ってくるのでした。そんな彼の姿に、人々は混乱しました。彼は、一体誰なのだろうかと。彼は、人々に向けて、「わたしがそうなのです」と宣言しました。彼のこの言葉は、次のような意味を持ちました。すなわち、私は、みなさんが、これまで気にもとめず、関わりを持とうとしなかった者です。自らも社会の隅の方でひっそりと暮らさなければと思ってきました。そのようにして通りの傍らで暮らしていたその人物こそ、今、ここに皆さんの前に立っている私なのです。
この時、彼の人間の尊厳は回復され、街の人たちとの関係は、大きく変わったのでした。そのことこそ、この奇跡物語の重要なハイライトです。

イエスの時代、社会から取り残され、一人寂しく物乞いをしていた彼のように、この現代においても、多くの人たちが辛い境遇にあります。イエスがされたように、愛をもって仕えることで、無関心であった関係性が変化し、そのようにして、人々の間に神様の業が現れるよう求めて参りたいと思います。

私たち自身も、この社会の中で、自分が生きていることが無意味であると思ったり、孤独に追いやられていると感じたりすることもあると思います。しかし、そのような、私たちが生きていく中で抱えている痛み、その弱さに、イエスは語りかけられます。あなたの痛み、あなたの弱さの中に、神の業は現れます、と。だからこそ、私たちは、この世界の中で、確かに存在している、確かに生きているのだ、と宣言してまいりたいと思います。    (チャプレン 相原太郎)


中庭のラベンダー

【新約聖書 マルコによる福音書4章30~32節】
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

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今日のお話のタイトルは、「神の国ってどんなとこ?」としました。
そもそも神の国って聞いても、皆さんには、ちんぷんかんぷんかも知れませんね?
宗教は、歴史的に、権力者とぐるになると、死んだ後の世界、天国に素晴らし世界が待っているから、今は辛いかも知れないけど、頑張って耐え忍べば、死んだ後には、報われるんだよといって人々を、言いくるめるような働き方をして来たことは歴史を振り返ると分かります。
ですから、天国、神の国について考えを廻らせるときに大切なのは、来世に望を託すのではなく、いまわたしたちの生きているこの世界をどう良くして行くことが出来るのかが、問われていることをまず、頭に置いてお話しに聞いて参りましょう。

「からし種」は、アブラナ科のカラシナ(芥子菜)の種子で、その名からもわかるとおり、辛子、マスタードの原料として有名です。しかしガリラヤ湖周辺に生えていたカラシナは、大して美しい花が咲くわけでも、良い香りがするわけでもない、当時はいわゆる雑草と呼ばれる類のものとして扱われていました。たしかにその種は 0.5mm 程度と小さいのですが、実際のカラシナの木は成長してもそれほど大きくはならず、せいぜい 150 ㎝程度にしかなりません。

文脈を無視してこの「からし種のたとえ」だけを読むと、神の国が確実に成長して大きく広がっていく話のように読めます。事実、教会ではそのように読まれてきた聖書個所です。
しかし当時「からし種」は、「小ささ」を強調するために比喩として用いられたようです。さらに旧約聖書では神さまの聖なる秩序を守るために、違う種類の種を混ぜて植えることが禁じられています。境界線を軽々と越えて、他の作物の畑に侵入してくるやっかかいものの「からし種」は、神さまの聖なる秩序を犯す、「汚れた」植物という否定的なイメージで見られ、ユダヤ教のミシュナーと呼ばれる、口伝えの法律集の中で、植える場所が細かく制限されていました。
また同じ「からし種」を使った譬話がマタイによる福音書の13章にもありますが、こちらのお話しでは「からし種」は、神の国が拡がっていくことを邪魔する、悪魔の働きの象徴として語られているのです。
ですから、初めは小さくても神の国がとても大きく拡がって行くという希望を語ろうとするなら、むしろ「からし種」を比喩にしない方がよいのです。
この話を聞いていた人たちは、神の国が「からし種」のような、本当に小さくて厄介者で、不浄なものだという話を聞いて、とても違和感を憶え、困惑をしたはずです。
32節では「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくな」ると記され、大きくなることが強調されますが、最初に言いましたように、からし種は背が低く、木のように幹がある訳ではありません。大きくなったとしても、せいぜい藪を造るぐらいです。

では、どうしてイエスさまは、神の国をイメージの良くない「からし種」に譬えられたのでしょう。もういちど、「からし種」について確認しましょう。畑の端っこに育つ「からし種」は、大きくなってもそのへんの藪にしか過ぎないのです。決して大きくな貼らないのです。大きいことは良いことだというイメージが一般的にあるのでしょうか? 聖書には、大きな鳥から小さな鳥までが、宿ることの出来る大きな木として、ヒマラヤスギが登場しています。でも、この大きな木は人間の傲慢さを表す象徴として、聖書では否定的に描かれているのです。ですから、そんな大きくならなくて良いのではという、イエスさまの問いかけが「からし種」に込められているのではないでしょか?

さらに、からし種は小さな種なのに、どんな条件が悪い土地でも、岩地でもたくましく根を張り、境界線を越えて拡がり皆から嫌われます。その根っこはあちこちにはびこり、簡単には取り除くことが出来ないのです。そんな嫌われ者のからし種がつくり出す、大して大きくもない藪ですが、小さな鳥たち、小さな生き物たちの隠れ家、住処としては絶好の場所です。ご馳走と外敵から身を隠すことの出来る素敵な場所です。

イエスさまは、この話を聞くわたしたちにも問い掛けます。「あなたたちは誰といっしょに、どんな風に生きて行こうとしているの? 本当にあなたが求めている歩みは、皆が幸せになれる道なの?」と。わたしたちに刷り込まれている、「強く美しく」がイエスさまからチャレンジを受けているのでしょう。イエスさまのお話に耳を傾けながら、キャンパスでの生活を送り、わたしたちが本当にホッとする幸せな時間や場所がどこなのか、もういちど思い巡らしてみたいと思います。   (チャプレン 後藤香織)

【新約聖書・ヨハネによる福音書第8章3~11節】
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

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今日の聖書の場面には、「姦通の現場で捕らえられた女」が登場しています。旧約聖書の申命記22章22-24節には、結婚している女性との性交渉をした男女は、ともに死刑にという規定があります。旧約聖書の律法(法律)は、性差別や障がい者差別の内容を含んでいますので、そのまま肯定することは出来ません。しかし、男女ともに死刑に処せられるという規定違犯であるにもかかわらず、ここでの問題は連れて来られたのが女性だけということです(3節)。いったい相手の男性はどこに行ってしまったのでしょうか?

律法学者やファリサイ派というユダヤの指導者たちは、この女性をイエスさまを十字架に追い遣る口実をつくるために、連れてきたのです。イエスさまが「女性には罪がない」と言えば、律法に違反していますので、それをもってイエスさまを十字架に追い遣ることが出来ます。「女性は罪を犯したのだから、石打の刑に」と言っても、すくなくとも女性を尊重し、民衆の側に立っていたイエスさまの人気を落とすことが出来ます。いずれの対応でも、窮してしまう状況に追い込まれたのでした。しかし、イエスさまはそのような状況にも関わらず、かがんで地面に何かを書いています(6節)。イエスさまは何をしているのでしょうか? 屈み込む姿勢は、人に仕える姿勢です。仕えられるためではなく、人に仕えるために来られた、イエスさまの謙遜さが、この屈み込む姿に表されています。自分を陥れるために、道具とされ、犠牲にされる女性をどうやって助けようかと、イエスさまは考えを廻らせていたのでしょう。

そんなイエスさまが口にされたのが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)という言葉でした。ふしだらな女に石を投げつけて殺してやろうと意気込んで集まってきていた人々は、握りしめていた石を投げつけることが出来なくなりました。イエスさまの言葉を聞きながら、女性に石を投げつければ、神さまの前に罪を犯したことがないという意思表示になってしまいます。それはあまりにも不信仰な態度です。誰もが、握っていた石を棄てて、その場を立ち去って行きました。
去って行った人たちは、自分の行いを反省をした訳ではありませんでした。律法学者やファリサイ派たちユダヤの指導者は、この出来事によってまずますイエスさまへの憎悪を募らせ、イエスさまを十字架につけて死刑にするために、邁進して行くのです。

わたしたちの日本という国は、いまだに死刑制度を存置し、積極的に死刑執行を進める野蛮で残念な国の一つです。死刑制度は、残虐で野蛮な制度ですので、国連の自由権規約委員会は、この死刑制度を廃止するという国際的な潮流に逆行し続ける日本の慇懃無礼な態度に対して、死刑制度の廃止を検討するか、少なくとも死刑の対象となる犯罪を最も重大な犯罪にのみ制限するようにという厳しい勧告を出し続けているのですが、残念ながら日本政府はその勧告を拒否し続けています。その他にも、死刑囚の処遇についても、問題が多くあって、改善するように勧告されていますが、日本政府は聞く耳を持っていません。
国連の194の加盟国のうち170の国で、法律上あるいは事実上、死刑制度が廃止されています。ですから経済先進国中、死刑を廃止していないアメリカと日本は、繰り返し野蛮な行為を止めるように、各国から批判されています。アメリカでは死刑執行に積極的だった、トランプ大統領に代わって、アメリカ連邦政府の死刑制度を廃止して、各州に追随を促すことを選挙公約にしていたバイデン大統領が就任しましたので、死刑廃止への期待がわずかですが見えてきたように思えます。
また歴史的に、日本という国は非常に早い時期、平安時代の818年に嵯峨天皇の決断によって、1156年までの347年間、一度死刑制度を廃止している、文化的に成熟した国でした。残念ながら、武士の時代になって死刑が再開されるのですが、歴史的に、本当に早くから死刑制度を廃止していた名誉はどこへやらです。このままですと、野蛮な国の汚名は返上できずに、世界でもっとも野蛮な国争い参加し続ける状況になってしまうのです。
生きている人間の命を奪うという刑罰は、非人道的であり、一度執行してしまうと、間違いがあとで発覚しても二度と取り返しがつきません。ですから国際的には、犯罪への対応として、死刑に頼らない政策が積極的に採用される傾向が年々強まっています。とりわけ先進国では、死刑廃止の潮流は揺るぎないものとなっているのです。
日弁連は、冤罪での死刑執行により、人の命が奪われてしまうことがあってはならないとして、死刑廃止を呼びかけています。しかし、わたしは今日この福音書のイエスさまの言葉を心して聞きたいと思います。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)

明らかに殺人という罪を犯していて、その制度を残している野蛮な国日本で、死刑判決を受けている人であっても、その人の命が奪われることがあってはならないのです。
なぜならば、何か理由があれば、人の命は奪われても仕方がないという考え方こそが、人の命を蔑ろにする考え方だからです。戦争が起こって人の命が蹂躙されることがあってなはらないのと同様に、死刑という制度によって人の命が奪われることはあってはならないのです。
死刑制度が、犯罪の抑止力にはならないことは、すでに死刑を廃止してる国での犯罪発生率調査統計から明らかになっています。むしろ、昨今の日本での凶悪犯罪をみると、自らが死刑になるために、多くの人の命を奪うというような事件が多発している状況を鑑みるときに、わたしたち日本の国も、人の命を本当に大切にする歩みを始めるようにと、イエスさまが語りかけてくださっているのではないでしょうか。
死刑囚という低みにまで屈み込まれ、わたしたちの生命を尊重してくださいました。誰かに死刑の判決を出すことが出来る人など誰もいません。人間が人間を罪に定めることは出来ないのです(10-11節)。
イエスさまの赦しを、その愛を豊かに受けながら、互いに愛をもって仕える歩みをこの礼拝から始めて参りたいと思います。  (チャプレン 後藤香織)


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